丹後の地名 若狭版

若狭

瓜生(うりう)
福井県三方上中郡若狭町瓜生


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福井県三方上中郡若狭町瓜生

福井県遠敷郡上中町瓜生

瓜生の概要




《瓜生の概要》
北川の上流右岸に位置する。地名の由来は、鎌倉期瓜生氏の領地であったことによるともいうが、瓜生氏は土地の名を名乗っただけではなかろうか。瓜生はさらに古い地名であろう。
「瓜生」は、いろいろと書かれたようで、苽生はよいとしても、和名抄には遠敷郡に丹生郷が2つ見られるが、あるいは一つは瓜生郷の間違いかも知れない。
東鑑に仁治2年(1241)若狭四郎忠清所領、若狭国依生(よりふ)荘とある。東寺文書にも、建長3年(1251)依生庄とあり、依生瓜生古俗共に通用したものかと吉田東伍は言う。ウリュウともヨリュウとも呼んだのかも知れない。
瓜生を売布と書いてメフと読み、あるいは売布を瓜生と書いてウリウと読むようになったものか、何か関係がありそうにも思える。膳臣の配下であったらしい若湯坐連の祖・意富売布命の本貫地はあるいは当地ではなかろうか。

中世の瓜生荘は、鎌倉期~戦国期に見える荘園。荘の初見史料は仁治2年(1241)の文書であるが、寛元元年(1243)11月25日の六波羅裁許状によれば、当荘は鎌倉期初頭には若狭の最有力在庁官人である稲庭時定の所領であったが、建久7年(1196)に時定に代わって守護若狭忠季が地頭に任じられ、建仁3年(1203)には中条家長に代わったが、承久2年(1220)には再び忠季が地頭となり、その子の忠清に伝えられていた。若狭忠清は仁治2年4月25日に瓜生荘雑掌の訴えにより、幕府の下知に違背した罪に問われ、安居院大宮の篝屋と膳所屋の造営を命じられている。建久7年6月に若狭国御家人として見える「瓜生新太郎清正」は当荘の武士と考えられるが、建治3年頃清正の跡地は若狭忠清によって押妨されていた。文永2年(1265)11月若狭国惣田数帳案の新荘に当荘37町があり、元亨年間頃の朱注によって荘園領主が寺門園城寺の門跡寺院である円満院であった。文永5年11月13日の亀山天皇宣旨案に、円満院門跡円助法親王が覚仁法親王から譲られた荘園の1つに当荘がある。当荘の近辺は、稲庭時定の子孫が勢力を張っていた地域であり、同10年3月25日に瓜生の大田文を幕府に提出することを約束している右兵衛尉範継は瓜生荘の下司で、脇袋または瓜生氏を称する時定子孫の一人であった。同時に瓜生荘公文には範継の同族である鳥羽国茂が任じられており、範継と郡内のいくつかの所領をめぐって対立していた。脇袋(瓜生)・鳥羽両氏は南北朝期末の応安4年(1371)若狭国人一揆に参加して没落した。「康正二年造内裏段銭并国役引付」に寺門門跡寺聖護院領として見える「若州花生庄」は「苽生庄」の誤写と考えられる。またこの引付では沼田弥三郎が段銭を負担しているが、この沼田氏はのちに下司として知られる。当荘内千代房名を少なくとも文明2年(1470)から支配していた吉田五郎大夫は、同13年11月に近江国高島郡朽木の正宗寺に売却している。この売却のとき作成された千代房名半名坪付によれば、耕地は上吉田上・石橋町・貝鼻・杉谷・中村・関下・クホタにあった。文安4年(1447)には「苽生馬場」の宗善が知られる。村名としては弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状に「瓜生村」とある。
近世の瓜生村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。近世には「属瓜生庄、合馬場村・関村而為瓜生村」とある(若狭郡県志)。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。この間,明治7年関村を分離。同22年瓜生村の大字となる。

近代の瓜生村は、明治22年~昭和28年の遠敷郡の自治体名。末野・安賀里・有田・下タ中・上吉田・下吉田・脇袋・瓜生・関の9か村が合併して成立。旧村名を継承した9大字を編成。役場を安賀里に設置。村名の由来は,「新村撰定事由調」によれば「記載の各村ハ(末野村ヲ除ク)瓜生組卜総称シ、其名近郷ニ通スルニ因リ即チ之レヲ採ル」とある。昭和29年1月1日上中町の一部となり、当村の9大字は上中町の大字に継承された。

近代の瓜生は、明治22年~現在の大字名。はじめ瓜生村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北3町余、戸数55、人口は男124 ・ 女116。


《瓜生の人口・世帯数》 579・191


《瓜生の主な社寺など》

瓜生古墳群
集落北西片山山麓に瓜生古墳群がある。

天満神社

『遠敷郡誌』
天満社 村社にして瓜生村瓜生字宮ノ上にあり、元天神社と稱す。明治四十四年合併せられたるもの三社あり、上下神社祭神不詳、元字丸山にあり、月讀神社祭神月讀命は元中ノ森にあり、熊野神社祭神不詳、元字熊野にあり。

