丹後の地名

久田美
(くたみ)
舞鶴市久田美


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京都府舞鶴市久田美

京都府加佐郡加佐町久田美

久田美の地誌




《久田美の概要》

久田美は舞鶴市の西部。由良川右岸に位置する。志高の対岸、岡田下小学校から東側へ入った久田美川流域にある。城屋(じょうや)に越す真壁峠道(江戸期の丹波道・河守街道)沿いにある真壁(まかべ)も久田美の枝村である。
集落内を流れる久田美川は「毎年夏期に小字中地から下地の辺りまで川水が枯れ、伏流水として下流で再び地上に現れる。「くたみ」の地名も腐れ水・芥水(くさみ)のごとく、当地方では珍しく清水に乏しいことに由来すると伝える」(『京都府の地名』)。川上から上地・中地・下地と称されている。
久田美村は、江戸期〜明治22年の村名。久田美は明治22年〜現在の大字名。はじめは岡田下村、昭和30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字となる。


《人口》478《世帯数》152(久田美と真壁の合計)。

《主な社寺など》
臨済宗東福寺派区奥山医王寺跡(応安7年銘の宝篋印塔・淡青繚色の日引石、台座左右の柱に「応安七年二月□□」の陰刻)
熊野神社
天満社・愛宕神社・日吉神社・柱神社・八幡神社・稲荷神社・岩神社・秋葉神社・山神社・鹿嶋神社・妙見宮
曹洞宗桂林寺末虎嘯山林渓寺
真下源五兵衛の山城跡
浅賀弥五郎の山城があったと伝える
岡田下小学校(校庭に昭和43年児童を救助して殉職した有本正の顕彰碑)


《交通》

《産業》


久田美の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 久田美村
昔霊湯桶出繁昌の事あり、今に湯の滝と云う滝あり、薬師堂、区奥山医王寺今は屋敷跡ばかりなり。若一三大熊野十二社権現社あり。久田山林渓寺村中の菩提所なり。山城二ケ所ありと雖、城主を知らず直壁峠坂見谷と云う枝村あり。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免七ツ五分
久田美村 高五百弐拾九石九斗八升
     内拾五石八斗五升四勺 万定引
     弐拾五石御用捨高
 前方久田山ト云 先御代御鹿狩御鉄砲ニテ猪一狐一
御打留給人御供山ニテ陣羽織着用

林溪寺 虎嘯山 桂林寺末
薬師堂
区奥山 医王寺 只今無シ屋敷斗
若一三大熊野十二社権現 氏神  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎久田美村(桑飼下村の次)
【若一王子熊野十二社権現】
【虎嘯山林渓寺】(曹洞宗)
【区奥山医王寺】(廃寺)
 【付録】(天満宮、熊野権現、稲荷(はと地)、愛宕(さかはた)、山王社(長谷)、荒神社(十川下)、八幡宮(はた地)、多門天王(いろ)、地蔵堂(薬師谷)、愛宕(おつら)、祇園(薬師谷)、弥勒堂(薬師谷))
○真壁(久田美村の枝郷)
【山神社】  〉 

《加佐郡誌》
 〈 桑飼上、桑飼下の二ケ字はもと岡田下村字久田美共に、宇谷庄を成していたものである。

応徳元年久田美村の城主村上陸奥守岡田庄を配して、猪熊村、熊之美(見)村とし、猪熊村は又字由里、西方寺、富室、漆原の四字に分ち、熊之美村は地頭、大俣、高津江の三字に分った。所が寛治元年に改めて、由里村、富室村、西方河原村、下漆原村、上漆原村の五箇村を以て猪熊村を配する事とした。そして後更に仁治元年西方寺村の内字河原、下見谷、寺尾を以て河原村と称し、一村を配する様にしたのである。

久田美の宇谷庄に属していたことは岡田上村の項に記してある。然し尚此外志高庄又は岡田庄に属していたこともあると云ふ。  〉 


《岡田下村誌》
 〈 久田美
久田美は元桑飼上 桑飼下と共に字谷庄を成していたが、何時代に本村に入ったは文献に不詳である。
粱邑は、旧草高五百二十九石八升 定免七ツ五分
  内 拾五石八斗五升○四勺が   萬引高
    二拾五石が         御用捨高で
残高が四百八十九石一斗二升九合六勺となっている。
しかし取米は三百六十六石八斗四升七合二勺で右高の内で非常被害に罹った年は御介抱として御引高下されたと云ふ尤も慶応二年より同三年まで五ヶ年平均に連年二百石餘の引米下された。
外に 拾八石三斗四升二合四勺  但し取り米  五歩掛け  口米
   九石四斗六升七合四勺   新田高取米ロ米引

