丹後の地名

徳光(とくみつ)
京丹後市丹後町徳光


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京都府京丹後市丹後町徳光

京都府竹野郡丹後町徳光

京都府竹野郡豊栄村徳光

京都府竹野郡徳光村徳光

徳光の概要




《徳光の概要》

間人の南側で、竹野川支流の徳良川流域に位置する。徳良川北岸の南面する山際に集落が立地、対岸の山を越えて竹野川流域に枝郷・西小田(にしこだ)の集落がある。

中世の徳光保で、室町期に見える保名。「丹後国田数帳」に「一 徳光保 十一町二段二百十六歩 後藤次良左衛門」と見える。「丹後御檀家帳」には「一 とくみつ 家百五拾斗」のほか、「一 とくみつのよし里」「とくみつの高山」「にしこ田」が見える。「よし里」「高山」も徳光の内であったらしいが、この地名は遺存しない。「よし里」は丹後国田数帳に「吉里保 廿九町三百五拾四歩 細川讃州」とみえて、同一の地と推定されるが確定はしがたい。
近世の徳光村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、享保2年幕府領、宝暦9年宮津藩領となる。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年徳光村の大字となる。
近代の徳光村は、明治22年~大正14年の竹野郡の自治体名。徳光・三宅・成願寺・大山の4か村が合併して成立。旧村名を継承した4大字を編成。大正14年豊栄村の一部となる。徳光村の4大字は豊栄村の大字に継承された。
徳光は、明治22年~現在の大字名。はじめ徳光村、大正14年豊栄村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《徳光の人口・世帯数》 400・121

《主な社寺など》
高山12号墳↓
高山12号墳(徳光)

高山12号墳(徳光)
高山12号墳出土「双龍環頭太刀頭」」徳光の北側の裏山になる、徳光集落の一番奥の農道から行ける。
高山古墳群は、国営農地開発事業に伴い発掘調査され、13基の円墳で構成されている。なかでも12号墳は、直径18メートル、石室全長12.15メートルを測る。
今は羨道も石室も半分ほど埋められている。
この長い石室を持つ12号墳出土のものだが、形がよくわからない、子持ちの龍が二頭向き合っているのだろうか。双龍鳳環式と呼ばれる型式のようだが、湯舟坂2号墳のものよりは、新しく、何を作っているのか理解してないような、龍を知らなかったような工人の製作になる様式化してかなりの退化がみられるよう。大和朝廷の下賜品だとも言われるが、どうか。
現地の案内板

現地の案内板

『東大寺献物帳』に「高麗様大刀」と記されるように、当時、新式の「唐様大刀・唐大刀」、カラタチに対して、朝鮮半島に源流のある古式外装の大刀とみなされていたそうで、コマタチと呼ばれ元々はあちらから伝わったともの。三坂神社3号墳の素環頭太刀
古い素環頭太刀が三坂(→)や左坂墳墓群(大宮町)やオテジ谷古墳(和田野坂野)から出土している。ワッカの付いた刀がそうである。
三坂・左坂は、1世紀末というが、大和にも京にもこうした古いものはなく、これなら朝鮮製で、「大和朝廷よりの下賜品」などと確かめもしないですぐ言いたがる人たちの言葉を借りれば「朝鮮朝廷よりの下賜品」それはないから「楽浪郡からの下賜品」であろうことになる。
しかし一般にはそうは認めずに「北九州で30例ほど発見されているから、そこからの二次的に入手した」というのである。丹後がチョクに朝鮮(中国)と繋がっていたかも知れないことを示す貴重な太刀であり、一般に丹後王国を見ていく場合は皇国史観はハナから脱ぎ捨てて考えていかないととんでもない間違いをしそうな王国であることを考古学的にはこうして早くから主張しているのだが、そうした歴史哲学上の課題はまだまだ依然として残されたままのように思われる。この時代の丹後は対外的に北九州的で、京丹後でなく、北九州丹後、楽浪丹後であったのかも、丹後人の意識の大変革が求めらてくる遺物かと思われる。
高山古墳のものはずっと時代が下り、これは大和の「優秀な技術」で7世紀初めごろに作られたものかも知れない…
楽浪郡は漢の四郡の一つで今の平壌(ピョンヤン)あたりにあった。
高山古墳群


春日神社

『丹後国竹野郡誌』
 〈 春日神社 村社  字徳光小字奥山鎮座
(神社明細帳) 祭神 天児屋根命
 創立不詳、安永六丁酉年九月再建、明治四年五月村社に列せらる
 一社 殿 梁行 五尺一寸 桁行 五尺二寸
 一上 屋 仝  二間半  仝 三間半
 一籠 屋 仝  二間半  仝 六 間
 一境内坪数  千九百十七坪
 一氏  手  百 十 五 戸
  境 内 神 社
   稲荷神社 祭神 倉稲魂神
    創立不詳、文化十一甲戌年再建  〉 

