丹後の地名

上山(うえやま)
京丹後市丹後町上山


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京都府京丹後市丹後町上山

京都府竹野郡丹後町上山

京都府竹野郡
下宇川村上山

上山の概要

《上山の概要》



碇高原牧場の北斜面で、碇から久僧の方へ府道652号線を少し久僧側へ下った標高200mあたりにある上山寺の門前集落。
久僧から谷内を経て当村を通り、碇峠を越えて筒川に至る古道沿いに、上山寺の門前村として開けたという。上山寺は8世紀末頃に建立、次々に宿坊が置かれ、上山寺全盛時代には碇千軒といって大集落があり、大いに栄えたと伝える。
中世は宇川保の地。近世初期も宇川村の内で、慶長検地郷村帳に「宇川村之内 上山村」と記される。
上山村は、江戸期~明治22年の村。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領。当初は宇川村の枝郷で、のち分村独立した。
上山寺の後山を吉野山と称し、ここから吉野村(野間)へ向かう金剛童子道の周辺は紅葉の名所であったという。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下宇川村の大字となる。
上山は、明治22年~現在の大字名。はじめ下宇川村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《上山の人口・世帯数》 13・5


《主な社寺など》

高野山真言宗吉野山上山寺
上山寺(上山)
今残っている建物は本堂の一部だけ。いつだったかの豪雨で寺前の斜面も大崩れしていたが、今はきれいに修復されている。
永禄八年(1565)銘の五輪塔も見られる。「当山開白天応元辛酉開山明法上人」と読めるという↓(私には読めませんが)。俗名は隠岐国の佐々木氏という。天応元年は781年、平安京(794)よりも古いとする伝承である。
石塔など

案内板

「縁城寺年代記」は、当寺のものを書き写したものとされている。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 上山寺 眞言宗  字上山小字城
 (同寺調文書) 山城国嵯峨大覚寺末、吉野山上山寺といふ
 本 尊 十一面観世音菩薩  立像御長一尺八寸 聖徳太子作
 
      阿弥陀如来    坐像御長一尺四寸 仝  作
      薬師如来     立像御長一尺七寸 弘法大師作
 由緒辟、抑堂寺は人皇四十九代 光仁天皇の御宇天応元辛酉年なり、開山明法上人之事累代隠岐国の本主也俗名號佐々木隠岐守弘成と奥有十一面観世音の尊像夜々霊夢告て云く汝去當往詣東州造立て仏閣を可安置す、像軆蒙り瑞夢了今股不発心者亦期何時且は悲み且は喜び剃頭法明名を號明法趣菩提心門に事偏大聖方便也、然る間本国嫡男定置引率五人末子を遙浮海上船筏を丹後国袖志浦到着畢、暫く此處に経て数日分蒙り尊像之告間凌幽谷を而小河辺に留駒如何思惟彼地名名く馬繋黒白犬二疋来て明法道引登霊山、明法被に付て伐払峻難即ち建立一宇安置薩唾干時人皇四十九代 光仁天皇の御宇、観音奇瑞高山地形悉く有奏聞依勅?可號吉野山上山寺と云々、即ち賜御額畢此時被下明法上人之號無双面目希代の勝事也、観音済度之利生方便我願既満歓喜餘身信心銘肝感応掲焉也、見人成随喜間人致信敬依之留素貴賤群


