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丹波の

天田郡(あまだぐん)
丹波国天田郡
京都府福知山市・夜久野町・三和町


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京都府福知山市

京都府福知山市・京都府天田郡夜久野町・京都府天田郡三和町

天田郡の概要




《天田郡の概要》

天田郡は、古代~近代の郡名。2006年(平成18年)1月1日、「平成の大合併」により域内はすべて京都府福知山市となり、当郡は消滅した。
丹波国6郡の1つで、郡名の初見は天平19年(747)9月26日の勅旨(東大寺要録)。郡名の読みは、今はフツーはアマダと呼んでいるが「延喜式」武田本の神名帳に「アマタ」、「和名抄」刊本(郡部)に「安万多」と訓じている。郡域は、旧天田郡二町を加えた現福知山市から雲原・印内・山野口・報恩寺・私市を除いた地域にあたる。

丹波国の西北郡に位置する由良川中流域。東は丹波国何鹿・船井両郡、西は但馬国朝来・養父・出石の3郡、南は丹波国氷上・多紀両郡、北は丹後国加佐・与謝両郡に接している。周囲はぐるりと山々に囲まれ、北に大江山・赤石岳、西に三国山・鉄鈷山・宝山、南に烏帽子山・室山名滝山)、東に三郡ケ岳・高岳・鳥ケ岳・鬼ケ城・天ケ峯など標高500~800mの山々で、これらの山々のなかに福知山盆地がある。この盆地の西側半分を占める。どこかの町あたりから来た人は「広いな」などと言うが、そうびっくりしなければならないほど広いわけではない。
由良川は東の綾部市から郡内に入り、土師川を合わせ北西に向きを変え、さらに和久川・牧川を合わせ加佐郡に入る。由良川の福知山盆地からの出口がせまく、近世・近代、今現在に至るまで豪雨による洪水の記録が多く見られる。

先史時代の遺跡は、夜久野ケ原茶堂付近に縄文草創期、大油子では縄文早期の石斧、菖蒲池遺跡では縄文晩期の竪穴住居牡が発掘されている。福知山市字長田の和田賀遺跡の削器は、先土器時代の所産といわれる。奥野部・和久寺などでは、縄文初期の有舌尖頭器が出土。武者ケ谷道跡からは、刺突文小型丸底土器がほぼ完形に復する状態で出土、縄文草創期のものとされ、近畿地方では最古の土器として注目。縄文後期の半田遺跡、上野平遺跡などから土器片や石器が出土している。
弥生時代のものとしては平野の臼ケ森遺跡があり、土器・石識・銅剣形石剣が、日置からは銅剣形石剣・くぼみ石・石庖丁などが出土。石剣出土の観音寺遺跡、集落跡を伴う上野平遺跡・半田遺跡、台付無頸壷が発見された興遺跡などがある。。
古墳は夜久野地区、大油子の大田森彼岸塚、山中の間地、水坂、枇杷塚、広瀬、藤原、高内、千切塚、枡塚、長須塚、塔ノ山など、上夜久野・中夜久野に多く、下夜久野には少ない。福知山地区では、昭和61年に景初四年鏡を出土した広峯15号墳は全国的にチョー有名である。これは中期の前方後円墳だが、最古といわれる宝蔵山四号墳をはじめ、中期には八ケ谷古墳など特色ある大型方墳が確認でされる。後期は29基が確認された牧古墳群など多くの古墳群が盆地周辺部の台地に散在する。 報恩寺の奉安塚古墳からは、鏡・刀・玉のほか、金銅製馬具なども発掘されるなど、朝鮮文化との近縁性を思わせる遺跡も多い。近くにはに阿良須・有路・荒河・荒倉など、ar地名が多いことなどからも渡来人とみる説もある。
一方、三和町地区からは縄文・弥生時代の遺物出土の報告はなく、わずかに加用の丘陵端に古墳後期の須恵器片が散布するにすぎない。