『上中町郷土誌』
天神社 瓜生
瓜生村にあり菅相丞当国に来遊し暫く此処に憩ひ冠を忘遺す爾後社を建て之を納めて祭神に奉祀し地方の氏神とす。元亀元年信長駕を松宮玄番の宅に枉げられし時従臣が放火した為社宇も罹災し冠は忽に化して鳥となり飛去り後年之を得て再び社を造営し祭祀すと伝へらる。
天満社 瓜生
瓜生宮の上にあり 元天神社と称す 明治四十四年合併せられたるもの三社あり、上下神社祭神不詳丸山にあり、月読神社祭神は月読命は元中ノ森にあり熊野神社は祭神不詳字熊野に有り。
社寺由緒記
瓜生村氏神天神 此社一間四面菅丞相二而御座候□被遊候砌大島卜申所御知行所故御通行被レ遊候、
折節は御腰をレ被為レ掛御冠を残し被レ為レ置候と申伝候其後乱世ノ時分煙焼仕御冠其外宝物焼失申由
神主の一名も相知れ不申候、
月世見大明神小社壱反計宮中を開候由御赦免
若王子   小社  七畝斗右同断
上下大明神 小社  一反斗右同断
右三社古は社領御座候由大閣様御代に被召上神事祭礼可仕様無之候処其後大閤様御代官小山弥市殿当村に二三ヶ年御住宅候故神事難儀段申達候へば宮中を開き田地に致候へと有之故如此候、則浅野様御倹地より干レ今御免許に而此田を以三月十五日九月十五日祭礼相勤申候。
     瓜生村庄屋  平右衛門
     同        麹屋



曹洞宗清水山長源院

『遠敷郡誌』
長源院 右同寺末同本尊にして同村瓜生字山下丁に在り、寛永七年本寺第七世岳悦創立す。

『上中町郷土誌』
長源院 曹洞宗 瓜生
曹洞宗諦応寺末 本尊は阿弥陀にして同村瓜生字山下丁に在り寛永七年本寺第七世忻岳創立す松宮右馬允殿の菩提所と申伝う文化四年本岳和尚瓦葺にする。又東山麓に三十三個所の観音の石造仏が苔を被って羅列している。何れも数百年を経たものである。
由緒 瓜生長源院
当院開基長源津公也寺依法諱山号消水蓋依名水得矣則為村裏之檀場請本山七世忻岳和尚為開山天和年無住之時本山海東和尚兼住当院空一如和尚有師資之因緑請之令作休棲之地此時改旧宇并境地一如和尚滅度之後徒弟謙?和尚暫任鑑寺不慮元禄三年三月為隣火成灰燼本山海東鑑寺謙?以自他財用新造今寺謙?更捨黄金拾八両功成
本尊阿弥陀仏一如和尚再興之瓜生村眉見寺屋敷四畝拾歩分米三斗四升七合右畑者一如和尚住席之内寄附之
 貞亨三年寅極月四  洞察代



曹洞宗良昌寺

地図によると、このサラチあたりか、もう少し奥にありそうなのだが、フェンスが閉じられている。
『遠敷郡誌』
良昌寺 曹洞宗諦應寺末にして本尊は阿彌陀佛なり、同村瓜生字宮ノ上に在り、享祿元年八月本寺貞庵の創立なり。

『上中町郷土誌』
良昌寺 曹洞宗 瓜生
曹洞宗諦応寺末にして本尊は阿弥陀仏なり瓜生字宮ノ上にあり享禄元年八月本寺貞庵の創立なり
(社寺由緒記)
禅宗良昌寺 禰客寺(寺内品一反斗御免許) 山一ヵ所御免許是は松宮馬允天正三年に寄進于レ今寄進書御座候。其の時の禰宜坊主の名慶蔵主と申候。
清水山長源院 松宮馬允殿御菩提所と申伝候其外為差由緒無レ之略レ之
□□□念仏堂 本尊阿弥陀為レ差由緒不レ知略レ之
 延宝三年 瓜生村庄屋  平右衛門



