下常吉(しもつねよし)
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京都府京丹後市大宮町下常吉 京都府中郡大宮町下常吉 京都府中郡常吉村下常吉 |
下常吉の概要《下常吉の概要》 常吉川上流域、磯砂山(661m)の東麓に位置し、上流の上常吉に対応する。古くは恒吉とも書いた。中世の恒吉保で、室町期に見える保名。「丹後国田数帳」に「一 恒吉保 十八町一段二百九十二歩 飯尾大蔵左衛門」と見える。 近世の恒吉村は、江戸初期に見える村名。宮津藩領。「慶長郷村帳」に「恒吉村、恒吉村之内下村」と見え、その後分村して恒吉村は上常吉村、下村は下常吉村となった。 近代の常吉村は、明治22年〜昭和26年の自治体。上常吉村・下常吉村が合併して成立した。旧村名を継承した2大字を編成。村制時の2大字は大宮町の大字に継承された。 近世の下常吉村は、江戸期〜明治22年の村名。もと恒吉村のうち、江戸初期に分村独立した。網野街道に沿う街村をなす。はじめ宮津藩領、以後寛文6年幕府領、堂9年宮津藩領、天保元年宮津藩領、文政11年幕府領、天保9年より宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年常吉村の大字となる。昭和31年からは大宮町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 《下常吉の人口・世帯数》 234・69 《主な社寺など》 天神神社 菅原道真を祀る天神ではなく、豊受大神を祀る古社。集落の一番奥(磯砂山側)に鎮座。この石段をかなり登る。左の道を行けば磯砂山、笛原寺へ出る。 『大宮町誌』 〈 天神神社(元村社) 祭神 天叢雲命・相殿 大宜都姫命 明治一二年一一月の「神社明細取調書上簿下常吉村」、同一五年二月の「天神々社明細簿下常吉村」の両書によると、当地の磯砂嶽に豊宇気大神が天下り、この神の山の麓の天神谷および天神丘は神域であるので、この地に天叢雲命・大宜都姫命を祀ったとされている。長い年月の間ただ山中の小社であったが、旧社であるので明治六年二月村社となった。 天叢雲命は、上常吉の冨持神社の祭神と同じで、豊受大神であるとされ、大宜都姫命は豊受大神と同体であり、五穀豊穣の神である。 神職 今西敏男(兼)(峰山町丹波多久神社神職) 明治一七年「中郡神社明細帳」には、同一二年七月に社殿を再建したとあり、同二六年「天神神社記録帳」には、同年四月御輿を府中籠神社より新調したと記入されている。 祭日は一〇月一〇日である。籠神社より伝習したという太刀振りと御輿を奉納する。 なお、冨持神社が小字サコの地に、祭神を椎根津彦命・別雷神・天叢雲命・大宜都姫命として鎮座していたことが、前記の「明細帳」「書上簿」に明記されているが、現在は跡地をとどめていない。 〉 『中郡誌槁』 〈 (神社明細取調書上簿(下常吉村)) 一村社天神神社(鎮座字天神谷)祭神天津神(神名未詳) 由緒(上略)村老の口碑に曰く葦占の神祭に鎮作せる霊鏡今猶葦占山の麓御所見谷大木根に有り之を斎奉れと夢に告賜ふ是以今の天谷の地に宮殿を建立して鎮祭る即ち是今天神神社これなり、社殿三尺八寸五分に四尺五寸、上家三間に三間一尺、境内反別一反三畝二十二歩境外小社四座 〉 中世の下常吉城址 小字古館に石子紀伊守の居城と伝える下常吉城跡。 『大宮町誌』 〈 下常吉城 下常吉小字城山 下常吉城は足谷とつるの谷との間に突出した丘にある。地形が複雑で幾多の小段丘に分れているが大体三段に分けることができる。山頂の本丸は東西四三m、南北二二mの台地で西端に大掘り割りがあり、高さ一○m、幅二mでその土を山道が通じている。北側は高さ三○m余の絶壁をなし、東および南は二の丸に接続し段差は一○mである。二の丸は南北四○m、東西一三m、三の丸はさらにその東に続き、多くの小段丘が本丸を囲むように連なっている。各段丘は高さ五〜七mの崖で区切られ、その間を縫うように東から登り道が通じている。登り道の麓には庚申堂がある。その附近の畑を「古館(こたち)」という。城主の館があったのであろう。 城主は石子紀伊守である。 (丹後旧事記) 上常吉村 進藤山城守 同別城 石子紀伊守(以下略) (丹哥府志) 上常吉村 進藤山城城墟 下常吉 石子紀伊守 慶氏五年関ヶ原の役の時、石田三成のすすめにしたがい、福知山城主小野木縫殿介が大軍を率いて舞鶴田辺城を包囲攻撃した。これに呼応して常吉の進藤石子ら一色の浪人達は廻し文をもって浪人を集め、父の仇を報ずるのはこの時とばかり、大挙して長岡興元の峰山城を取り囲み、石子紀伊守は夜討の計をもって城に火をかけ焼き討ちをして長岡方を亡ぼした。しかし、その後関ヶ原の戦は西軍が敗れ田辺城の戦も和睦となったと聞いて石子紀伊守は失望し、二君に仕えずとそのまま行方を晦ましたという。上常吉の進藤山城守は峰山攻めの時討ち死し、その塚は常吉村居城の下にあると伝える。(丹後旧事記) 〉 日光寺跡 七仏薬師伝説の日光寺は往古当地にあった。桑東山日光寺と称する七堂伽藍の大寺であったという。 『大宮町誌』 〈 日光寺跡 上常吉小字日光寺 日光寺跡は上常吉の東方小字日光寺の谷の中程に在り小祠を建て薬師仏を祀る。今は数十坪の屋敷跡が残るだけであるが、現在なお庭の形跡もあり雑草の中に石垣石などわずかながら残っている。 「中郡一班峰山案内」 常林寺 当寺もと日光山と称して初上常吉村にあり。真言宗にして七仏楽師の一なる丸子親王の事蹟を伝ふ。後信長の為庵滅せりと言ふ。 「中郡誌稿」(実地間書) 東光山常林寺 此寺もと日光寺と称し上常吉に近き所に寺屋敷あり。村図を按ずるに上常吉村に小字日光寺あり。水の手あしき為移転し、其後再度移転して今の地に移れりと云う。今は曹洞宗なれども往昔真言宗なりしこと疑なきが如しと。此寺に七仏薬師の一あり。丸子親王の事蹟を伝ふ。 「経典寺略縁起」(宝暦二年当寺日賢記) 爰に七堂伽藍の霊場に桑東山日光寺と号す大寺あり。今に諸堂の柱石等残れり。(中略)日光寺は当山二世日観上人の時代天正五年の頃織田信長公の山陰順討の砌、領主を始め日光寺一山の大衆松永久秀に属して一戦に及び戦火にあって焼失す。 右によると桑東山日光寺は真言宗の大寺であったが、天正五年の頃、領主も日光寺の僧らも松永久秀の方に加わり、織田病長方の軍のために日光寺は焼失した。その後の日光寺は水の便が悪かったので再度移転して下常吉の常林寺となり、真言宗を改宗して曹洞宗となり現在にいたったという。 日光寺の大寺であったことは 「丹後雑史」に「人王九十五代後醍醐帝元亨年中記事」(成相寺にあり) 一、大聖院 毎年千部経修すと 寺跡今海辺薮屋敷に属しあり(中略) 縁城寺癸枳山 大悲寺生野内 日光寺常吉 善城寺小西(中略) 右の通にて僧徒相勤むと見たり。成相寺は例年不欠勤むとあり。大谷寺も同じ。按、善城寺は禅定寺なり。当時縁城寺日光寺禅定寺田原寺等厳存したるを証すべし。今七堂伽藍の口碑あるも尤なり。(中部誌碕補遺による) とあるように、日光寺は元亨年間においては千部経を修する有名な大寺であった。礎石等今は残らぬので規模は不明であるが大寺であったことは確かであろう。 次に七仏薬師の一として丸子親王の事蹟を伝うとあるが、大宮町においては上常吉の日光寺、延利の駒返しの滝、善王寺の三要寺および三坂の干塩大明神(「祭神は皇子の弟塩干ならむ」)(丹哥府志志))の四ヶ所に丸子親王伝説は附随している。丸子親王は所により麻呂子親王毬子親王金丸親王等ともいわれている。親王は用明天皇の皇子で聖徳太子の異母弟にあたり、親王の創設された大和の国の大麻寺は中将姫の当麻曼荼羅で有名である。親王は勅命により丹後丹波地方の兇賊退治をされた英雄として語られ、兇賊征伐の後かねての起請に基づいて創立されたのが所謂七仏薬師であるという。 舞鶴市多祢寺所蔵の「多祢寺縁起」に記載されている七仏薬師は、第一加悦荘施薬寺、第二河守荘清園寺、第三竹野郡元興寺、第四竹野郡神宮寺、第五溝谷荘等楽寺、第六宿野荘成願寺、第七加佐郡多祢寺の七ヶ寺である。しかし、同寺所蔵の「七仏薬師の額」には、他の薬師は同じであるが、第六番の薬師として「法界勝慧遊戯神通如来 常吉村日光寺」と記されている。「多祢寺縁起」の書かれたのは享保二年(一七一七)であり、七仏薬師の「額」の年次は弘化二年(一八四五)である。