大山(おおやま)
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京都府京丹後市丹後町大山 京都府竹野郡丹後町大山 京都府竹野郡豊栄村大山 京都府竹野郡徳光村大山 |
大山の概要《大山の概要》 間人の南、間人街道(国道482号)に沿って、大土・大下・平井・大山の集落がある。 大山は、戦国期に見える地名。「丹後御檀家帳」に「一 大山の里 家弐拾斗」と見える。 大山村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、享保2年幕府領、宝暦13年但馬出石藩領、天保6年幕府領となる。 明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年徳光村の大字となる。 大山は、明治22年~現在の大字名。はじめ徳光村、大正14年豊栄村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 《大山の人口・世帯数》 181・58 《主な社寺など》 大山墳墓群 弥生後期前半くらい、卑弥呼より少し早い時代の遺跡で、上流の三坂や左坂の墳墓群と同じ時代のものである。 大山工業団地↑。20軒ばかりの事業所があるよう、対岸から見た。一段高い所にあるのがそれ。行ってみても何も残されてはいないよう。 『日本の古代遺跡・京都1』(図も) 〈 方形台状墓の展開 竹野遺跡をいとなんだ弥生時代前期の人びとは、中期以降になるとこの地を離れ、より充実した生産基盤となり得る場所をもとめて、内陸部へと進出したと推定されている。そうして生まれた弥生時代中期以後の集団がきずいた墳墓の一例として、大山墳墓群をみていきたい。 大山墳墓群は、弥栄町から丹後町へ抜ける間人街道に沿って竹野川を左岸(西側)にわたり、すこし北上した左手丘陵上に位置する。現在、工業団地となっているところが目印となる。一九八一年(昭和56)にこの工業団地造成に先立つ発掘調査がおこなわれ、丹後地方における弥生時代墳墓のあり方を知るうえで、きわめて重要な資料が多数発見された。この遺跡では、弥生時代にかぎると、中期後葉から後期にかけて、大きく三つの時期に分けられる墳墓群が、同一尾根上にきずかれつづけていく変遷が確認された。 その内容は、弥生時代中期後葉にきずかれ、のちに古墳がきずかれたさいに削平されたとおもわれる台状墓が二基、うち一基には一〇個の主体部が認められた。 そしてこれにひきつづく時期に、明確な家長墓を意識したとおもえる台状墓二基がいとなまれ、これに付属する形で木棺墓が二基認められる。 最後の段階である弥生時代後期にいたって最盛期を迎え、六基の傑出した台状墓とそれに従属する形で木棺墓二八、土器棺九の計三七基が周辺部にいとなまれていた。 このような大山墳墓群の変遷や、さきにみた峰山町七尾墳墓群における弥生時代前期の台状墓の出現などをふくめて、丹後地方における弥生時代の墳墓を概観してみると、畿内周辺部における方形周溝墓のあり方とも似通った部分があることに気づく。すなわち、弥生時代前期より登場する方形区画で限定された家長墓の出現と、それに付属する形で周辺にいとなまれる土壙墓、木棺墓との共存形態が認められる点や、方形区画内の被葬者が、弥生時代のなかでは、こうした集団墓の範囲から抜きん出るような形態の墓をきずき得なかったということである。 このような共通する要素をもってすすんだ両地域の墓制の変遷も、古墳時代へ入るとともに、大きな相違をみせることになる。