丹後の地名

大俣(おおまた)
舞鶴市大俣


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京都府舞鶴市大俣

京都府加佐郡加佐町大俣

大俣の地誌




《大俣の概要》

大俣は舞鶴市の西南部。由良川支流檜川の流域に位置し、西は福知山市大江町。北は宮津市。京都縦貫道自動車道が通る。
大正5年から栃葉で銅・鉛を採掘、最盛期には坑夫20世帯が居住し、地元民約40人が稼動したが昭和43年閉山した。という。
大俣村は江戸期〜明治22年の村名。大俣は同22年から岡田上村の大字名、昭和30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字。

《人口》274《世帯数》104。

《主な社寺など》
嶽神社
曹洞宗瑞雲山法隆寺
檀神社
木戸神社
伝説の大江山鬼退治にちなむ市無形文化財大俣太鼓の保存会
小字別荘に滝尾寺跡
諏訪に善導寺跡
毘沙門には中世の浮橋左近勝家・野間安芸守治吉が拠ったと伝える城跡


《交通》

《産業》


大俣の主な歴史記録

『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 一 岡田庄 卅九町九段四歩内
  廿町四段  御料所庄主
  十町二段二百卅六歩    地頭 下山殿
  五□百八十歩        大祥寺
  一□□段          大俣分
  五町三段二百四十八歩    無現地  〉 

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 大俣村
仏土山法隆寺菩提所なり、これまた城の跡あれども城主知らず  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 大俣村 高百九拾六石弐斗四升
    内弐石 万定引
    七石御用捨高
 栃葉 定免七ツ三分
    高五拾六石三斗九升
 小俣 高五拾三石五升九合
    内四斗二升弐合 万定引
    弐石御用捨高
 滝ヶ宇呂 高拾石
      内四石引残六石
       取米 六石六斗 無口米
 法隆寺 瑞雲山 専念仏土山ト申タル由桂林寺末
 三宝荒神 大俣半分ノ氏神  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎大俣村
【岩掛明神】
【瑞雲山法隆寺】(曹洞宗)
【浮橋左近城墟】
 【付録】(稲荷社、荒神、愛宕、八幡、古河の社、大神宮、薬師堂)  〉 

《加佐郡誌》
 〈 地頭は後堀河天皇嘉禄の頃には洪厨熊浪村といひ、大俣も其の一部であったと言ふことが同地西飼社の旧記に載せてある。  〉 

『舞鶴市史』
 〈 大俣(栃葉)鉱山
岡田上地区栃葉にあり、銅、鉛を主として採掘していたが、昭和四十三年ごろ閉山した。
 その経過は次のとおりである。
 第一次採掘 大正五年から採掘がはじまり、同七、八年の最盛期には坑夫とその家族二○数世帯が居住し、また大俣の住民約四〇人が雇われて、主として銅を掘り出し、このほか少量の鉛、鉄、銀などもとって地頭まで搬出、舟で由良港へ送っていた。大正末期から休鉱した。
 坑道は、
   第一坑 奥行 一八〇メートル
   第二坑 同  一五○メートル
   第三坑 同 二五○メートル
 第二次採掘 昭和三十五年七月から大谷重工株式会社によって、前記第三坑を重点に採掘を再開した。一日の出鉱量は最盛期には一トン、通常は三日に一トンであった。
 同三十七年選鉱設備を充成し精選したものをトラックで三菱精錬所(大阪)へ送っていたが、昭和四十三年ごろより国の補助の打切り、労働賃金の上昇などで採算がとれず同年十一月閉鎖した。  〉 

