丹後の地名

奥大野(おくおおの)
京丹後市大宮町奥大野


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京都府京丹後市大宮町奥大野

京都府中郡大宮町奥大野

京都府中郡奥大野村

奥大野の概要




《奥大野の概要》

大宮第二小学校のある常吉谷の入口、北側の集落。鞍禿(くらはげ)山の東麓に位置する。「和名抄」丹後国丹波郡七郷の1つ。中世「丹後国田数帳」の大野郷。「田数帳」では倉垣荘のうちとされ、北方の口大野に対応する。
近世の奥大野村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、以後寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年より幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年大野村の一部となる、奥大野は機業が基盤で、口大野は農業であった、そうしたことで 同25年再び分離して旧に復し単独で自治体を形成した。
近代の奥大野村は、明治25年〜昭和26年の自治体名。同26年大宮町の大字となる。
奥大野は、昭和26年から大宮町の大字。平成16年からは京丹後市の大字。


《奥大野の人口・世帯数》 959・305


《主な社寺など》

裏陰(うらかげ)遺跡
大宮第二小学校周辺の扇状地上の縄文・弥生・古墳・平安期の複合遺跡。
裏陰遺跡(奥大野)
↑光明寺より遠望する大宮第二小学校(工事中のようでブルーシートがかかっている)
縄文早・前・後期の土器・石鏃・石皿・磨石・削器など、弥生中・後期の土器・砥石・石斧・鉄器など、古墳前・後期の土師器・須恵器・砥石などや平安時代の土師器・須恵器・黒色土器・白磁・線釉陶器などが破片とも約5万点出土し、約7千年前から1千年前にわたる遺跡。裏陰遺跡案内板
学校の入口にこんな看板がある→
 〈 裏陰遺跡(うらかげいせき)
裏陰遺跡は、常吉川南側の扇状地上に立地しています。大宮第二小学校の建設に先立つ昭和53年に、大宮町内ではじめてとなる本格的な発掘調査が行われました。
調査の結果、縄文時代早期後半(およそ7000年前から皇紀前半(およそ4000年前)までの石器(石で作った生活用具)や土器が出土しました。ほかには、弥生時代後期の大形の竪穴住居(たてあなじゅうきょ:家の跡)1棟や土器、古墳時代前期・後期、平安時代の土器が出土しており、縄文時代がら平安時代まての長い間、この地が人々の生活場所であったことがわかりました。
 大宮町内の縄文時代の遺跡は、裏陰遺跡のほかに谷内遺跡(谷内)、管外遺跡(口大野)、正垣遺跡・奥大野遺跡・枯木谷遺跡(奥大野)、沖田遺跡・松山遺跡(森本)、五十河遺跡(五十河)などがあります。裏陰遺跡は、これらの遺跡の中で最も多くの遺物が出土しているほか、大宮町内ではじめて確認された縄文時代の遺跡として貴重な資料といえます。このほか弥生時代後期〜古墳時代前期にかけての遺物が最も多く出土しており、この時期は大きな集落があったものと推定されます。
京丹後市教育委員会 

『大宮町誌』
 〈 大宮町でも昭和五三年、奥大野小字裏陰より継文時代から弥生時代・古墳時代・平安時代におよぶ裏陰遺跡が発見された。とくに縄文時代早期の押型文(楕円)、条痕文(貝殻)土器の出土は注目されている。
裏陰遺跡  奥大野小字裏陰
 裏陰遺跡は竹野川の上流、竹野川と常吉川の合流点から南西約五○○mの沖積地に舌状的にはり出した扇状地である。この遺跡は昭和四九年扇状地の中央部の水田で偶然採集された弥生後期の蓋形土器により確認された。昭和五二年、当地が大宮第二小学校建設用地の候補地にあがったため、試掘調査を行うことになった。調査は大宮町教育委員会が主体となり、丹後資料館の人々の協力により昭和五三年度事業として行われた。その後昭和五四年整地工事が施工され、昭和五五年大宮第二小学校として校舎も完成し、昔日の階段状水田であった裏陰の面影は一変した。
 調査の結果は大要次のように報告された。
 遺物は掘り方を行ったすべての調査地で発見され、土器、石器の総点数は土器片約二万五、○○○点、石器類八七点、鉄器一点であった。これらの遺物は扇状地の土砂の移動と共に堆積した層に包まれ、縄文時代早期から平安時代まで約六、○○○年にわたっている。土器は縄文早期・後期、弥生中期・後期・末期、古墳前後期、平安前後期の四時代九期にわたり、時代別出土数は弥生末期六四%、古墳前期二○%、縄文後期一○%、縄文早期が四%、古墳後期〜平安期が一・六%、弥生中・後期が○・四%であった。ただし、この点数は個体数ではなく大小の破片数である。…
 遺物中特に押型文士器に繊維を含んでいる点、縄文士器が裏陰のような内陸部で出土した点など注目すべき多くの成果を得た。かように大量の土器・石器が発掘されたことは裏陰が長期にわたる集落であったことを示している。
 今一つの成果は弥生時代後期の竪穴式住居址の発見である。特にこの住居城は、当時の一般的なものが直経六〜八mであるのに対し、ここで検出された住居址は復元直経約一二mのものと直経一三、四mの二つの住居址であることである。而もかように直経の大きい大型円形住居址であることと共に屋内高床部を持つこと、鹿角装鉄製工具を出土したことなど、いずれも丹後では初めての例と考えられる。この大型住居は恐らく村の中心的な建物例えば有力者の家または集会所工作所のようなものであったのであろう。
 裏陰遺跡はその土器の種類および量と住居址とから推定して約六、○○○年間にわたって集落があり、生活が営まれていたことを物語っており、それは今から約七、○○○年前から約一、○○○年前までの期間である。そして鎌倉以後の遺物が一切見出し得ないことからすれば、中世には村落は対岸すなわち、現在の奥大野方面に移り、裏陰は耕地化して今日に至っていると思われる。 

