葉原(はばら・はんばら)
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福井県敦賀市葉原 福井県敦賀郡東郷村葉原 |
葉原の概要《葉原の概要》 木ノ芽川の上流左岸、新保の手前、四方を山に囲まれた谷底盆地で広くなった谷間にある。集落の中央を木ノ芽道(旧北陸道)が通り、国道476号や北陸自動車道が通る。「はんばら」ともいう。「敦賀志」に「古くハ飯原・榛原・半原共書り」とある。地名は地内に榛の木が叢生していたことから、榛の木原-繁の原-繁原-葉原になったとの口碑があるという。しかしそうでなく、ハンバラはカヒルと同じ意味であろう。 当集落の発祥地は、沖田の西山麓字屋敷だといわれ、今の集落より2キロばかり北になる旧鉄道信号所の西南部に奥屋敷・中屋敷・口屋敷の小字があり、付近に堂田・施餓鬼などの小字名も残る。応永元年(1394)頃に現在地に移転したと伝える。 中世の葉原荘は、鎌倉期~戦国期に見える荘園。葉原保とも見える。「平家物語」巻7に、寿永2年(1183)4月木曽義仲が「気比の社へははん原の庄を寄進す」と記す。「源平盛衰記」は「坂原」とする。建暦2年(1212)9月日の気比宮政所作田所当米等注進状に「葉原保」が見え、義仲の寄進は実現した。これより6年後の建保6年(1218)に死んだ左大臣藤原良輔の遺領目録にも、気比社領として「葉原荘年貢〈本保・新保〉」とあり、この頃すでに新保(今の新保集落)が分出していた。建武4年(1337)4月には気比社や莇野保、気比荘などとともに妙香院門跡領として見え、同門跡を管下に置く青蓮院門跡の支配下に入っている。その後、南北朝期~室町期を通じて青蓮院門跡・気比社領であったと思われるという。永正4年(1507)10月27日の朝倉貞景安堵状写によると、すでに文明4年(1473)「新保・葉原・田尻等」が朝倉孝景から当地の土豪と思われる川勢氏に安堵されたとされ、戦国期には荘園としての実体を失ったようである。永禄元年(1558)6月5日の善妙寺領常住分新寄進注文案に、天文16年(1548)に気比社の社家河端民部少輔が「葉原阿曽名ヨリ公事銭」1貫文を善妙寺へ寄進している。文亀3年(1503)9月10日の西福寺寺領目録に塔頭として「六段般原良誉 船原増福寺」と見える。元亀3年(1503)4月15日の永播寄進状には「葉原保増福寺」とあるが、同年10月21日の朝倉義景禁制で「葉原村増福寺」と村名として見える。天正2年(1574)2月に越前一向一揆が蜂起した時、当地の一揆は今庄湯尾峠の守備に当たった。慶長国絵図では新保村1,162石余の一部。 近世の葉原村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)からは旗本酒井氏知行(井川領)。享保12年(1727)の家数77(高持38・無高35・寺4)・人数459、牛11、牡馬16・牝馬4。当地は木ノ芽道の要路に当たるため江戸期を通じて疋田村に次ぐ宿場として栄え、問屋で本陣を兼ねた沢崎左近衛門家を中心に旅籠屋が両側に並び明治期に入っても11軒が旅籠屋業を続けていた。元治元年(1864)水戸浪士が新保村に集結した際には加賀藩の本陣とされ1,000名が当地に陣取り、翌慶応元年退陣するまで村民は恐怖におののいたという。明治3年本保県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治6年東光寺を仮校舎に葉原小学校が開校した。「滋賀県物産誌」に、戸数69(全戸農)・人数284、「傍ラ炭ヲ焼キ或ハ石灰俵ヲ織」るとある。産物は石灰720石・桑240貫・桐実1石余・割木3万貫・炭8,000俵。同22年東郷村の大字となる。 近代の葉原は、明治22年~現在の大字名。はじめ東郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西4町・南北2町、戸数74、人口は男180 ・ 女140。