   二十三石一升九合一勺  ?米
   一石三斗一升       竃役
   二斗二升一合七勺    鍜冶炭代
   一石四斗八升五合     木売代
   一斗一升       稲木代
計 四百廿一石一斗一升二合八勺が定免となった。
諸運上は
   一、銀四十三匁五分   家運上
  一、銀十四匁       雉子七羽代
  一、端折紙      三束代
  一、入木       五百二十八本
である。
村役人として、大庄屋一人庄屋二人年寄二人あって、庄屋一人の時は年寄が三人が出た。
次に法令下達法は公儀より出た定目書に領主奥書式を以って板に墨痕淋漓と認めた各村へ下附し村々では制札場を設け之を掲示した。久田美の掲示湯は熊野村社の前に建っていた。
是等法令下達法については庄屋組長を集め其趣旨誤りなき様下々へ注意したものだ、但し是等の最札は久田美大火災の際惜しくも焼失した。
小作料に関しては
 一等田 二石
 二等田 一石八斗
 三等田 一石五斗
但し凶年には地主と小作人と熟議の上減免した。
租税及徴牧方法を探ると
一、正租額が
草  高  五百二十九石九斗八升に対する三百九十七石四斗八升五合で免租は一石に付七斗五升であった。
明治五年以前貢米取立ては夫米と唱へ百石につき四斗四升口米を唱へ正米百石に付五石を上納し水害旱魃の年は検分を受
け御介抱と称し上納高を減じてもらった。
其他諸運上入木は家一軒に付十六束で此の戸数は往古の戸数で現在に比して半数内外であろう鍛治炭籠運上はその賦課理
由不明であり家運上は一軒に付銀一匁五分雉子運上は一羽の代銀二匁木売運上は不詳夫役人足米は高十石に付三斗の割を
以って村民より庄屋に収めて右人足に渡した。
冥加金は一人につき一日七合五勺で間損金は年一回庄屋宅で集金の上村より一人一日に七合五勺の補助米を与えた。
二、備荒儲蓄の目的
 郷倉を設け相當の貯蓄米も有ったらしい。
 村役人の待遇及賞罰に就ては
 庄屋は二十五石年寄の十五石の高役御免となり、麻上下着用認可の場合多くは御用金献納によるもので維新前後に麻上下の着用を許されしものは時の庄屋眞下弥右エ門のみであった、
物産としては
 米  百五十石     渋柿  二千四百貫
 猪子  三千貫     繭  九百三十四貫
 桐実  百石      馬旧実  七千貫
杉皮  千萬材  木炭  六十三駄
    薪  壹萬貫    甘蔗 一萬貫で
この職業に従事するものは
   男  二三二戸人
   女  百五十人であった。  〉 

久田美も鉄に違いないと伝説は伝えると思われる。鉄にまつわる伝説が目白押しに残る。

『舞鶴の民話1』久田美のから川(熊野神社社前)
 〈 久田美のから川  (久田美)
 由良川河口から上流一キロメートル、久田美村を流れる小さな川がある。丹波境から由良川まで四キロのこの久田美川、毎年夏になると清流はきまって切れてしまう。下流の由良川合流点近くなると再び姿が見える。豊かな流も一斉に地下にもぐって伏流水になるのだこれを八田美川のから川という。イネの出穂期水のいるとき無くなるのだから、農家にとっては頭の痛いことである。農家にとって生命の水さえうばいかねない、やっかいな川だ。
 むかし、ある夏の日、焼けつくような昼下がり、あえぎあえぎ道を行く、みすぼらしい老僧があった。老僧は清流で洗たくをしていた一人の老婆に、「のどがかわいているから、どうか一杯の水を恵んでほしい」とたのんだ。
 老婆は老僧をじろじろ見、「お前のような他国者に一杯たりとも水をやるわけにいかない」とそっけなくいった。老僧は手を合わして再度お願いした。老女は聞こえぬふりして洗たくを続けた。
 老僧は手に侍っていたツエであたりをつつくと、あら不思議、川の水はどんどんその穴に吸いこまれていく、老女の洗たくしている水がどんどん穴に入っていく。清流はどこともなく消えてしまった。清流のあとを見ていたこの老僧は、弘法大師であったと伝えられ、以来、毎年夏になるときまってこの川の水がかれるようになったとか。
 久田美の歴史は水との苦斗の歴史でもあった。水田の水あらそいも繁しかった。夜陰に乗じて上の田に竹づつを打ちこみ、こっそり水をぬすんだという話も残っている。洪水時には由良川の本流が逆流してきて家をおそう。床上侵水はよくある。
 現在でも緑の波うつ水田には、田んぼ見廻り役の人たちが、夜通し監視の目を光らしている。