『京丹後市の考古資料』(図も)
 〈 遺構
 調査当時の遺跡の現状は、約15.000uの水田部とその背後の丘陵部である。調査は、遺跡が予想される120m四方に3m角のグリッドを28か所配置し、遺構・遺物が確認された揚合、適宜拡張して実施された。拡張調査された地点は、5地点で、それぞれ異なる成果が得られている。
扇状地の先端部に近いB2区では、地表下約1mから縄文時代早期、前期の包含層が確認された。丘陵部に近いC2・C3地区では、上層では弥生時代後期以降の下層では縄文時代中期〜後期にかけての包含層を確認した。常吉川の形成する段丘崖に近いC1地区では、弥生時代後期末の直径12〜14mを測る大型円形竪穴式住居跡を検出した。丘陵部では第2トレンチで平安時代と考えられる方形竪穴住居跡を検出した。
遺物 遺物出土した遺物は、土器約25、000点、石器類87点、鉄器1点である。時代別にすると、弥生時代後期から古墳時代前期に属するものが84%、縄文時代中期・後期に属するものが10%、縄文時代早期・前期に属するものが4%、その他が2%とされている。縄文時代早期・前期の遺物には、楕円文の押型文土器、条痕文系土器(高山寺式)、D字押型文系土器(羽島下層U式)などの土器類と石皿などの石器類である。縄文時代中期・後期の縄文土器には、沈線文、磨消縄文なども文様が見られ、北白川C式、中津式に相当するものである。石器には、石鏃、削器などがある。
 弥生時代後期から古墳時代前期の遺物には、口縁部に擬凹線文をもつ甕、鉢、高杯、布留式の甕、小型丸底壺などの弥生土器、古式土器類などがある。
意義 丹後地域における低地の集落遺跡の様相がよくわかっていない中、その様相を垣間見る資料として貴重である。 


 正垣遺跡 府道脇にこんな案内板↓正垣遺跡(奥大野)
 〈 正垣遺跡
当遺跡は、縄文時代早期から鎌倉時代にかけての集落地跡である。中心は、弥生時代から古墳時代の集落跡と、奈良時代から、鎌倉時代の堀立柱建物跡群から成る。
 特に、堀立柱建物群は正垣遺跡を代表するものであり、建物跡が一六棟・総柱建物跡は四棟が検出された。
 出土遺物は、須恵器・土師器・施釉陶器等による食器類(杯、椀皿等)が多数出土したが、その中で役人を象徴する革帯を飾る石帯が検出され、前述の施紬陶器や石帯により、この地が地方官衙施設であった可能性が高い。京丹後市教育委員会 