本堂桁行六間半梁行六間半、庫裡桁行八間染行四間、境内坪数五百四十坪
寶  物
 イ、勅 額 人皇四十九代光仁天皇大應元辛酉年下し賜る
 ロ、馬 鞍 佐々木隠岐守弘成の乗鞍
財産田反別二反六畝十六歩、山林反別四反五畝八歩、藪反別三畝十歩
(丹哥府志) 吉野山上山寺 眞言宗
 寺記に曰吉野山上山寺は昔役の小角野間の庄今の金剛童子に業場を開きし項草廬を結びし處なりと云ふ
 愚按するに役小角は眞茂役公氏大和葛城上郡茆原村の人なり、幼より佛学を好み兼て呪術を学ぶ、年三十二家を棄て葛城山に入り岩窟に居ること数十年又諸所に漫遊して或は富士に登る、又は箕面山に居る、嘗て遠州の長?寺に食を乞ふ事あり、其事業元より仙にあらす又僧にもあらす唯苦行を勤むるを以て業とす、所謂役の行者なり、文武帝勅して小角を召し給ふに小角遂に勅に応せすよつで伊豆の大嶋に配せらる、右の如きは往々雑書に載せたれ共いまだ丹後に来るを見ず、然れども今其地を踏み其事跡を見れば必ず丹後に来る事なしとも定むへからす、文武帝小角を召給ふ時小角空に騰り飛去るといふ、(三才図会)或は是時遁れて丹後に来るかもはかりかたしよつて其口碑に伝はる所に従ふ
後百年を経て光仁帝の御宇に至り始て其跡に伽藍を建立す、天応元年上山寺の勅額を賜はる
 今に其額の形聊か存す、是後四百年を経て源平の乱に及ふ是時に至りて佐々木の一族定道といふ者隠岐の国より遁れで又此處に来り、遂に剃髪して僧となり再び伽藍を建立す、是を中興開山とすと云、其子四人皆修験となりて其材に住居す南の坊北り坊東の坊西の坊是なり、西の坊は倉内村にあり西光院といふ、東の坊は今熊野郡一分村にあり圓寿院といふ
 愚接するに宇多帝の子敦実親王九代の孫に源義綱といふものあり、其子五人長を佐々木太郎定綱といふ、次を二郎経高といふ、次を三良盛綱といふ、次を四郎高綱といふ、次を五郎義清といふ、武将の誉世の知る處なり、後に皆出家となる?綱の法名を西令といふ、高綱を了智といふ、盛綱高綱の二子は親鸞上人の法を受たり、越前の真言宗は盛綱の末なり、信州松本の正行寺は高綱の末なり、経高は出家して経蓮と號し西山に蟄居せり、北條泰時より経高に使を遣して命を全ふすへしといふ、よつて経高自ら謂ふ是自殺をすゝむる使なりとて遂に自殺す、太郎定綱も亦出家すとあれ共其法名詳ならす、抑佐々木兄弟皆頼朝に従ふ獨り五郎義清大庭景親に従ふて石橋山の役に頼朝を攻む、頼朝敗亡して椙山に遁る義清景親とこれを逐ふ、後に頼朝将軍となるに及ひて義清の罪死に當す然共父兄の故を以て免されて隠岐守となる、今寺記にいふ定道といふものは誰の子なりや明ならす隠岐の国に流さるゝは定綱の子広綱なり、廣綱後に釈されて帰る、其子重綱高信泰綱氏信ある事を聞くいまた定道ある事を聞かす、五郎義清五世の孫に塩治高貞といふものあり高師直の爲に自殺す、是時に當て其子五人或は死し或は遁る遂に尼となるものあり、蓋其人ならん其鞍なりとて前輪一つ残る亦以て當時を應するに足れり
