旧・八木村(やぎむら)
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京都府京丹後市丹後町一段・岩木・力石・神主・矢畑・是安・吉永・相川谷 京都府竹野郡丹後町一段・岩木・力石・神主・矢畑・是安・吉永・相川谷 京都府竹野郡豊栄村 京都府竹野郡 八木村 |
旧・八木村の概要《旧・八木村の概要》 旧八木村は京丹後市丹後町にあった自治体。明治22年~大正14年。一段・岩木・力石・神主・矢畑・是安・吉永・相川谷の8ヶ村が合併して成立し、旧村名を継承した8大字を編成した。 村名は、岩木の木とこれを除く地域の俗称八ヶ谷の八を合成したもの。明治32年与謝郡野間村野中の大石地区を編入して大字とし、計9大字を編成。村役場は是安に設置した。 大正14年豊栄村の一部となり、村制時の9大字は豊栄村の大字に継承された。 旧・八木村の主な歴史記録『丹後町史』 〈 旧八木村 麿子親王三上山の賊を平定後七仏薬師の一つをお祀りしたという願興寺から小さい谷をへだてた同じ山続きに、岩木村がある。 『順国志』に磐撞別(いわきわけ)命、竹野郡磐撞里より年の貢を納め奉る。此尊は当国にありて磐撞郷に保を造り玉いしと伝う。 *磐撞別命は垂仁天皇にして御母は丹波道主命の女なり さらに南西「是安(こりやす)」の神宮寺の由来から考えても、また天岡古墳などからみてに年代はやはり弥生文化にさかのぼることができよう。岩木にも山腹の山林中に土師器、須恵器の散布地があり、円墳として横穴式石室が発見されている。 願興寺の峰続き一帯吉永・是安が殆んど時を同じくして文化のひらけたことは考えられる。 さらに神宮寺の下の台地に、麿子親王とともに従軍した家臣難波氏の先祖を祀ったと伝えられる墓地が現存し、観音ぴらきの扉のついた石室の中に石仏が多数祀られている。 本村は吉永・是安・岩木・矢畑・一段・力石・大石・神主・相川谷の九字からなり、東西五・三㎞、南北五・六㎞、耕地一八七・八ha、山林其の他三三五・九ha(大正三、末現在)戸数二五七戸、職業別にして農業二三三戸、工業一一戸、商業及び交通業六戸、其の他諸業七戸であり人口一、五一九人、維新前は岩木・大石は宮津領であって、その他は幕府の直轄地であった。 なお本村は、昔から八ケ部落(吉永・矢畑・西谷・内垣・是安・相川谷・力石・一段)で「八ケ谷」と称していたが、明治二十二年町村制実施の際に大字岩木を組み人れ一村とするとき、八ケ谷の頭字と岩木の木の字をとり「八木村」と名付けた。 神主は明治八年宇川の庄より編入、大石は与与謝郡野間村一部落であったが郡村分離の際(明、三二)八木村に編入された。 … 依遅ヶ尾の山腹に矢畑村がある。 一色氏滅亡のあと、天正十年(一五八二)四月細川藤孝の軍が丹後に乱入した。この時吉永肥後巣城にあって防戦したのは、平井肥後守邦一・長臣義村市郎左衛門であった。戦に破れ一族家人多く討死、降参した。その後、野に下り農民となり山中を開墾して住むようになった。同じころ義村秀清という弓の達人の子孫が矢畑にあって、依遅ヶ尾の山中を耕していたが、田畑に父祖伝来の蟇目の矢を添えて柴垣をつくった。これが村名の起りであるとされている。 この平井氏は遠く七百年前「平安前期」丹後の国司正四位権太夫藤原保昌の後裔であると言われている。大松と石垣の残る「長者屋敷」は義村秀清の屋敷跡ではないだろうか。現在義村・大江・井上・木戸・福島・折戸氏は平井の従臣の姓とされている。 〉 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『丹後町史』 その他たくさん |
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