吉永(よしなが)
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京都府京丹後市丹後町吉永 京都府竹野郡丹後町吉永 京都府竹野郡豊栄村吉永 京都府竹野郡八木村吉永 |
吉永の概要《吉永の概要》 竹野川支流吉永川の流域に位置する。吉永川の支流力石川の沖積谷を中心に集落は谷の南北に連なる丘陵裾部に立地し、内垣・吉永・西谷の3地区に分かれる。 中世の吉永保で、室町期に見える保名。「丹後国田数帳」に「一 吉永保…」と見える。「丹後御檀家帳」には 「一 吉長の御城 近沢殿 御城に御内衆の家五拾軒斗あり」とあり、ほかに「吉長の内たん」「吉長の内いちん谷 家四拾軒斗」「吉長の屋はた 家五拾軒斗」「吉長の内寺谷 家百軒斗」と見える。この時点では吉永川の諸支谷を含めた一帯を広範囲に総称していたと推定される。 吉永村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、享保2年より幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同年内垣村・西谷村を合併。同22年八木村の大字となる。 吉永は、明治22年~現在の大字名。はじめ八木村、大正14年豊栄村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 《吉永の人口・世帯数》 138・45 《主な社寺など》 吉永古墳 『丹後町史』 〈 吉永古墳 土師器、須恵器等散布地 (地目水田) 今から約六〇年前の、耕地整理の時、須恵器片・土師器等が多数出土したと伝えられ、その時水田から磨製石斧が出土している。これは現在和田久吉氏が所有している。この磨製石斧は長さ十二㎝、幅四㎝、厚さ一・二㎝の柱状片刃石斧であって、弥生時代のものと思われる。 吉永一号~四号古墳 いつれも山頂の山頂中にあり、一号古墳は円墳と思われるが全壊に近い、中央に盗掘坑がある。内部主体は不明であるが盗掘坑よりして横穴式石室と思われる。なお六〇年くらい前、金環が出土したと伝えられている。少しはなれて二号古墳があり、三号古墳も墳形は円墳と思われどちらも半壊で、内部主体は不明である。二号古墳は比高三m、墳径一〇m。三号古墳比高二m弱、墳径九m横穴式石室である。四号古墳は俗称あたご山にあり現在半壊状態で山頂の山林中にあって内部主体不明であるが円墳と考えられ墳丘すそ部より表採物として須恵器・土師器片を採集している。 〉 吉永神社 小字中尾に佐田神社があったが、小字ブロにあった松稔(まつなし)神社、力石の石久々里神社などを合祀して現在は吉永神社としている。 『丹後国竹野郡誌』 〈 佐田神社 村社 字吉永小字中尾鎮座 (神社明細帳) 祭神 猿田比古神 創建不詳、文化十四年丁丑九月十八日再建 (丹哥府志) 佐田大明神 祭九月九日 社 殿 梁行 三尺六寸 桁行 三尺九寸 上 屋 梁行 二間四尺八寸 桁行 二間二尺 籠 屋 梁行 二間 三間二尺 〉 『丹後国竹野郡誌』 〈 松稔(まつなし)神社 村社 字吉永小字ブロ鎮座 (神社明細帳) 祭神 大巳貴命 創建不詳、延宝八年三月再建 社 殿 梁行 二尺三寸 桁行 二尺二寸 上 屋 梁行 二間五寸 桁行 二間一尺五寸 境内坪数 七十五坪 〉 『丹後国竹野郡誌』 〈 石久々里神社 村社 字力石小字宮ノ下鎮座 (神社明細帳) 祭神 天香山命 創立不詳、延宝六年再建、明治四年村社に列す、 本 殿 梁行 一間五寸 桁行 二間五寸 拝 殿 梁行 一間四寸 桁行 四間半 境内坪数 千八百九十二坪 〉 『丹後町史』 〈 佐田神社 吉永中尾(三社合祀の地) 猿田比古神を祭る。 文化十四丁丑年再建。 吉永神社 前記の佐田神社(旧村社)に、つぎの三村社を合祀して吉永神社と改称する。 松稔(まつなし)神社、吉永小字ブロにあった。大己貴命を祭る旧村社(延宝八年三月再建)と三柱神社、吉永小字隠シ谷にあった稚産霊神、保食神、倉稲魂神、火産霊神を祭る旧村社を昭和十二年に合祀。 力石に祀っていた石久々里神社を昭和四十四年九月に合祀。 〉 室町末期の十六善神図を所有する曹洞宗徳叢山円福寺 『丹哥府志』 〈 【徳叢山円福寺】(曹洞宗) 徳叢山円福寺開基年暦詳ならず、蓋延喜式に所謂依遅神社の別当なりといふ。 