畿内については、ここでははぶくが、結果として、この時点からの相違が、畿内をして中央政権掌握への道を進めさせたことをしめしているものとおもわれる。丹後では、弥生時代の方形台状墓群の系統をひく墓制が、つぎの古墳時代へもひきつがれる様相がみられ、いわゆる階級形成期における分化がすこし立ち遅れる傾向をしめしている。 ところが、こうした一般的な傾向とは別に、峰山町カジヤ古墳に代表されるような周囲と隔絶した大首長墓が突然といった形で出現し、以後、この隔絶状況を埋めることなく、大前方後円墳をきずいた一握りの支配者たちと、それを支える集団との間に不安定な要素をのこした従属関係がつづくことになる。 〉 「大山墳墓群」 志布比神社 同名社が網野町浜詰にもあるが、当社は式内社と比定されている。祭神は志夫美宿禰命とも塩干大明神ともいわれ、勅命によって丹後の三鬼を退治した麻呂子親王を助けてその戦いに従った弟の塩干親王を祀ったと伝える。絶対に日本語ではないという感じがする、古い渡来語だろか、大山遺跡時代の社名かも知れない、イフヒとかシホヒとかシフビとかの名のようである、ソフル系の名ではなかろうか。 鹿児島県曾於郡志布志町がある。ココロザシあふれる町とか、ソオ郡という郡名が歴史のミソか、たぶん熊襲という場合のソで民族名だろうか。皇国史観の歴史像しか私は知識がないが、志布志湾は舞鎮所属の艦船がここをよく訓練に使ったというし、大戦末期になると、ここへ米軍が上陸してくるに違いないと大本営は予想していたという、有明湾ともいう。安楽川が流れ込み、有明小学校もある。当地ばかりでなく日本中どこもかしこもアラ・アリとソばかりのよう。 当社に次のような伝承があるという(『京都府の地名』より)。 大昔この付近の村々はみな高い山中にあり、竹野川の流域は海の底であったという。その頃大山(志布比神社の裏山)に神様がいて、海水を飲み干し田圃をつくろうと考え、一口飲むと中郡の、二口目に現弥栄町の、三口目に現丹後町の田圃が開かれた。しかし海水があまりに塩辛かったので飲み干すことがでさず、水溜りが残ってしまった。里の人々は神に感謝し、飲み残された水溜りの傍らに宮を建てた。この社がのちに式内志布比神社となり、里人たちは「しおほっさん」と称し崇敬した。水溜りは小さくなり、今では境内の一部にその跡が残るだけになったが、明治の初年頃までは水が溜っていて塩辛かったという。 すごい伝承が長く二千年にもわたって伝えられたものだと驚かされるが、海水面を40メートルあげると、彼ら、というか我らがやってきた最も初期の頃の丹後海岸の様子が復元できそうな地形になる。この入り江の一番奥になる三坂に干塩大明神が祀られていて、そこは三坂墳墓群の地である。 ウソでしょう偽書でしょうの海をパソコンが描き出す。権力の歴史はあまり信用しないがいいが、民間に伝わるものは本当かも知れないのである。丹後の始まりはこうした地形で、一口飲み干す以前はこうした入り海になっていたのであろうか。→ その後2000年かけて堆積や隆起があって、今では想像するのも難しい。40メートル以上もの地下から海生の貝類の殻が見つかるかも… 丹後王国が運命をともにした、まるで地表にできた海溝のような深い海であったのだろうか。 『丹哥府志』 〈 ◎平井村(大下村の次) 【塩干大明神】(祭九月三日) 塩干大明神は松枝大明神と同じく麻呂子皇子の皇弟なりと語り伝ふ、斎宮条下詳なり。 