したがって両者所伝を異にするのは、元から異説があったのか、あるいは年代を経る間に変ったからであろう。しかし、ともあれ日光寺が七仏薬師の一に数えられる程由緒ある大寺であったことは明らかである。この伝説は丹波丹後に広く存在し、寺社の創立あるいは名家の始祖や家宝の所縁として物語られている。中には金鶏塚の埋宝伝説にも関係があると言い、また、大江山鬼退治伝説とも関連すると言われている。 以上のように日光寺は元亨の昔からあった大寺であるので、この金鶏伝説が付随して語られているらしく、近頃日光寺跡附近の椿の木の根本に金鶏が埋められている等言って、学生が探索に来るというのはこの伝説によってであろう。 〉 曹洞宗東光山常林寺 曹洞宗常林寺があり、天和二年(一六八二)の丹後国寺社帳に寺名がみえ、七仏薬師を蔵すと伝える。 『大宮町誌』 〈 東光山常林寺 曹洞宗(永平寺) 下常吉小字サコ 本尊 釈迦牟尼仏 当寺は「中郡誌稿」に「此寺モト日光寺ト称シ上常吉村ニ近キ所ニ寺屋赦アリ村図ヲ按スルニ上常吉村ニ小字日光寺アリ水ノ手アンキ為メ移転シ其後再度移転シテ今ノ地ニ移レリト云今ハ曹洞宗ナレドモ往昔真言宗ナリシコト疑ナキガ加シト此寺ニ七仏薬師ノ一アリ丸子親王ノ事跡ヲ伝フ」とある。 日光寺が常吉の古刹であったことは、成相寺の古文書「元享年中記事」に「日光寺常吉」とあり、(峰山郷土史)舞鶴市多祢寺の弘化二年(一八四五)の七仏薬師縁起(額)(「丹後の仏教文化)」には「常吉村日光寺」の名があって、七仏薬師の伝承をもつ寺とされているが、常林寺がもと日光寺と称していたことは明らかでない。 寺伝によると、当寺の開山は曹洞宗宗曇和尚で寛文七年(一六六七)に入寂している。 宝永七年(一七一○)の冬、小字毘沙門より現在地に移り、二年後の正徳二年(一七一二)に、庫裡・本堂を再築、享保三年(一七一八)山号を東光山と改称している。 明治一○年六月二八日、民家からの類焼により堂宇ことごとく焼失し、寺宝・古記録も失う。同一四年三月二六日に庫裡を新築し、一八年三月一○日本堂を再建し現在に至る。 内陣に観音菩薩と薬師如来を安置している。 現住職 西村巌泉 大正七年三月に裏山に八八体の地蔵尊を祀り、八八ヶ所巡りと称して尊崇する。 〉 『中郡誌槁』 〈 (丹哥府志)上(下カ)常吉村東光山常林寺曹洞宗 (実地聞書)此寺もと日光寺と称し上常吉村に近き所に寺屋敷あり村図を按するに上常吉村に小字日光寺あり 水の手あしき為め移転し其後再度移転して今の地に移れりと云今は曹洞宗なれども往昔真言宗なりしこと疑なきが如しと此寺に七仏薬師の一あり丸子親王の事績を伝ふ (因に云下常吉村経典寺略縁起中に桑東山日光寺の事を述ぶる事左の如し) (経典寺略縁起)爰に七堂伽藍の霊場に桑東山日光寺と号す大寺あり(今に諸堂の柱石等残りあり…)亦向山に貝谷とて深谷あり是れ則桑東山の奥院にて本尊は運啓(慶カ)作の不動の小尊御座しける日光寺廃跡(信長の時)当山三祖覚学院日理上人真言を改め法華経を以て開眼あり又堂の後に一ツの大石あり是に理師自ら首題の七字を刻付長く当寺の別院とし云々 〉 《交通》 《産業》 下常吉の主な歴史記録『丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』〈 丹波郡大野郷 一 恒吉保 十八町一段二百九十二歩 飯尾大蔵左衛門 〉 『丹哥府志』 〈 ◎下常吉村(奥大野村の次) 【天満宮】(祭八月廿五日) 【東光山常林寺】(曹洞宗) 【石子紀伊城墟】 〉 下常吉の小字一覧野引 前田 紙屋 小谷 家の奥 中縄手 細谷 加茂 坂谷 宇ヤ 下谷口 下谷 中谷 赤尾 馬乗 野田 寺の下 サコ 宮ノ下 天谷 大谷口 大谷 夏谷 ビシャ門 足谷 城山下 城山 風呂屋谷 谷 安田 貝谷 日光寺 サイ谷 イマヘ 宮谷 車谷 車口 大倉口 野々下 四反田 綿坪(わたがつぼ) 天神谷口 芦谷 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『大宮町誌』 その他たくさん |
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