このあたりの一帯は1万年以上の歴史がある地のよう。

新戸(しんど)古墳
小字新戸の新戸古墳は丹後最大の横穴式石室をもつ古墳後期のもの、玄室内部奥には石棚を設けた両袖式の石室があり、雲珠・轡・鏡板・切子玉・管玉・勾玉・金環・銀環などが出土した。
新戸古墳遠景
旧道添いの「川口金属」という工場の向かいのわかりやすい場所に「案内看板」はあるが、どこが古墳の入口かわからない、たぶんかなり上の方ではなかろうか、ヨジ登ろうにも背後の山は90度に切り立っているし、崩れやすそうな斜面、さらに草木が茂って、道などはなさそうである。草木が枯れる頃に出直そう。
案内板には
 〈 新戸古墳
 新戸古墳は、古墳時代後期(六世紀)に築かれ、東西に封土を築いた前方後円墳(全長三五メートル)で後円部には南北に横穴式石室があり、玄室を北に両袖式の羨道が南に開口している。巨石の石室は丹後最大で特に玄室の石棚を設けたものは府下でも二例にすぎず、丹後地方において特に重要な遺跡の一つである。
 出土した副葬品は、水晶切子玉、瑪瑙勾玉、碧玉菅玉、金銀環や馬具である雲珠、鏡板等がある。京丹後市 

『大宮町誌』(下の図も)
 〈 新戸古墳  奥大野小字新戸
 新戸古墳は丹後の古墳の中石室が最大のものであり、玄室の奥壁に石棚のある点は近畿地方古墳の構造上特殊な位置を占めるものである。この古墳は西より東に延びる丘陵の尾の上に築かれ、径二二m、高さ四・五m内外の丸塚(円墳)と認められ、附近に埴輪等は存在しない。ただし、円墳に関しては昭和五三年同志社大字考古学研究室の研究実測によれば、この古墳は前方後円墳である可能性が強いと言われている。
 石室は西より東に延びた封土の内に南面して開口している。羨道は大半破壊しているが、玄室は完存していて内部の構造は詳細に知ることができる。玄室は幅二・四m内外、長さ六mに余り高さ三mに達している。
 石棚は奥の部分に約一・五mの石を渡して作られており頗る精巧堅牢である。羨道は今わずかに一・二m内外を残すのみてあるが、封土の形状から推して六mを超えていたと考えられる。中郡誌稿の記事に室と合せて総長六間とあるのは発見当時の実際を示しているものであろう。
 発見の遺物は発掘後散佚して、その一部がわずかに奥大野川口家の所蔵として残っているだけである。
 雲珠(鉄地金銅張) 一個  轡鏡板(同上)残缺 一個  水晶製切子玉 一個  出雲石製管玉 二個  瑪瑙製等勾玉  三個  金銀環 一○個
 右の遺物より推してこの古墳は比較的副葬品の豊富であることが認められる。
 なお、「中郡誌稿」の(実地調査)に大要を次のように述べている。新戸の石槨はその大きさにおいても作り方においても中郡一である。今は前面は掘り取られているが、なお奥行三間半、幅一間、高さ二間ある。奥壁のほぼ中央に五尺ばかりの一枚岩の棚がある。この内よりの発掘品は同村川口家の所蔵の鍍金車輪形の鍔金銀環曲玉管玉切子瑠璃玉等である。その内に形も大きさも普通の椀ほどで全体に鍍金し四方に方形に孔の突出部のあるものがある。これは古代の馬具と思われる。
 右に引用したように新戸古墳は中郡の発掘古墳中石室最大のものであり、奥壁に石棚のある特殊構造をもつ点で注目されている。副葬品も豊富であることなどから富裕な豪族の古墳と推定されるが、遺物が多く散佚して現存しないのは惜しいことである。 

かなり古い地図かと思われる。付近に社殿などはないよう。


『日本の古代遺跡京都T』は、(写真・図も)新戸古墳石室
 〈 石棚のある石室 裏陰遺跡の対岸部に墳丘墓が多数存在することはさきに述べたが、そのなかに、丹後地方では最大規模の横穴式石室をもつ新戸古墳がある。この古墳は、丹後ではめずらしい古墳時代後期の前方後円墳であり、全長三五メートル、後円部径二〇メートル、高さ五メートル、前方部幅二八メートル、高さ四メートルを測る。横穴式石室は、その後円部にほぼ南向きに開口する形できずかれている。石室の全長七・二メートル、玄室の長さ六メートル、幅二メートル、高さ三・四メートルで、それに長さ一・二メートル、幅一・二メートルの羨道部がつく両袖式の石室である。馬具類の出土がつたえられる。
 新戸古墳の横穴式石室は、その規模だけでなく、玄室奥壁から突き出た形の巨大な一枚石の存在によってとくに注目されるものである。このような形式の石室は、石棚付石室とよばれる特殊なもので、京都府下では、最近、となり町の野田川町で発見された石室の例をくわえて六例日となる。新戸古墳石室内(「日本の古代遺跡京都Tより」)
 この新戸古墳への見学は、石室の入口部分が急な崖となっていて危険なので、とくに足もとに注意していただきたい。 

