丹後の地名

野中(のなか)
京丹後市弥栄町野中


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府京丹後市弥栄町野中

京都府竹野郡弥栄町野中

京都府竹野郡野間村

京都府与謝郡野間村

野中の概要




《野中の概要》
旧弥栄町の黒部から東へ5㎞ばかり入った深い山中、宇川の上流の谷間である。旧与謝郡の野間村の中心地で役場などがある。野中・川久保・田中・中津・中山の5集落より成る。廃村となった住山地区を中心に丹後半島森林公園(スイス村)が昭和53年に開設された。
地名の由来は、野間谷の中心にあることによるという。
近世の野中村は、江戸期~明治22年の村名。与謝郡のうち。宮津藩領。野間村が須川・野中両村に分村、野間村のうち野中集落以北の横住・吉野・中津・中山・田中・永谷・川久保などを合わせて野中村となった。その時期は延宝年間(丹哥府志)とも、元禄4年(野間村誌)ともいう。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年野間村の大字となる。
野中は、明治22年~現在の大字名。はじめ野間村、昭和30年からは弥栄町の大字。この間昭和23年に野間村は与謝郡より竹野郡に編入した。明治32年地内の大石地区が竹野郡八木村に編入して、大字大石となる。平成16年から京丹後市の大字。

《野中の人口・世帯数》 133・52

《主な社寺など》

 大宮神社
大宮神社(野中)
野間谷各村の氏神で、田楽・太刀振・獅子神楽の芸能が保存されている。旧暦9月9日(現10月第二日曜日)の祭礼に奉納される田楽躍は、京都府下に伝承された田楽のなかでも基本を忠実に残したものとされる。元阿弥陀堂境内には至徳4年刻銘の町文化財宝篋印塔が現存。

奉納芸能2016
野中の田楽
本殿前でなく、御旅所、すなわち元の鎮座地の前で奉納される。御旅所は本殿のま向かい、50メートルばかりのところにある。芸能の奉納はだいたい14:00くらいから。



獅子神楽


太刀振り
今年は人不足で奉納できなかったとのこと。


『与謝郡誌』
 〈 大宮神社
 野間村字野中の小字野中鎭座、村社、祭神大宮売命、配祀大年神御子聖神、正慶元年壬申九月創建元禄七年九月再建、丹哥府志に野間一郷の氏紳とあり。明治六年二月村社に列せらる。祭九月九日、氏子二百八十二戸、境内八幡、若宮、宮坂の小祠あり。
 由来本村は小部落諸々に点在せる故に小社また随て多く而かもそれ等の殆んどが筒川谷、菅野谷、日ケ谷等の諸部落と等しく石神(シャクジン)系のものにて霰の山紳、須川、吉野、大谷、中山、川久保の三寳荒神、田中、霰の八大荒神、尚ほ現はれたるは大谷の大將軍神(ダイシャウゴジン)なり。丹哥府志平家の大府小松忠房の霊を祀るとあるも無論石神なり今経津主命を祀り細田神社といふ。将軍地蔵系のものに吉野、須川、大谷、來見谷、野中、中津に愛宕あり。権現系のものに小金山胎蔵権現の外住山に丸山、味土野に蔵王、中山に三尺坊等あり何れも無格社なり。  〉 

