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丹波の

厚(あつ)
京都府福知山市厚


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京都府福知山市厚

京都府天田郡福知山町厚

京都府天田郡下豊富村厚

厚の概要




《厚の概要》

福知山市民病院がある一帯。弘法川と西川の流域。
厚村は、江戸期~明治22年の村。厚子村とも書く(元禄郷帳)。福知山藩領。茶臼山東麓に枝村の安尾(やそう)がある。
村高は「正保郷帳」で277石、うち田235石余・畑41石余、日損所がある。のち「丹波志」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに同高。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下豊富村の大字となる。
厚は、明治22年~現在の大字。はじめ下豊富村、昭和11年福知山町、同12年からは福知山市の大字。一部が昭和50年厚中町・問屋町、同54年篠尾新町1~4丁目となった。


平成26年8月15~17日の豪雨では当地一帯も深く広く水没した。弘法川・西川が氾濫し、地内の福知山市民病院にも浸水、患者を運び駆けつけた救急車がその水に阻まれて病院に入れなくなった。病院あたりで道路面より50~60センチの水かさになった、周辺は1メートルはザラで、深い所では2メートルにもなった。元々が由良川本流や和久川や弘法川などが合流する低湿な地でしばしば水害を被ったという。昭和47年に和久川の堤防が完成し、その憂いは少なくなり、今の住宅地域となったもので、当村から和久市辺りの古い家屋は川の氾濫に備えて1~2mの土盛をした石垣上に建て、村は避難用の舟を常備していたという。
福知山ばかりてはない、日本全国が似たようなことで「スゴイ建築技術」などの宣伝にだまされ、昔の民家や集落の知恵すらも失い、たいした根拠もなく思い上がって自然の力をなめてしまった深刻なビョーキ状態、「舟を常備する緊急病院とか、水没する災害対策本部が置かれる役場」というマンガとなりかねない。
由良川本流が今の川筋になるのは明智光秀からかとか言われ、それ以前は、ずっと南側を流れ、福知山城のすぐ北側の下から市役所あたり、そして鉄道を越えてその南側で右に直角に曲り、今の弘法川を流れていた時期があったようである。和久市は猪崎とは陸続きで猪崎の枝村だった。福知山の市街地は元々が川底であった低い土地のようで、洪水に弱いのは宿命なのかも知れない。
由良川の旧流路
『福知山の自然遺産』より↑


《厚の人口・世帯数》 237・117


《主な社寺など》

武神社
武神社(安尾山)
集落の西の城山(安尾山)に鎮座する。
天王社 厚 安尾ニ建
祭神 牛頭天王  祭礼 九月廿六日湯立
此社ヲ産神トスル村 厚村 新庄村
本社三尺八寸横三尺五寸 境内三十一間横廿間山林
拝殿二間一間半
(『丹波志』)
境内に若宮神社がある、当社案内板は仁徳帝とするが、若宮に仁徳は祀らないのではなかろうか。慶長年間厳しい検地に反対して殺された和泉新三郎を祀るものかも知れない。『丹波志』は、
和泉二代新三郎 慶長六年 地方検地有シ時 此村地狭ク百姓困窮ス 此上検地有テハ村民難立皆人窮シテ?シヲ見レハ苦シキコト也トテ自殺ス 依之検地ヲ不請ト云 又一説ニ此村検地ハ慶長ニ改シ帳面ナリ 検地可有ト云時未進多ク厳ク取立有リ 役人来リテ責之 其役人エ遺恨有リテ竹垣ノ内ヨリ手鎗ニテ突殺ス 下人ヲ追懸シ時 下人寺ノ前ノ溝ニ入新三郎通ルヲ足ヲ切倒シ主人ノ敵ヲ討 此時未進拾ル歟 村中ヨリ葬レリ 時慶長六年六月十一日ナリ 其後新三郎墓村方ニ祟リ有依之 若宮ト祭小祠ヲ立テ今村中毎年六月十一日ニハ半日休ニ神酒ヲ供祭リヲスルナリ事右エ門ニ位牌有
慶長5年の有馬氏検地による苛斂誅求と農民困窮を憂慮した当村の和泉大丞新三郎は翌6年藩の検地役人を殺害し自らも討たれたという、また一説には自殺して検地を拒否したともいう。のち村人は新三郎の霊を若宮として祀り小祠を立て命日には半日休み神酒を供えているという。右手の祠が若宮神社と思われるが、この祠のことかも知れない。
土師に同種の伝えがあり若宮が祀られる。藩は厚村と土師村は従前の段別とし、その代わり他は四ツ免のところ、この両村は六ツ免で幕末まできたという。