板  佛
 上山寺堂の正面に板佛三枚をかけたり、一枚は径一尺三四寸一枚は八寸許なり、一枚は五六寸程もあり、其八寸評のものは佛の屋坐より前にむけで花の出たるあり、是こは別に珍激覚たる皆聖武帝時代のものと見ゆ
(宇川小倉氏蔵古文書)
 本堂出仕座配之次第
左               右
 一宮 之 坊         一上之 坊
 二寺 尾 坊         二向 之 妨
 三藤 井 坊         三門 之 坊
 四梅 本 坊         四南 之 坊
 五東 之 妨         五下 之 坊
 六中 之 坊         六大 門 坊
 七西 之 坊         七杉 本 坊
 八北 之 坊         八桜 本 坊
 九山 下 坊         九谷 之 坊
 十岡 之 坊         十辻 之 坊
   以上文明元巳丑八月十人日
   享保十七子ノ年迄二百五十二年に成
(同寺所蔵年代目録)
 元禄十一年八月本堂再建、同寺中興第二世律伝法印ノ代也
 宝永二年本尊十一面観音再興
 宝永四年宮津城主奥平修理観音の宮殿を寄進す
 宝永五年奥平多宮殿御袋観音へ参詣
 宝暦十二年に本尊前佛十一面観世音再興
 安永二年開山明法上人の尊像再興
 按 寺記に光仁天皇の天應元年佐々木隠岐守弘成の開山なる由見ゆれども、奈良朝の終即ち光仁天皇の御代頃に隠岐守なる官職もなく佐々木なる姓あるをも開かず佐々木氏は宇多源氏にして宇多天皇より出づ宇多天皇は平安朝にして光仁天皇より後十代百十八年後なり、此等の点よりして寺記は信を措き難き節多し之に依て考ふるに、
  丹哥府志編集當時には正しき寺記存したるものなるべし故に丹哥府志に載せたるものは年代其他よく符合して信するに足る現存の寺記は丹哥府志編纂當時後即ち今を去る百五十年未満に編纂せられたるものなるべし、尚同記中大檀越小倉備前守が天正五年細川氏の爲に亡ぼされ同時に寺領百二十石も召上げられたる爲に一山哀頽の悲運に遇ふ由見ゆれども、同寺に存する小倉備前守定光位牌の裏書によれば大永二年二月五日にして其子ならん誠藤なるもの天文三年三十六歳にて八幡宮へ神輿を寄進せること上宇川八幡宮神輿の裏書にあり、天文五年頃井上石見守に亡ぼされたる形跡あり、而して井上氏は妙源寺を開創したる程にて日蓮宗の信者なるより寺領を没収したるもの乎、殊に天正五年に細川氏は丹後に入り居らす、此等の関係より按するに同寺記の所謂天正五年細川氏に召上げられたる云々は天文五年井上氏の誤ならん、