『弥栄町史』
 〈 大宮神社  野間野中鎮座
祭神 大宮売神
配神 大年神 御子聖神
創祖正慶元年壬申九月(六百三十五年前)再建元禄七年九月(二百七十四年前)丹哥府志に野間一郷の氏神なりとある。明治六年二月村社に列せられ、同三十九年神饌幣帛料供進し得べき神社に指定された。
神域は荘厳で、沿革の古いことを思わせる。当社は昭和六年創祀より六百年に該当したので、同年十月盛大な記念式典を執行し、これを永久に記念するため、境内に六百年祭祖行記念碑を建設した。当大宮神社例祭の秋祭には野中よりビンザサラ踊、大谷より神楽、中津より太刀振の奉納行事がある。無形文化財の価値があるものと大学教授やその他の研究者、有識者が視察されたことがしばしばである。これに関して同社の木村重雄神官が寄稿されたものを次に再録する。
さる昭和十年十月の大祭に京大より西田、柴田両教授、府より赤松、永浜史蹟調査委員及び映画技師その他研究生二名来社、当神社の棟札並びに各種彫刻物等調査、祭典に関する奉納諸行事全般にわたりフイルムに納めて帰洛された。西田先生の言によれば、野中奉納行事のビンザサラ踊はこの地にこの行事の残っているのは非常に珍しく、風俗は中途変遷したが田楽として十分に研究の価値のあるものとのことであった。
昭和三十八年十月十日秋の大祭を執行、同日早稲田大学の山路興造教授及び渡辺伸夫教授の二人が来村、祭典行事全般にわたって観察され、非常に感激された結果、神楽も古式で貴重な神事であり、田楽は形がくずれていない立派なものだ。目下日本では非常に研究されているが、鎌倉時代から室町初期に盛んであった歌舞で、今でも各地に残っている貴重なものだから、中断しないよう毎年祭典に奉納されたいとのことであった。
しかしこうした貴重な伝統神事もいろいろな事情によって奉納行事のみ一時絶えていたが、町教育委員会や野間地区代表区長の協力により、昭和四十二年秋の祭典に野中の田楽、中津の太刀振が四年ぶりに奉納された。ちょうど当日全国の祭を研究している祭同好会の会長田中義弘氏が来町、祭典全般を研究され、その結果を昭和四十二年十月十二日の京都新聞府民総合版に発表された。その記事を抄録する。
大宮神社田楽と太刀振神秘の舞。六百三十余年の伝統を誇る、竹野郡弥栄町野間大宮神社(木村重雄宮司)の神事田楽と太刀振が十日の例祭で四年ぶりに奉納されたが、全国の祭を研究している祭同好会の田中義弘会長(名古屋市中区松ケ枝町)が同日現地調査の結果、田楽は独特の形式を残す貴重な神事で、しっかりとした太刀と合せると無形文化財クラスだと折紙をつけた。このため同好会の機関紙まつりで全国に紹介されることになった。田楽神楽太刀は古い伝統を持ち、形がくずれず、貴重な神事として各方面から注目されてきたが、四年前に中止となり、今秋復活されたもので、田楽は五人の子どもと四人の青年で舞い飛び、開き、ハグクミ、ササラ踊、扇子の舞の五ツ
の形式で神秘な舞である。
太刀は九人の青年と三人の子どもで振り、棒太刀、小太刀、中太刀、大太刀の四通りとなっている。
同日、田中会長は熱心に観察調査したが、観察終って同会長は田楽は京都府下でも数えるほどしか残っていないが、同神社のものは全国的に見て独特の形を残す立派なものだ。とくに御旅所のミコシの前で奉納されるのは非常に珍しい意義がある。また太刀についてもしぶくしっかりとしており、田楽と合せると貴重な無形文化財だろうと話され、同好会の機関紙まつりで早速紹介するほか、これからも丹後地方の埋れた無形文化財を調べたいと語られた。
なお同神社の創祀は正慶元年(六百三十五年前)で、そのころからこうした神事は伝わっているとみられている。昭和四十三年三月二十日明治百年記念事業として本府主催により「ふるさとの芸能のつどい」が京都市において開催され、同神社の田楽を披露することとなった。開催要綱は次のとおりである。
開催要綱
一、名称ふるさとの芸能のつどい
二、目的ふるさとに残された数多くの民俗芸能を系統的地域的にとらえ、広く府民に公開しその保存と伝承はかるため行うことを目的とする。
三、主催京都府
四、とき 昭和四十三年三月二十日
開会 午後一時
開演 同 二時
閉会 同 五時
五、ところ 京都府立勤労会館大ホール
六、協賛 京都府教育委員会
財団法人京都府文化財保護基金 近畿放送
七、演出企画 専門家に委託
八、催しもの内容
1 神楽 中郡大宮町字周枳
2 田楽 竹野郡弥栄町野間
3 太刀振太鼓おどり
綾部市中筋町岩ケ下
4 大俣太鼓 舞鶴市大俣
5 西方寺六斉念仏おどり
京都市北区西加茂鎮守庵町
6 お蔭まいり
相楽郡加茂町岩船
7 和知文楽 船井郡和知町大字大追  〉 


