途中ヶ丘遺跡
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京都府京丹後市峰山町長岡 京都府中郡峰山町長岡 京都府中郡長善村長岡 |
途中ヶ丘遺跡の概要《途中ヶ丘遺跡の概要》 途中ヶ丘遺跡は、今は途中ヶ丘運動公園のある丘である。北から南を向いて写す。↓埋め戻されて、今は何もない。 案内板には、 途中ヶ丘遺跡 鱒留川をのぞむこの台地は、弥生時代前期中頃から後期にいたる環濠をめくらせた集落跡です。昭和47年以来、10次にわたり発掘調査を行い、環濠、建物跡、土こうなどが確認され、多量の遺物が出土しました。 集落を囲む∨字形や∪字形をした壕は、人口が増えるに従い外側へ新しく、規模を大きくして掘り直されてあり、合計8本の濠が確認されました。 出土遺物は、弥生土器、石器、木器、ガラス製管玉、土製品(陶けん・紡錘車・人形)、鉄製品(鉄斧・銑鏃)、玉造り関係資材などの多種多様で、扇谷遺跡とともに丹後地域を代表する弥生時代の遺跡です。京丹後市教育委員会 復元建物かと思いきや、そうした風の遊戯用の建物のよう… 竹野川支流鱒留川下流右岸に突き出た丘陵および低位の河岸段巨の舌状丘陵地を途中ヶ丘と呼び、花崗岩を基盤としている。 上流に磯砂山や久次山をもつ鱒留の谷間が中郡平野に出る最後の右岸側の山地になる。左岸側が扇谷遺跡である。 遺跡地は東西約250メートル、南北約300メートルの広さで、丘陵頂は標高51メートル。丘陵の最も平野部に向いた東南隅に中世の途中山竹林寺があったと伝える。発堀調査は昭和47以降、10次にわたって実施された。 環濠集落として知られるように、おもな遺構は遺跡地を巡る大小の溝状遺構と、住居跡を推定させる多数の柱穴跡。遺跡地全域からは、弥生前期から後期までの土器、および数少ないが中世までの出土品がある。これら遺物の出土状態から、弥生前期から後期にかけての集落が推定されている。 おもな遺物は縄文式土器(早期、楕円押型文一点)、弥生式土器(前−後期)、土師器、須恵器、石器(石鏃・石斧・石包丁・石匙・石製のみ・石槍・砥石・剥片石器)、鉄器(鉄刀・鉄斧・鉄滓)、木器片など。鉄斧は丹後で初見で、全国的にも数少ない遺物である。 調査以前に発見された約1万年前と推定される有舌尖頭器。→ 途中ヶ丘遺跡は縄文早期からの遺跡かも知れない。 山口県綾羅木郷遺跡に次いで4番日の出土といわれる陶?(土笛)が弥生中期の溝から発見されている。↓ ←途中ヶ丘遺跡出土の陶?(一番右は扇谷遺跡出土品) こんなものも。人面土器↓ 途中ヶ丘遺跡の主な歴史記録『丹後の弥生王墓と巨大古墳』(図も) 〈 途中ヶ丘遺跡 竹野川の支流、鱒留川右岸の段丘上に位置する。段丘前面は旧鱒留川により抉られて急勾配になり、遺跡地の東西には谷が入り込む。発掘調査によって前期後半から後期末までの集落遺跡であることが確認されている。 図1−2の細かい網目が前・中期の環濠で、粗い網目が後期の環濠推定域である。各環濠の機能時期は明確にできないが、多重環濠である可能性が高い。前・中期の溝は総じて小さく、断面V字形で大きなものでも幅二メートル、深さ一メートルほどで、それに比して後期のものは総じて大きく、断面が逆台形のものがみられ、大きなもので幅四メートル、深さ一メートルほどで囲繞範囲も広くなる。環濠内縁の面積は、北側の段丘落ち、西側の谷部を境として、前・中期は約一・一へクタール、後期が約二・七へクタールである。 建物跡としては、調査担当者のご教示によると、柱痕跡が三○〜四○センチを測る掘立柱建物跡が三棟ほど検出されており、時期は明らかではないが、これらの中には、前期ないしは中期の埋没した環濠上面から掘り込まれたものがある。独立棟持柱はないようであるが、注目される遺構である。 遺物は鉄鏃二点(後期)、鉄斧一点(時期不明)、玉作り関連遺物などが注目される。 