聖神社
聖神社(厚)
聖権現社 同村
祭神  祭礼九月廿六日
本社四尺三尺五寸 拝殿二間二尺一間半
境内十間四方 薮 社田高合貳斗壹舛九タ村除
(『丹波志』)

金比羅神社
金比羅神社(厚)
案内板がある。→金比羅神社案内板
本金比羅大明神は文政年間に建立されて神殿で福知山全地域の鬼門を受けられて北面丑虎に向かって居られ福知山の市の守神として祭られて居ります。
大正十年頃綾部大本教祖出口直子刀自馬に乗って通られ金比羅神社を見て此神はあらたかの神であると申されたのであります。
信仰あれ金比羅大明神  願主






曹洞宗薬王山東光寺(廃寺)
薬王山東光寺 禅曹洞 厚村
福智山町久昌寺末寺 開山道花和尚 慶長十七壬子年建立 境内壹反拾貳歩内 壹反除地 拾貳歩村除 寺六間半ニ三間 鎮守
(『丹波志』)

薬王山東光寺(曹洞宗)  もと厚村琴平神社の前(今も墓地残れり)にありしが明治廿九年洪水に堂宇流潰、それより安尾峠茶臼山の南麓に在りしがこれも今はなし。
(『天田郡志資料』)
金比羅神社の向かいに今も小さな墓地がある、このあたりにあったものと思われる。墓地入口に祀られていた↓

東光は薬師観音の別名のようなもので、何かもっと由緒ある薬師を祀る古寺院を引き継いだものかと思われるが史料はない。厚の古代はこの寺院の解明にかかっていそうに思われる。


和久城跡
当地区の西側の城山(茶臼山・安尾山・スカイランドホテルのある山)にあった城。今は国道9号や鉄道山陰本線によって分断されているが、大きなというか広い山で、福知山城の台地よりも築城には良さそうな山である、しかし麓に城下町を作りにくいかも知れない。
和久城跡
もし城下町を作るならこちら側の新庄側であったかと思われる。成和中学校から見る城山↑
調査されることなく、開発されて失われてしまったというが、以前は幅10メートルの長い腰曲輪が南側から東側にかけて山腹に2段ないし3段あり、北東部分(地蔵ケ鼻という)に出丸の跡があったという。
建武4年(1337)10月日付久下重基軍忠状(久下文書)があり、足利尊氏方の仁木頼章(丹波守護)配下が和久城を攻めているので、この時は後醍醐天皇(南朝)に味方する何者かが居城していたことは確かであろうという。南北朝の争乱の際、重要な戦略拠点となっていたことをうかがわせる。
その後は「源家小笠原之系図」小笠原信氏の譜に「小笠原肥前守尊氏将軍拝賀」とあり、その子孫が天田郡の中央部を支配し、それから10代目の頼勝に至り姓を塩見と改め大膳大輔と称したという。
頼勝には5子があり、長男頼氏は横山城に、次男長員は荒河中山に、三男監物利勝は井崎(猪崎)に、四男和久彦五郎長利が「和久ノ庄茶臼山ニ住ス」、五男利明伊織介が同郡牧村に住んでいたと記されるという。天正7年(1579)に、光秀に攻め落とされたという。



《交通》


《産業》


《姓氏》


厚の主な歴史記録


『福知山市史』
和久城の戦い
建武五年(延元三年・一三三八)二月一日付の『片山文書』には、
 片山彦三郎高親申、去年(建武四)九月廿□日、和久城戌亥尾頚手責上、同十月九日台戦之時、家子治田平八
 親員被庇右手、□(同)十一日御合戦、旗差源六被疵右髄候了、且同所合戦之間、那珂彦三郎令見知候畢、然
 早為後証可賜御判候哉、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、
  建武五年二月一日  平高親(裏花押)
 進上 御奉行所
          (仁木頼章)
        承了(花押)
とあり、建武四年(延元二年・一三三七)十月付の「久下重基軍忠状」(『久下家文書』)には、

