旧・下宇川村(しもうかわ)
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京都府京丹後市丹後町尾和・中浜・久僧・上山・谷内・上野・袖志 京都府竹野郡丹後町尾和・中浜・久僧・上山・谷内・上野・袖志 京都府竹野郡下宇川村 |
旧・下宇川村の概要《旧・下宇川村の概要》 下宇川村は、明治22年~昭和30年の竹野郡の自治体。尾和・中浜・久僧・上山・谷内・上野・袖志の7ヶ村が合併して成立した。旧村名を継承した7大字を編成。村名には中世以来の地名宇川を採用し、同時に発足した西部の上宇川村と区別するため下宇川村とした。村役場を中浜に、下宇川小学校を久憎に設置した。 近畿地方の最北端で、昭和36年に丹後半島一周道路(今の国道178号線)開通までは「陸の孤島」であった。昭和30年丹後町の一部となり、村制時の7大字は丹後町の大字に継承された。 旧・下宇川村の主な歴史記録『丹後国竹野郡誌』 〈 (一)沿革 本村は字中浜、袖志、久僧、上野、谷内、上山、尾和よりなり、廣袤東西二里十二町南北一里十六町面積一方里○九一にして耕地百九十五町山林其他三百五十一町七反念大正三年末現在の戸数五百十四之を職業別に区分すれば、農業二百四十九、漁業百五十八、工業六十、商業及交通業二十七、其他の諸業二十にして人口三千二十四人なり、維新前は幕府直轄地にして久美浜代官所に属し旧時の石高千百九十一石四升九合なり (和名抄) 竹野郡小野郷 (丹後旧事記)小 野 (丹哥府志)宇川の庄 與謝郡筒川の庄の西にあり 袖志村 筒川の庄蒲入の西 尾和村 袖志村の次 中浜村 尾和村の次 久僧村 中浜村の次 上野村 久僧村の次 倉内村 久僧より南へ入る 上山村 倉内村の奥山の半腹に在り是より碇峠を趣て菅野谷へ出る又野間の庄吉野村へ 出て金剛童子の道あり又三山村へ出る道あり 按 谷内村はなくして倉内村(久僧より南へ入る)とあり 谷内村の谷を倉に書き誤りたるならん (大日本地名辞書)竹野郷の東にして一境をなし與謝郡日置郷の西とす、宇川は水名にして又村名なり、今上字川下宇川の二に分れ其源頭なる野間村は與謝郡に属す、 (下字川村誌稿)天正六戊寅年細川藤孝丹後守に封ぜられ一色氏を滅し之を領す、慶長五庚子十二月藤孝の子忠興豊前国小倉へ移封し京極高知之に代る、寛永二乙丑年京極高廣父高知の遺令を以て新城を宮津に築き高七万三千石を領す、寛文六丙午年京極高国故ありて所領を没収せられ在善所となる、同年代官藤林市兵衛猪塚次郎兵衛中村杢右衛門の支配となる、同九年巳酉五月六回永井右京太夫尚征に属す、延宝八申年所領を没収せられ在善所となる、代官小野長左衛門支配となり、天和元辛酉年阿部対馬守之を領す、同十年丁丑五月安部氏下野国宇都宮へ移り奥平大膳太夫之に代る、享保二丁酉年奥平氏豊前国中津へ移り代て徳川氏の領となる、役所を久美浜に設け代官久下藤十郎上林久兵衛飯塚孫次郎支配となり、其後代々の代官坂川彦右衛門奥津甚右衛門伊藤源之丞神戸藤七郎鈴木九太夫玉虫佐兵衛小泉市太夫海上彌兵衛以下二十七人を経て明治元年久美浜県に属し当時県庁よりの距離拾四里十五町拾間当時郡に大郷長中郷長あり、上下宇川を一区とし区長を置く、各村庄屋を村吏と称す、明治四年十一月豊岡県管轄となり、第十大区の内第六小区たり、各小区には戸長副戸長を置く、全九年二小区毎に戸長を置き翌十年に至り京都府に属し各小区に区長を置かる、 … (京都府漁業誌) 袖志部落は応永手間の頃には戸数二十余戸にして農業を営み居りしものゝ如し採藻業は天正年代より従事し居りしものならん元禄年間嘉兵衛なる者主唱者となり婦女七八人男子五六人を以て一団隊を組織し漁船に乗り他国の沿岸に出漁し婦女を海中に潜入せしめ海藻類を試採せしめしに収獲多く好結果を得しを以て部落のもの皆之れに倣ひ盛に出漁する事となり当部落の婦人始んど乙に従事せざるものなきに至り現今西は因幡国より東は越前国に及び沿岸の採藻は殆んど当部落専有の如き盛況に達せり享保年間の頃近村より漁業を見習ひ延縄漁業を開始し寛保年間部落共同にて越中綱を設置したりしかち好漁場ならず其後探藻業の外他漁をなさざりが文久二年間人村より漁夫を雇ひ部落共同にて漁具を新調し使用したるに成績良好なりしを以て継続して従事し居れり 中浜部落は文亀の頃迄は二三十戸なりしが永正の頃若狭国日向村の漁夫此地に来り試漁したるに好結果を得しを以て大永の頃三十余戸此地に移住し来たり後漸々戸数増加し今日に至れり当時は延縄漁を主とし傍ら磯窺業及僅かに畑の耕作にて生計を営み居たり慶長年間の頃は宮津領に属し当時漁業は竹野郡中最も盛んにして漁具漁法に於ても近部落中比敵するものなかりしが如し元和の鱈、つのし、鱶等の漁獲多くシイラ漬漁業は朋暦万治の項盛なりし鰈漁業は永禄の頃より鱈漁業は遠く大永の初年若狭日向浦の移住者之を創め永録慶長元和の頃尤も盛んに水窺鏡漁は永禄の頃始まりし如く伝へらるれど其以前より行はれ居りしものならん 久僧部落は六百年以前(負治年間)は今の部蒋より三丁余南方に当る字池田及池上と称する山間に百余戸散在し農業を営み居りしと其後永禄年間頃大暴風雨ありて附近の山谷崩れ部落の過半は土壌の為埋没し家屋を倒し人畜に害を及ぼし惨状見る影もなきに至りしを以て字小谷と称する地に移転し(小谷は現今部落の西南丁余の所)農業の傍ら海藻を採り居りしが漸時海浜の便なるそ感じ現在の地に移住するに至れり(今小谷を姓とする者は多く以前小谷より移住し来りしものなり〉永禄年間頃より漁業を営むもの多くなりしものゝ如し 上野部落は今を去る七百年前は戸数三十余戸にして現今の場所に於て農業に従事し居りしが其後漸時戸数の増加するに伴ひ土地の狭少となり天正年間頃一半は字車野に分離し移住するに至りしなりと口碑に伝はれり漁業は享保十七年に字上野の半左衛門文右衛門の両氏漁業の必要なるを説き奨励せり宝暦三年上野村多兵衛(佐々木氏の祖)宇川に鮎の多く游泳するど見之が漁獲方法を熱心に研究し捕獲し始めたりこれを淡水漁業の開祖とす 〉 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『丹後町史』 その他たくさん |
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