『京都の田楽調査報告』(挿図など省略)
 〈 野中の田楽
           名 称 田楽
           所在地 竹野郡弥栄町野中
           時 期 一○月九・一○日(旧暦九月八・九日)
               大宮神社


  宮津線の峰山駅から間人へ向うバスを、黒部で降り、そこからさらに東へ峠を一つ越した野中は、野間村とも呼ばれていたが、現在は統合されて弥栄町となっている。近世までは本庄(与謝郡伊根町本庄)へ抜ける山道があり、そちらへの交通が盛んであったらしいが、現在ではバス路線が峰山方面につき、経済圏もそちら一本である。
 この野中に鎮座する大宮神社は、大宮売神をまつり、附近の野中・大谷・中津・田中の各部落の鎮守で、一○月九・一○日の祭礼にはこれらの村々から芸能の奉納がある。
 大宮神社は正慶元年(一三三一)の創建とする棟礼がある。この附近は中世において与謝郡野間郷と呼ばれており、細川ガラシャ婦人が隠れ住んだ地という伝承もある。
 祭礼は近世において旧暦九月九日であったが、一月遅れの一○月となり、現在は一○月一○日を本祭とする。祭礼芸能として各村が奉納するのは、野間が田楽躍、大谷が獅子神楽、中津・田中が太刀振と分担している。
 大谷の獅子神楽は、いわゆる伊勢の太神楽で、獅子頭や太鼓を積んだ担い屋台を出し、天狗面のスリササラをもった獅子あやしと、二人立ちの獅子一頭が、締太鼓・鋲打太鼓・銅拍子の囃子で舞うもの。剣の舞・獅子舞・神楽舞の別がある。しかし大谷地区の過疎により、昭和四二年に中止されたまゝ現在に至っている。
 中津・田中の太刀振は、籠神社(宮津市)と同系の芸態で、稚児の棒振二人、青年による小太刀・中太刀・大太刀がそれぞれ一人づつの計五人が一組で、これが二部落で二組出る。他にテンテラと称する道化役兼指導役の者が一人付くが、これは厄年のものが勤めるものとされる。
 野中は田楽躍を分担するが、これは京都府下に伝承された田楽の中でも、古能をよく残したもので、少年によるビンザサラ五名(うち最年少の新入りの一人はビンザサラを持たず手拭を持つ)、青年の太鼓四人、小鼓一人、笛一人の構成ですべて男子の役とされる。しかし近年人数の不足により女子が演じる場合もあるが、これはあくまで例外である。
 祭祀組織としての厳密な頭屋制度はないが田楽の練習宿をする当番の頭屋は決められる。また祭礼当日の行列は、村の入口に位置するネギと呼ぶ家が出発場所で、ここにて仕度を整えて、神社へとむかう。
 田楽の演者も特に限定はなく、村内の一定の年令の者であればよいが、鼓役のみは、野中から離れた中山という所の家が決っており、祭礼前に若い者が出勤を頼みに赴き、当日は膳の接待をせねばならないとされる。しかし現在は鼓は鳴らすことなく、参加するのみて動きもないようである。


