京都府宮津市吉原
京都府与謝郡宮津町吉原
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吉原の概要
《吉原の概要》
市街地の東部で、宮津駅の裏側、宮津線線路の東側に位置し、外側・中ノ丁・宮村に囲まれた一画。府の出先機関が入る総合庁舎がある。
吉原は、江戸期〜明治22年の地名。川東武家屋敷敷地の一部で、中ノ丁の東にあたる。戸数は明治維新前54軒、明治19年46軒、同21年は22戸。同22年宮津町の大字となった。
吉原は、明治22年〜現在の大字名。はじめ宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。
《吉原の人口・世帯数》
《主な社寺など》
《交通》
《産業》
吉原の主な歴史記録
《丹後宮津志》(地図も)
宮津町=本町・魚屋・新浜・宮本・万・金屋谷・小川・白柏・河原・住吉・漁師・杉末・川向・宮町・蛭子・池ノ谷・万年・万年新地・鶴賀・波路・波路町・安智・外側・吉原・中ノ町・京口・馬場先・松原・京口町・木ノ部・京街道・大久保・柳縄手・島崎。世帯数2212。人口9190。 |
黒が元禄時代。赤は大正14年。
吉原という地名は舞鶴と峰山とここ宮津にある。互いに関係のある、丹後を考える上では欠かせない意味のある古代の地名と考えるが、特に考察した論稿もないようである。
与謝の吉原は、現在はごく狭い地域であるが本来はもっと広い範囲、宮津川流域部の一帯、あるいは宮津郷一帯を指したのではないのかと想像するが、さて「順国志」は、
稲別命 吉佐吉原に在て道主命の副将を勤めたりし王なり、伊根浦より貢を奉る。 |
としているし、
『丹後旧事記』は、
式部桜。今の宮津の巽の方廿余町山中村といふ所にあり爰の山端の畑中に和泉式部の宅地跡とてあり其岸に添て枯木の桜一本あり民俗浅黄色なりと称す此一本は和泉式部手づから植られしと伝ふ。保昌任国終て再び都に登りこされける頃式部は当国に居残り海山の眺望を生涯の思ひ出に任て此国に大和歌を残されよとあるを式部心憂く思ひて
玉葉集 いかにせんいかにかすへき世の中を
そむけは悲し住めは恨めし
斯詠じつつ板列の館を出て吉原の里山祇の神に参詣し思ふ事神に告て七日が程祈念ありけると仕への女に語らせける。
悪しかれとおもはぬ山の峯にたに
多ふたなる物を人の心は
此願ひ終て後は仕への女が故郷成まま吉原の里に隠れて有けるとかや其後兼房卿次の国司に下向ありて此由を聞て吉原の里へ尋入和泉式部爰に住み玉ふよし伝て国つかさが者尋参らすとありければ式部は夢の心地せられて都人とやなつかと柴の紬戸を開き見るに思ひがけね兼房卿なるまゝ伴ひ入りて物語ありける内保昌に忘られて侍る頃兼房は問玉ひければ詠る。
詞花集 人知れす物思ふ頃は習ひにき
花に別れぬ春しなけれは 和泉式部
兼房は式部の物語を世に痛はしく思ひて花波の館へ誘ひ任國のうち和歌の閑談ありとかや、山中村の閑居も兼房の建立也式部の老を慰められしとかや。
夕くれは物思ふもの増るかと
我ならさらん人に問わはや
春屋来る花や咲とも知らさりき
谷の底なる埋れ木の身は
是等の類ひは皆老の末此山中村の閑居の述懐なりと永井家増繍宮津府志に見えたり。細川少将順国の日記に曰く式部桜の下に五輪有是和泉式部の印の石なり洛の誓願寺九世戸の鷄塚の類は皆和歌の道をしたひて建てたる碑なりと記せり。 |
稲別尊。(一本に伊根和気尊とあり)問書に伊根の浦より貢を奉る。 |
《丹哥府志》
【稲代神社】(延喜式)
稲代神社は稲知大明神なり、稲知大明神一に稲仕老又稲倉持命と称す、俗に稲荷大明神といふ、皆是豊宇気持神の別名なり。垂仁天皇の頃道主命の孫稲別命吉佐の吉原にあり蓋此神を祭るならん、天正年中長岡玄蕃頭興元の臣正源寺大炊亮祇園牛頭天王を合せ祭る、今此社を祇園と称す峯山の氏神なり。(祭六月十四日) |
【比治真名井神社】(延喜式)
崇神天皇十年丹後道主命その子八乙女をして豊受皇太神を斎奉らしむ、是を真名井の神社といふ。雄略帝廿二年秋七月七日大佐々木命を丹波国与謝郡真名井原に遣し、豊受太神を迎へ奉り伊勢国度会山田原に遷させ玉ふ事は正史に詳なりけり。其鎮座の跡に真名井神社あり、然るに延喜式は是を載せずして却て丹波郡にある真名井神社を載するは何ぞや、蓋伊勢へ遷座あればなりといふ。道主命の孫稲別命道主命に代った将軍となり来りて府を吉原に定む、今久次村にある比治真名井神社は蓋稲別命を祭る所なり、今此社を大神宮と称す。(祭九月十五日) |
これら資料にある吉原は、ここのことと思われ、足占と吉原は同じ意味と考えてよさそうに思われる。ここの吉原も古代丹後の成立と関係した地名であろう。与謝の吉原はあるいはまたヨサの語源かも知れないので重要かと思われる。
ついでに書けばさらに久美浜の芦原、由良川河口の石浦、豊受が舞い降りたという丹後一の聖なる山・足占山。これら重要地点がみなみなソフルの転訛とも考えられうるのが興味ひかれるし、地名と伝承のかたる郷土史は皇国史観が足元から深刻に決定的に裂けているようで、丹後郷土史に残された今後の大きな研究課題であろうか。ぜひ若い人々に取り組んでいただきたいと願う次第。
関連項目
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