石室補強目的ではないようで、必ずしも紀ノ川型とはいえないよう、どこにこの型の中心があるのかわからない。
亀岡に7基とか、篠山にも、隣の与謝野町石川にも石棚古墳がある。

『中郡誌槁』
 〈 (村誌)字新戸山上に大石窟あり世人呼で塚穴と云無比の磐石を以て造れる天岩戸なり奥行六間中央に仕切あり奥に棚あり横幅八尺高さ一丈二尺一枚岩を以て天井を作す古老の申伝に曲瓊管瓊輪玉と称する種類拾ひ得るありと何れも金銀銅を以てす原由不詳外に此地辺に廃窟数箇所あり
(村誌)九十九基の塚字大壷田にあり先年此塚より刀身鍔等を堀得たる由申伝ふ
(実地調査)新戸の石槨は其大さに於ても作造に於ても実に郡内第一なり今は前面は堀取られたれどもなほ奥行三間半幅一間高さ二間あり奥壁の略ぼ中央に五尺計りの一枚岩の棚あり此内よりの発掘品は同村川口氏に蔵せらる鍍金銀瓊曲玉管玉切子玉瑠璃玉等あり其内に形状及大きさ共通例の椀程にて全体に鍍金し四方に方形二孔の突出部あるあり蓋し古代馬具なり
(川口氏記録)大野村字新戸大窟山岳にあり、地続きの字古来石ノ戸新戸とも云同所続き東百歩石窟あり亦東百歩の山鼻一小窟西方百歩石窟二つ南方の谷を渡り一町程に石窟あり北方字黒田ノ鼻にもあり今西山林東の鼻は名のみ残れりハヤシガ谷に土窟あり山伏の塚古坊二ケ所森ノ岡平太郎の岳阿婆田二窟柳谷南ケ谷口八幡山石窟は嘉永年中同社石段に毀ち転す山崎石窟は一は荒神の森一は弘化の時節嘉十郎石垣の為に破壊せりしかやど城山橋本荒神か鼻荒神九十九塚山崎岳中新戸の鼻庄境山林の山腹庄垣畑中二ケ所神の木谷 

枯木谷遺跡

奥大野城址
一色氏の部将山口弾正の居城であったと伝え、天正年中に細川忠興によって落城したという(一色軍記)。村内にある長福寺境内の五輪塔の四面に「妙法蓮華経」、その正面台石に「山口弾正忠永能、永禄六亥一二月十四日」と刻銘され、川口家過去帳にも「永禄六癸亥三月十四日了源院殿道正目忠永能大居士 古城主山口弾正忠永能事」とあって、この山口永能は天正頃奥大野城主であった山口弾正の父であろうとされる。

『大宮町誌』
 〈 奥大野城(倉垣城)奥大野小手曼陀羅子(まんだらご)
 城趾は奥大野人家の西方、旧京街道に沿う“まんだらご”山の頂上に在る。四台地より成り、本丸・二の丸は南北に連なり、三の丸・四の丸はそれと直角に東に延びてその間に竹薮の谷を抱いている。本丸は南北三二m、東西一四m、二の丸はその北に接し南北一九m、東西二○m、本丸・二の丸の間に高さ五mの切り崖がある。本丸より東方に連なる三の丸・四の丸はそれぞれ東西二三m、南北一五m、東西二九m、南北二○mの台地である。各台地間には三〜五mの段差が作られている。四の丸の東に大掘割があり、高さ六m、幅四m、さらに東に延びる山鼻には高さ四mほどの切り崖が設けられ、その東端は観音堂の境内である。城の周囲は急傾斜の絶壁で要害よく、とくに本丸には南端に高さ二mの土居を作り、その下は高さ二○m、幅四mの掘り割りで堅固な構えてある。井戸の跡は本丸の西側の谷間と観音堂の北の谷間にあったという。
 城主は山口弾正である。
 (丹哥府志) 奥大野村山口弾正城墟 山口海老丞は元将軍義輝公に仕へ後に織田信長に仕ふ。山口弾正は其弟なり。将軍義輝公に仕ふ、後一色松丸の部将となる。
 (御料所旧記) 古城跡 一ヶ所 城主山口弾正と申伝候。奥大野村。
 右の他、「田数帳」にも一一町余を山口弥治郎、七町余を同弥三郎が倉垣庄に所有しており、「丹後考」にも「山口弾正・同馬之允」の名があるから長期にわたり城主であり、谷内鶴賀城主とは同族であった。なお、長福寺境内に五輪石塔が現存し、その台石に
 「永禄六亥三月十四日 山口弾正忠永能」
とあり、確実な史料である。この人は古城主であり、かつ長福寺の大檀越であった。 