〉 『古代への旅−丹後』 〈 途中ヶ丘遺跡 峰山町新治・長岡 現在の途中ケ丘公園のある台地上に位置する九万平方メートルに及ぶ大遺跡で、一九七二年以来一〇次にわたる発掘調査により、弥生時代前期中頃から後期にかけての環濠をめぐらせた集落跡と判明した。環濠は集落を囲みV字形やU字形をしており、ムラの人口がふえるに伴い外側に堀り直されており、合計八本が見つかった。出土遺物は、各種の弥生土器、石鏃・石斧・石錘などの石器類、木器、ガラス製玉類、土製品(陶けん・紡錘車・人形・土錘など)、鉄斧、玉作り関係の資材など多種多様であった。 〉 『丹後文化圏』 〈 〜丹後の古代文化を尋ねて〜 峰山途中ヶ丘遺跡について 坪 倉 利 正 途中ケ丘遺跡には、いろいろの伝承が語り伝えられているが、その一つに「途中ケ丘の上に途中山竹林寺という大伽藍があり、境内の鐘楼の鐘を小僧が毎日撞いていた。ところが或日、鐘を撞きに出た小僧が忽然と消えるという事件が二度三度と続いた。和尚はこの不可解な事件を解明するため一計を案じた。夕刻、鐘を撞きに出る小僧の形の藁人形を作り、その中に火薬を仕込んで犯人の現われるのを待った。やがて小僧の失院した時刻になると、一天にわかに曇り七色の雲と共に一匹の大蛇が現われ、一呑みに藁人形を呑み込んでしまった。と、同時に大きな破裂音がし、正体を現わした大蛇はあたりをのたうちまわり、何処かに姿を消してしまった。数日して長岡の里人が山仕事で宮ヶ谷に入ろうとすると、入口の溜池に腹を裂かれて長々と池に浮かんでいる大蛇を見た。長岡の里人は後難を恐れて、大蛇の死体を近くの山に丁重に葬ると共に、谷の入口に祠を建てて紀った。」という。 例祭は9月15日であるが、昭和5年に氏神である八幡神社に祠を移し「山ノ口社」として現存している。また、小字「途中岡」付近には「本堂屋敷」、「弁天」、「地蔵前」、「蛇池」等の小字名が残っており、「弁天」には昭和初期まで弁財天を祀った祠が残っていた(現在八幡神社に合祀)。こうみてくると「途中山竹林寺」は相当の伽藍であったことがわかる。しかし現存する字金田は「金田千軒」の伝説があったにしてはあまりにも地理的位置に恵まれていない。北側を東流する鱒留川の氾濫と、金田東部馬場地域が、江戸末期から明治時代にかけて開削され水田化されたことを考えると、それ以前に農業を主体とした大集落が存在したとは考えられない。 鱒留川の流域には、井堰・井溝が多くつくられ、そのため流域民の間には、度重なる水論争が起こっている。「峯山明細記」には、徳川時代の長岡村に「用水・井堰懸り8ケ所」あり、そのうち「二箇村地内字松原に当村井堰1 ケ所あり、溝の長さは15町7間、井口から村地内まで幅4間、又3間の所あり」と記している。また途中ヶ丘の西方、二箇と新治の村境「上川原に井堰があり溝の長さ864間程、幅2間程」と記されている。以後、水論争の資料は絶えない。なお古老の伝えによると、明治中期頃、途中ヶ丘が陸軍の練兵場の候補地になっていたという。この遺跡地は、約90、000uで一寸狭かったようだ。その時、練兵場になっていたなら、当時は発掘されないから…と思うと、空恐ろしい。しかし、明治・大正期に開墾が続けられ、桑・茶を栽培していたが発掘前は畑地となり、主に野菜が作られていた。特に「長岡あずき」は有名であった。また、雉子の棲息地としても知られていた。 ◎調査経過の概略 発掘調査は昭和47年8月の第1次調査から、昭和50年8月の第4次調査までの継続事業として4回にわたって実施した。調査の経過と内容を略しては意味がないが、ここでは途中ヶ丘遺跡の出土の紹介で終えることにする。従って詳細は報告書を読んで頂きたい。 ◎調査結果の概略 途中ヶ丘の台地を覆う地層の基本形は耕土・黄褐色地山の部分と、耕土・黒褐色と黄褐色地山の2類型があり、概して地山の凹部に黒褐色土が厚く堆積し遺物包含層を形成していた。