大師さんのわらじ (久田美)
 いまから千年ほど前のある寒い冬の夕ぐれ、久田美小字小山鼻の真下仁右衛門という家へ、旅につかれた老僧がおとずれ、一夜の宿を乞うた。
 あまり立派な家でなく、大雨が降ると雨がもった。その日は丁度老妻が留守番をしていた。その人は足が悪く不自由な身であった。老妻は、こんなあばら家で食料も少いですが、どうぞおとまり下さいと泊めることになった。
 いろりの残り火にまきを入れ、暖かくした。その火のあかりに老僧の顔は、みすぼらしいころもにもかかわらず福よかであった。寒い夜なので老妻は粟がゆを作って僧を暖かい心でもてなした。老僧は感謝しつつ立ち去った。数日後のことだ。身分いやしからぬ人がこの家をおとずれ、
「お宅にお大師さんがお泊りになったとの事ですが、何かお残しになったものはありませんか。拝まして頂きたい。私は難病で困っているので、おかげを受けたい」といった。家中をさがしたところが、すりきれた古い「わらじ」が一足残っていた。
 その人はそれを押しいただいて拝み、病気平癒をお願いした。体が何だかすっきりした。その後間もなく病気はなおったという。この事が聞き伝え、言い伝えられて、「久田美上地のお大師さんのわらじはおかげがある」と、お参りする人があとをたたず、その老婆の家は、お礼にお米や野菜が山ずみとなった。その老婆が死んでからも、そのわらじをおがみに来る人は多く、近所に飲食物を売る店まで出来たということです。
 貧しいながらも老婆の心からなる接待と、お大師さんへの信仰は、多くの人々の病気をなおし、人々への真心が大切であることを教えた。
 その後人々は、ほこらにお大師さんをまつり、わらじを奉納して病気平癒と息災をいのったという。 「足が悪い」のは老妻か老僧かよくわからないが、たぶん老僧であろうか。舞鶴では唯一の例。鍛冶屋の神様である。
真下(ましも)サンはこの辺りにも多いが元々は鍛冶屋さんのようにこの伝説からは思われる。 

『京都丹波・丹後の伝説』(しるべ イラストも)
 〈 久田美のから川   舞鶴市久田美
 由良川河口から上流一キロ。舞鶴市久田美地区を流れる小さな川がある。丹波境から由良川本流まで、わずか四キロのこの久田美川は、毎年夏になると清流はきまって〃蒸発〃。下流の由良川合流点近くで再び姿を見せるふしぎな川だ。豊富だった水は、一斉に地下にもぐって伏流水に姿を変える。これを久田美のから川という。イネの出穂期を迎える水田にとっては 〃一滴千金〃の重みを持つ水、農家は頭が痛い。それだけではない、ときには井戸水の枯れることもあった。住民には、生命の水さえ奪われかねないやっかいな川だ。から川は住民にとって自然の恐怖そのものであり、夏は〃受難の季節〃でもある。