〔古代〕天平19年9月26日の勅旨に「丹波国天田郡五十戸」とあるのが初見(東大寺要録)。ついで「続日本紀」天平神護2年6月日条に「丹波国天田郡人家部人足」が見え、同書同年7月26日条に「散位従七位上昆解宮成得似白鑞者以献、言曰、是丹波国天田郡華浪山所出也」とある。また同書宝亀4年9月20日条に「丹波国天田郡奄我社有盗、喫供祭物整社中、即去十許丈、更立社焉」とある。また同書延暦4年正月日条に「丹波国天田郡大領外従六位下丹波直広麻呂」が見える。
古代条里制遺構は、上天津に八ケ坪、戸田に一ノ坪など坪割の名残と推定される坪名も現存する。また文永7年10月20日の左衛門少尉中原某寄進状に「嶋田里廿三坪一段 竹田、山田里十五坪五段 木梨子」と条里制の遺制が残っていたことが推定される(観音寺文書・福知山市史史料編1)。
半田のあたりの地割遺構は条里制遺構とされる。松ケ坪・石ケ坪・柿ケ坪などの地名が残っており、1町間隔の道路がある。半田(はんだ)と今も地名に残るが、あるいはこれは班田(はんでん)のことではなかろうか。
平安期になると、大同3年の撰述という日本最初の医書「大同類衆方」に「神野薬丹波国天田郡領鉾執之家爾伝方」とあり、「延喜式」にも「丹波国〈駅別稲三束、但氷上・天田・何鹿三箇郡十三束〉」とある。また「和気氏系図」には「康頼居丹波天田郡、因賜姓丹波宿禰」と記されている。郡内の郷については「和名抄」に六部郷・土師郷・宗我部郷・雀部郷・和久郷・拝師郷・奄我郷・川口郷・夜久郷・神戸郷の10郷が記されている。式内社には生野・奄我・天照玉命・荒木の4座が現存する。丹波国は古くから大嘗会の悠紀および主基国として斎田が設定されてきたが、天田郡に主基の斎田が設けられた初見は寛和元年であるが(日本紀略)、寛弘8年にも再び主基に卜定された(御堂関白記)。大嘗会は、殿上の歌人が悠紀・主基両国の名所を歌題として祝歌を詠み、屏風に瑞景を描いて宮中に奉納しているが、天田郡の名所としては豊富村・花並里(福知山市)・湊岡・鷺杜(未詳)・千束橋(三和町)などがある。
また下夜久野に末の地名があって一帯に四〇余の窯跡が確認されている。


〔中世〕平安中期頃より郡内に荘園が成立してくる。その多くは「和名抄」の郷名を継承していた。蓮華心院領六人部荘、藤原頼長、のち後白河院の後院領となった土師荘、感神院(祇園社)領宗我部郷・松尾社領雀部荘・最勝光院領和久荘・法勝寺領拝師荘・宝荘厳院奄我荘・醍醐寺領河口荘などがある。このほかにも、はじめ延暦寺末妙香院領のち篠村八幡宮領となった佐々木荘、六条御堂(のちの万寿禅寺)領豊富荘・法勝寺領榎原荘・大炊寮領今安保・興福寺領三俣部荘・摂関家領菟原荘などがある。
鎌倉期の当郡内の地頭は、金山郷の金山氏以外は不詳であるが、今安付近には古代以来丹波氏が勢力を持っていた。鎌倉末期には氷上郡葛野荘を本拠とする荻野朝忠が夜久郷に所領を持ち、後醍醐天皇が隠岐より還幸の際には六条忠顕に従って上京、四条畷の合戦では北朝方についている。「丹波志」によると夜久郷の東境竜ケ城は朝忠の居城であったという。室町期には細川氏が守護を受け継ぎ、内藤氏が守護代を世襲した。応仁の乱には、当郡の地頭・国人は多く細川方として活躍した。戦国期細川氏の分裂があり、多紀郡の波多野氏が勢力を伸ばしたが、天正7年明智光秀によって織田氏の支配下に入った。