この台地と鱒留川にはさまれる沖積部は耕土下に厚い砂の堆積層があり、鱒留川による氾濫堆積の様相を示している。 4次にわたり多数の遺構が検出されたが、途中ケ丘が遺跡地であることは、昭和25年から30年にかけて、地元の高校生が石鏃、弥生土器片を畑で拾って時々持ってくるようになり注目していた。峰山高校郷土史研究会では小字地を通称「三軒屋」と呼んでいたので三軒屋遺跡として、クラブ活動では雨後を利用して表面採集をやっていた。石鏃は平・凹・凸基無茎式、凸器有基式のものや黒耀石の石屑も少量採集していた。そして昭和30年6月30日、サヌカイト製の有舌尖頭器が採集された。1万2千年前の有舌尖頭器は以後凡ゆる時に引用される。その後、発見された熊野郡市野々、舞鶴市小橋の有舌尖頭器と共に有名になる。その後、開発による発掘調査が昭和47年8月から50年8月まで4次にわたって行われた。その間、陶ケン2点の出土は全国的に注目された。時は昭和50年7月24日であった。山口県綾羅木遣跡出土の陶ケンと余りにもよく似ていることは、大陸文化が日本海沿岸を北上したことを物語る貴重な資料で、有舌尖頭器と共に途中ヶ丘は考古学会から注目された。陶ケンの源流は、中国古代の「陶ケン」にその形と音孔の状況が酷似している。 陶ケンはその後、峰山町扇谷遺跡と竹野遺跡からも出土し、その後、丹後で貴重な出土品が増えてくる度に丹後は注目され、岩滝町大風呂南墳墓郡出土の美しいガラス釧等、次々と話題となる遺跡が発見され、かつての表玄関としての日本海沿岸に連なる丹後地方は益々注目されることだろう。(報告書は大冊のものが発行されている。) 〉 『京丹後市の考古資料』 〈 途中ケ丘追跡(とちゅうがおかいせき) 所在地:峰山町新治、長岡小字途中岡 立 地:竹野川中流域、支流鱒留川右岸段丘上 時 代:弥生時代前期〜後期 調査年次:1972〜75年(峰両町教委) 1975年(丹後郷土資料館) 1977、79、88〜90年(峰山町教委) 現 状:一部盛土保存(途中ヶ丘運動公園) 遣物保管:市教委、丹後郷土資料館 文 献:B004、B006、B12、C043、F020、F053、 GO54 遺構 途中ヶ丘遺跡は、鱒留川に接する北向きの段丘上に立地する(巻頭図版3−1)。南東隅に高台状の丘陵部を持ち、南から北へなだらかに傾斜し、西半部は台地状の縁辺に至る。中央よりやや東の部分では南北方向に水脈が確認されており、旧地形では中央部分から北に向かい窪地状の谷筋が存在していたと推定される。 1949年、峰山高校郷土史研究会により遺物の表採が確認され、「三軒屋遺跡」として報告されたのが初見となる。続いて1950〜55年にかけ継続的に表面採集が行われ、弥生時代前期、中期の特徴を持つ壺や刻み目文を持つもの、体部に沈線を施した甕、蛤刃石斧、石包丁、石鏃や、サヌカイト製の有舌尖頭器などの表採遺物が知られるようになった。 その後、1972〜77年にかけ、バイパス整備、ほ場整備などに伴い発掘調査が実施され、弥生時代前期末〜後期を中心とした溝状遺構、住居跡、柱穴、ピットなどが検出され、多重の環濠を持つ集落遺跡であることが判明した。 溝状遺構は、報告されているもので前期のもの2条、中期のもの5条、後期のもの4条がある。前期・中期の溝は、台地状北西部を中心として弧を描くように造られ、それぞれの溝はほぼ平行している。いずれも規模は小さいもののいわゆる環濠と推定される。前期・中期の環濠は幅1〜2m程度、断面X、U字型であるのに対し、後期の環濠は幅4mの断面箱型を呈す。また後期の溝は、前期、中期の溝の弧の外側に造られており、環濠の規模が拡大したことが推定される。また環濠の中には、濠底部に小さな溝を持っもの、段を持つものが見られる。 また、1988〜91年の運動公園整備に伴う調査では、台地状地形の広い部分で溝状遺構、住居跡、柱穴、多数のピットなどを検出し、遺跡南部のやや小高い場所の土壙から、多量の弥生土器と石斧、石鏃、大型石包丁などが出上しているとされる。 