『丹後町史』
 〈 春日神社  徳光奥山
天児屋根命を祭る。
徳光村の守護神として祀られ竹野神社につぐ境内である。
安永丁酉年九月再建、明治四年五月村社となる。
境内には稲荷神社(倉稲魂神)がある。  〉 


曹洞宗大良山徳雲寺
徳雲寺(徳光)
昭和37年網野町尾坂が廃村となった際、観音堂に安置されていた鎌倉期の薬師如来坐像・室町期の聖観音像を合祀している。
もともとはこの背後の山に真言宗の鷲尾山尾坂寺という七堂伽藍を備えた大寺があった、そこの本尊であったもの。田数帳にも見えるが、「丹後国御檀家帳」には、
一、おさか寺  中の坊大なる城主なり国のゆみやとり也此人おはつをの外に御月参のふせとて毎月壱貫弐百文つゝ御まいらせ侯
鉄砲武装の僧兵も擁していたようである。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 徳運寺 曹洞宗  字徳光にあり
 (丹哥府志) 太良山徳運寺 曹洞宗
 (同寺調査書) 太良山徳運寺と称し貞享三丙寅年三月開創宮津智源寺二世橘洲宗曇大和尚を開山とす、文政年間焼失天保二年再建す  〉 

『丹後町史』
 〈 大良山 徳運寺
曹洞宗で貞享三丙寅年(一六八六)三月創建。宮津智源寺二世橘州宗曇和尚を開祖とし、文政年間に焼失し、天保二年(一八三一)再建。現在の庫裡は昭和十一年に再建。現住職は二十一代村瀬道雄師である。檀家は約一三〇戸。
本尊、虚空蔵菩薩
境内仏堂として釈迦堂がある。昭和十一年七月建立、三間四方、釈迦牟尼如来を祀る。
当地出身永島雄治氏がシャム国から、佛像をもち帰り郷土菩提寺に献納、同時にお堂も建立した。
なお、昭和三十七年から尾坂寺の観音堂の本尊、聖観世音普薩が本堂に合祀されている。
本尊聖観世音菩薩
境外仏堂として、字橋本に放光庵(本尊、薬師如来立像)がある。  〉 


曹洞宗本橋山宝光寺(廃寺)

『丹後国竹野郡誌』
 〈 放光寺 曹洞宗  字橋本にあり
 (同寺調文書) 本橋山放光寺と称し本尊は薬師如来の立像を安置す、明暦三甲寅年永嶋家元祖の開基なり往昔は寶光寺と称へしが中途放光寺と称ふるに至れり、
 什寶
 銘 奉掛鰐口壹ケ薬師御寶前本橋山寶光寺
   施主長嶋九右衛門敬白
   住大佛天下一西村左近作
(永嶋米治氏系図抜萃) 姓は源氏二十二代国信永正四年丹後に来り一色氏と戦ひ敗れて民間に下り、孫国好天正年間徳光に移る、現代米治は仝家第三十六代なり
古 碑 字橋本小字新田にあり稀に見る大碑なり

 南無阿弥陀仏
  祐天大僧正眞 写之
 寛政九丁己仲秋十五日再建  〉 


徳光城趾
村内石原(いしわら)集落の背後の山に、二層からなる徳光城跡がある。城主は後藤安之進(一色軍記)。黒部の城主松田摂津守によって落城した(丹後旧事記)。

『丹後町史』
 〈 石原部落背後には二層からなる徳光城があり、城主は後藤安之進、平家のころ後藤兵衛の養嫡男新兵衛という人、右大将頼朝から網野の庄を賜い、その子孫永く続き永禄年中(一五五八~七〇)後藤但馬守といい、安之進はこの人の嫡男である。ざっと三百五十年間続いたことになる。徳光・成願寺は室町時代には、相当はなやかであったことが考えられる。成願寺城についても、一色氏滅亡までの歴史の中では、黒部城と吉原城の関係も深く一色氏の勢力を保拮するに主要な堅城であった。  〉 


《交通》


《産業》


徳光の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 一 徳光保  十一町二段二百十六歩  後藤次良左衛門  〉 