〔近世〕慶長5年に有馬豊氏が福知山城主となり、その後岡部長盛・稲葉紀通・松平忠房と代わり、寛文9年には朽木氏が城主となった。郡東部の三和町地区は、「六人部七箇」のうち「上四箇」と呼ばれ、稲葉紀通の時代寛永10年に九鬼氏が綾部に入部し、千束荘・川合荘と細見荘・菟原荘の一部は綾部藩領となった。当郡にはほかに飯野藩・鶴牧霊藩・柏原藩・岡部藩の諸藩領、幕府領、旗本領などが入り組んで存在していた。
村数・石高は、「正保郷帳」によれば85か村・4万9、268石余、「天保郷帳」では104か村・5万915石余。寛文8年松平忠房は、平野の農民市左衛門・与三郎兄弟の行いを幕府儒官林春斎に報告し、「丹州兄弟事実」を著させている。享保19年福知山藩領では減免要求の強訴(寅年の大騒動)が起こる。集会結集を呼びかける廻状を認めたとされる高内村の八左衛門の死後、その家族と廻文を伝えたとされる大油子村忠左衛門はそれぞれ戸〆と追放の刑に処せられている。万延元年には藩の専売制政策に反対する一揆(市川騒動)が起きている。この騒動は、綾部藩領における「大身騒動」(口郡騒動ともいう)を惹き起こし、さらに船井郡須知方面へと波及し、翌年2月まで続いた。指導者らは遠島・獄門に処せられている。

〔近代〕明治元年郡内の幕府領は久美浜県に属し、諸藩領は同4年それぞれ福知山・綾部・柏原・飯野の4県に属した。次いで全域は同4年11月豊岡県の管下を経て、同9年京都府に所属。同12年には福知山城跡に天田郡役所が設置された。その後、同22年の市制町村制施行により、江戸期以来の100余か村は福知山町以下の1町20か村を編成(福知山町・曾我井村・雀部村・庵我村・下豊富村・西中筋村・下川口村・上豊富村・上六人部村・中六人部村・下六人部村・上川口村・三岳村・金谷村・金山村・菟原村・細見村・川合村・上夜久野村・中夜久野村・下夜久野村)、同35年には与謝郡雲原村を当郡に編入して1町21か村となった。郡の中心は福知山町にあったが、同町は以後、大正7年曽我井村を、昭和11年庵我・下豊富・雀部3か村を編入、翌12年には市制を施行、福知山市となった。第2次大戦後、昭和24年西中筋・下川口・上豊富3か村が福知山市に編入され、同30年には上六人部・中六人部・下六人部・上川口・金谷・三岳・金山・雲原8か村もそれぞれ同市に編入された。残る6か村のうち、昭和30年菟原・細見・川合の3か村が合併して三和村が成立。同村は翌31年町制を施行、三和町となった。また、同年中夜久野・下夜久野両村が合併して夜久野町が成立。同34年には夜久野町・上夜久野村が合併。天田郡は三和・夜久野2町となった。平成18年(2006)1月1日、福知山市は夜久野・三和両町および加佐郡大江町を編入合併して、天田郡は現福知山市のみとなった。


天田の意味
天田の「天」は美称としてよく使われる字であるし、「田」も語尾によく付く字で、どちらも抽象的で実態がとらえがたい。
現代はJR福知山駅前のあたりや陸自駐屯地が字「天田」である、ややこしいがこれは明治14~22の村名で、木村と南岡村が合併して成立した村、その村名を今も引き継いだ明治地名である。もともとの古代「天田」地名とは関係がない。
古代の天田郡の中心はどこにあるのか、それがわからない。地名の意味などがわかるわけもない。以下のような地名を調べれば何かヒントがあるかも知れない。

各地のアマタ地名
『和名抄』には、
武蔵国多磨郡海田郷(訓注・安万多)
肥後国飽田郡天田郷

今見られる地名としては、
青森県青森市新城天田内(あまだない)
茨城県稲敷郡桜川村甘田(あまた)
石川県羽咋郡志賀町甘田(あまだ)
福井県足羽郡美山町西天田(あまだ)
京都府亀岡市吉川町吉田天田(あまだ)
京都府加佐郡大江町天田内(あまだうち)
兵庫県多可郡中町天田(あまだ)
鹿児島県大島郡知名町余多(あまた)