遺物 出十遺物には、弥生土器、土製品、石製品、鉄製品、木製品、ガラス製品、玉作り関係遣物など多種多様である。 弥生土器は、第T様式からX様式に比定される土器が出土するが、後期前葉の遺物は目に付かない。弥生時代前期、第T様式の特徴を持つものでは、壷の頸部のなめらかな曲線、口縁端部に施される沈線文、頸部沈線の多条化などの特徴をもち、頸部に2帯の刻み目文突帯を施すものが多く、胴部に貝殻羽状文を施すものがある。数は少ないが、口縁内部に突帯を持つものも見られる。甕は口縁端部に刻み目文を施すものが約半数あり、胴部に沈線文を多条化、沈線文と竹管文を施したものが目立つ。 弥生時代中期、第V様式の特徴を持つ壺には、突帯文が頸部に用いられ、櫛描文が口縁内面及び胴部に用いられるものがある。口緑内面には8種の文様が施されるが、半同心円文が最も多い。また口緑部が水平に伸びておわる高杯がある。第W様式の壷は、頸部に強いヨコナデを加えた凹線文を施す。内面をわずかに加飾するが、扇形文が増加する。 弥生時代後期、第X様式の段階では、器台、台付鉢などが出現し、それらほとんどの器種で二重口縁をもつものが現れる。また壷、甕の口緑端部に擬凹線を施すものがある。 土器の一部は胎土の組成分析が行われている。T様式の特徴を示すものはまとまった分析値を示すが、V様式の特徴を示す一群はケイ酸塩類、酸化アルミニウムなどの分析値が多様であることが判明している。中期段階では、それまでと異質の粘土や土器製作手法との接触の可能性があり、他地域との交流、交易による土器の搬入が示唆されている。 鉄器は、耳付鉄斧がある。長4.6pを測り、左右に折り曲げた状態の耳が付く。内面上部に木質部らしきものがある。さらに、有茎柳葉式鉄鏃が1点ある。長7.6cmを測り、断面レンズ状を呈する。 石製品は、北西部から集中して出土する傾向を示す。石鏃、石槍、石錐、石のみ、石包丁、刃器、石錘、打製石斧、磨製石斧、砥石、磨石、敲石、くぼみ石などがある。石斧の中には「大型石包丁」に類する、大形で扁平な身に両刃を付した石器が多く見られる。 玉作り関連遺物には、碧玉、緑色凝灰岩の原石、剥片、管玉未製品などが出土している。また鉄石英の石のみや、砥石の中に筋状に溝が残るものがあり、これらは玉類の研磨に使われたものである可能性が ある。 土製品では、陶ケン2点および人面土器が出土している (巻頭図版2−3、2−5)。陶ケンのうち一つは、前期の溝内から出上したもので、ヘラ描沈線と楕円形刺突文が施された甕片が共伴しており、前期末のものと判断されている。吹口孔の大半を欠損しているが現存高6.2cmを測り、全面に4つの音孔、背面に2つの音孔痕をもっ。吹口に平坦面がなく、音孔が大きい。人面土器は、ゴルフボール大の頭部であり、目、鼻、口の表現がある。 意義 途中ヶ丘遺跡は、弥生時代前期から後期にかけ営まれた環濠集落である。環濠の位置と石器の出土かに想定すると、西北部が集落の中心であり、集落の規模は中期、後期と拡大していったと見られる。 出土した弥生土器は、第T〜X様式に比定されるが、第U、W様式、X様式前半のものが少ない。土器の出土量から見ると集落の人口はやや流動的である。また、約2.5q離れたU様式を中心とする扇谷遺跡とは、土器の胎土などに共通する要素もあり、関連が想定されている。また、玉作り関連遺物、陶ケンの出土、搬入土器の存在など、他の地域との交流、交易を行っていた様子がうかがわれる。丹後地域では、唯一の前期〜後期まで営まれた集落であり、竹野川中流域の拠点集落と評価できる。 〉 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『峰山郷土志』 その他たくさん |
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