京都府福知山市猪崎・中・池部・安井・筈巻
京都府天田郡庵我村
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旧・庵我村の概要
《旧・庵我村の概要》
由良川の右岸、烏ケ岳(536m)の南麓から鬼ケ城(545m)の西麓一帯に位置する。
古代の庵我郷で、平安期に見える郷名。「和名抄」丹波国天田郡十郷の1つ。奄我とも書く。郷内には式内社庵我神社がある。「続日本紀」宝亀4年9月20日条にも記録があり、貞観14年11月29日には従五位下を授けられている。
中世は奄我荘で、平安末期~室町期に見える荘園。平安末期のものと推定される問注申詞記に「□原末利〈丹波奄我庄強盗〉」とあり、当荘で末利が兄是宗を殺害するという事件が起こっていた。次いで平治元年閏5月日付の宝荘厳院領荘園注文には「同国奄我庄 右大臣入道 雑器」と見える。
近代の庵我村は、明治22年~昭和11年の天田郡の自治体。猪崎・中・池部・安井・筈巻の5か村が合併して成立。旧村名を継承した5大字を編成した。由良川沿いはたびたび冠水するため水稲には適さず、桑の立木仕立てが行われ、その下地に藍を栽培し、阿波へ送ったが、大正年間ドイツ染料に押されて衰えたという。当地域の養蚕は第2次大戦後衰退したが、福知山市域では最も盛んであった。江戸期以来素麺の生産も盛んで、「庵我素麺」の名で知られていたが昭和に入り次第に「播州素麺」に押されていった。同11年福知山町の一部となり村制時の5大字は同町の大字に継承された。
旧・庵我村の主な歴史記録
『天田郡志資料』
庵我村
猪崎、中村、池部、安井、筈巻の旧五ヶ村を合して庵我村といふ、(和久市のみは始め曽我井村なりしが、今は幅知山町なり)本村に由良川の右岸に治ひて鬼ヶ城山の東南麓を繞れり。地勢狭長にして水害を被ること多し。
(戸数)七百五十二戸 (人口) 三五三八人、内男一五八二人、女一九五六人といふ。郡内第一の養蚕地にして由良川の沿岸東南部即ち猪崎田園を除いては殆ど桑園なり。然れども鬼ヶ城山、烏ヶ岳の山間には山田多く、筈巻には田地多き故に全村にては産米多し(特産)として中村の素麺、池辺の干瓢最も名あり(昔は藍も多かりしが今は知らず)
(三郡人物志)
赤井忠家 (庵我村)
赤井刑部少輔忠家は一に幸家ともいふ。父右兵衛家清の弘治三年一一月、年三十三にて死せし時、年幼なるふ以て叔父悪右衛門直止之が後見たり。長じて八上城主波多野秀治の部将となる。天正年間天田郡庵我村鬼ヶ城に住して北丹を鎮む。中国の饒将毛利の氏族吉川元春と手を携へ、足利公方義昭を頂きて此處に本拠を据へ。愛宕山より京都を攻め次いで安土を奪ふ計画を立てしが、事ならずして反って、明智光秀の爲に天正七年七月より攻囲せられ、十月二十三日没落したり。因って忠家は一時身を隠したか光秀の死後再び世に出でて製臣秀吉に仕へ、一千石を食む。関ヶ原合戦には徳川家康に属せしかば、功によって一千石を加せられ、前封と合せて二千石、子孫代々幕府に出仕す。
◇元春頓て鞆の公方義昭公へ、此の儀言上ありければ、公方何分にも、元春能く被計候へと幕ありける間、赤井等は元春既に領諾し給ふときゝて大に悦び、丹後国鬼ヶ城を取繕ひ、元春の本陣とすべしとて、犇々経営し、不日に成就せしかば、元春の出張を今や遅しと待ち居たり。(陰徳大平記)
◇天正七年七月十日九癸亥、惟任光秀宇津城を攻む。城兵逃れ去る。遂に進んで赤井忠家を鬼ヶ城に攻め、砦々築き守兵を置く。(史料綱文)
◇天正七年七月十九日惟任日向守丹坂出勢の所に宇津構明退候を人数付、追討に数多討捕へ、頭を安土に進上、それより鬼ヶ城へ相働き、近辺放火候て、鬼ヶ城へ付城の要害を構へ惟任人敷入置く云々(信長公記))(義民塩見勘左衛門) |
伝説
『天田郡志資料』
郷土物語
義民 塩見勘左衛門 庵我村
万延元年。あの有名な井伊直弼が楼田門外できられて、天下は何となくさうざうしく思はれました。こゝ鬼ヶ城山にのぞむ福知山領内にも、一騒動かもちあがってきました。