『丹後国御檀家帳』
 〈 一 とくみつ   家百五十斗
 後藤左衛門尉殿  一城主也
 山口左宗進殿    宇 □ 殿
 少 納 言 殿  山ぶし
一 とくみつよし里
かへしする人     かうおや
 田はたのきやうふ殿   すかわ新兵衛殿
 家 右 衛 門 殿
           かうおや
一 とくみつの高山   そうめんや弥二郎殿  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎徳光村(成願寺村より川を隔てて西)
【春日大明神】(祭九月廿一日)
【大良山徳運寺】(曹洞宗)
【後藤安之進城墟】
丹後旧記云。後藤安之進は永禄中の人なり、父を後藤但馬守といふ、後に後藤下総の守といふ、黒部村の城は松田摂津守の為に落城す、癸枳山縁城寺の寺中西明院に其位牌あり。  〉 


『丹後町史』
 〈 旧徳光村
竹野川の西域と成願寺区を含めて、八木村と相対して「徳光村」がある。
徳光村もまた興味深い集落で弥生文化古墳文化の発祥が考えられる。椿原古墳・高山古墳がそれで、高山に登ると丘陵上に三基の円墳が現存している。一基は確かに経一〇m高さ三mの墳丘であり、他の二基は自然石の一部が露出し未発掘のまま残されている。土地の古老にきくと高山には水の湧き出る所があり、ここを住居の根拠地として先人が住みつき、次第に谷伝いに「石原」、「大土」と平坦部に移住したのではないかという。高山古墳の西南の小高い丘の台地に寺屋敷の地名が残り、石仏のある状態と台地の広さから考えると室町・鎌倉時代の大寺の存在を思わせる。「橋本」はそれより新しくひらけた所であろう。太古の竹野川の川口を橋本・成願寺・清水のあたりと考えると一層徳光村の成立には興味をそそられるものがある。
徳光村は徳光・成願寺・大山・三宅からなり東西四・三㎞、南北五・三㎞で明治維新前は大山は幕府直轄地、その他は宮津藩の治下に属していた。大正三年未現在二七〇戸、これを職業別に区分すると農業二二〇戸、工業二三戸、商業及交通業一五戸、其他の諸業一二戸、人口一、三六六人となっている。(竹野郡誌)

伊勢外宮御壇家帳(天文九年-一五四〇-室町時代)によると「大山」は家二十軒許りあり、成願寺には一宮様(一色義有)という御城主のあったこと、又三上佐渡守・蒲田岩見守・南入道・禅居寺などの名が見える。同時に徳光には家百五十許りとあり、後藤左衛門の尉(一城主)山口左京進、少納言(山伏)などの名が見える。石原部落背後には二層からなる徳光城があり、城主は後藤安之進、平家のころ後藤兵衛の養嫡男新兵衛という人、右大将頼朝から網野の庄を賜い、その子孫永く続き永禄年中(一五五八~七〇)後藤但馬守といい、安之進はこの人の嫡男である。ざっと三百五十年間続いたことになる。徳光・成願寺は室町時代には、相当はなやかであったことが考えられる。成願寺城についても、一色氏滅亡までの歴史の中では、黒部城と吉原城の関係も深く一色氏の勢力を保拮するに主要な堅城であった。
徳光村旧家永島家(本家永島勘太郎氏分家永島保氏)を訪ねると、明和(八年)安永(九年)天明(八年)寛政(十二年)享和(三年)文化(十四年)文政(十二年)天保(十四年)弘化(四年)嘉永(六年)万延文久(四年)元治慶応(四年)、明治初年にわたる代々大庄屋の記録が保存されている。
※右の主たるものをあげると次のようである。

※間人向地広瀬弥太郎氏は橋本村の資産家永島本家出資の下に、和船五百石積を経営し、自ら船頭を兼ね大阪で諸雑貨を仕込みまた下関→伯耆→宮津→越前敦賀各地の物産を積荷、北海道で売捌き、帰途は小樽函館から鰊・搾粕・昆布・身欠鰊等の海産物を搭載して、これを北陸諸方・山陰・山陽・関西地方に販売頗る繁栄を極めた記録がある。幕末から明治初期五百石船が竹野川筋を橋本まで上ったことが伝えられている。
両村の合併については、双方に多少の意見の対立がみられた、当時の徳光村には学校改築の問題があり、また八木村には一村二校を持つなやみがあった。その上隔離病舎を郡で四ケ所に統合する問題が加わり協議が重ねられていた。
時の郡長菅沼岩蔵、村長職務管掌和田栄一氏の尽力によって、円満に了解点が見出せ、大正十四年十二月一口両村の区域をもって豊栄村が誕生した。
豊栄村名については、当時の京都府池田宏知事の命名である。元両村の大字は十四であった。その十四字が合併の上益ゝ豊かに栄え行くとの意味から、十四を豊におきかえ、栄を配して「豊栄」と名づけた。旧八木村長大江芳蔵氏、旧徳光村長宇野勝治氏であった。…  〉 