 昔、ある夏の日。焼けつくような昼下がり。肩で息をするように、あえぎあえぎ道を行くみすぼらしい老僧があった。老僧は清流で洗たくをしていた一人の老女に出会った。「のどがかわいているのでどうか一杯の水を恵んでほしい」と老僧は頼んだ。「お前のような者にやる水はない」。老女はそっけなく断った。そこで老僧は「それなら洗たくの出来ないようにしてやろう」と手に持っていたツエであたりをつつくと、そのままいずこともなく立ち去った。水は、みなその穴に吸いこまれ、流れは消えた。この老僧は弘法大師だったと伝えられている。以来、毎年夏になるときまってこの川の水が枯れるようになったという。
 久田美の歴史は水との苦闘の歴史でもあった。いまでこそ簡易水道が普及しているため飲料水に事欠くことはないが、井戸水だけに頼っていたころは「夏がこわかった」と古老はしみじみ語る。水田の水争いも激しかった。夜陰に乗じて上の田に竹づつを打ち込み、こっそり水を盗んだというエピソードも残っているほど。由良川合流点付近にため池を掘り、村中総出で水車を踏み、やっとイネを枯死から守ったこともあったという。
 住民にとって水との闘いは渇水対策ばかりではない。洪水時には由良川本流の濁水が逆流して人家を襲う。床上浸水はザラだ。いまも緑の波打つ水田には、田んぼ見回り役の監視の目が光り、水争い防止にヤッキ。久田美地区民にとって水の悩みはつきないようだ。 (カット・真下久美子さん=舞鶴市岡田下校)

 しるべ
舞鶴西地区の市街地から西南へ一・五キロ。綾部市境登尾峠付近を源流に、久田美地区を流れる由良川支流。砂地になっているため、毎年夏になると中地から下地地区の出合いあたりまで水は枯れ、下流で再び地上に現れる。  

『舞鶴の民話2』
 〈 湯の滝  (久田美)
 久田美の村外れから山の方へ二百米ほど奥の方へいくと湯の滝といって、清水が岩にぶちあたって玉のようにとびちり、夏でも冷気をおぼえる。
 むかしのことだがと古老は話しはじめた。
このあたりには暖かい空気が一杯だった。それもそのはず、湯がこんこんとわき出て、岩の間は温泉になっていた。村人はこの温泉こそ天然だ、一日の仕事の疲れをいやした。病気の人達もよく温まるので使っていた。その頃は田をすぐときは牛をつかい、早く物を運ぶ時は馬をつかっていた。
 村には馬は三頭しかいなく、太郎作の家には馬がいた。なかなか欲の深い男で、金をためるのが人生の最も楽しみ、喜こびであると思っていた。何とかしてあの温泉を一人じめして、入る人からお金をとりたいと、近くの田畑や山を買い取る事になった。その計画もうまくいき、あと二、三日で我が手中に入ることになっていた。
 彼はいばるように馬をつれて温泉にいった。村人が次から次に入っている、「よしおいはらおう」と馬をつれていくと、村人達はびっくりして温泉より出てしまった。馬はヒヒンというと温泉に足をつけた。そのとたんさっと白いものが立ちあがったと思うと、白い煙は雲になって北西の方に飛んでいった。
 不思議なことに今まで湯気をあげていた温泉からは湯気があがらなくなってしもうた。男は馬のそばに行った。水である。湯は城崎温泉の方にとんでしまったという。
 村の人たちは温泉がなくなったのをおしんで、神様にお祈りしたが駄目だった。
太郎作も馬もいつのまにか村でみかけなくなった。欲をし、人のためにならぬ事をするといけないのですね。
 今ではこの岩間につめたい水がこんこんと湧き出ている。