武田家の家臣松宮玄蕃の拠ったという膳部山城跡
字片山には松宮玄蕃の出城であったと思われる瓜生城跡

《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


瓜生の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
瓜生
瓜生郷 和名抄遠敷郡丹生郷の本書丹生とあれど、別に丹生郷ありて重複す瓜生の誤りならん、今の瓜生村及び三宅村にあたる野の里の北西にして安賀郷と接す、東鑑に仁治二年若狭四郎忠清所領若狭国依生の庄とあるは依は瓜の誤りなるべし。又守護職記に脇袋三宅等の地名見ゆ脇袋は今瓜生村の大字にのこる。再按、東寺文書建長三年依生の荘とあれば依生瓜生古俗共に通用したるが如し、文永十年のものには瓜生の荘と明記す。又看聞日記永享六年当国吉田三荘と載す、吉田は瓜生村の大字に存す。
    ○
瓜生は東方に山を負い南北西に開け、安賀庄と同じく瓜生庄の内である。文永二年に於ては本家三井寺円満院にて其の起源は不明なり。田数三十七町あり、康正二年造内裏段銭引付に菰生庄段銭三貫五百文沼田弥三郎とあるは此庄なりと福井県史に見えたり。文化年代瓜生石高五百七十七石余と畑三十六石とあり。
氏神は天満宮であり又上下宮、月読神社、熊野神が各所に分れてあったが、明治四十年に悉く氏神に合祠された。天満宮は往時菅相丞当国に来遊し暫らく此処に憩い、冠を忘遺す爾後社を建て之を納めて祭神に奉祀し地方の産神となす。元亀元年信長公駕を松宮玄蕃允の宅に抂げられし時従臣が放火したる為社宇も罹災し冠は忽ち化して鳥となりて飛去り、後年之を得て再び社を造営し之を祭祀すと伝うと若狭郡県志にあり。
寺院には曹洞宗清水山長源院と盤谷山良正寺の二寺あり、何れも諦応寺の法末である。
此の庄の起囚は源頼朝国々に荘園を置きし時瓜生氏の荘地となりしより始まるともいう。又東北方膳部山には松宮玄蕃の居城の跡あり。白毫山眉児寺という真言宗の寺は、寺地一反二畝歩、建物三十八坪、本尊不動明王、薬師如来を安置した寺は次第に哀微して延宝頃には廃寺となり寺地は畠と変った。寺跡は宮谷の奥山腹にあり。又西北部山麓に念仏堂跡も残っており、尚城山の麓に幅二米余長さ四米ばかりの古墳の石榔が二個も露出している。

瓜生の伝説、民俗

六斎念仏
瓜生の六斎念仏は、近世前期からの伝統的行事で、国重要無形民俗文化財。
盆の13日と14日の両日、区内の全戸を回るほか、寺院・墓地ならびに地蔵尊などでも行う。曲目は、一天かえし・みだれ・ちどり・ごたん(牡丹か)・かけかんじょう・しし等がある。
瓜生の六斎念仏

『越前若狭の伝説』
天満社    (瓜生)
大島に菅公の知行所があったので、この地を通られた。そのとき腰をかけられ、冠を残して行かれた。乱世のとき冠などの宝物を燃やしてしまった。   (社寺由緒記)

月舟の掛軸   (瓜生)
瓜生には昔から念仏講があって、お寺を初めだいたい村中の家々で念仏を申したり、六斎念仏を行なうことが続けられて来た。この念仏講には、曹洞宗の高僧である月舟和尚(おしょう)が書かれたという南無阿弥陀仏のお掛軸が、昔から非常にたいせつに伝えられている。このお掛軸は念仏講の定めに従って講員の家を次々と回り大事におまつりされている。
承応年間(一六五二ころ)に瓜生に大火災があり村中が全焼したが、荻野六郎左衛門(今の桜本孫左衛門)という家が一軒だけ災難をのがれた。それは、ちょうどこのとき月舟和尚のお掛軸が、この家に回って来ていたおがげであった。そのとき、六郎左衛門の家の後にあるけやきの枝に、このお掛軸がへんぽんとひるがえっていたということである。そのほか、この掛軸や六斎念仏には火災や病気を防ぐありがたい功徳のあることが言い伝えられている。  (永江秀雄)



瓜生の小字一覧


『上中町郷土誌』
瓜生区の小字名
下杉谷 上大谷 下大谷 上向町 清水尻 上黒切 中向町 下向町 下黒切 荒塚 下柳田 松木縄手 野口 髭田 柳田 荒シ貝 水頭 丸山 荒貝 下砂田 中河原 中砂田 中ノ森 上砂田 桟敷河原 船河 上桟敷河原 佃田河原 松ヶ崎 松元 金山 岩内 岩山 熊野 風繩手 樽丸 黒之内 長塚 佃田 堀川 河原崎 河端 堂之外 堂ノ内 堂ノ下 堂ノ前 茶屋ノ前 大塚 桜田 片山 四軒町 宮ノ上 森川 平ヶ谷 足谷 瓜生谷 高畑 杉元谷 前部口 山下町 宮川町 宮ノ前 下前田 下野手崎 溝端 金次 岸ノ下 湯田 窪田 上野手崎 上前田 関ノ下 清水ヶ谷 舘 小谷口 大谷口 竿田 大田 牛乗場 下風呂屋 深谷河原 下友宗 上風呂屋前 曽根廻 下横枕 大岸 中友宗 滝之下 上友宗 南大岩河原 大岩河原 横枕

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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