 その年の田楽を演ずる役に決った者は、宿を決めて九月二八日頃から稽古に入る。毎夜決った宿にて練習をし、宵宮である一○月九日の夜、その宿にて一度正式に一通りを踊り、その後に神社へ囃しながら出発する。
 神社ではその頃既に宵宮の祭典が行なわれており、田楽は境内においてまず一通りを奉納。次に小宮数社に対し“トビヒラキ“川という一曲のみを演じる。祭典が済むと、神社脇にある宮司宅に一同は帰り、そこにて再度一通りを演じる。以後は直会で、宮司の配慮により酒肴があるが、昔はこの夜は宿に帰りそこにて宿泊。早朝に起きて近くの川で水垢離をとったという。
 祭礼当日、太刀振と獅子神楽はそれぞれの地区の氏神に午前中に奉納し、二時頃には野中の入口にあるネギという家に集合する。野中の田楽は、一度頭屋宅にて演じた後ネギ宅に寄り、全部揃った所で、獅子神楽・太刀振・田楽の順に行列して神社へと出発する。途中太刀振のみは、中宿と称する決まった家があり、その前にて一通りの芸能を披露する。
 この道中の途中、田楽衆は太鼓を腰からはずし、ビンザサラの少年が抱えて持ち、太鼓役がそれを打ちつゝシャギリという拍子を奏する。神社に着くと、獅子神楽を演じていた頃はまずそれを奉納。続いて太刀振となる。本社前の中心芸能はこの太刀振で、社を正面に左側に大太鼓・笛・法羅貝の伴奏者が並び、棒振の稚児二人、小太刀・中太刀・大太刀と二人宛組んで真剣を用いた雄壮な振が演じられる。
 それが済むと祭典で、神輿への御魂移しの時に、田楽衆のうちの太鼓の四人と笛がその近くに跪座し、楽器を奏することがあるが、田楽躍は演じない。
 神輿は二基あり、白衣の白丁姿の者によって担かれ、御幣・太刀振・田楽・大名行列などの順で、参道をまっすぐ延長した宇川の河原ともいうべき御旅所(馬場と称している)にむかう。この御旅所は神社より五○メートル程の近くて、大きな杉の古木が生えており、その下の土壇の二つの砂盛が、二基の神輿の安置場所となる。一行はこの右からこの神輿をまわり、図Iの如き位置に陣どる。
 御幣や御供が運ばれ、祭典が始まると同時に、各芸能も一斉に開始となる。即ち三つの芸能が同時進行するわけである。(現在は獅子神楽の位置にて太刀振を演じる)。
 時間の最もかかる田楽が済むと、御旅所での儀式が終了。神輿を先頭に神社に還御する。
 この御旅所への行列の往復でも、田楽衆はシャギリを奏する。