吉野山
 門 之 坊 真言宗 山城国醍醐三宝院末 字上山小字中池
 (同寺調文書) 本尊 不動明王  立像  作者不評
            役 行 者 立像  作者不詳
  抑當寺は文安三丙寅年開山果空法印他人皇百七代正親町院御宇天正五丁丑年細川越中之守丹後国村々に在之小城をせめ落され此節丹後国竹野郡宇川庄中野村の城主小倉備前守落城依諸方の寺社領を公議へ被取上依て之に上山寺廿五坊は大破仕其餘門之坊山伏と相成漸く今世に至る迄血脈相続仕候也
  仏間桁行三間半梁行二間、臺桁行六間半梁行三間半、境内坪数二百三十五坪
   按 上山寺に封する按参照

吉野山
 南 之 坊 眞言宗 山城国醍醐三宝院末  字上山小字奥地
 (同寺調文書) 本尊 不動明王 坐像  作者不詳
  由緒、文政三甲午年二月乗圓行者の開基なり其他不詳、佛間桁行五間半梁行三間半、境内坪数百二十四坪
  〉 

『丹後町史』
 〈 吉野山 上山寺 上山小字城 真言宗
本尊 十一面観世音菩薩 立像長六八㎝(聖徳太子作)
阿弥陀如来 坐像御長五三㎝(聖徳太子作)
薬師如来 立像御長六四㎝(弘法大師作)
人皇四十九代光仁天皇の御代天応元年(七八一)明法上人の開山である。(俗名佐々木隠岐守弘成)弘成は霊夢のお告げで剃髪、菩提心をおこして諸国を歩いているうち、この地にきて、一寺を建立し、勅命によって吉野山上山寺と名づけられた勅額を賜った。
創立当時は信仰者が多く、殊に丹後国竹野郡中野城主小倉備前守繁弘公の祈願寺となり、寺領一二〇石を賜わった。寺は漸次発展をして二十五坊まででき、修行僧、修験者も集まり、吉野山から金剛童子に続く修行場も開いた。
人皇一〇七代正親天皇の御代天正五年(一五七七)細川越中守は丹後の村々にあった小さな城を攻め落とした。その時中野城も落城、寺社領も公議へ取り上げられ、二十五坊も衰微し上山寺も衰えはじめた。
宝物
イ、勅額 人皇四十九代光仁天皇天応元辛酉年(七八一)に下し賜った木のうきぽり
ロ、馬鞍 佐々木隠岐守弘成の乗鞍
二十五坊の中屋敷の推定できるもの
門之坊 真言宗 山城国醍醐三宝院末
字上山小字中地
本尊 不動明王 立像
役行者 立像
文安三丙寅年(一四四六) 開山集空法印也である。
南之坊真言宗 山城国醍醐三宝院末 字上山小字奥地
本尊 不動明王 坐像
文禄三申午年(一五九四) 二月乗円行者の開基である。
逆修供養塔
死後の冥福を祈るため生前に佛事をしたり若い者が先に死亡し時老人が其の冥福を祈るために建てたもの。  〉 


『京丹後市の伝承と方言』
 〈 上山寺(丹後町上山)は、佐々木隠岐守弘成によって天応元年(七八一)に建立されたという。
 『敬白吉野山上山寺縁起序』(江戸時代)によると、弘成は東の国で寺院を建立し仏像を安置せよという十一面観音の霊夢をうけ丹後国袖志に渡り、その後また霊夢をうけ上山の地に寺を開いたと伝えられている。また光仁天皇の勅命により寺号を定め、明法上人の号を賜ったという。境内の永禄八年(一五六五)の銘を持つ五輪塔にも「当山開白天応元辛酉開山明法上人」とあり、一六世紀にはこのような所伝があったことは確かといえよう。
 さて、『丹寄府志』(江戸時代)には上山寺の草創について別の所伝が残されている。そこには「寺記に曰」として、上山寺は役小角が金剛童子山(弥栄町)に修行の場を開いた頃に開創した寺院であると伝えている。その後、源平の争乱の際に隠岐国から佐々木一族が逃れてきたと伝える。上山寺に残されている縁起等にはこのような所伝は無く、「寺記」が何をさすかは不明である。
 ところで隠岐国との関連で言えば、廣通寺(網野町三津)の本尊薬師如来坐像は隠岐国より都へ修理に出す際に、大風雨にあい当地に漂着し、そのまま安置されることになったと伝えられている。また『丹哥府志』には、竹野神社(丹後町宮)の神馬は隠岐国から奉納されていたと伝えられるなど、様々なところで隠岐国が登場しており興味深い。  〉 

三社権現社
上山寺の境内にある。
三柱神社(上山)