明治期に入ってからも営業を続けていた旅籠も明治21年に海岸の敦賀道が開通し旅客は激減、同29年敦賀~福井間の北陸線が開通後は皆無となった。昭和23年地内東部から出火し、70戸中19戸を焼いた。 《葉原の人口・世帯数》 144・68 《葉原の主な社寺など》 須恵器窯趾 字瓦坂に登窯式の古代製陶跡があり、鉢・茶碗・蓋物・甕の破片が出土するという。9世紀頃のものという。 『敦賀郡神社誌』 古土器出土地 當社より去る北方三町の瓦阪と稱する山麓の畑附近より、古土器の斷片を發見することがある。これ蓋し往古の製陶の遺跡であらう。地名を瓦阪と呼ぶも、亦一證とするに足ると思ふ。區内古老の識者に就き、其附近一帯の地理の概況、並に出土せる土器類の説明を聞きて推考するに、古墳とは信ぜられない。暫く前者に推定し、他日の考證に待つことゝした。
日吉神社 日吉神社が、字向山に鎮座。祭神は大山咋命、旧称山王権現。旧村社。 『敦賀郡神社誌』 村社 日吉神社 敦賀郡東郷村葉原字向山
位置と概況 本區は連山起伏して四圍を繞る、新保驛の北方約十五町餘にあつて、舊北國街道(木ノ芽道)の要衝に當り、明治維斯までは宿驛であつた。葉原の文字は、今を去る七百年以前の文書には、葉原保と見えたれども、其後飯原(ハンバラ)・坂原(ハンバラ)など書き、太平記には葉原と見えてある。降って般原(ハンバラ)又は飯原町など書きたるものあれども、往昔よりハンバラ又はハバラの口音により、當字を用ひたるものにて、元禄年代より現代の文字に定まれる様である。當區は本村第一の大區にて、戸数七十戸あり、北陸鉄道線路は、區の西方を走つてゐる。當村二小學狡の一である葉原尋常高等小學校は、當區に設置されてゐる。氏神日古神社は、區の西方北端の向山の西麓に鎭座し給ふ。蜿蜒?洄して流るゝ木ノ芽川に架せられたる板橋を渡りて、參道に進めば二・三株の老松がある。この許より鳥居を潜り、鐡道線路を越えて拝殿に至り、大木アスナロの傍より進んで正面の石階四級を陟つて上に、本殿は拝所と共に東面して鎭座し給ふ。この上地神域の前面は石玉垣を柵してある。社域は相當に廣けれども、拜殿と鳥居との間を鐡道線路に横断せらるゝは、神域の荘厳を損すること夥しく、寔に遺憾と云ふべきである。社後の山麓には、椎・欅等の樹木多く、山景を保ち、又拜殿の傍にある、一株の大アスナロ(アテビ)の直幹は高く他木を凌ぎ、近郷の名木となつてゐる。境内北隅に薬師堂があり、俗に大縄宮とも稱して、往昔より區民の崇敬が厚い。 祭神 大山咋命 相殿 應神天皇 早良親(追號 崇道天皇) 由緒 按ずるに、當社は古来山王大権現と尊称して、由緒古き社である。人皇五十一代平城天皇、大同元年當區古宮地籍に勧請し、民家は屋敷と稱する地域にありしが、応永元年の頃より、漸次今の地に移転したので、鎮守も堂ヶ洞と呼ぶ地に奉遷したが、文龜三年癸亥初四月、故ありて更に現在の向山西麓に奉遷し、相殿に宇佐八幡宮祭神應神天皇を奉祀し、又早良親王を奉祀して、御霊宮と尊称した。享保二年酉四月三日の巡見使の書上中に「一、宮数三社向山王権現・宇佐八幡・御霊ノ宮」とあり。元禄七年三月三日、社殿を改築し、明治十一年八月二日社號を日吉神社とし、村社に列せられ、同四十四年九月三十日、本殿及び拝所等の修繕新築等の工を竣り、大正三年一月十一日、神饌幣帛供進の神社に指定せられた。 〔附記〕 越前名蹟考に延喜式神名帳の越前國敦賀郡鹿蒜田口神社に、葉原村かと云へるも、尚一考を要する。 祭日 例祭 四月三日 祈年祭 三月十四日 新嘗祭 十一月二十八日 本殿 … 神社附近の舊趾 山神社 應永元年、當區民家が今の地に移動した時、山林より樹木を伐探するに當り、樵夫等が當區深山谷の入口に奉祀せるものであると云ふ。 薬師堂 當社境内にあり、石作の薬師像を安置して、大常宮、又は大縄宮と稱してゐる。往昔此地開拓の際、人夫の安全を祈る爲めに安置したと傳へてゐる。 浄土宗親縁山増福寺 浄土宗鎮西派増福寺は応永13年(1406)良如の創立。寺内に片脚踏出延命地蔵菩薩像(木造)が秘仏として安置されている。 真宗大谷派浄賢寺 浄賢寺は東本願寺末、初は海津願教寺末。草創不詳。文政8年5月22日、本堂焼失、弘化4年再建したという。 曹洞宗医王山東光寺 東光寺は曹洞宗、文明2年(1470)栄学の創立と伝える。山門は閉じられているし、本堂も閉じられて久しい様子である。 『敦賀志』 葉原村 〔古くハ飯原・榛原・半原共書り、越坂の北東ニ在〕