『中郡誌槁』
 〈 (丹哥府志)山口弾正城跡
山口海老丞は元将軍義輝に仕へ後に織田信長に仕ふ山口弾正にて其弟なり将軍義昭公に仕ふ後一色松丸の部将となる(旧事記曰く)
(村誌)奥大野城跡村の西方字マンタラゴ山上にあり現今樹木繁茂す昔時山口弾正之に居す天正の頃一色五郎に属し細川忠興の為め落城すといへり
(実地調査)当村長福寺内に五輪石塔あり四面に妙法蓮華経の五字を刻し正面台石に山口弾正忠永能永禄六亥三月十四日とあり
(川口家過去帳)永禄六癸亥三月十四日了源院道正日忠永能大居士(古城主山口弾正忠永能事とあり)
宮津赤有恒(弘化頃の人種に地方史跡伝説を輯録す)按に山口永能は天正年中の山口弾正の父なるべし
(村誌)古宅跡年号不詳山口彌次郎之に居る、安田某の跡字林ケ谷にあり大野某の跡字小谷やしきにあり詳細不分明
(実地聞書)村の南の方上常吉村に近き所をも字城山と称す 
奥大野城跡

若宮神社
若宮神社(奥大野)

『大宮町誌』
 〈 若宮神社(元村社)奥大野小字今西ヶ丘
祭神 宇賀能売命
 当社は、もと若一王子権現と称し、小字丸界サコの地に鎮座していたが、天正一一年(一五八三)三月五日、村の中央の現地に遷座した。この地は、むかし観音寺が建立されていたので、観音寺の宮とも称したという。
 若一王子は、能野権現から勧請したものと伝えられるが、その勧請の年月は不詳である。谷内の岩屋寺が、明治の初年まで別当として奉仕していた。
 安永年中(一七七二−一七八○)に、本村の禅・法華両宗の争いが起り、若一王子権現の祭祖が両宗の争奪となったので、谷内村へ分宮したとされているが、谷内村は、宝永五年(一七○八)に奥大野村より分宮して祀るという。(三重郷土志)
 例祭の六月二○日は、鱒留村より常吉村まで休日にて参拝したと伝えられる。
 明治の神仏分離により、若宮神社と改称して宇賀能売命(豊受大神)を祭神とした。明治一六年一二月に社殿を新築したが、昭和二年の丹後大地震に、倒壊したので仮殿を建て、同一六年五月に社地を拡張して社殿を改築し、同年一二月竣工した。
  神職 島谷旻夫(兼)(周枳大宮売神社神職)
  現在の祭日は一○月一○日で、神前相撲を奉納した。終戦後は行われていないが、土俵の形は残されている。祭礼の神事として笹囃子・神楽・楽打ち・太刀振りが奉納されている。 

『大宮町誌』
 〈 神威赫々の碑  奥大野若官神社境内
 碑の高さ三m五○p、幅一m二五p。
若宮神社の由緒並びに社殿造営の経過を述べ神徳を奉頌した碑文で昭和十八年建立された。碑文
当若宮神社は宇賀能売命を斎し奉る古社なり。抑々我奥大野村は古丹波郡倉垣庄と丹後田数帳に記さるる処にして当社亦若一王子権現とも称し本村字丸界さこの幽谷に鎮座せしが時の城主山口弾正忠永能は地の嶮岨にして参拝の難渋なるを憂ひ氏子と相諮り天正十一年三月五日神域を現地に移したり。此地は往古観音精舎の建立ありし霊域にして観音寺の宮とも称せり。爾来城主の崇敬愈々厚く衆庶の信仰益々深きを加ふるに至れり。明治六年村社に列せられ明治十六年旧社殿の再建造営成り全村の鎮守として仰がるる処なり。例祭日は六月二十日なりしも慶長年間九月二十日となし明治中期に至り十月十日と定めらる。古式に依る鹿島踊竝に相撲を奉納し中にも鹿島踊は田楽の流を汲み或は笹囃と云ひて歌詞並に拍子方等地方に伝へらるるものの中最も趣を異にせり。又安永年中には谷内村に御分霊を祀りしことありとも謂ひ祭日は鱒留村より常吉村迄休日なりしと伝ふ。然るに昭和二年三月奥丹後を襲ひし大震災に依り社殿其他倒潰したるを以て御仮殿に奉斎したるが曩に氏子相諮り造営を行ふこととなり京都府庁安間立雄技師の指導を受け昭和十六年五月工を起せり。即ち社地を拡張して花崗石亀甲積石垣を配し桧材屋根桧皮葺神明造りの社殿を営み同年十二月結構善美を尽して竣工せり。斯くして多年に亘る氏子の念願成就し木の香畏き神殿に奉遷するを得たり。更に昭和十七年九月十一日には神饌幣帛料を供進することを得べき神社として指定せられ御神威愈々赫々たるを得るに至れり。故に神社の由緒並に造営の経過を録して記念となし併せて大東亜建設の為滅私奉公の至誠を捧げつつある氏子の上に神枯の灼焉なることを祈念する次第なり。
  昭和十八年十月    社掌 島谷旻夫
             村長 大同 栫@