《交通》


《産業》


上山の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎上山村(谷内村の奥山の半腹にあり、是より碇峠を越て菅野谷へ出る、又野間の庄吉野村へ出る金剛童子の道あり、又三山村へ出る道あり)
【三社権現】(上山寺境内)
【吉野山上山寺】(真言宗)
寺記に曰。吉野山上山寺は昔役の小角野間の庄今の金剛童子に業場を開きし頃、草庵を結びし處なりといふ。
愚按ずるに、役小角は賀茂役公大和葛城城上郡茆原村の人なり、幼より仏学を好み咒術を学ぶ、年卅二家を捨て葛城山に入り巌崖に居る事数十年、又諸所に漫遊して或は富士に登る又は箕面山に居る、嘗て遠州の長福寺に食を乞ふ事あり、其事業元より仙にあらず又僧にもあらず唯苦業を勤むるを以て業とす所謂役の行者なり、文武帝勅して小角を召し玉ふに小角遂に勅に応ぜず、よって伊豆の大島に配せらる右の如きは往々雑書に載せられたれ共いまだ丹後に来るを見ず、然れども今其地を踏み其事跡を見れば必ず丹後に来る事なしとも定むべからず、文武帝小角を召し給ふ時小角空に騰の飛去るといふ(三才図会)或は是時遁れて丹後に来るかもはかりがたし、よって其口碑に伝はる所に従ふ。
数百年を経て光仁帝の御宇に至て始めて其跡に伽藍を建立す、天応元年上山寺の勅額を賜はる、今に其額の形聊か存す。是後四百年を経て源平の乱に及ぶ、是時に至りて佐々木の一族定道といふもの隠岐の国より遁れて又此處に来り、遂に剃髪して僧となり再び伽藍を建立す、是を中興の開山とすと云、其子四人皆修験となりて其村に住居す、南の坊、北の坊、東の坊、西の坊是なり、西の坊は倉内村にあり西光院といふ、東の坊は今熊野郡一分村にあり円寿院といふ。
 愚按ずるに、宇多帝の子敦実親王九代の孫に源義綱といふものあり、其子五人、長を佐々木定綱といふ、次を二郎経高といふ、次を三郎盛綱といふ、次を四郎高綱といふ、次を五良義清といふ、武勇の誉世の知る所なり、後に皆出家となる、盛綱の法名を西令といふ、高綱を了智といふ、盛綱、高綱の二子は親鸞上人に法を受けたり、越前の真言宗は盛綱の末なり、信州松本の正行寺は高綱の末なり、経高は出家して経蓮と號し西山に蟄居せり、北条泰時より経高に使を遣して命を全ふすべしといふ、よって経高自ら謂ふ是自殺をすすむる使なりとて遂に自殺す、太郎定綱も亦出家すとあれども其法名詳ならず。抑佐々木兄弟皆頼朝に従ふ、独り五良義清大庭景親に従ふて石橋山の役に頼朝を攻む、頼朝敗亡して椙山に遁る、義清景親とこれを遂ふ、後に頼朝将軍となるに及びて義清の罪死に当す、然れども父兄の故を以て免されて隠岐守となる。今寺記にいふ定道といふもの誰の子なりや明ならず、隠岐の国へ流さるるは定綱の子広綱なり、広綱後に釈されて帰る、其子重綱、高信、泰綱、氏信ある事を聞くいまだ定道ある事をきかず、五良義清五世の孫に塩谷高貞といふものあり高師直の為に自殺す、是時に当て其子五人或は死し或は遁る遂に尼となるものあり蓋其人ならん、其鞍なりとて前輪一ツ残る亦以て当時を想するに足れり。
〔板仏〕上山寺堂の正面に板仏三枚をかけたり、一枚は径一尺三、四寸一枚は五、六寸程もあり。其八寸斗りのものは仏の台坐より前にむけて花の出たるあり、是こそは別に珍らしきと覚えたり聖武帝時代のものと見ゆ。
〔紅葉のよし野〕
上山寺の後山をよし野山といふ、山の南に吉野村あり、紅葉の名所なり。  〉 


『丹後路の史跡めぐり』
 〈 一周道路から碇高原が美しく遠望され、その中腹の上山(うんやま)部落に吉野山上山寺(じょうざんじ)の跡がある。
上山寺は天応元年(七八一)隠岐国の佐々木弘成の請願によって、明法上人が開基した寺である。古代寺領も多くて盛大であったらしく、草むらの中に宝篋印塔、五輪塔、板碑などがたくさん立ちならび、佐々木定直の塚というのがある。発信貴山縁城寺の年代記は、この上山寺の年代記を写したものといわれる。  〉 