〉 「丹後国式内神社取調書」 〈 志布比神社 ○【古事記】日子坐之子志夫美宿禰王者佐々君之祖也按比美通 【覈】塩江村ニマス【明細】大山村祭日九月三日【道】所在同上【豊】同字白石祭神志布美宿禰命祭日明細帳ニ同ジ【式考】大山村ノ塩干明神ヲコレ也ト云ハ非ナリ塩干明神ハ平井保昌ノ功業ニテ其汐ノ患ナクシテ田面ノ稲穀ノ実リシ故ニ保昌ヲ祭リシト云フ説アリテ塩干ハシホホシニテ志布比ニハアラズサレバ志布比神社ハ志布比浦ナル浜詰村ノ内ノ塩井ト云處ノ社 コノ社今ハ本村ニ引遷セル由 ニ疑ナカルベシ)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志) 〉 『丹後国竹野郡誌』 〈 志布比神社 村社 字大山小字白岩鎮座 (式 内) 志布比神社 (神社明細帳) 祭神 志夫美宿禰命 由緒 記録無之明治四年未五月村社に列せらる 古老博曰 志夫美宿禰命を鎮め奉る事は崇神天皇の御世當国に賊徒あり人民を悩し依之齋宮の神御兄弟にて共に之を退治し王の神と云ひ老案彼れ志夫美宿禰命は日子坐王命の御子にて古老伝者親子の違あれと按に父の命に随ひて共に退治し給ひしと知らる創立不詳延書五年十二月式内に列す元禄十年丁丑六月享保二十一年辰五月寛政三年玄八月三度建営明治四十一年四月十日神饌幣帛料を供進し得へき神社に指定せらる 一社 殿 梁行四尺八寸 桁行五尺二寸 一上 殿 仝 三間五寸 仝 二間五寸 ー籠 屋 仝 二 間 仝 四 間 一境内坪数 千三十五坪 一氏 子 六十二戸 境 内 神 社 稲荷神社 祭神 宇賀魂神 素盞嗚神 火産霊神 天御中主神 〉 『丹後町史』 〈 志布比神社 大山小字白岩 塩干大明神(しふみすくねのみこと)を祭る。塩干大明神は松枝大明神とともに麻呂子親王の皇弟にあたり、親王とともに鬼賊平定のグンコウたてた。塩の神様ともいわれ峰山方面からも寄進者があった時代がある。 明治四年未五月村社となる。 延喜式内小社であり、元禄十丁丑六月、享保二十一辰年五月、寛政三亥年八月再建が行われた。 明治四一年四月神饌幣帛供進神社に指定された。 境内に稲荷神社があり、宇賀魂神、素盞嗚神、火産霊神、天御中主神を祭る。 〉 曹洞宗弘法山運祥寺 『丹後国竹野郡誌』 〈 運祥寺 曹洞宗 字大山 (丹哥府志) 弘法山運祥寺 曹洞宗 宮津智源寺二世橘州宗曇和尚を開祖とす 〉 『丹後町史』 〈 弘法山 運祥寺 大山 曹洞宗 本尊は十一面観世音菩薩 宮津智源寺二世橘州宗曇和尚を開祖、昭和三十八年二月の豪雪で本堂半壊、その後、庫裡を修理して本尊や檀中の位牌を安置している。檀家約四〇戸。 〉 昭和16年小字藤の木の水田から、壷に入った中国の古銭70種約6200枚が発掘された。一部が正隆元宝で残りは宋通元宝、南宋の咸渟元宝などであったという。 集落西裏に大村長門守居城跡と伝える大山城址がある。 《交通》 《産業》 大山の主な歴史記録『丹哥府志』 〈 ◎大山村(平井村の次) 【弘法山運祥寺】(曹洞宗) 【大門長門守城墟】 〉 『舞鶴市史』 〈 大山墳墓群は、丹後町大山の竹野川西岸の丘陵上に位置する古墳二基、弥生墓八基、集落跡を含む複合遺跡である。弥生墓八基の主体的埋葬施設は一一であるが、台状斜面や基底部、溝内に土壙三○、土器棺一○を有する大墳墓群であることが判明している。出土遺物は弥生土器をはじめ碧玉製管玉、ガラス製勾玉・小玉等の玉類、銅鏃、ヤリガンナ・刀子の鉄器類等多量にのぼっている。調査時の研究成果として、弥生時代後期に営まれた台状墓群であること、墳頂部の主体部は基本的には単葬であり、主体部は台状墳頂部だけでなくその周囲にも整然と多数配置されていること、副葬品・規模で、墳頂主体部と周辺主体部とは、前者に若手の優位性が認められるが大差ないこと、この時期の墳墓としては多量の副葬品をもつが、それらは特定の墳墓に集中せず、分散所有していること、各主体部に日常容器の供献が多いこと等々が判明している。