『古代への旅-丹後』12号墳石室
 〈 高山古墳群 丹後町徳光
高山古墳群は、竹野川を遡って行った左岸に位置する。国営農地開発事業に伴い発掘調査されたのだが、九基の横穴式石室を主体とするものなど一三基の円墳で構成されている。なかでも古墳群の一番奥まったところに所在する一二号墳は、直径一八m、石室は南にむけて開口しており、石室の大きさは全長一二・一五mを測っている。
この石室から燦然と輝く金銅装双龍環頭大刀柄頭(二点出土、全国で二点出土したのは他に二例を数える)が出土、さらに馬具類、玉類、土器類等豪華な遺物が豊富に出土したが、これらの埋葬品からこの古墳は、六世紀末から七世紀初頭にかけて築造され、七世紀前半に数次の追葬を行い、七世紀末ないし八世紀に入ってから最終追葬を行ったと考えられると報告されている。いずれにしても大きな政治的権力を持った豪族がこの地に存在していたことが物語られるのだが。現在大半の古墳は消滅しているが、貴重な出土品をみた一二号墳は整備保存され、私たちの見学を待っていた。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 高山古墳群(たかやまこふんぐん)
所在地:丹後町徳光小字高山、段ナル
立地:竹野川下流域左岸丘陵腹
時代:古墳時代後期~終末期、
室町時代後期~江戸時代前期
調査年次:1986、1987(府教委、府センター)
現状:全壊(国営農地)
完存(12号墳、府指定史跡)
遺物保管:市教委、丹後郷土資料館
(12号墳出土遺物:市指定文化財)
文献:C065、C068、FIO6、F125
遺構
高山古墳群群は、竹野川支流徳良川北岸の丘陵上に立地する17基からなる横穴式石室を埋葬主体とする古墳群である。このうち11基が発掘調査されている。
1号墳は径13m、玄室長4・7m、3号墳は径17m、玄室長10・2m、4号墳は径15m、玄室長3・7m、5号墳は径12m、玄室長3・8m、6号墳は玄室長5・5m・12号墳ば径18m、玄室長5・9mの円墳である。12号噴は石室規模が最大であリ出土遺物も多い。なお、5号墳西側のA地点からは、当該期の竪穴住居1基が検出されており、石組の竈を有する。このほか室町時代後期~江戸時代前記後葉の火葬墓およぴ座棺土葬幕群が見つかっている。
遺物
瑪瑙製勾玉や管玉、水晶製切子王などの玉類、鉄刀、鉄鏃、刀子どの武器、馬具のほか、土師器、須恵器が出土した。特12号墳からは、金銅装双龍環頭大刀把頭が2点出土した。そのほかに鉄鏃、鉄刀などの武器のほか、鐙、鞍、轡、鉸具の馬具ね出土した。双龍・双鳳環頭大刀は日本国内で60例近く出土しており、権力の象徴と考えられる。環頭大刀を2本所有していた12号墳は、地域でも屈指の存在といえる.須恵器では珍しし特殊扁壺がある。
意義
高山古墳群は、横穴式石室からなる古墳群の全容を明らかにした例とLて貴重である。古墳群内における竪穴住居の存在は、葬送儀礼のあり方を考える上で、興味深い。双龍環頭大刀をはじめ、豪華な馬具などが出土した。古墳時代後期の横穴式石室を埋葬施設とする古墳群であり、特に双龍環頭大刀は湯舟坂2号墳ものより時代が新しくなるものである。入手ルートは大和政権から地方の豪族に下賜されたとする意見もあり、今後の検討課題である。  〉 