名字由来Net 「天田(あまた・あまだ・てんだ)さん






天田郡の主な歴史記録


『福知山市史』
第四節 天田郡名考
 天田郡の郡名は、天平十九年(七四七)の九月二十六日の勅旨に「丹波国天田郡五十戸」(東大寺要録)と出ているのが初めであろう。大きさは中郡に属した。ついで天平神護二年(七六六)七月の条(続日本 紀)に、
  散位従七位上昆解宮成得似白鑞者以献言曰是丹波国天田郡華浪山所出也
とあり、次に宝亀四年(七七三)九月紀には丹波国天田郡奄我社有盗云々とある。これによって奈良時代に既に天田郡が中央に知られていたことが明らかである。
 次に平安時代では大同三年(八○八)の選述で、本邦嚆矢の医書ともいうべき大同類聚方に、神野薬丹波国天田郡領鉾執之家爾伝方と出ており、延喜七年(九○七)の延喜式にも天田郡の名が見える。そして和気氏系図を見ると康頼居丹波天田郡因賜姓丹波宿祢と記され、大江匡房の江家次第には寛弘元年(一○○四)大嘗以天田郡主基国とあって、朝廷から重視されていたことが知られる。また、和名抄には安寓多と書いて十郷(郷九・神戸一)を置いたことになっている。一郷は十戸ないし十五戸で、十郷とは六部(後の六人部)・土師・宗部(後の曽我部・曽我井)・雀部・和久・拝師・庵我・川口・夜久及び神戸の諸郷であった。神戸は神社の領有した土地人民である。大日本史国郡志には安萬多の字を用い、近古の書には餘田とも書いてあるものがある。その他主基所風土記・拾芥抄・東鑑・郡名考・天保郷帳等には天田郡と記している。
 現今福知山市に字天田がある。夕陽が丘から末広町をへて和久市境まで、福知山駅を中心に南北に長い地域を占めている。しかし、これは古くからあった字(江戸時代の村)ではない。吉田東伍博士の大日本地名辞書には、天田郡の項に「天田の名義は詳ならず、今曽我井村に天田の大字遺る、蓋郡名の起因地なるべし」とあるが、この説には疑問がある。(第六節天田郡の郡家の項参照)
 次に天田の字義であるが、それには古来諸説があって一定していない。先に列挙した中に述べなかったが、天平九年から寛治七年までの大政官符及び口宣解状を集めた類聚符宣抄第九には、文章得業生(大学寮の試験合格者)に天田部陳義の名が見える。これは人名に出るのであるが、この天田部は田部の一種で、皇室御領の田を作っていた部曲のことである。古事記の景行天皇の段に定田部とあり、景行紀に令諸国
田部屯倉と出ており、安閑紀にも興毎国田部と載っている。その部曲を置いたところが天田であるというのである、一般に古記においては、天は尊称・美称として用いられている場合が多い。
 また次のような説もある。式内荒木神社の社宝神並山記には「往古天照大神初めて神田を此処に開き給ふ。是、天田という由」と出ており、丹波田辺府志巻之一、「丹後一国田圃之事」には、「日本開闢の後天照大神の御田三所あり、天安田・天平田・天邑并田是なり。其の後限りなく墾田あれども界量のさだめなし」(丹後郷土史料集第一輯)とある。同じようなことであるが、日本紀略神代上に、「日神尊(天照大神のこと)天田垣を以って御田となす」とあり、また同書中に、一書に曰くとして「日神之田三処有り號して天安田・天平田・天邑并田という。此皆良田なり」とあるから、丹後田辺府志はおそらくこの一書に曰う説を採ったのであろう。