甲「ほんとうに馬鹿らしいのう。上納米はふやされる。その上に一つぷよりにして出せとか、一日に二勺づつ食べるのをへらせとか、むちやといふもんじゃ。」
乙「そればかりじゃないわい。せっかく作った芋でも大根でも、みんな利盆をとられてしまふ。あゝもう蚕を詞ふのもいやになった。」
丙「それといふのもあの市川といふ悪士のしわざじゃ。城の方を見るのも腹が立つわい」
皆「そうともそうとも、にくいは市川じゃ。今にどうするかおぼえておれ。」
百姓が寄るとこんなうらみの言葉が次から次へと持ち出されるのでした。
人々の恨み、百姓の不平が段々強くなって行くことは、重臣の市川儀右衛門もよく知ってゐました。けれども強きな市川は、不平も悪口もおし切って、ビシビシときびしく政治を行ひました。
或時町へ出て行った庵我中村の庄屋勘左衝門が、
「どうですみなさん。こんな面白い歌かありますで、
殿豆腐、家中赤味噌、唐辛子、あほう家老で下がたまらん。……」
といってゐる所へ、運悪く役人が出てきました。
役人「こら! 勘左衛門何を言ふとるか。無礼者め、今一度言つてみろ。」
勘「はい、何べんでも申します。殿とうふ家中赤みそ唐辛子…」
役「馬鹿ツー」
勘「あほう家老で下がにまらん。」
役「おのれッ! お上を悪口する一とは不届千万、入牢申しつけるぞッ。」
勘左衛門はとうとう牢へ入れられました。牢の中で勘定衛門は、いろいろと考へました。
「困った世の中になったものだ。度々お願ひしても聞いてもらへず。あれだけ言っても政治をあらためやうとはせず。もうこうなっては百姓もだまってはゐないだらふ。さうすると大騒動がもちあがる。けが人や罪人か出来ねばよいかなー……
わしも中村の庄屋だ。何とかして大勢の人か助かるやうにしなければならん。……がまてよ…しかし悪くいくと自分の命かなくなる。自分の命はかまわぬが後に残った家の者たちまで重いばつをうけねばならぬ。……いやいやそんなことに心を引かされてはならぬ。必ずみんなを助けてみせる。」
こんな決心をした勘左衛門はやかて牢から出されてもどって来ましたが、世間の様子は一層悪くなってゐました。百姓の苦しみが日一日一とますにつれ、血気の若者は
「もうがまん出来ぬ。市川をたゝき殺してやる。おのれッ。」
とりきんでみましても、相手は勢のある士です。どうすらことも出来ずこらへてゐなければなりませんでした。腹の立って仕方のない若者は、
甲「おい、市川芝居をやらふじやないか。」
乙「そりゃ面白い。だがどんなことをするのだ。」
甲「わしは百姓になるから.お前は市川になれ、よいか。」
乙「よろしい。アーン。余は市川儀右衛門であるぞよ。」
甲「なにッ、市川とな、おのれにつくき悪人奴、こうしてくれる覚悟しろ。」
とポカリポカリ頭をなぐりつけました。
乙「あいたた……おいおい芝居をしてゐるのじゃないか。そんなにたゝくない。」
甲「芝居でも何でもかまふものか。なぐってやらな気がすまんわい。おのれ悪人市川め……。」
と妙な芝居をしてゐると、つかつかと近寄って来た家中の士。
士「何をしてゐるか。」
甲乙「ヘェ?…あの運動をしておりますので…ヘヱ。…。」
士「うそをつけッ、今なんと言った。」
甲乙「その…あの号令をかけて、おのれ一、二……といひましたので…」
士「ごまかすなッ。」
甲乙「いゝえ、もうごまかしなんかいたしません。まったくほんとうでございます。」
士「う-む、よし今日は許してやる。これからそんな妙な運動をしてゐると斬ってしまふぞ。早く仕事でもせい。」
甲乙「はいはいどうも悪うございました。」
それから又、一月たち二月たって、明日は御霊さんの祭だといふ晩のこと、夜ふけて、トントントン
「今晩は、今晩は、勘左エ門さん大変です。早く起きて下さい。」
「なんですか、この夜ふけに。」
「大変です。いよいよ始めました。夜久野の方の男は皆そろっておしかけて来ます。私等もこうしては居られません。」
「とうとうやりましたか。ではあなたも早く用意をしておいて下さい。」
夜もあけはなれると、夜久野、川口方面はたゞならね気配。ジャンジャンジャン。ゴーンゴーンゴーン。ドンドンドンドン。
ブーブーブーブー。 ワーツ、ワーツ。