 田楽の構成については前述したが、その衣裳は次の如くである。
 ピンザサラ-揃いの女着物(現在よろけ縞の揃いを用いるが、これは戦前に揃えたものであり、以前は母親の着物を用いた)、紅襷、鉢巻を後結びにして長く垂らす、白足袋。四人は手に竹製のビンザサラを持つ。最後の一人のみ手拭。
 太鼓-黒紋付、裃、白足袋、腰に締太鼓を表面を上にして付ける。
 鼓- 普段着。
 笛- 紋付羽織。
田楽笠などを冠ることはない。
 野中の田楽には、その芸態に名称が付けられている。①飛び開き
 ②ハグクミ ③ササラ踊り(オリワゲ) ④手踊り ⑤扇の舞(ユリ
舞とも)の順序で、名称にも、その動きにも田楽躍の特色が比較的によく残されている。
 大宮神社には芸態に関しての手控えなどは一切ないが、昭和二九年に描かれた田楽躍の絵巻があり、それぞれの曲の芸態的特徴をよく写している。参考にそれを掲げつゝ次にその芸態を詳述しておく。
 田楽衆は、御旅所においては、神輿前に莚を敷き図Ⅱの基本型に並ぶ(絵①参照)。
   ① 飛び開き
 笛の旋律が前奏を鳴らすと、太鼓は桴を両手に持って高くあげ、ササラも目のあたりに捧げもつようにする(絵②参照)。笛の間に楽器を奏しつゝ場まわりにて一回転、次に半回転して、この曲の特色である図Ⅲの如くにむきをかえる。これが飛び開きの基本型で、場まわりをしつゝ楽器を奏する。左右の二列には変化はない。
   ② ハグクミ
 ササラ役の者は右手でビンザサラの中央をもって高くあげ、左手で口をふさぐ。太鼓は両手をあげた基本の姿勢である。この曲の基本的な動きの特色は、笛の音でササラ役は体を後にそらす振をする事で、それが終るとササラを下方にもってゆき一回転させて、太鼓の方へ突き出すようにして鳴らす。これを三回繰り返す(絵③参照)。
 次に①の飛び開きを演じる。飛び開きは、曲と曲の間にかならず繰り返される。
   ③ ササラ踊り(オリワゲとも)
 この曲は太鼓とビンザサラの二列が向きあう。はじめビンザサラは座し、太鼓は立つ。この曲の特色はビンザサラをオリワゲにすることで、はじめオリワゲたササラを膝の上におき、次にもちあげて左右左の順でさげ、最後に開く。次に立ちあがってビンザサラを頭上でひねりなどし、三歩左に出る。太鼓は適宜笛にあわせて打つ。次に今度は太鼓が座し、ビンザサラが立って同様の所作を繰り返す。これを二回やって、再度①の飛び開きとなる。しかしここの飛び開きは繰り返しを一回に省略した短いものである(絵④参照)。
  ⑫ 手踊り
 この曲は太鼓。ビンザサラともに①の飛び開き同様に二人づつむかいあって座し(図Ⅲに同じ)、ササラは自分の膝前に置き、指先を山型にあわせる。笛の曲がはじまると、その手を右から大きく頭上を通して左下にゆっくりもっていく。次に頭の後方にまわし、一度離して首にまわして前に一戻す。太鼓も桴をもったまま左右に体をひねる如くしながら太鼓を打つ。以上が済むと全員立ち、ササラを取って目の高さに捧げ、二列交互にむきあって、三歩進み、図Ⅳの如く場所を入れかわる。
 そこにて再び相方ともに座し、ササラを膝前に置いて同様の所作を繰り返す。次に立って入れ替って元の位置に復座し、再び手踊りをして終了(絵⑥参照)。
 次に再度①の飛び開きを全部繰り返して、いわゆる田楽衆全員による総田楽は終る。
  ⑤ 扇の舞(ユリ舞とも)
 これはビンザサラの少年のみが、図Vの如く並び、太鼓役の四人はその外側の四隅に立つ。
 太鼓と笛の囃子で、ビンザサラの少年がはじめ扇を腰に差し、片膝ついて手を腰においた姿勢で、途中より扇を取って開き、かざしたり場まわりする動きで舞い、最後に神前の方にむいて座して拝する姿勢までを演じる(絵⑦参照)。
 絵は一人の少年の動きを追って描いたものである。
 以上が野中の田楽における芸態であるが、輪になる動きこそ無いが、田楽躍の型本的な動きである二列並立、座替などの動きがあり、丹波・丹後地区の田楽躍に共通するピンザサラの少年の扇を振ってのユリ舞を残しているのが注目される。またビンザサラを様々に使うのが野中田楽の大きな特色で、頭上で打ったり、オリワゲにしたり、手踊りと称してビンザサラを下におき、素手での振が残されているのも古い様子であるのかもしれない。
 ビンザサラ四人の最後に付く手拭は、ビンザサラ役の見習いといわれているが、本来銅拍子等を受け持った役かとも考えられよう。いずれにせよ、京都府下における田楽躍としては、福知山上野条の紫宸殿田楽とともに、よくその芸態を残したものといえる。
 なお、楽器については第五章を参照されたい。