=伝説など=

《京都丹波・丹後の伝説》
 〈 大俣太鼓    舞鶴市大俣
 秋祭りもたけなわのころ、あちこちから笛や太鼓の音が聞こえてくる。舞鶴市大俣地区にも、おとぎ話などで有名な源頼光の大江山鬼退治に由来する大俣太鼓が伝わっている。
 昔むかし、丹波の大江山に鬼が住みつき、付近の村々や都に出ては大暴れしていた。そこで朝廷は源頼光に鬼退治をするよう命じた。頼光は坂田の金時、渡辺の綱らの四天王たちをひき連れ、日向の国(宮崎県)から、はるばる京の都を通り由良川を下って地頭港(舞鶴市地頭)に上陸した。大江山のふもとにあって何度も鬼の襲撃を受けていた大俣住民をはじめ、付近の人々は村を挙げて頼光一行の到着を大歓迎し、大俣村の千原泉守勘右衛門の屋敷に案内した。一行は山海の珍味などのもてなしを受け、旅の疲れを休めながら鬼どもの様子をさぐり、地形を調査し作戦を練った。
 数日後、一行は大江山に登り、悪戦苦闘の末、見事に鬼どもを残らず退治した。その間、村人たちは毎日、一人残らず鎮守の森(獄神社)に参り、勝利のお祈りをし続けた。そのかいあってか頼光の一行は無事がい旋、再び千原泉守勘右衛門の屋敷に落ち着いた。
 鬼がいなくなり平和がよみがえったので村人たちは大喜び。頬光たちの功績をたたえ、感謝の気持ちを込めて最高のもてなしをした。そのとき村人の中から平和を祝って祭りをしようという声が出、頼光を先頭に村人全員が続きドンドコドンドコ と太鼓を鳴らしながら村中を練り歩いた。強く、弱く、ときには激しく、そしておだやかに太鼓は打ち鳴らされた。平和を伝えるその音は、大江山一帯に響き渡ったという。そしてこの太鼓こそ大俣太鼓のはじまりだった。
 それ以来、毎年獄神社の例祭(九月二十三日)に奉納されるようになりいまに続いている。ただ平和の太鼓だけに、火事や台風などの災害で村が被害を受けた年は中止することになっている。なお頼光一行が大江山に出陣するときにも地頭村で太鼓が打たれた。それはいまの地頭太鼓だといわれている。
    (カット=井上安博君=舞鶴市岡田上校)

〔しるべ〕大俣太鼓は舞鶴市の無形文化財に指定されている。打ち方は大太鼓の一人打ちからはじまり、振りをつけて打つ舞い打ちに続いて二人が組んで打つ合い打ち回り打ちのあと急テンポのヤリベス打ちで終わる。  〉 

《郷土史・岡田上》
 〈 大俣六社講の由来
 人皇三十三代用明天皇の皇子 麿子親王が、勅命を受けて大江山々賊征伐に来て凱旋の帰途、四天王の一人岩田蔵人戦傷のため大俣に居残り、その従者五人(現在の千原・井上・長田・迫田外一人)と共に帰農した。
 後その子孫が、氏株毎に荒神として先祖を祭り、岩田が講長となって、毎年一月十五日岩田本家宅で六荒神を祭り、その霊を慰め手打蕎麦、甘酒で宴会をした。
 享保元年頃からの記録はあるが、それ以前は不明である。
 現在は九軒となり、毎年正月席をかえて講が開かれている。


大俣嶽山の行者山
 往時から栃葉村では大和大峰山を信仰し、毎月村民集り行者講が催されていたようである。明和九年(一七七二)の記録によると、毎月七日栃葉村各戸廻りにて行者講の宿をなし、宿から神酒一人二合宛を出す申合があった。そして毎年代表で大和大峰山へ参拝して霊験を受け、村民の信仰は非常に厚かった。
 日頃信仰厚き栃葉村住民長左ヱ門は、弘化三年(一八四六)三月大和大峰山へ参拝し、行者大権現の分霊を受け、当地嶽山の頂上近き巨石奇岩の霊地に、大権現の御教示に従って奉祀した。爾来大俣区民一同、毎年八月盂蘭盆会の十六日、法螺貝を吹いて参拝し、下山後御神酒をいただいて解散する行事は、今も変らずつづけられている。
 なお、年代不詳であるが、一金四円也を行者講に寄進した、行者寄附連名の名簿が保存され、その篤志家は鹿児島・土佐・伊予・讃岐・岡山・備中・島根・鳥取・但馬・大和・山形・仙台・等全国に及んでいる。(岡田上村誌)