そして、墳墓の営まれた丘陵の東、標高一五~二〇メートルの台地で発見された二基の円形住居跡、六棟の掘立柱建物、五基の土壙、その他遺構は、弥生時代中期末葉~後期、奈良時代後半~平安時代前期、平安時代末葉~鎌倉時代初期とに断続的に営まれた集落であることが確認され、殊に弥生住居跡の年代が八基の弥生墓と時期を同じくすることが明らかになっている。本遺跡は、今後丹後における弥生後期の墳墓群の形成過程や墳墓群の構成、古墳時代前期の墓制への移行等で注目されることになろう。 〉 『京丹後市の考古資料』 〈 大山墳墓群(おおやまふんぼぐん) 所在地:丹後町大山小字大門 立地:竹野川下流域左岸丘陵上 時代:弥生時代後期、古墳時代前期~中期 調査年次:1981年(丹後町教委) 現状:調査範囲は消滅(工業業団地) 遣物保管:市教委 文献:B020 遺構 大山墳墓群は、竹野川下流左岸の丘陵上に位置する弥生時代後期の方形台状墓と古墳時代前期の円墳および中期の方墳から構成される。工業団地の造成に伴い1981年に発掘調査を実施した。 3~8号墓は、墳丘部と周辺に埋葬施設をもつ弥生時代後期の台状墓である、3~6号墓は方形の低墳丘を持ち、7、8号墓は舌状の台状墓である。埋葬施設は木棺29基、土壙5基、土器棺墓9基の計43基が見っかった。 このほか、古墳時代中期の方墳である1、2号墳、前期の円墳である9、10号墳も調査された。また、丘陵裾からは3~8号墓と同時期の竪穴住居なども検出されている(大山遺跡)。 遣物 3~8号墓の出土遺物には、供献された土器群と副葬された武器(鎌)、工具類(刀子、ヤリガンナ)と装身具(勾玉、管玉、小玉)がある。 土器供献は墓壙内破砕土器供献される甕、水差しが目立っが、墓壙上供献された壺、高杯、器台なども多く出土している。河内(生駒山西麗)産の胎士を持つ大型壼もある。 副葬品は、武器、工具類が中心的な埋葬施設に副葬されている場合が多い。装身具類は周辺埋葬施設にも多く見られる。 意義 大山墳基群3~8号墓の調査成果は、後期の台状墓の調査の初期の例として重要である。台状墓と供献土器および副葬品というセットは、当時、但馬地域の墓制として注目されており、丹後地域も共通の墓制を持つことが明らかになった。また、供献土器群は、近年では丹後地域の後期中葉の土器群として「大山式」の標識名で用いられている。破砕土器供献を伴う葬送儀礼、豊富な鉄製品やガラスの玉類にみられる豪華な副葬品は当時の丹後の社会状況を示す貴重な資料である。 〉 大山の小字一覧大山(おおやま)滝谷(たきだに) 城下(しろした) 桜後(さくらあと) 滝ケ尻(たきがじり) 寺大門(てらだいもん) 山嵜(やまざき) 淵ケ鼻(ふちがはな) 障子田(しょうじだ) 藤ノ木(ふじのき) 岡(おか) 稲場(いなば) 丑小谷(うしおだに) 内垣(うちがき) 風ケ鼻(かぜがはな) 立長(たてなが) 堤谷(つつみだに) 道ノ上(みちのうえ) ワミ谷(わみだに) カニタカ谷(かにたかだに) 水ケ元(みずがもと) 池内(いけうち) 南小谷(みなみおだに) 前田(まえだ) ミイノテ 宮ケ谷(みやがだに) 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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『丹後町史』 その他たくさん |
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