氏神宇佐八幡社・山王・御霊同殿二坐、東光寺地蔵院〔禅宗玉昌寺末〕・増福寺〔浄土宗西福寺末〕・浄賢寺〔東本願寺派願教寺末〕・道場左近〔東本願寺末〕 人馬の問屋を勤む、平家物語曰、平家加賀国へ引退く、木曽殿ハしほの山打越て、能登国ヲ小田中親王の塚の前にて陣をとる、木曽殿やかてそこにて諸社へ神領を被レ寄、多田八幡ヘハ蝶屋庄、菅生社ヘハ能美庄、氣比社ヘハ飯原ノ庄〔五村十一浦なり〕 白山社ヘハ横江宮丸二箇所の庄を寄進す、此村も亦炭薪を町にうる、 『敦賀郡誌』 葉原 越坂の東に在り。建暦二年氣比社領注進目録に葉原保、平家物語に飯原庄、源平盛衰記に坂原、太平記に葉原、文亀三年西福寺々領目録般原、慶長七年結成秀康の令條に飯原町とあり。口碑云、民家は元小学屋敷と云ふ地にありしを、應永元年頃より今の地に移れりと云。明治初年まで北國筋の宿驛たり。 葉原尋常小学校あり。 氏神、日吉神社、昔は山王権現と稱す、猶宇佐八幡・御霊宮を同殿に祀れり。大同元年の勸請にして、字古宮に鎭座ありしを、文龜三年四月、今の地に移すと云ふ。社殿は元祿七年再建す。明治四十三年中、社殿其他の修繕或は改築を爲す。大正三年正月十一月、神饌幣帛料を供進し得る神社に指定せらる。 増福寺。浄土宗鎮西派、原西福寺末、應永十三年三月、僧良如創立す。今の堂宇は賓暦三年四月の造営なり。西福寺文龜三年寺領目録に般原増福寺と見ゆ。元龜三年九月、朝倉義景、寺内の制札を給ふ。其蔵する所の十六善神の畫像は、永正十五年五月、盗難に遭ひて小濱に在りしを、不思議に再還したるなりと云ふ。 東光寺、曹洞宗、赤崎玉祥寺末、文明二年八月榮學創立、慶長十三年、玉祥寺末となる。今の堂宇は天保六年十月造營。 浄賢寺、眞宗東本願寺末、初は海津願教寺末たりき。草創不詳。文政八年五月廿二日、本堂焼失、弘化四年再建。
廢寺、香積寺。日吉神社本殿棟札に文龜三年四月云々、氏神別當職、常榮山香積寺住全秀我運座主代と記す。香積寺、何時代に廢絶したるか詳ならず。〔享保郷帳に既に載せ。然に増福寺所傳香積寺唐用鑿に、天明五年三月の銘あるは、或は當時山王宮をば香積寺と稱したるに非るか、猶よく尋ぬべきなり〕 地蔵院、曹洞宗、赤崎玉祥寺末なり。明治の初年、廢して東光寺に併合す。 澤崎左近は明治天皇御巡幸の際、御休息所に充てらる。又元治元年、水戸浪士騷動の時、加賀藩の本陣たり。又此家は道場たりき。 字瓦坂〔邑の北〕と稱する地は土中に幾多の士器の破片を含有す。盖古墳時代の遺跡なるべし。 口碑に云、葉原は中古竹備〔タケビ〕喜右衛門の所領なりしと。竹備姓の者、今猶存す。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 葉原の主な歴史記録『敦賀市史』葉原窯跡群
これまでにあげた製塩遺跡のほかに、市内の奈良・平安時代に属する遺跡は、高野遺跡、深山寺経塚群などが知られている。土器製塩と並んで、生産遺跡として重要な意味を有するものに須恵器の窯跡がある。葉原窯跡群は、昭和五十五年(一九八〇)、圃場整備事業中に偶然発見され、市教育委員会の手で窯の灰原部分(窯の廃品捨て場)に限った試掘調査が実施された遺跡は葉原区の北方の丘陵の端にあり、調査の結果、二基の窯跡群を確認している。窯の構造や規模は不明であるが、丘陵の斜面を利川して構築された登り窯であり、今のところ市内唯一の窯跡である。 試掘・調査の際に灰原部分からは多量の須恵器が検出されており、日常生活に必要な容器類が大部分である。 