丹後の地名 若狭版

若狭

畑(はた)
福井県大飯郡高浜町畑


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福井県大飯郡高浜町畑

福井県大飯郡高浜村畑






畑の概要




《畑の概要》

立石と鐘寄の間の集落、北は若狭湾に面する、北向きの谷に広がる農業地域。集落は少し山あいに入ったところにあって、集落北をJR小浜線と国道27号が東西に通る。

国道からは見えにくい、裏山を越すと坂田、笠原、石山に続く。県道237(畑若狭和田停車場線)が国道と合流するあたりの浜辺も当地で波多期浜という。戦国期に高浜城を攻撃すべく進軍した石山城の武藤勢を高浜の漁師・商人たちが激撃した地で、このことを知った高浜城主逸見氏は、以後漁師・商人の地子銭を免除したと伝える。

畑村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年高浜村の大字となる。
畑は、明治22年~現在の大字名。はじめ高浜村、明治45年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西50間・南北3町、戸数9、人口は男26・女30。


《畑の人口・世帯数》 118・41


《畑の主な社寺など》
山神神社がある。正月の山ノ講には竹で弓をつくり破魔矢を放つという。
毘沙門天像が妃られる毘沙門堂がある。




《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


畑の主な歴史記録




畑の伝説


『若狭高浜むかしばなし』
子生の漁師山
 高浜の城主・逸見駿河守は、佐分利の城主・武藤上野介を攻めようと兵を集め、意気揚々と高浜を出ていった。今から、四百年ほども昔のことである。
 ところが、高浜城の兵が手薄になることを知った上野介は、背後から高浜城を攻めようとしていた。高浜の人々はこれを知り、上野介の軍を波多期浜に向えるため全員が集まった。
 「高浜城の兵は、ほとんど佐分利に出かけていった。城主さまの留守は、わしらが守ろうや」
 「おーつ!」
 勢いをついた漁師たちは、上野介の軍と大いに戦い侵入を防いだ。やがて、上野介の軍勢はこの漁師たちの軍勢に破れ、すごすごと逃げ帰ってしまった。高浜城は、漁民たちの手によって守られたのである。
 これを聞いた駿河守は漁師たちをほめたたえ、漁民の土地税を免除することにした。そのうえ、漁師たちは船の中で使う薪の山までもらった。
 それからというもの、南浦の女が子生の山から薪を背負って来るのをよく見かけるようになった。
 「漁師の山から取ってきたんや」
そういわれると、たとえ盗木でもそれをとがめることはできなかったそうだ。).


『若狭高浜むかしばなし』
西郷從道の鹿狩り
 畑村の小畠口で、一人の立派な軍人が銃をかまえ立っていた。勢子たちが猪を追い出して来るのを待っているのだ。
 やがて、四ツ足のすさまじい足音が、次第に近づいてきた。
 「来たぞ……!」
ところが、勢いよいく飛び出してきたのは、猪ではなく一匹の鹿だった。バーン!あたりに銃声が鈍ぐ響いた。さすが狩りが趣味とあって、軍人は一発で鹿をしとめた。
 近寄ってみてみると、それは牝鹿だった。まわりにいた人々は思わず息をのんだ。雄鹿は射ってもよいのだが、牝鹿は決して殺してはならないという決まりがあったからだ。しかし、この牝鹿をしとめたのは他でもない明治維新の立役者、西郷從道(隆盛の実弟)であった。
 それ以後、牝鹿の狩猟は解禁になったということだ。






畑の小字一覧




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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