『中郡誌槁』
 〈 若宮神社
(村誌)若宮神社、村社、社地(東西十九間南北十五間)面積二百八十五坪、本村の北方にあり、祭神宇迦能売命祭日は九月二十日なり、以前若一王子大権現と崇唱す世人観音寺の宮とも申は往古観音精舎一宇此地に建立せし故也と其跡地現今字今西山林にありと云坊守り禅宗(真言とも)を改宗し法華宗となる依て其跡廃絶せり其頃産神木九界さこの谷間よの今の地へ移す昔時祭祀六月二十日たるを近時七月二十日に改む旧例鹿島踊り相撲を式とす昔は鱒留村より常吉村迄各村休日なりしと云興廃年号月日不詳又谷内村へ分宮は安永年中本村禅法華の両宗争ありて本宮の御真体谷内村へ譲る其御真体銘に曰天智帝甲子云々とあり
(丹哥府志)大野神社(延喜式)大野神社今若一王子権現と称す(祭七月二十日)(大野神社は今口大野にあり同条可(横付の二)参看(横付の一))
(村誌)八幡宮(無格社)社地(東西十五間南北十間)面積百五十坪 本村の北にあり祭神誉田別命、祭日八月十五日なり延喜式云々の諺ありと雖ども不詳 


日蓮宗京都要法寺末広布山長福寺
長福寺(奥大野)

『大宮町誌』
 〈 広布山長福寺 日蓮本宗(京都要法寺) 奥大野小字新戸
 本尊 大曼荼羅
 嘉元二年(一三○四)日蓮宗の開祖日蓮上人の四世の法嗣日尊上人が、西国弘通の途次錫をこの奥大野の地に留め、現若宮神社付近にあった観音寺を大野山興福寺と改称したのに始まると伝えられている。
 同上人は延慶元年(一三○八)に京都に上行院を建立、同宗本山要法寺の前身である。
 当寺は南北朝時代には寺運不振、荒廃したといわれるが、日能師の明応年間(一四九二−一五○○)に、現光明寺の北の地(現寺跡と称している)に移って広布山長福寺と再び改称した。
 天文年間(一五三二−一五五四)に、当寺の大旦那城主山口弾正忠永能が、浄財、寺禄田畑山林を寄進して寺門護持のため尽力し、寺運が興隆したので日能師を中興の祖とした。(長福寺文書)
 当寺一○世日来師は近隣の口大野・周枳にも教化を拡張し、元和元年(一六一五)には周枳の妙受寺の前身久成庵を開き(常徳寺復興誌「妙受寺財産明細誌」本山要法寺蔵)元和五年(一六一九)には口大野に移って常徳寺を開創した。
 その後の変遷は明らかでない。享保七年(一七二二)に梵鐘を鋳造、天保一○年(一八三九)に改鋳した。
 昭和二年三月の丹後地震には、本堂・庫裡ともに倒壊したので、同八年一一月の香城師の代に、現在地の小字新戸に移って庫裡を新築、現啓道師の同四一年一一月に本堂を復興し、大東亜戦争に供出した梵鐘を同四六年三月五日再鋳した。
 現住職 岩崎啓道
 境内の五輪塔は、「山口弾正忠永能」「永禄六亥(一五六三)三月一四日」の銘がある。 