『丹後町史』
 〈 上山寺の開基
七二四年(神亀一)二十四歳の皇太子首皇子は、元正天皇のあと、位をつぎ聖武天皇となった。天皇は国土の安穏を願い護国仏教の興降に帰依し、七四一年(天平一三)三月詔を下し、全国六十二の国毎に「国分寺」と「国分尼寺」を建立された。
丹後の国分寺は、与謝郡拝師郷国分(現府資料館建設地・宮津市国分)に建立された。現在も僧寺の跡として金堂と西塔ならびに山門の礎石が残っている。(天和二年集録丹後国寺社帳)七五二年には、総国分寺として都に東大寺の大仏(盧舎那仏)の開眼供養が行われ、仏教は全国的にめざましく栄えた。
上山寺縁起によると、それから三十年後人皇四十九代光仁天皇の天応元年(七八一)、本主佐々木隠岐守広成の請願によって明法上人が開基した寺であるとされている。当時山深き幽谷を分けいって、黒白二疋の犬があらわれてそのみらびきをして、この霊山に登り一宇を建立したのにはじまる。袖志に着き谷内村を越えて坂を登りその奥山に入った。寺の背後の一帯はは今の碇高原につづく山ふところである。十一面観世音のお告げによってこの地に寺が建立され、その観音の不思議な瑞兆が光仁帝に奏聞せられ、勅によって吉野山上山寺と名づけられ勅額を賜わったとある。今も其の勅額は保仔されている。
この地を基点として碇山脈を越えて与謝郡吉野村を経て、野間の庄金剛童子に詣でる九里八町(三七粁)の行者道があった。文武天皇の代「仙にあらず僧にあらず、専一に苦業につとめる」修験者役の小角という者があって、金剛童子に業場を開き修業をかさねていたが、ここに草盧を結んだその跡地だとも伝えられている。(丹哥府志)
上山寺以前、既に中郡橋木の縁城寺が養老元年(七一七)に建立されておりその年代記によると、縁城寺建立までの大宝二年(七〇二)九月に郷村岩倉山明光寺が建てられ、和銅元年(七〇八)小原の興法寺が天台山遍然上人によって開山され、又成相寺や島津の仲禅孝などが建てられている。八世紀の初めは文化、政治・宗教に光を加えた時代であり当地方にもおよんでいる。  〉 


上山の小字一覧


上山(うえやま)
ヲク山(をくやま) 坂(さか) 堀(ほり) ヰノクゴ 立畑ケ(たちばたけ) 車坂(くるまざか) 烏畑(からすばた) 烏谷(からすだに) シデノ木(しでのき) 丹京寺(たんきょうじ) コセン谷(こせんだに) 岩管(いわすげ) 白畑(しらばた) 四ツ町(よつまち) スヱガハナ 入地(いりぢ) イカリ 後山(おてやま) 丸山(まるやま) トバナ 丸町(まるまち) 田尻(たじり) 細畑(ほそばたけ) 向田(むかいだ) 京田(きょうだ) 奥地(おくぢ) イガミ谷(いがみだに) シロウ 寺ノ奥(てらのおく) 寺ノ下(てらのした) カミジ 十三仏(じゅうさんぶつ) 松本(まつもと) 前田(まえだ) 中ノ森(なかのもり) 岡崎(おかざき) 浄土(じょうど) セドノ谷(せどのたに) 城(しろ) 谷川(たにがわ) 中地(なかぢ) 大門(だいもん) 石原(いしはら) 向地(むかいぢ) 寺尾(てらお) 片山(かたやま) ヤクシ 大成(おおなる) 才木(ざいもく) 堂ノ上(どうのうえ) 蝶子口坂(ちようしぐちざか) 大畑(おおばたけ) シンズ 水口(みずぐち) ツメタ水(つめたみず) イロガハナ 松ケ下(まつがした) チワラ デヤ フドウ 妙見山(みょうけんやま) ダケ 大谷(おおたに) ミズツボ トノ林(とのばやし) カクノ堂(かくのどう) ユキズリ 林ケ谷(はやしがたに) 寺ノ上(てらのうえ) シン川(しなかわ) 作道(つくりみち) 


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後町史』
その他たくさん



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