『丹後の弥生王墓と巨大古墳』(「弥生時代の対外交易と流通-弥生墳墓の副葬鉄器を通して-野島 永」)
 〈 …北部九州でも素環頭鉄刀を代表とする副葬鉄刀の出土例の多くは、弥生時代中期後半までは奴国中枢に限られるものであった。おそらく、楽浪郡への朝貢による政治的関係を契機とし、楽浪郡を介在とした物資流通によって、間接製鋼法による鉄素材や鉄製武器などを入手したと推察される。
 しかし、後期前半頃に至って素環頭鉄大刀などを含めた鉄刀類が奴国以外の周辺地域(伊都・肥前)や山陰・近畿地方北部でも入手、副葬されるようになる(表1)。弥生時代後期前葉前後、つまり王莽期にこのような奴国以外の地域に中国系(素環頭)鉄刀の副葬が広がるのは、一つには王莽の、対周辺諸民族政策の変化に関連するものとして考えてみたい。王莽は官制改革の際、周辺諸民族の王号をすべて侯に降格し、匈奴などとの対外関係を悪化させた。おそらく、王号を剥奪された周辺諸民族の王は、自らの対内的威信を喪失したに違いない。そのような状況を当時の倭に想像してみれば、奴国の権威失墜によって、奴国周辺地域(伊都・肥前)および山陰や近畿地方北部諸地域が、楽浪地域などと独自の貢賜関係を結び、対外交易を行なうに至った可能性があるのかもしれない。岡村秀典氏によると、三津永田遺跡の素環頭鉄刀・井原鑓溝遺跡・桜馬場遣跡の刀類などは、前漢後期に鉄剣から鉄刀に変換されつつあった中国漢の最先端技術で製作されたものとし、それを倭人が入手し得たのは、倭が単に徳を慕うのみの朝貢国から外臣としての地位を得たこと、つまりその冊封体制下に入ったことによる、いわば「軍事的安保協定」を結んだことによると解釈している。近畿地方北部の丹後地域においても弥生時代後期初頭の段階で、すでに三坂神社墳墓群三号墓第一○主体部および左坂墳墓群二六号墓第二主体部から素環頭鉄刀が出土したことは、そういった意味でも注目される。丹後地域の大首長も中国王朝の外臣(君・長クラスか)として冊封下に入ったことを示唆する可能性がなかろうか。  〉 


徳光の小字一覧


徳光(とくみつ)
 三宅境(みやけざかい) 北谷(きただに) 薬師谷(やくしだに) 天王(てんのう) 徳良(とくら) 川原田(かわらだ) 松本(まつもと) 前田(まえだ) 清水(しみず) 上ノ山(うえのやま) 橋本(はしもと) 勢ど川(せどがわ) 大奥地(おおおくち) 上せど川(かみせどがわ) 西ケ上(にしがうえ) 枇杷ノ木(びわのき) 新田(しんでん) 段なる(だんなる) 谷梨(たになし) 福田(ふくだ) 風ケ鼻(かぜがばな) 藤ケ森(ふじがもり) 東岡(ひがしおか) 手代(てしろ) 大土(おおつち) 妙見ケ谷(みょうけんがだに) 妙見ケ上(みょうけんがうえ) ヒワラク 寺戸(てらど) 小東(こひがし) 大高山(おおたかやま) 打越(うちこし) 上寺戸(かみてらど) くご 高山(たかやま) 谷屋敷(たにやしき) 椿原(つばきはら) 光山(ひかりやま) 滝ケ尻(たきがじり) 東谷(ひがしだに) 石原谷留リ(いしはらだにたまり) 石原谷(いしはらだに) みいが後て(みいがおて) 池之坂(いけのさか) 志での木(しでのき) 石原(いしはら) 帯屋谷(おびやだに) 西ケ岡(にしがおか) 内坪(うちつぼ) 小山(こやま) 小山後(こやまおて) 吠角(ほえづの) 百合ノ下(ゆりのした) 井町(いまち) 細田(ほそだ) 八神(はちかみ) 峠谷(とうげだに) 堤尻(つつみじり) 管谷(すがだに) 小浜谷(こばまだに) 堂伝(どうでん) 平田(ひらた) 尾坂谷(おさかだに) 粟原(あわら) 夜光(やこう) 寺ノ下(てらのした) 奥山(おくやま) たかく 長田(ちょうだ) 土取場(つちとりば) 福井(ふくい) 栃谷(とちだに) 鳥越(とりごえ) 後坪(おてつぼ) 大行地(おおいくぢ) 小行地(おいくじ) 免き(めき) 美後谷(みごだに) 大田(おおた) いせき 西ケ前(にしがさき) おつか 三反田(さんたんだ) 沖田(おきだ) 提谷(つつみだに) 桑替町(くわがえちょう) 羽折(はおり) 川くご(かわくご) 上川くご(かみかわくご) くご 石畷(いしなわて) 石ケ谷(いしがたに) 庄八ケ下(しょうはちがした) 小田(こだ) 小田家の谷(こだいえのたに) 家の谷(いえのたに) 隠レ谷(かくれだに) 小さが(こさが) 北谷天王(きただにてんのう) 狐ケ谷(きつねがたに) 一番小屋(いちばんごや) 嘉助山(かすけやま) 細谷(ほそだに) 行地(いくじ) 芋ノ谷(いものたに)


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福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後町史』
その他たくさん



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