 注一 神並山記の一節
   宣化帝即位の始蘇我の稲田と物部鹿火の二臣に命じて天下を巡撫せしめらる。適々此の地に到り邑民を召されて「こ
  の都邑を何といふか」と問はる。邑民答へて曰く「此の郡を天田といひ、邑を船路と申す。往古天照大神初めて神田を
  此処に開き給ふ。是天田の郡という由、又天の長田は此の近邑に在るなり、南に船路といふは古 此の近、海路なりと
  伝ふ。然れども詳なる事は知り難し」と、二臣熟々其の言を聞いて曰く「老農の言其の名に符合せり、然らば此処に神
  の封境なかるくからず」とて荒木山に天神七代、地神五代の神を祀る。故に此の山を神並山(後神南山)と名づけ、こ
  の蘇我のつとめ厚き地を蘇我の庄といへり云々。
 注二 市内字堀の荒木神社由来記の一節にも次のごとく述べている。
   或日人皇二十九代宣化帝蘇我稲目加二金村(注、大伴金村)麁鹿火一(注、物部麁鹿火)而令執二政事一天皇詔而曰蘇
   我麁鹿火両人国々可二廻見一云々爰丹波国天田郡有所謂二船路一古民家多在二地頭人一両大臣至二此所一原曰夫天田郡
   以何云哉其所翁答曰往古天照太神御田天狭田天長田云有是御田始也其長田哉爰長田村云有 今亦六人部庄 元蘇我一庄也 以天長
   田一申二天田郡一(荒木神社由来記)
以上の説すなわちこの地方に天照大神の田があったからであるとなすことの外に、丹波志巻三地理の天田郡に、
  此地ノ名何ニ初リシト云事ヲ不知茂正私ニ按ニ天田郡六部郷中萩原村ノ内天神 天鈿女ナリ 降臨ノ所有 委ハ神社部ニ出之此
 所雲田ト云也依之歟
とあり、また萩原村の項には、
 天神ノ森ノ北二十間計低ク平地田地也此所ニ雲田ト云所有今萩原ノ分ナリ、今俗ニコマ田ト云、名所ノ部二出ス、
 按ニ天田ノ名雲田ヨリ起ル歟 今安村ニ天照玉神社在依之郡名トセリト云説有モ難取事ナリ、
と述べて、天鈿女命降臨の地を雲田というが、天田という称呼はそれから起こっているのであろうというのである。そして今安(市内)の天照玉命神社から生じたという説を否定しているのである。
 以上の諸説はいずれにしてもいわゆる天孫系統の民族が、せまい郷土愛に基づいて考え出した説明であると思われる。
 これに対して、民族学者松岡静雄氏の日本古語大辞典を見ると次のように出ている。
 「原」 アマダはアマ(海)ヒト(人)の約アマドの転呼
「釈」 軽の太子の歌「アマダム軽」二首、「アマトブ鳥」一首を天田振というとある。(記)
   アマダは歌の発句をとって名付けたと記伝には説明してあるが、ムを省いてアマダとした事も不可解であるのみな
   らず、一首の歌はアマトブとあることを考えねばならぬ おそらくはアマド(アマ人)振の転呼で夷振と同じく異
   俗の曲調を移した楽府の名であろう
 これを見ると松岡氏は本居宣長の説を否定して、天田は海人(隼人と同様に人を卜と訓む例は多い)の転訛であるとして、「夷振と同じく異俗」の曲調を移したものと考えているのである。もしそうだとすれば、天田という地名は全国的により多く存在してもよいはずであるが、実際にはきわめて少なく珍しい。また異民族のことを指す言葉から郡名が生じたとすれば、より一層海岸地方か辺境地方に付けられるのがふさわしいようにも思われる。
 天孫本紀に、建田背命神服連・海部直・丹波国造・但馬国造等祖とある。この海部直について太田亮教授は、丹波国造の中で最も有名なのは海部直であること、そしてそれがこの地方の海部の頭梁であって、丹後海岸地方に住んでいた多くの海部を率いていたこと、与謝郡の有名な籠神社は海部直の氏神であることなどを指示している〔同氏署・丹波丹後〕が、もともと丹波・丹後は合わせて丹波と称していたのであるから、この海部氏の族が加悦方面から雲原をへてこの天田郡地方にも入り込み、ついに今の天田郡地方にはびこったものと考えることは、松岡氏の説との関係を裏づける機縁となりはしないかとも思われる。今海人を海部と同様に考えるとすれば、その海人に由来するという天田という地名は、海岸地方に起こりやすいわけであるが、古代のこととて、初めは今の丹後方面に根を張っていても、ついには少し内地のこの地方へ入り落ちつくこともあり得る。
 後章に述べるように、本地方の最古の神の一つである式内天照玉命神社を創祀したものが大倉岐命であり、それが国造本紀によれば建稲種命の四世の孫にあたるのであって、この建稲種命を太田教授は建田背命の誤りであると考えているのであり、そうなると天孫本紀の示すように、これは海部直と同族で共に丹波の国造の祖となるのである。そしてその子孫が、天田郡の大社天照玉命神社を祭ったのである。丹波志に「天田郡ノ名天照号ヨリ初ル歟」としていることも、余程考えた上のことと思われる。
  注一 日本地理志料によれば「按肥後又有二天田郷一名義未聞」と。外に富山県から石川県へ越える倶利伽羅峠の南に天田峠がある。
  注二 この郡の古代からの沿革については別の機会に述べるが、明治四年には但馬豊岡県の管下に属し、明治九年京都府に編入された。その時雲原村は丹後国与謝郡であったが、明治三十五年二月帝国議会の議決(法律一四号)をへて、同年四月一日付で天田郡に編入された。).




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
その他たくさん



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