「おーい、皆出てこい。十六から六十までの男で、出てこぬものはたゝき殺すぞ、家を焼いてしまふぞ。」
「それ行けツそれ行ツ今日こそ市川を叩き殺してやるのだ。」
蓆旗をおし立て、竹槍、斧、嫌、天秤棒、えものえものをふりかざした何百、何千の百姓が、ワーッワーッとくり出して来ました、驚いたのは市川儀石ェ門。馬にまたかつてかけつけました。
市「者共静よれ。拙者は市川じゃ。願のことは聞いてつかわす。」
皆「それ市川じゃ。叩き殺せ。つき殺せ。」
市「こらッ、静かにせんかッ。」
皆「やってしまへやってしまへ。」
ワーッワーッと長い竹槍で突く、たゝく馬はびっくりしてとび上る。大勢にはとてもかなひませんので、市川は城へ逃げて帰りました。
皆「やあ逃げた逃げたおっかけるおっかけろ」
一揆の人々は丹後口の番所をたゝきこわし、どつとばかり城下へなだれこみました。
一方塩見勘左ヱ門は、中村渡しをおしわたり、時をうつさず福知山城下へ乗りこんだ。城下へはいった百姓等は、
「それ正直会所を焼きはらへ。」
「札座をたゝきこわせ。」
「役人の家へ火をつけろ。」
ワイワイとあばれ廻るので、家は焼かれるこわされる。女、子供はなきさけぶ。二日、二晩といふものはまるで戦場のやうな有様でした。手がつけられないので城中では、原井惣右ェ門、市川儀右ェ門を始め一同が、額を集めて相談をしました。
この時鯰江喜間多といふ士が進みでて、
「百姓たちの願を全部間きとゞけ下さるならば、私一命にかけても、本日中にとり静めませう。」
と申しました。市川も今となっては仕方がありませんから、承知しました。常から評判のよい鯰江が唯一人城から出て来ますと、一揆の人々は、ワーッととりまひて来ました。
鯰「おのおの静かに。唯今城中で相談がきまり、願はみんな聞入れることになりました。それで暴動は今日限り止めてもらひたい。」
この時勘左ヱ門は進み出て、
「私等の願をお聞入れ下さいまして有難うございます。それでは訴状を書いて出しますから、きつとお間届けを願ひます」
と申しました。話がきまったので人々は引あげます。大勢の庄屋が後に残って訴状を書くことになりましたが、書いた者が発頭人と思はれて重い罰を受けたらかなひませんから、誰も書くものがありません。一人、二人帰りして、最後に残ったのが五人だけでした。
「どうです。いざとなったらこの通りです。なんと心細いではありませんか。」
「ほんとうに、意気地のない人たちですなあ。」
そこで石場の寓右ェ門さんが考へ、勘左ヱ門さんか筆をとって、漸く十三ヶ条の訴状が出来上りました。夜があけるのを侍つて、お城の門まで持って行きますと、門は内からギーッとひらきました。
勘「訴状をどうぞ、お聞届け願ひます。」
士「まてまて受取ってつかはすが、門の中へ一歩でもはいったら、命はないぞ、竹の先へつけて出せ。」
勘「ハイハイ…、(竹を持って来なかったか、どうしやう。う-んよしよし)…あのではしばらく御待ち下さいませ」
やがて町家へ行って洗濯竿をかりて来て、その先に訴献をくゝりつけ、
勘「ではどうぞよろしく御願ひ申します。」
士「よろしい。しかし聞いておくが、此の騒動の発頭人はお前達か。それとも他にあるのか。」
勘「いゝえ発頭人は誰もありません。御領内の百姓が、こらへきれずにやったことでございまして、発頭人といふのは一人もございません。」
士「たしかに左様か。」
勘「決して間違はございません。」
士「よし、それでは帰って待っておれ。」
勘 「ハイハイ有り難うございます」
喜びの色をたゝへて勘左ヱ門は皈って来ました。
こらへて居た福知山領内百姓の不平が遂に爆発したこの市川騒動もをさまり、やかて市川、原井、切腹となり、百姓方は一人の罪人も出さず、その上十三ヶ状の願は全部聞入れられ、人々の心は秋の空のやうにカラリと晴れました。
義民塩見勘左ヱ門は庵我神社境内の石碑とゝもに永遠に人々の心に生て行くことでありましょう。 |
庵我神社境内の碑↑
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