『中郡誌槁』
 〈 長福寺
(丹哥府志)広布山長福寺(日蓮宗)
(村誌)長福寺(東西十二間南北十八間)面積三百九十六坪 日蓮宗 本山京都要法寺末、本村の西山鼻にあり暦応三戊子年日蓮上人の徒弟日興其弟子大夫阿闍梨日尊開基創建す其後衰微せしを以て明応の頃僧遠寿院日能之を中興し以後住僧連綿たり
(当村川口氏記録)大夫阿闍梨日尊上人京都にいまし法華御弘道之時に山口彌次郎弟河口彌兵衛等就て改宗法華帰依依則興福上興之寺号あり爾来山口氏を以て大檀那とす暦応三庚辰年広布山創業是也 

曹洞宗智源寺末曼陀羅山光明寺
光明寺(奥大野)

『大宮町誌』
 〈 円通山光明寺 曹洞宗(永平寺) 奥大野小字本明寺
 本尊 観音菩薩
 寺伝によれば、明暦三年(一六五七)文海和尚の開基である。宝暦一四年(一七六四)五月八日に当村の大火(一七軒焼失)により当寺は類焼するが、再建その他明らかでない。明治年間にも火災に遭い諸記録・文書を失う。
 現住職 道家俊孝
 境内に三社を祭る。地主荒神・稲荷神・秋葉神の寺院守謹神と防火鎮静の神である。 

『中郡誌槁』
 〈 光明寺
(丹哥府志)曼陀羅山光明寺(曹洞宗)
(村誌)光明寺(東西十四間南北二十一間)面積二百九十四坪 禅曹洞宗 宮津智源寺末村の西南谷間高きにあり開基曇大明暦三酉年建立
薬師堂
(村誌)薬師堂(東西四間南北八間)面積三十二坪 村の東方にあり開基年月不詳と雖ども諺に謂ふ平の清盛の為回禄すと古老の口碑也 

旧家川口家には多くの近世文書が伝わるそう。


《交通》


《産業》


奥大野の主な歴史記録


『丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 一 倉垣庄  四十八町六段二百八歩内
  廿町卅六歩          御領所
  四町三段六十八歩   本 同川成
  十一町一段百廿四歩    山口弥次郎
  七町九段五十二歩     同弥三郎
  五町二段二百八十八歩   成吉三郎左衛門 

『丹哥府志』
 〈 ◎奥大野村(大野村の南)
【大野神社】(延喜式)
大野神社今若一王子権現と称す、祭七月廿日
【広布山長福寺】(日蓮宗)
【曼陀羅山光明寺】(曹洞宗)
【山口弾正城墟】
山口海老丞は元将軍義輝公に仕へ後に織田信長公に仕ふ。山口弾正は其弟なり、将軍義輝公に仕ふ、後一色松丸の部将となる。
 【付録】(八幡宮、薬師堂) 

『中郡誌稿』
 〈 (一)沿革
(村誌)(上略)丹波郡倉垣庄と号す慶長の頃中郡奥大野村と名称す元と口大野村と一村たり嘉吉文安の頃字奥山山抜け民家流失し其頃民家のありし地は字中野と称す天変に罹り村の南北に分居せしを以て奥口大野の両村となる
(実地聞書)川口氏曰く慶長以前には谷内奥大野などの名見えず蓋し同一区なりしならんと按するに谷内は今三重村に属するも地勢大野に続けり或は其説の如くならん又曰く口大野は三百年以後に奥大野より出たるものと言伝ふ或は然らん歟と是又村誌記事に参考すべし
 

『京丹後市の考古資料』
 〈 新戸1号墳(しんどいちごうふん)
所在地:大宮町奥大野小学平太郎
立 地:竹野川中流域、支流常吉川左岸丘陵上
時 代:古墳時代後期
剖奄年次:1978、2007年(測量調査)
現 状:半壊(市指定史跡)
遣物保管:個人
文  献:B008
遺構
 新戸古墳群は、標高68mを測る独立丘陵上に築造された2基の古墳群である。2号墳は、径20mを測る円墳で、1号墳東側に位摩する。かつて墳頂部には神社があったため、上前は削平を受けていると思われる。
 1号墳は、墳丘長35m、後円部径20m、高5m、前方部幅28m、高4mを測る前方後円墳である。埋葬施設は、後円部中央に両袖式の横穴式石室が南向きに開口する。石室は、羨道部の大半が破壊されている。玄室は、長さ5.96m、幅2.08〜2.15m、高3.36mを測り、丹後地域の横穴式石室の中では最大規模を測る。玄室奥壁には、石棚が見られる(巻頭図版23-5)。玄室東面は、1石が崩落している。これは、1927年の北丹後地震によるものと思われる。
 古くは京都府史蹟勝地調査会の梅原末治委員による石室実測が行われ、その後、1978年に墳丘と石室の測量、2007年に墳丘の測量が実施されている。
遣物
 勾玉、管玉、小玉、切小玉、耳環、馬具の出土が伝えられている。
意義
 新戸1号境は、石室の形式などから見て、6世紀の前方後円墳と思われる。すぐ東側の丘陵上には、墳丘長32mを測る6世紀前半の黒田2号墳(217)が知られている。丹後地域において最後に築造されたと思われる前方後円墳が当地城に集中する意義は大きく、石棚付の石室が築造されている点も注目される。 