大俣薬師の由来
 昔大俣村に勝五郎という人があった。元来身体が弱かったので、長らく但馬湯島の温泉へ養生に行っていた。その温泉場に、薬師様がお祀りしてあったので、勝五郎は病気全快の祈願をしたところ、病気は次第に快方に向った。或晩のこと、夢に「お前の病気を癒してやるから、お前の郷里大俣村へ連れて帰り本社として祀ってくれ。」とのお告があった。勝五郎は目醒めて驚き、早速薬師様の御神体を風呂敷に包み、背中に負って急ぎ大俣へ帰った。その夜のこと再び夢のお告げがあり「丹波に角蔵という大工が住んでいるから、それを呼んで堂を建てよ。」と、勝五郎不思議なお告げと翌朝丹波路へと向かったが、その途中一人の大工に出合った。ところが、
の大工にも同じ夢のお告げがあり、祠堂建立の依頼を受けたのでやって来たという。二人は悦んで大俣に帰り祠堂を建てて薬師様をお祀りした。堂内にのこされている棟札によると次のようなことが記され、(岡田上村誌)

 明和八辛卯年十月廿日 棟上則安座  富村 庄屋 岩田伊左ヱ門
   (一七七一)              年寄 儀間藤右ヱ門
大 日 本
維時人皇百十九代  薬師堂御座□□□にて此度前乃内
先ニ帝桃園院    四間に壱間半所奉寄附
太 子 之 御 代          施主 道 林 氏   寄附施主書
                           別別に記
大将軍家治公當領主牧野五代豊前守惟成公御時 大庄屋 西方寺 南部新五左ヱ門

  註 桃園院は後桃園院の誤り

とある。
 現在当薬師堂は雨漏りのため、薬師尊像は頭部が腐朽して傷ましい姿となっているが、上記のような棟札と医王堂(法隆八世普?)の扁額を残している。当時の寄進者の範囲は、大俣村二十六名、栃葉村六名、から川村五名、内宮村一名、二俣村二名、仏性寺村四名となっており、その頃の血縁、知縁関係を知る貴重な資料である。また万延元年(一八六○)献納の俳人の俳額も、市井の文化の一端を覗かせるものである。(昭和四十七年堂宇の屋根の葺替えと修理が行われた

伊右ヱ門焼け
 草深い山奥でおきた伊右ヱ門の変死の話は、古老のことこまかい当時の描写から始まるが、素性や年齢については無視されたかたちで伝えられている。
 一夜あけても里に帰らぬ伊右ヱ門を探し回って村人達が、ヤット発見したのが彼の生業の炭焼窯の炎の中であった。燃えさかる炭窯の焚き口から覗かせた太い足先には、彼が履いていた草鮭が灰となってまとわりついていた。呆然とした村人達は、この無惨な死の光景にしばらくは声が無かったと云うが、その語り伝えは、
「伊右ヱ門は近く窯仕舞をするため、小屋の前に残していた大木を伐り倒していた。その夜半この木を塒としていた天狗が舞戻って見ると、既に木は無く大切な止まり木を失っていた。烈火の如く怒った天狗は伊右ヱ門を窯の中へ放り込んでしまった。」と云うのである。
 今も残る伊右ヱ門焼けの場所は広谷山の中腹に地名を残しているが、昔の人達は天狗を架空のものと知ってか知らずか、何か教訓めいた話として語り継いでいる。  〉 