 古文献等は一切残らない。田楽の行なわれる大宮神社に正慶元年創建の棟札があるというが、建物自体はそれ程古いものではない。しかし野中の地が古く拓けた所であることは確かで、神社近くに宝篋印塔などもあり、丹後一の宮の本庄宇良神社あたりとの交通は充分に考えられる。
 獅子神楽は、近世の伊勢太神楽団が青年団に伝えたものであろうし、太刀振もこのあたりの秋祭りの奉納芸能としては、珍らしいものではない。籠神社系のものであり、その伝播も領ける。
 田楽についていえば、宇良神社に蔵される『宇良神社縁起絵巻』(鎌倉期のものともいう)には、職業的田楽法師が田楽芸を演じている所が描かれており、中世前期の宇良神社には田楽法師の存在も考えられるが、もちろん野中の田楽をそれに結びつける史料はない。むしろその芸態から、丹波地方の田楽との関係も考えられる(第四章参照)。  (山路 興造)  〉 


小金神社
小金山(おがねさん)(416メ-トル)山頂にある、祭神豊宇賀売命、配神伊弊諾尊・伊奘冉尊。
もと小金山胎蔵大権現と称し、縁起は「泊頼朝倉宮大泊瀬稚武天皇即位二十六年五月二十三日建立云々」と伝え、小字中山の小金山金谷(きんこく)寺が別当寺であったという。
山も神社も「おおがねさん」と通称され、金儲けの神としても参詣者が多く、毎年5月、9月の23日は賑った。

『与謝郡誌』
 〈 小金山神社
 同村小字小金山鎭座、祭神豊宇賀能売命、配祀伊奘諾伊奘冊二尊.もと小金山胎蔵大権現とて同山縁起に「泊瀬朝倉宮大泊瀬稚武天皇即位廿六年壬戌五月廿三日建立云々」と爲し字中山小金山金谷寺之が別當たり。丹哥府志に「小金山(中略)頂に大藏権現を安置す汚穢不浄の者登るぺからす利生も多けれぱ罰もするどく皆人の恐るゝ所なり云々」と云ひ古來天狗の住する所なりとて修験道家の尊崇篤き霊場なりしが、維新の政変神佛剖判に亜ぎ女人結界を解かれ金山彦命を祀るとして村社に列せられ後また今の祭神に改む。境域高燥典雅にして紅葉に名あり??に霊験ありとて毎年三、五、九月二十三日両丹各地より奉賽するもの繹絡として蟻の如し。境内大日霊神社、及び開明神社あり、前者は社傳に延喜式内吾野神社と云ひ天照皇大神を祭り後者は比良岐大明神とも云ひ丹波道主命を祭る。命は我が丹陰地方の開発に至大の御功績おはせるにも拘らす郡内命を奉祀せる神社の聞えたるは實に当社のみなり。  〉 

『弥栄町史』
 〈 小金神社 小金山鎮座
祭神 豊宇賀売命
配神 伊奘諾尊 伊奘冊尊
海抜四百十メートルの小金山山頂にある。古くから、不浄の者は登ってはならないとして、利生も多く罰が多いといって世人恐れ、天狗の住む所として修験道家の尊崇篤い霊場であったといわれているが、明治維新後女人禁制を解かれた。
いつのころからか金儲けの神として、毎年五月と九月の二十三日には北三郡はもとより、遠く与謝郡加佐郡地方からも多数の参拝者があったが今は昔の比でない。
同社の縁起に「泊瀬朝倉宮大泊瀬雄略天皇即位二十六年五月二十三日建立云々」とある(約千五百年前)。なお寛永十七年九月の再建札がある。
宝物
一、扁額 森田晴村筆
一、鏡一面天下一清水丹後守直径一尺一分柄三寸四分丸形鋳文五ツ木爪重量六百四十目年代不詳
寄附人 宮津職人町
南波清左衛門
南波八良左衛門
一、劔一銘備前長船守光
刃文 流焼模様 鐸入
鐸銘 国広
一、古来伝承の神馬鞍
一、棟札一枚 寛永十七年九月吉日
再建
願主 木村次郎兵衛家次
大工 安田三左衛門
境内神社
延喜式内吾野神社
祭神 天照皇大神 創祀 年代不詳
延喜式内開明神社
祭神 丹波道主命 創祀年代不詳
丹波道主命は丹後丹波地方開発に至大の功績を残されたにもかかわらず、命を祀る神社は他に聞かない。ゆえに大正十一年二月宮津町長山内広三の名において、各町村長、郡会議員、小学校、神職連署をもって、貴衆両院に対し、官幣社創建の請願書を提出したことがある。  〉 