〉 『丹後国竹野郡誌』 〈 圓福寺 曹洞宗 字吉永小字カトリにあり (同寺調文書) 本尊は釈迦如来にして、貞享三丙寅年三月創建橘州和尚を開山とす、正徳二年辰三月再建 (丹哥府志) 徳叢山圓福寺 曹洞宗 〉 『丹後町史』 〈 徳叢山円福寺 吉永小字力トリ 曹洞宗 貞享三内寅年(一六八六)創建、宮津智源寺二世橘州宗曇和尚を開山、正徳、二辰年(一七一二)二月再建、大正七年(一九一八)五月全焼、その後庫裡は建設したが、本堂は昭和四十九年七月完成、開祖から二十二代田中黙修師に至る。檀家約一三〇戸(吉永・是安・矢畑を含む)。 〉 円福寺裏山に肥後巣(ひごす)城跡がある。 《交通》 《産業》 吉永の主な歴史記録『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』 〈 一 吉永保 十九町二段七拾歩 加公文分 御料所 此内二町九段二百廿四歩永不 〉 『丹後国御檀家帳』 〈 一 吉長の御城 近 沢 殿 (朱書) 「と」 御城ニ御内衆の家五十軒あり (段) 一 吉長の内たん かうおや 万 福 寺 彦 治 郎 殿 助 次 郎 殿 孫 治 郎 殿 彦 左 衛 門 殿 治 郎 兵 衛 殿 又 九 郎 殿 かなや彦左衛門殿 〆 一 吉長の内いかん谷 家四拾軒斗 かうおや 源 左 衛 門 殿 しゃうふ谷殿 〃 西 の 坊 山ねの太郎左衛門殿 〆 (矢畑) 一 吉長の屋はた 家五十軒斗 かうおや 治郎左衛門殿 一 吉長の内寺谷 家百軒斗 奥垣筑前守殿 新宮寺 大寺なり かうおや しやうきん入道との 合見与兵衛尉殿 五郎右衛門殿 助 右 衛 門 殿 くり田藤左衛門殿 〆 〉 『丹哥府志』 〈 ◎吉永村(岩城村より東へ入る) 【佐田大明神】(祭九月九日) 【徳叢山円福寺】(曹洞宗) 徳叢山円福寺開基年暦詳ならず、蓋延喜式に所謂依遅神社の別当なりといふ。 〉 吉永の小字一覧吉永(よしなが) 九ソコ(くそこ) 大ヅエ(おおづえ) 免谷(めんだに) カコバラ 矢畑(やばた) 荒木(あらき) 松枝(まつえだ) 北垣(きたがき) 古川(ふるかわ) 沖田(おきだ) 小南(こみなみ) 浄土(じょうど) 棚垣(たながき) 申ケ畑(さるがはた) 神宮下(じんぐうした) 九郎橋(くろうばし) 掛畑(かけはた) ?(木編に若)垣(おどりがき) シセン 地トワ(じとわ) ウス谷(うすだに) 神宮屋敷(じんぐうやしき) ナシケ成(なしけなる) 石ケ戸(いしがと) 下岡(しもおか) ブロ カトリ 松ノ木(まつのき) 二反田(にたんだ) 上川原(かみがわら) 馬場谷(ばばだに) 宮坂(みやさか) 馬場上(ばばうえ) 大畑ケ(おおばたけ) ヲナ谷(をなだに) ナメラ トヲフ山(とをふやま) 古屋敷(ふるやしき)* 寺尾(てらお) サイクワ 段尻(だんじり) ヱノ木谷(えのキだに) 苗代(なわしろ) 家ノ下(いえのした) 道ノ上(みちのうえ) 家ノ上(いえのうえ) 茶ケ谷(ちゃがたに) 隠谷(かくれだに) 高尾(たかお) 一ツ町(ひとつまち) コゝ田(ここだ) ダケ 森(もり) ウマノリ カジ畑(かじばたけ) 竹藤(たけふじ) 大久保(おおくぼ) 池ノ久保(いけのくぼ) 西ケ谷(にしがたに) 家ケ田(いえがた) 溝坂(みぞさか) 臼ケ田(うすがた) 力石坂(ちからいしざか) ウルシ谷(うるしだに) 大山(おおやま) 大山坂(おおやまさか) 黒ガヘ(くろがえ) 大谷(おおたに) □切(きり) 市ケ尾(いちがお) 五反田(ごたんだ) 一ノ段(いちのだん) 石裾(いしくくり) ヲテンボシ イツキ 万谷(よろずだに) 友成(ともしげ) 橋ノ本(はしのもと) 長尾(ながお) トツ谷(とつたに) 棚田(たなだ) 岩木イセキ溝(いわきいせきみぞ) 竹野イセキ溝(たかのいせきみぞ) ハス池(はすいけ) 宮ノ尾(みやのお) 中尾(なかお) 万願寺(まんがんじ) 清水(しみず) 台山(だいさん) 陽舟(ひぶね) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『丹後町史』 その他たくさん |
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