主なものとして、土錘、杯の身と蓋、皿、高杯、壺、甕などがある。 (1)土錘(写真46-1)漁網の錘りとして使用された円筒形を呈するもので、漁村地帯に供給していた。この時代の土錘には、土師質のものもあり、形態的には現代使用のものと何ら変わりはない。 (2)杯(写真46-2・3・5)坏身は、高台を持つものと持たないものの二種類があり、底部外縁近くに貼りつけている。蓋は宝珠形つまみが一般的で、3の例は上面にヘラ削り痕跡を残している。 (3)高坏(真写46-6)坏蓋に脚部をつけた形態を示す。坏内面は直線ナデ仕上げによる調整である。 (4)壺(写真46-4・7) 短頸壺(4)の高台は底部外縁に接して貼りつけられ、肩部には一条の沈線をめぐらしている。短頸四耳壺(7)は、底部を欠くが、全面に自然釉がかかっている。 また、珍しい出土品として、風字硯(ふうじけん)と呼ぶ″風″という字のごとき須恵器製の硯も発見されている。 さて、葉原窯跡群は、出土品から平安時代の限られた時期の窯跡と考えられ、九世紀に年代を求められる。このことは上中町末野、末野窯跡群を始め若狭地方の窯跡群でも共通していえることで、これは他地域から良質で安価な焼き物が流入した場合、またたく間に閉窯の憂き目にあってしまったのではなかろうか。本窯跡群によって焼かれた土器の供給先については今後追究すべき課題である。 葉原の伝説葉原の小字一覧葉原 田城 小滝谷 大滝谷 道心平 口蛇岩 身ノ毛谷 崩レ 東谷 巻ケ谷口 下巻ケ谷 北巻ケ谷 南巻ケ谷 多金田 施餓銭田 大蕨田谷 大蕨 長尾狭 流う畑 中屋敷 挙野田 堂田 上屋敷 口屋敷 河原田 和泉街道 野添 藤谷前 裏畷 堤谷 鳥越谷 鳥越 山ノ端 別所 榿ノ木 流し田 藤谷 長田 長田前 鴻ノ巣 箕ノ渕 小谷 鴻ノ巣谷 品ケ谷 中野谷 堂ケ洞 清水ノ本 門口 カウラ坂 松山越 神田口 神田 白屋妙 門前 門前谷 大良岩口 下一ノ谷 中市ノ谷 上市ノ谷 獅々ケ谷口 大良谷 二ノ谷口 二ノ谷 新道盆 小河田 猴ケ谷奥 大岩口 造り道 山ノ脇 立岩口 葛篭谷 名倉 魚加谷 芸長谷 芸長谷口 マナゴサワ 道奈ケ洞 ヌウト岩 森ノ東 蒲秡 与治谷口 天神林 園山 山ノ本 森ノ下 脇ノ畑 散迫道 水上 粟林 右近谷 藤ノ木 堂ノ前 堂ノ上 桂ケ瀬 生田 治部ケ谷 松畑 堀 ガベ端 大常宮 向山 寺川 秋葉山 奥百姓谷 茶ノ木洞 上坂 下百姓谷 寺山 杤川 高塚 中畷 長谷橋 蒲田 南街道 分レ道 平尾 笹谷 上高瀬 轆轤木 上轆轤木 高畔 白岩 高旗 庵野屋敷 杵谷 兵太郎谷 百合 中兵太郎谷 奥兵太郎谷 観世屋谷 引坂口 冥加瀬谷 冥加瀬 木戸ケ平 丸山 堀田 蔭山 サイ川 一ツ谷 一ツ谷口 向海道 上向海道 四杢谷 三反田 鋤ノ寄 山ノ端 道ノ下 田尻口 坂ノ尻 五反田 五ケ谷 四杏谷奥 狐ケ洞 一ツ谷奥 影洞 上身ノ毛谷 堀田山 ナメリ岩 ビリ谷 細谷 吹ケ洞 アシ谷口 丈太郎谷 三ノ谷 大岩 葛本洞 臭洞 アシ谷 細谷口 冥加瀬奥 引坂谷 高旗谷 キ子谷 流し岩 滝ケ谷 芳ケ洞 三方 中ノ谷 狼穴 小北谷 北谷 小家場 観世屋奥谷 太兵太郎谷 小兵太郎谷 白岩山 ロクロ木谷 高瀬山 平尾山 治郎ケ谷 マナガケ洞奥 芸長谷奥 サクン谷 立岩 ツヽラ谷奥 造り道山 念仏伝 大平 脇ノ畑谷 散迫谷奥 右近谷奥 神田谷 一ノ谷 二ノ谷奥 猴ケ谷奥 シンジウ谷 大岩奥 小河谷 穴ノ谷 焼谷 マゝコ落 奥太郎谷 藤谷奥 上泉街道 大厥奥 北大厥 布引山 崩し谷 奥大滝谷 蛇岩 巻谷 多田奥 奥屋敷 奥鳥越 別所谷 向山西 奥百性谷 ヲジホトコト 長仙洞 火打岩 風吹 杤本谷 長坂 キラレガ洞関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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