湯の滝 (久田美)
 久田美の村外れから二百米余り奥へいくと湯の滝といって、清水が岩にぶちあたって、玉のように水がとび散って夏でも冷気をおぼえる。ここに民話が残っている。
 むかし、ここは名の通り湯がどんどんわいて、村人たちは天然の温泉として、一日の仕事のつかれをいやしたり、老人たちの憩い、話しあいの場所として楽しい場であった。
 そのころは田をすくのには牛が使われ、農家の入口の右側の部屋は牛小屋になっていた。又荷物を運ぶときは、牛の他に、早く運ぶときは馬を使っていた。
馬は村の資産家の家だけにいた、村全体で三頭しかいなかった。太郎作の家には馬がいた。なかなか欲の深い男で、金をためるのが人生の最大の喜こびと思っていた。金になることは何でもやっていた。家はそう広大でもなく、金がたまっていくのがうれしかった。あの湯の滝はみんなが毎日のように入りにいくし、他所からも、いい湯だと湯治客がやってきていた。太郎作はどうしてもあの温泉を一人じめにして、入りたいものには金をとって入れたら金がもうかるだろうと、村人には言葉たくみに、温泉の設備をしたり、他所から来る人の宿も作ったらいいと話しそのあたり一帯の土地も買収しようとした。村人はやゝ不安があったが、温泉の設備が次々にできるので、あのけちんぼにしてはいい事をしてくれると喜んでいた。太郎作としては土地の買収もでき、設備もようやく出来あがりだした。金を使ったが、今にみていろ二倍にも三倍にもしてやるぞとほほえんでいた。裏の馬小屋につないだ馬がいつもと違って馬鹿さわぎする。馬がヒヒンと鳴いたと思ったら、つなが切れ、一目散にかけだしていった。
太郎作は大事な馬が逃げたとあっては大損と、はあはあいいながら馬のあとを追った。馬は湯の滝の方へ走っていく、せっかく作った温泉の設備がこわされてはならじと太郎作は走りに走った。馬は湯の滝の温泉に足をつけ、さも気持よさそうにあびていた。馬や牛は入れないことになっている太郎作は追いつき、「しいしい」と馬にいった。馬はばしゃばしゃと足ふみした、水が太郎作にかかった。彼は思わず驚いた。湯のはずの水が、ただの池の水と同じだ。青くなって温泉に手をつけた、今まで温かった水は冷水となっている。
 欲のかたまりの太郎作は、ただ妄然と立ちつくした。温泉は城崎の万へとんでいってしまったのだ。村人たちは、湯のわかなくなった湯の滝を惜しんだと共に、太郎作をにくんだ。
 いつしか太郎作も馬も村からいなくなった。  

『舞鶴の民話3』 (イラストも)
 〈 おはぐろ (久田美)
 由良川沿いの家々は、石がたくみに積まれた上にある。これは川中に小島があった時代大水に備えたためである、石垣のない家の軒に木舟がつりさげてある。今は川中の島ものぞかれて水のつくことも少なくなった。大川橋もむかしは舟をならべその上に板を並べて人が渡っていた。大水のとき橋は水位とともに上にあがったという。
 山は紅に黄に色どりあざやかである。バスをおりて川沿いを歩く。あちこちにビルがたち自家用車が並んでいる。さだめしおいしい食べものに田舎にきたよろこびを楽しんでいるのだろう。金がない私にとっては望むべくもない。すすぎがおいでおいでしている。マンジュサゲが気味悪いほど真っ赤にかたまっている。尋ねていく家はまだ遠い。車がどんどんおいこしていく。手をあげて止めようか、歩け歩けと自分ではげましながら歩く。妻がいたらすぐにいけたのに。昔の人たちはわらじばきで歩いたのだ。私はゴムのついた運動ぐつだ。むこうから可愛いい小学生がくる、遠足なのだろう。若い女の先生が大きな声でうたってる。「どんぐりころころ どんぶりこ おいけにはまって さあたいへん、どじょうがでてきて こんにちは、ぼっちゃん いっしょにあそびましょ」思わず私も口ずさんだ。「どんぐりころころ、よろこんで、しばらくいっしょにあそんだが」子供たちもうたっている。久しぶりだ。大川神社に遠足のとき、子供と共にうたったことが思い出される。こどもたちが私にむかってV字サインを送ってくれる。あの子は赤いズックぐつだ。「あかいくつはいてたおんなのこ、いじんさんにつれられていっちゃった」「バイバイ パイ」
いつのまにか目的地にきた。むかえて下さったのは腰のまがったばあさんだ。
「足立さんかえ、歩いてきさったのか」
「私は自動車ようのらんでな」
「電話してくださったら娘にむかえにいかせたのに」どんな娘さんかみたかったな。
今頃にしては、めずらしいわらぶきの家だ。黒びかりしたえんがわに座った。
「まあざぶとんでもしいて下さいな」むすめさんがお茶をもってきて下さる。
「あれ、あなたは与保呂の子でないの」
「あゝ先生おひさしぶり、私の母の家です」
「あの人はおばあさんなの」
「そうですよ、今でも畑にいってるの」