ほかには、中津に三森荒神、中山に三宝荒神、田中・川久保にそれぞれ八大荒神がある。

曹洞宗宝珠山延命寺
延命寺
延命寺は野間村が2村に分村する際に、洞養寺との間で野間村内の檀家を二分したという。


『与謝郡誌』
 〈 宝珠山延命寺
野間村字野中、本尊釈迦仏、もと真言宗にて八貫にありしも寛永年中曹洞宗に改め中津の愛岩下に移し、宝永年間智源寺九世圓山素明和尚を請じて法地開山とすと寺記にあれども承応元年龍献寺の永平御開祖四百年忌御茶湯料差上割符の末寺帳に「野間村延命寺」あり今竹野郡木津村の龍献寺もと網野の離島にあり曹洞宗にて一時榮えしものと見え当時の末寺三十八ヶ寺孫末十三ヶ寺あり。惟ふに延命寺は寺伝より更に古かるべし。惜むらくは明和元年回禄に罹り天明六年再び烏有に帰し文化六年三たび翌七年四たび祝融に罹り旧記全くなし文政元年諸堂営造す。境外沸堂中山の金谷寺、川久保の川窪寺田中の親子地蔵あり。  〉 

『弥栄町史』
 〈 宝珠山延命寺 野間字野中
本尊 華厳の釈迦牟尼仏 曹洞宗
昔は真言宗で八貫にあったが、その草創の様は明らかではなく、今は僅かに石塔を留めているのみである。延命寺の境外仏として保存されている。中山の仲峰山金谷寺縁起は次のように伝えている。永承五年(九百十七年前)慶秀上人が観音の霊場として金谷寺を創建した。七堂伽藍を備え、成相寺(宮津市)、縁城寺(橋木)から住職を交代で派遣したが、天正元年(三百九十五年前)両寺と離法し、承応元年(三百十六年前)火災によって伽藍、本尊、聖観音像ともに焼失した。承応二年延命寺中興鉄山玄柱和尚がその跡に一宇を建立して、新たに観音像を安置し、延命寺境外仏堂としてこれを保存したとある。これによると金谷寺も天正元年曹洞宗に属していたようである。
延命寺も金谷寺炎上当時すでに曹洞宗に属し、真言宗としての延命寺は相当以前に変ったことになっている。開基月窓円孝和尚によって曹洞宗に改宗、寺院は八貫にあったが、現境内地の南に接する旧境内地に移された。その後中興鉄山玄柱和尚の時代、永平寺直末である網野町木津の竜献寺の、永平開祖四百年忌御茶湯料差上割符の末寺帳に、野間村延命寺の名が記録されているところから、当時は木津竜献寺の末寺であったことがうかがえる。
現在の境内に安置されている三界万霊塔の記事によれば、延宝三年(二百九十三年前)住職渕竜和尚によって寺が再建され、天和元年(二百八十七年前)木尊が再興されている。三界万霊塔は貞享五年(二百八十年前)の建立であり、その後寺院移転の際現地に移されたのである。宝永年閏(二百六十八年前)当時の住職兀山魯岳和尚は、宮津市智源寺九世円山素明和尚を勧請して開山とし、自らは
第二世となって正徳二年(二百五十七年前)仏殿を再建した。この時以降智源寺の未寺として今日に至った。
兀山魯岳和尚により仏殿再建されてから五十余年を経た明和元年(二百四年前)、不幸にして火災により堂宇いっさい焼失し、安永九年(百八十八年前)大林祖道和尚の代に至ってようやく復興したが、僅かに八年を経た天火明六年(百十二年前)再び火災によって焼失した。その後文化四年(百六十一年前)戒厳順孝和尚によりようやく庫裡客殿の造営がなったが、文化六年(百五十九年前)文化七年相続く再三再四の火災によりて旧来の什具記録等すべて焼失した。  〉 