大俣の小字


大俣 宮ノ腰 コモ池 下深田 深田 苗越 宮ノ浦梅谷口 中深田 坂屋敷 南谷 矢削 洞中口 洞中 宮ノ浦 洞中下 梅谷口 梅谷 洞中中田 西迫 洞中ブトケ谷 洞中芦谷ロ ジャラ口 中田下 上洞中 洞中角ガリ 別荘 柿ノ下 別荘坂 比沙門 荘内屋敷 館ノ下 平右衛門田 館橋詰 小畑 水ノ手 平上リ口 焼屋敷 政七前 樋尻 仲ノ垣 寺ノ下 諏訪段 平道ヨリ上 樋尻下 樋尻口 樋尻上 栃迫 平 花ノ木 トビノス 百石 鶯鳴 大谷 普甲谷 源十郎屋敷 源成寺口 源成寺 荒神谷 内浦 家ノ上 千原 ヘゴミ迫 滝ノ谷 仲ノ峠 竹河原 宮ノ谷 宮坂 嶽大切 嶽家ノ前 五反畑 家ノ下 家ノ前 屋敷内 寺ノ上 長鶴 芋根 道ノ下 左リ谷 赤石 元屋敷 古河 清水ケ岡 延吉 ドクドク 平ラ坂 樋ノ口 ホンドシ畑 柿ノ上 猪ノ奥 大マガリ 八幡廻リ 原田 飛石 竹ノ下 漆迫 フケ坂 宮ノ下 尾崎 水島 東石谷 仏谷 仏谷口 トデケ迫 山ノ上 古麻町 惣谷 屋敷廻リ 休場 堂ノ後 大二郎 船ケ谷 堂ノ前 惣谷堂ノ向 東谷口 倉掛 高畑 宮田 惣谷家ノ下 下休場 船ケ谷上 トデケ迫道側 原田嘉四郎田 五反田 ナル八斗代 壇 忠太畑 木畑 家ノ奥 菖蒲ケ迫 尾花 桑迫 神子畑 桑迫下 トノセ 布田ノ尾 与右衛門畑 ハチクモ ハリノ木 スリバチ谷 年谷 一ノ谷 木迫 五町 木戸ノ内 中田 由里山下 二俣迫 タバタ 東谷 一ノセ トッパナ 中ノ原 中セバト 前田 早稲田 セバト クルビケ迫 小滝 小滝口 イリヒガ迫 ナル 戸尻 新堀 由里ノ下 上石 右迫 分ノ谷 日和山 日和山源成寺 嶽 樋尻谷諏訪ノダン 樋尻谷 赤石谷 古河赤石谷 古河飛石ケ迫 惣谷口 惣谷茶木畑 惣谷桑迫 梅谷上石 梅谷木坂 梅谷イノオク 大滝 ナル家ノ上 ナル常五郎屋敷 ナル家ノ後 焼堂上ケ石 日和山平 家ノ上平 治平ノ下 樋ノ口大町 樋尻谷コモ池 樋尻谷シリナシ 樋尻谷トビノス 樋尻谷稲木迫 樋尻谷川越 古河柳原 古河ヒノ谷 古河荒神谷 古河清水カ岡 古河和田 古河風呂屋 仏谷内赤石谷 倉掛コシキ谷 惣谷入道畑 惣谷倉掛 惣谷カマガ谷 惣谷休場 惣谷菖蒲ケ迫 惣谷船ケ谷 惣谷西ケ嶽 惣谷桑迫口 惣谷尾花 惣谷東谷口 惣谷由里ノ下 惣谷山ノ上 惣谷小島 惣谷漆迫口 惣谷迫田谷 惣谷ダンノ宮下 戸尻小谷 樋尻谷五反田 戸尻分ケ谷 小滝クルヒケ迫 樋ノ口道ノ下 元屋敷道下 家ノ崎 峠 荒堀 ヌタハラ 布田ノ家ノ下 芦谷 和田ノ下 風呂ヤ 仏谷家ノ上 尾花上 一ノ谷鎌ケ谷 船ケ谷奥 惣谷東谷 段ノ山 原田利平田 フケ迫 原田七兵衛田 原田二反田 二反田 セバト口 赤石二俣迫 一ノセ木畑 洞中大ガシ迫 洞中高畑 洞中梅谷 洞中矢削 洞中南谷 洞中別荘 洞中家ノ前 洞中比沙門 洞中坂屋敷 樋尻井根山 洞中水ノ手 樋尻谷寺ノ下 樋尻家ノ下 赤石トノセ 赤石布田ノ尾 嶽モミノ木 元屋敷上段 元屋敷上三段 赤石柿ノ上 惣谷コシキ谷 欠ヤ谷 嶽苗代 宮坂峠 法隆寺 清水ケ岡新田 古河苗代上 古河丸町 古河廻リ 古河中ノ町 古河河原 赤石清水ケ岡 洞中宮ノ浦 洞中谷谷口 矢削エリ分 矢削道ヨリ下 館 館大切 別荘下 平道ヨリ下 向深田 灰屋敷 トノセ谷 小島 由里山



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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