 むかし、この村に美しい娘がいたんじゃ。村の若い男たちがいいよるが、娘には毎晩のようにいい男がやってくる。京の男のようで、娘はやってきてくれるのを待っていた。でも、戸をあく音もしないのだ。母親が、
「どうも、あれはくちなわにちがいないじゃ」
「そうじゃろか、でもお話きいていると面白いよ」
「ためしに今度きたら針をば耳にさいてみい」
娘は若いもんの耳たぶへ針をさいた。おどろくように若いもんはとびおき、うしろもみないでいんだ。母親があくる日、若いもんが去った方へ行ってみた。すると蛇が苦しむように死んでいた。くちなわにはカナ気が毒で、死んでしもうたげな。
 くちなわにカナ気が毒じゃということで、むかしのおなごは嫁になると、みなおはぐろてえもんをつけたが、おはぐろは、クロガネを沸かいてこしらえるもんじゃさかいで、それをつけてえと、くちなわがつかんてえことをいうでよ。  

『舞鶴の民話5』
 〈 寺山のなぞ (久田美)
 高野の城屋の奥から真壁峠を越えると、由良川がみえる。久田美につく。久田美川があるが、夏季には水が枯れる。伏流水である。久田美の地名も、腐れ水、芥水(くさみ)のごとく、当地方では珍しく清水に乏しいことに由来すると伝えられている。
 その昔、この寺山一帯には、いまの薬師堂を中心に七堂伽藍がそびえ、国守一色氏の信仰もあつく、聖地として栄えていた。字名を調べてみると、寺谷口、寺谷、寺谷梅女、寺谷滝ノ方、寺谷滝ノ尻、寺谷大谷、寺ノ下、寺ノ前、寺山口、薬師谷、寺山、堂の上などと他の地域に比して寺のつく地名が多く、寺の規模がわかる。
 子供たちと大川神社への遠足のとき、ここを通りながら、寺山の話をしてやると、「ほんとにここにお寺があったの」と不思議そうにいう。ここで一休止していた畑がえりの八十才はこした老人が、くわをかついでやってきた。子供たちが老人を囲み、「おじいさん、ほんとにここにお寺があったの」と聞く。おじいさんは、「うんうん」空をみながら「そうだよ、私のおじいさんから、大きなお寺があちこちにあったと聞いている」「うわあ、先生のいったこと、ほんとやったな」と喜びの声をあげる。
 私は老人に尋ねた。「ここには、何か謎めいた歌があるのではないですか」老人は、待ってましたとばかりに話しだした。「登るも左、下るも左、花の下、黄金千両」というのだ。子供たちもテレビの昔話で千両は知っている。どこにあるのだろうかと、あちこち見る。「おじいさん、その千両みつかったの」「残念ながら、みんなであちこち掘ったが、しかし、まだ発見できないのだ」と。
 私は子供たちを担任にまかせて、老人と話をつづける。老人は、「この久田美のいいつたえがあります」といいながら次のように話をしてくれた。
 「その昔、この寺山一帯には、今の薬師堂を中心に七堂伽藍がそびえ、国守一色氏の信仰も厚く、聖地として栄えた。その寺院の財宝か、あるいはこの地を領していた豪族の軍用金を埋めたという。そのかくし場所を示すのがこの歌であると思われるが、まだこの謎をといて黄金を掘りあてたという話は聞いていない。この地方では仏前に供えるシキビを俗に花といっており、この一帯には多生している。宝は花の下というから、あるいはこのどこかに埋もれているかも知れない。由良川の大水で、土砂と共にどこかに位置が変わったのかも知れません。何にしても、久田美の寺山の謎として残ることでしょう」「ありがとうございます」といい、老人とさよならをして、先をいく子供たちに追いつくべく、早足でおいかけた。 

『まいづる田辺 道しるべ』
 〈 真壁
 「マカベ」といえば、誰しも久田美の真壁と思われがちだが、実は城屋、野村寺、高野由里にも「マカベ」という小字名のあることが分かり、これには何等かの関係があるのではないかと聞いているうち地元の古老より、次のような興味のある話をしてくれた。
 「昔、城屋に大きなマカニ(真蟹)が住んで居た。女布の森脇宗坡の娘が婚家より里帰りの途中、城屋の日浦谷で大蛇に食われたのを大変怒った宗坡は、直ちに大蛇を退治した。その大蛇を三つ切りにしたのが、この大きな「マカニ」であった」といわれている。
 この大蛇の頭部は、城屋の雨引神社へ、腹部は野村寺の中の森神社へ、尾部は由里の尾の森神社へと、それぞれお祀りしたと伝えられている。
 この「マカニ」が転訛して「マカベ」の地名となったとか。
 さて、河守街道は、真壁峠の頂上より真っすぐ狭い急坂を下り、真壁村の入口(現在の真下仁氏の家の上辺り)に下りて来る。
 往昔、この峠は大変急坂で、頂上附近の大杉に馬を繋いで一服したと伝えられ、又、地元の古老の話によると、「峠の頂上に、昔は広場があり、殿様がこの峠を越えられる時、この広場が休憩場所になっていた」という。今はこの広場は無い。
 又、八十過ぎのある老母がこんな思い出話をしてくれた。
 「城屋より峠を越えて真壁に嫁に来たが、嫁に来た当座は、里が恋しくて恋しくてならず、昔は車も無く、里に行くのに真壁峠を歩いて越える以外に方法がない。里帰りには、家の人に峠の頂上まで送ってもらい、頂上からは、里の親が迎えに来てくれており、一緒に実家へ里帰りしたものである」という。
 この話は、一昔前までの真壁峠の往来の様子が、なんとなく偲ばれて来る。
 峠を下った処が真壁の村となり、人家が北側の谷間に密集している。
 この集落の入口、山鼻に安永二年(一七七三)三月吉日に建立された庚申さんが祀られている。この庚申さんがあることは、ここに旧道があったことを裏付けている。この谷の集落について「岡田下村史」によると、
「山ノ神(享保六年(一七二一)に勧請す)の奥、キサ谷、馬崩谷、下の谷に住居をかまえた」とあり、今よりおおよそ三百年前に久田美より、何世帯かがこの谷に移り住んだのが村の始まりといわれ、久田美城主、真下源五兵衛の流れをくむ子孫であるともいう。
 真壁は、久田美村の枝郷であったが、滝ケ洞記によると「安永七年(一七七八)の宗門入用割付」に真壁村と書かれており、一時期村であった時もある。
 この集落の奥より、藤津峠の溜め池の処へ出るマオク峠があった。今は通らなくなったが、昔は上福井に出るのに、よく利用されたという。  〉 

『岡田下村誌』(昭29)に、
 〈 ほのご由来
久田美小字池田の奥に旧高三十石の『ほのご』と称する土地がある。
古くより久田美の所有地であったが慶長年間、隣村城屋之れに異議を唱へ紛擾容易に解けず止むなく裁定を国主に仰いだが、隅々岡田上村と宮津領とに殆んど同一の争議があって幕府はこれを宮津領に決定した前例があるので、國主の曰く 例を之れに取らんと、遂に城屋の所有に帰したと傳えている。

久田美城
久田美小字土穴の一小丘に古代白屋民部と称える者が築城していたが、其年代や事蹟は不詳である。近年こゝより発掘した古茶碗があったと傳えられている。又茂津山にも城跡あり、眞下津(志月)民部大輔の占拠した所と称せられるが、其年代事蹟は不明である。
久田美に於る現眞下性の祖先は、眞下津民部大輔と云っている。近時その麓より土器を発掘した。尚眞壁小迫田にも山塞があったと傳えられるが、近年その附近より古代壷を発掘した。

湯の滝
久田美の村はづれから二町余り奥へ行くと湯の滝と云ふ所がある。清いつめたい水が巌石に激して玉の如く飛散っているが、昔は湯がわいたと云ふ事だ。今はなぜ湯がわかないかと村の古老にたづねると「この地に住んでいた馬が足をつけてからこゝに湯がわかなくなって、今の城の崎温泉まで飛んだ置云ふ事だ。」と物語ってくれた。

から川
久田美部落を貫流する久田美川は、毎年夏季になると小字中地より下地の出合辺まで河水が涸れて下流で再び地上にあらはれる。これを久田美のから川と称える。
伝へて言ふ。或夏の日、見すぼらしい老僧が、道を通りかゝって、この川に洗濯せる一老婆に向ひ「我れ渇した、願はくば一杯の水を与へよ」と、老婆答へて「お前の如きものに与へるものは無い」と素気なく振放った。僧曰く「よし然らば汝が洗濯の出来ないやうにしてやらう」と、彼の杖を以てその辺をつゝいた。そして何處ともなく去つだ。それから水は皆その穴に吸込まれて流れなくなった。この僧は弘法大師であったと傳へている。

尾の木畷
小学校下の橋を渡って畑の中々行くこと一町余、旧道と新道と相会する附近を二本木と云う、これ所謂古の尾木畷である。伝へいふ細川藤孝の子忠興、明智光秀の女をめとって勢強く舞鶴、田辺城の主となり、関ヶ原の戦起るや忠興軍を督して直ちに東軍に走せ向った。時の福知山城主屋木重勝、石田三成に与して田辺城を包囲した。城主の居ない田辺城には僅少の兵と義の爲めに馳せ参じた、桂林寺住僧達の山法師のみであった。城の運命は嵐の前の燈火よりも危かった。「この時古今傳授の佳話が生れた」恰もよし、関ヶ原戦に大勝して凱旋した忠興の軍勢は「おのれにつくき尾木勢よ」と一挙に攻立てたので尾木勢は囲を解いて逃げるより外なかった。細川勢は「それ一騎も逃すな」と追撃破竹の如く大将尾木氏は漸くにして二本木まで落のびたが、遂に力尽きて敵の爲めに殺された。それからこゝを尾木畷と云ふやうになったのだと。因に桂林寺へはその功により後ちに有栖川宮から賞を下贈せられたといふ。  〉 

久田美の小字


久田美 下川クゴ 由里ケ下 ワンド 浅ケ由里 大橋 稗田 八反田 上川クゴ 中ノ坪 横枕 川尻 毛ノ町 二本木 五両 平田 長手 笹土井 堂ケ迫 小迫田 小迫田口 花ノ木 小迫田鼻 迫田谷 迫田鼻 清水口 清水谷 高欠 小熊谷口 小熊谷 熊谷口 熊谷 深田 カシノキ 芦原 山ノ神 下ノ谷 サキ谷口 下ノ谷口 家ノ奥 家ノ上 キザ谷口 キザ谷 馬崩シ口 馬崩シ谷口 マオク屋敷上 山ノ神下 赤鼻 火鉢 小谷 ズンデイ 峠尻 峠平 峠 大田 小暮谷 ヤンゲン 長尾 暮谷 長尾口 越太夫 小火鉢 ベッタリ ベッタリグチ 竹ノ内 竹ノ内口 エブリ エブリグチ 菖蒲谷口 菖蒲谷 堂田 角田 ノベ エノクゴ 曲リ 八ツ町 土穴口 細田 土穴 細工ケ下 溝ノハタ 白屋口 庚申鼻 欠戸 這上リ 岩神 才ノ木 出合 天神 石場 石場口 大林 石カ迫 荒神田 ウシロ谷口 寺谷口 ウシロ谷 シュウグイ 四反田 寺谷 寺谷梅女 寺谷滝ノ方 寺谷滝ノ尻 寺谷大谷 椿原 河原田 下木原口 下木原 アザミ迫 歩行谷 寺ノ下 赤尾鼻 岩鼻 池田口 寺ノ前 中村 日向地 コイロ コソダ 宮ノ谷 馬場 栃風呂口 真奥 タノ谷 栃風呂 細迫 銀バリ口 梅ノ木谷 孫八谷 馬場地 カン尻 兵谷 中島 地蔵ノ前 寺山口 薬師谷 寺山 堂ノ上 カセ村 荒神前 大門 カナヤ 大寺 上中道 中道 墓ノ尾 下中道 下倉 田ノ谷口 柳谷 桑ケ迫 丸山 西ノ谷 舟迫 大滝 薄木 奥ノ谷 小山 小山鼻 中筋 地主 上河原 市ノ川 ハヤ迫口 ユノタキ 滝ノ方 上ハサコ 上ハサコ口 ナベツチ口 タラ原口 タラ原 イモ 井根頭 肥刈口 銚子口 肥刈 片欠 舟ケ谷口 藤木谷口 藤木谷 松尾谷 平尾 山ノ神谷口 梶ケ谷 平尾口 蛇ケ鼻 嶽 堀尻 中平 赤尾 高坪 高ツブリ 小窪 下地 中地 中ノ谷 奥山 丸橋 池田日向 真壁谷 真壁日向 池田 小穴口


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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