野中城
一色氏や細川氏に仕えた野尻隠岐守の城跡がある。

『弥栄町史』
 〈 旧野間村
城跡
野中城 字野中比冨入山
三層よりなり、老松生い繁り、礎石、庭石、石垣等の跡がある。野尻隠岐守の城跡で、同氏ははじめ一色氏に属し、のち細川氏に属した。天正府誌にも野間城主野尻隠岐守と記載されている。

吉野城 野間字吉野城ケ原
年代は不詳であるが、口碑に伝えるところによれば大江広元の築城といわれる。吉野明神の山麓より城道があり、途中「切り落し」という所が三ケ所ある。

平家の戦跡
平重盛の子忠房が丹後守に任じられたことがあり、平家が壇の浦に滅亡後、その残党が野間の奥にのがれてくるものが多かった。世屋、木子、駒倉は矢野新左衛門一統の隠れ場所であった。この地方は人跡まれなところであったので、初めは知る由もなかったが、ある日平家の落ち人たちが里市場に塩を買いに出たところ、その風采がただの人でないと怪しまれて、そのあとをつけられ、直ちに追手の小軍を差し向けられたので奥へ奥へと落ちのびたと伝えられている。

鎧が渕
平家残党敗北の証として武器具足を投棄した渕という。
今も野間には平家の旗、差物、楯、弓矢、鎧等を持ち伝えて平家落武者の後裔であるという者が多い。  〉 


スイス村の案内板
丹後森林公園・スイス村


《交通》


《産業》


野中の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎野中村(来見谷村の下)
【大宮大明神】(祭九月九日、野間一郷の氏神)
【小金山大権現】
小金山は野中の下より起りて、竹野郡黒部の庄舟木に跨る。麓より頂に至る凡五十丁、金剛童子、露なし、市ケ尾の高山と肩を並ぶ。頂に大蔵権現を安置す、汚穢不浄の者登るべからず、利生も多ければ罰もするどく皆人の恐るる所なり、されど危難に当っては皆祈願をこめる。(祭正、五、九月廿三日)
【宝珠山延命寺】(曹洞宗)
【野尻隠岐守城墟】
野尻隠岐守は元一色氏に属す、一色氏亡びて後細川氏に仕ふ、今野中の端郷に野尻の名残る。宮津府志に云。昔上野殿といふ人の居城なりと里俗申伝ふ、されども上野殿は何人なるをしらず、上世屋村に在し上野中務の一族にてもありや。  〉 


和田野の小字一覧


野中(のなか) アサマチ イシハラ イネノウエ ウリヤ エノウエ エノシタ エノカミ エノシモ エノマエ エノオテ オオガハラ オオミゾノシタ オオミゾノウエ カリヤ カンドノ カンヲンバタ キタノシタ キタダニ クロゼ ケヤガタニ コウジンダニ コウジンダニグチ シミズ スナハラ タケガハナ ツクリタテ ドウガタニ トイシダニ ナツヤケ ナカノツボ ニシカケ ニシムラ ノナカ ハダヤシキ ハヤガリ バタ ハシズメ バタノタニ フルヤ ブトウダニ ベツトウダ ホトケダニ マスギ ミゾクロ ミヤノシタ ミカガクチ ムカダ モウリ ヤケムダニ ヤナギダニ ヤノタニグチ ヤマサキ ヨツガイ ヲウタ 本田(ほんだ) ヤノタニ オテムカダ 下バ田(しもばでん)

関連情報






資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

 若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『弥栄町誌』
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2013-2016 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved