京都府福知山市荒河
京都府天田郡福知山町荒河
京都府天田郡下豊富村荒河
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荒河の概要
《荒河の概要》
国道175号(鎮守府街道)、であったのだが、今の地図にはそう書かれていない、何道と言えばいいのかもわからないが、由良川左岸の国土交通省荒河排水機場のある所あたりから由良川上流側に位置する。上荒河と下荒河の集落がある。洪水が襲う低い地だが、国道9号がない時代は宮津へ行くにも但馬へ行くにも当地を通った。
荒河村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下豊富村の大字となる。
荒河は、明治22年~現在の大字。はじめ下豊富村、昭和11年福知山町、同12年からは福知山市の大字。
荒河は庵我だろうとか言われているが、奄我は対岸にあり、たぶん違うだろう、アラガは金属系の地名ではなかろうか。アラにはそうした意味もあるし当地の神社がその関係である。地質は夜久野オフィオライトに属している。大飯原発のある所から、私の住む与保呂の山々や当地周辺、兵庫県中央部を経て、岡山県東部にいたる舞鶴帯と呼ばれる中に断片的に分布しているという。鬼ケ城・烏ヶ岳はそうだし、姫髪山もそうであろう。オフィオライトはギリシャ語なのかラテン語なのか日本語では蛇紋岩のことで、大江山の蛇紋岩は4億年前(オルドビス紀)、夜久野オフィオライトは2億年前(ペルム紀)にできたとか、北西側が当時は大陸で、このあたりから東南側は大洋で、拡大する海底プレートが大陸の下に沈み込む所であった。重い岩石なので普通は軽い岩石の大陸の下へ沈み込むが、一部が沈み込めず大陸にめくり上がってくる。そのめくれあがった海洋プレート岩石である。金属鉱山としてはオフィオライトそのものよりも一緒に巻き込んで上昇してきた海底熱水鉱床跡であろうかと思われるが、たぶん鉄でなく銅や銀の小規模鉱山でなかろうか(あくまでもシロートのオハナシ)
国道9号沿いのイオン福知山店近くの採石場↓
拝師の武神社の岩石↓
どちらも少し緑っぽい色の砂岩で、穴裏峠などもこの岩だそう。ペルム紀に海溝に堆積したものという。
武神社の岩は右側にチャートのような硬い頁岩がある。これも深海底に堆積したプランクトン類でなかろうか。
これもイオン駐車場の岩↑だが、『福知山の自然遺産』によるとこれは斑糲岩だそう。ネットが張ってあるのでよくわからない。オフィオライトというのは蛇紋岩で、もっと深い所にあったマントル(橄欖岩)が変質したもののことだが、これらのセット全体の岩もそう呼んでいるという。要するに大陸の下へと沈み込めなかった深海底の火成岩のあれもこれものことらしい。
有用金属を含んだ海底熱水鉱床はまだ海底にあるものもあるし、海底プレートの流れに乗ってすでに大陸の下へ潜り込んだものもあるし、またこのあたりの陸上に乗り上げているものもあるはず、これを鉱山としていたのかも知れない。
『和名抄』に紀伊国名草郡荒賀郷が見える、和歌山駅のすぐ近くで、今は和歌山市黒田というらしいが、忌部氏の根拠地という。しかし当地とは関係はないのではなかろうか。
あるいは『福知山市史』は、
なおまた由良川筋に有路・在田・荒河・荒倉・有岡等と、いわゆる朝鮮系の地名と思われるものが極めて多いことも一考すべきことであろう。 |
とするが、そうした光明を意味するアリラン系の半万年の歴史を持つ超古い渡来地名かも知れない。アラというのは、どこかの国の首相が言う「世界の中心で光り輝く国」という意味の古代朝鮮語である。彼の言う「光り輝く国」は米国の意を請けて違憲「安保」法案を強行採決するテロリスト顔負けの米国の属国のことらしい。米帝の言うことはよく聞き、ここではペラペラと国内情勢を無視してしゃべる、一方集まった日本の若者達の声は一言も聞くことなし、どこが「光り輝く国」か、アホくさい、恥ずべき属国の好見本国ではないか。学生の声を聞くその程度の自信もない、ちょっとつつかれるとどうにもならないクソ法だと自ら認めたようなもので、そうしたボケどもが光り輝くだけの独裁者のアホ国ではないか。政権から去っていただこう。アベリカ人になったつもりのようだが、アラの国を求め続けたご先祖様の血が顔を出した、しかしその立ち振る舞いを見て泣くことであろう。またアラーの神とも関係あるかも知れない、「テロリスト」が求めている国とも同じなのかも知れない。
《荒河の人口・世帯数》 901・396
《主な社寺など》
大歳神社
参道を丹鉄の線路が横切る、社殿はその先に鎮座する。
大歳大明神 同村(荒河村)
祭神 稲田姫命 祭礼九月十五日
本社六尺五寸 五尺六寸 境内六間七間半 裏ノ方山林大道タリ
馬場三十六間並木有
社田高一石二斗七升二合八タ村除
(『丹波志』) |
武神社
裏山の一帯には荒河城があった。
牛頭天王 荒河村
祭神 祭礼九月十五日
本社九尺七尺上家有 拝殿三間二間
境内十二間四方 山林 社守住所 五間半二間半
馬場四十六間並木有
(『丹波志』) |
村社 武神社 下豊富村下荒河鎮座
祭神 進雄命 社殿 流造草葺く上屋あり 境内 千九百十二歩
祭日 十月十七日、大歳神社との間神木渡御の儀あり 氏子 上下荒河。以上四社何れも天照玉命神社神職の兼勤たり
(『天田郡志資料』) |
浄土真宗奥正寺末の興福山蓮正寺
興福山 蓮正寺 (真宗) 同村字下荒河
本尊 阿彌陀如来(木仏御丈け二尺二寸) 文化十一年八月十六日許可
開基 釈 義孝 創建 寛廷二年三月十八日
福知山城主朽木出羽守綱貞侯の筆、宗租見真大師の画像あり。
以上相壽庵、蓮正寺は郷土史料による。
(『天田郡志資料』) |
相壽庵廃寺
丈六山 相壽庵 (臨済宗) 同村字上荒河
本尊 観世昔菩薩 郡新四国第九番の札所なり。
開山 了徹和尚 (後藤又兵衛の後と云)
開基 播州三木城主別所豊後守
創建 天正年中、後寛永年中、長安寺四世了徹此に住し以て長安寺末となる。
(『天田郡志資料』) |
荒河城跡
横岡城跡
《交通》
《産業》
《姓氏》
荒河の主な歴史記録
『丹波志』
荒河村 右同
高五百七十石貳斗九舛
此地和久庄ニ続 安井村トノ間近シ 然トモ和久庄非スト云 然トモ古老ノ謂 古中村聖神社ヲ産神トセリ依之奄我郷ナリト云裕説有リ 茂正按ニ 荒河村ハ上下ニ分レリ上荒河ハ和久郷ノ岩井村ニ並テ田畑入組有旧ト荒河村ハ和久郷ノ中成リ非可疑 奄我ノ神社ヲ産神トセシ旧説有故此唱有リト知レリ 中古ヨリ村中ニ社を造産神トス神社ノ部ニ出ス 隣郷奄我郷ハ大河ヲ隔ツ川口ノ郷トハ山ヲ隔テ可混ノ所ニ非 和久庄ハ古ニ如述依之和久郷ノ内ニ加フ
和久郷ト川口郷ノ堺大河ヨリ東ハ奄我郷堺也 右ウルシガ端ト云山端岼道在 北ヘ行キウルシカ鼻村ノ南端河ノ上竹藪有少南 道ヨリ東ニ三尺ニ貳尺斗ノ右ニ三間ほどヲ置貳ツ有 並ニ松三本有是堺目也 自是南ノ方遙ニ四五町隔松ヶ瀨ト云所ニ一本松ト云在此松エ見渡ナリ 右ノ貳ツ石ノ所道ヨリ上ノ山ニ黒岩ト云アリ 並ニ堺也 |
『福知山市史』(図も)
荒河城(荒河置山城) (字荒河)
福知山盆地の西北部は、南の兵庫県境の山地より発して東北方に流れて、本流由良川に注ぐ和久川の河谷(豊富谷)に接しているが、この豊富谷は奥行およそ一○キロメートル余り、最大幅でおよそ一・三キロメートル程、この地方では古くから開けた一帯である。現在(昭和五十六年九月)発掘調査中の電車基地の古墳群、和久寺廃寺とその周辺部の古墳群、半田の条里制遺構、今安の式内社の天照玉命神社、そして古代の山陰道からわかれた「丹後支路」もまた氷上から峠をこえて拝師周辺コースの可能性が強い。
城祉の分布もまた、この一帯は異常に多い。特に今安集落から豊富谷の開口部荒河・新庄にかけては、わずか三キロメートル程の区間に、現在のところ和久川北側で大小(砦跡と推定されるものを含めて)合わせて八ヶ所、そして南側には四ヶ所程の城郭遺構が確認される。それだけ城や砦を必要とする事態が、時間的にも回数的にも多かったのであろう。
和久川北側の荒河城と、南側の和久城(安尾城・茶臼山城ともいい、ホテルの建築で造構の大部分が破壊されてしまったが、長さおよそ二百数十メートル、幅八○メートル余りの城域で、五段から六段の曲輪跡が認められた。しかし当地方では最大級ともいえる中世城郭も、充分な確認のないまま消滅してしまった)が、その規模・遺構からみて中心的だったのではなかろうか。
荒河城は武神社の裏山にその遺構がある。豊富谷からみると一見独立した男山にみえるが、東部から入りこんだ谷で二つにわかれ、高い北の峰で標高一○二メートル、比高およそ九○メートル。現在東半分が荒河地区の共同墓地となっている南の峰(標高およそ五○メートルで、「置山古墳群」と呼ばれる遺跡がある)にも、連郭式に三つの曲輪跡らしい削平地があるが、中核部のある北の峰の曲輪群は、比較的往時の遺構をよくとどめている。
最高所の主郭は約七メートル四方の曲輪で、約一メートル低く輪郭式にその周囲を幅約六メートル程の曲輪がめぐっている。この曲輪から東北方に約二メートルの落差をもって、三つの曲輪が階段式に並び、更に約五メートル低く幅(東西)約七メート化
長さ(南北)約一二メートルの曲輪が付属している。仮にこの曲輪を「六ノ曲輪」と呼ぶ。この曲輪の先端に小曲輪が二つあるが、この「六ノ曲輪」の東南縁に三条、反対の西北縁に二条のタテ堀が確認できる。普通「畝状タテ堀」と呼ばれる形式のもので、荒河城の特徴の一つである。この形式のタテ堀は、丹波では昭和五十三年、五十四年の二ヶ年にわたって発掘された綾部市の上林城址にも見られるもので、中世城郭の年代判定の可能性を秘めた貴重な遺構である。地域差はあろうがこの手法のタテ堀は、越後では永正~天文年間〔一五○四~一五五五〕(伊藤正一「戦国期山城跡の畝形施設について」『日本城郭大系』巻七〃研究ノート〃)、畿内では天文~永禄年間〔一五三二~一五五八〕(北垣聡一郎「中世城遺構と〃築城記〃成立の周辺」)と推測されている。
そしてこの頂上中核部分の曲輪群を鉢巻状にまわる通路もあり、その北西隅に両傾面のタテ堀と結びつけた堀切りをへだてて、「乾の出曲輪」とでも呼んでいい曲輪群の一画がある。小規模ながら階段式の三つの曲輪から成り、別郭の遺構をとどめている。大手口の西南方面に小さい曲輪が三つ程続き、中腹の曲輪群に至る。下の段が約五メートルに二○メートル、中の段が約五メートル四方、上の段が約五メートルに一○メートル程の三つの曲輪跡は、現在竹林となっているが、居住性の濃厚な一画である。居住性といえば、この中腹の曲輪群と谷一つへだてた西の一画、現在、時広稲荷の祠のある一帯も三段からなり、水をたたえた井戸跡もあって居住性が強い。集落の共同墓地のある南の峰の古風な遺構(古墳をそのまま利用したとも思われる)にくらべて、この居館跡ともとれる居住性の強い二つの曲輪群と、その背後の頂上部の中核部分の遺構は、中世末期の山城遺構をよくとどめているように思える。
『丹波志』によると「古城主 山吹将監高信ト云(中略)荒河伊達右エ門居住シ逆意ヲ以テ山吹将監ヲ討其勢ニ茶臼山(和久城)ヲ責落シ村上(勘解由介)ヲ追落スト云」とあるが、後述する二つの砦、岩井砦と横岡砦を左右にもつこの荒河城は、単なる一土豪(山吹将監・荒河伊達右衛門・村上勘解由介を裏付ける史料が見当たらない)の拠った城ではあるまい。
信憑性はともかく、一時期の福知山周辺の土豪・国人をある程度網羅していると想像される『塩見系図』の猪崎城主塩見利勝の兄「長員」の注記に、「奈賀山主殿頭 天文十九年下総守 枚ノ庄荒河村 奈賀山城主 天文廿三年甲寅十月十八日卒ス 法名源浄院殿宗貞日正大居士」とある。そしてまた、『多聞院日記』・『言継卿記』で確認される永禄八年八月二日の「内藤備前守宗勝」の戦死が、「和久郷に於て敗北す」(亀岡市川勝正宏氏蔵『西田・川勝家々譜』とある点から推して、赤井(荻野)側に討ちとられた「七百余人」(「上杉古文書」)の中に、荒河城主の奈賀山某がいたのかも知れない。 |
『福知山市史』(図も)
横岡城(砦)(字荒河)
荒河城から和久川をへだてた対岸の小丘、標高二二メートル、 比高一四メートルに城郭の遺構がある。
国道一七六号線に面した北部が削られているが、東西約三○メートル、南北で約一○○メートル余りで、北部の最高所から南にかけて四つの曲輪が連郭式に連なり、腰曲輪もある。空堀と思われる箇所もあるが、高低差以外余り防禦遺構が見当たらず(周囲の民家の増改築で遣構の消滅も想像できるが)居館跡とも推定できる。
しかし上荒河区有の古地図によると、江戸中期頃までこの横岡の小丘と川をはさんだ北側の荒河城址のある置山とは、鞍部となって連なっていた(『京都府の地名』)
とのこと。前に和久川を持った居館ともとれるが、前述したように荒河城の中腹には居館風の遺構が二ヶ所あり、本城荒河城の砦跡としておく。 |
伝説
荒河の小字一覧
荒河(アラガ)
小川尻 河原田 上中島 仮矢場 芦田和 砂原 高柴原 段 近里 津切 中島 野尻 挟間 町田 三ツ石 向島 向段 杢木 安井 山田 屋敷 横岡 論所 置山 置山 声田和 城山 挟間 三ツ石 岼
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