『京丹後市の考古資料』(図も)
 〈 正垣遺跡(しょうがきいせき)
所在地:大宮町奥大野小字正垣
立 地:竹野川中流域、支流常吉川左岸段丘上
時 代:縄文〜鎌倉時代
調査年次:1986年(府センター)
現 状:調査範囲は消滅(は場整備)
遺物保管:府センター
文 献:C057、F086、F097、F126
遺構
 正垣遺跡は、縄文〜鎌倉時代にかけての複合遺跡である。縄文時代は、早期、後期の土器が出土しているが、遺構は見られなかった。弥生時代では、後期の竪穴住居、流路跡を検出している。古墳時代では、中世に破壊された後期前半の木棺直葬の古墳1基(正垣4号墳)と、後期末〜飛鳥時代前期前葉の竪穴住居跡7棟が検出されている。奈良〜鎌倉時代は、総柱建物を含む掘立柱建物が20棟、柵列、溝、土壙、井戸などが検出されている(巻頭図版30−2)。これらの掘立柱建物は、建物主軸方位から、奈良時代中葉〜平安時代初顕(T期)、平安時代前期(U期)、平安時代中期(V期)、平安時代後期〜鎌倉時代初頭(W期)に区分されている。
遺物
 縄文時代では、早期、後期の土器細片が出土している。弥生時代では、調査地南端の溝SD05より弥生土器壷、甕、蓋、高杯、器台、台付鉢が出土したほか、木製品として舟形木製品、釘様木製品、杓子、匙、盤とともに琴が出土している。琴は、板状のものであり、全長46p、琴頭幅9p、琴尾幅11pに復原できる。古墳時代では、正垣4号墳出土の須恵器杯のほか、竪穴住居跡出土の土師器壷、甕、須恵器杯、壷などがある。
 奈良〜鎌倉時代では、土師器杯、皿、椀、須恵器杯、壷、景色土器椀、緑釉陶器椀、耳皿、灰釉陶器椀、白磁椀、下駄、金夸帯(巡方)などが出土している。須恵器杯、黒色土器椀には「阿」「貴」「一」などの墨書土器が、須恵器杯、蓋には転用硯が5点含まれる。
意義
 正垣遺跡は、調査の結果、縄文時代早期〜鎌倉時代にかけて断続的に営まれた集落であることが判明している。弥生時代では、後期後葉に位置づけちれる土器とともに珍しい資料として木製の琴が出土している。奈良〜鎌倉時代には、掘立柱建物跡が見つかっているほか、墨書土器や転用硯といった文字資料、緑釉陶器、灰釉陶器、金夸帯(巡方)などの遺物が出土している。検出された建物跡は、郡衙とするには規格性や規模が見劣りするが、出土遺物からは官衙あるいは地方官人居住地の遺跡と評価できる。 

『京丹後市の考古資料』(図も)
 〈 枯木谷遺跡(かれきだにいせき)
所在地:大宮町奥大野小字枯木谷
立 地:竹野川中流域、支流常吉川左岸谷底平野
時 代:奈良時代
調査年次:1993年(府教委)、1995年(府センター)
現 状:調査範囲は全壊(国営農地)
遣物保管:府センター 文献:C092、C106
遺構
 A地区より奈良時代の流路跡、B地区より奈良時代の掘立柱建物跡1棟、流路跡3条が検出されている。掘立柱建物跡は、2×1間以上の規模と推定される。
遺物
 B地区流路跡からは、須恵器供膳具を中心とする土器群が出土している。また漆付着土器や墨書土器、転用硯を含む。8世紀中葉〜後葉の所産と思われる。
意義
 調査範囲の制約があり集落の様子は不明であるが、近接する正垣遺跡(84)と関係する遺跡と推定される。墨書土器、転用硯といった資料の存在から見て、本遺跡は地方官人層の居住した集落と評価できる。 


まんだら湯の言い伝え

奥大野の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『大宮町誌』
その他たくさん



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