久下弥五郎重基申、今年(建武四)十月九日、和久城御発向之時御共仕、於大手攻口構箭倉、昼夜致軍忠之
刻、同十七日後攻御敵寄来之間、不惜身命及散々大刀打、被庇(左足ノコウヲ被切)畢、其子細荻野彦六郎令検知
上者、為後証可賜御判候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、
    建武四年十月 日             (私)
                          松重基(裏花押)
  進上 御奉行所
         (仁木頼章)
       承了(花押)
とある。前にも述べたように、丹波の南朝方が台頭し福知山でも土師河原などで、足利方の攻撃による戦いが展開されてきたが、建武四年(延元二年・一三三七)九月から十月にかけて和久城によった南朝軍との戦いへと移っていった。
 和久城というのは、現在、茶臼山とよばれ、市内厚に位置する城跡が推定されている。『和名類緊抄』でいう和久郷である。この和久郷はのち江戸時代に作られた『丹波志』に、厚・篠尾・岩井・正明寺・半田・新庄・奥野部・荒河・和久寺・大門・今安にわたる地域であったと伝えている。
 十月には、足利軍は相当積極的に和久城を攻撃したようである。その中心となった軍勢は、片山氏・久下氏・荻野氏・那珂氏らであった。面白いことに、五月二十六日の栗村河原の合戦で、頭に負傷した片山氏の旗差源六が再度傷をうけている。この時の奮戦ぷりの証人として検知したものに那珂彦三郎というものが出てくる。常陸から当地方に移ってきていた那珂氏、つまり後でいう金山氏の一族であろう。片山氏と同様に、十月九日には、久下氏も同様に和久城を攻撃した。このときの文書でみる荻野彦六郎は、当時丹波の守護代をしていた荻野朝忠である。この和久城の戦いで、当時和久城に居た南朝軍は誰かはよくわからない。おそらく天田地方の南朝側に所属していた地侍や、氷上郡などの国人層もたてこもっていたと思われる。和久城は山陰方面へ、また、丹後方面への交通の岐路として、重要な位置であったことは確かである。
 幕府側に対抗した足利直冬と山名時氏は、文和三年(正平九年・一三五四)十一一月、京都へ進軍する途中丹波へ入ってきた。この山名氏の軍勢が、丹波の守護仁木頼章のいた氷上郡沼貫荘の佐野城へさしかかった。ここで山名氏と仁木氏の大がかりな戦闘が展開されるものと予想されたが、山名氏の強大な軍勢に仁木氏は兵を動かさなかったという。翌年正月二十二日足利直冬は上洛したが、それまで直冬は和久郷の辺で機会をうかがっていたと『園太暦』(洞院公賢という公家の日記)・『太平記』に述べている。
 後『太平記』(巻第三十二)では、文和四年(一三五五)二月六日、幕府方の義詮と南朝軍に組した足利直冬・山名時氏軍が山崎の西方の神南で合戦したとき、山名の軍中に、伊田・波多野・石原・足立・河村・久世・土屋・野田・小幡出羽守・倭久修理亮・土師右京亮・塩見源太の名前を伝えている。その多くは、氷上郡から福知山周辺にかけて見られる姓氏である。彼らは文和元年(正平七年・一三五二)以来、直冬と組んだ山名時氏らの配下にあって活動していたようで、それ以前から当地方の国人として南朝側に味方していたのかも知れない。その軍勢は和久城を中心として福知山周辺に駐留していたのではなかろうか。しかし、『福知山市誌』(芦田完著)では、これらの氏族に注意を促しながら因幡(鳥取県)にも、当時、塩見左近という武士があり、倭久・土師の地名もあることゆえ断定し兼ねるとされている。それならば、彼らは山名氏が連れてきた山陰の国人ということも考えられる。
 また、康安二年(正平十七年・一三六二)六月、山名時氏は山陽地方から、播磨・但馬地方にかけて拡大をはかった。但馬から播磨にかけては、時氏の子山名左衛門佐師義と、山名家の重臣であった小林民部丞重長が侍大将として軍を進めたが、播磨の国の大山(兵庫県神崎郡カ)で赤松掃部助直頼に行方をはばまれたため、丹波経由で京都へ向かおうとして和久郷に陣を取り、丹波の守護仁木義尹とにらみあった。急を聞いた幕府方は仁木氏救援の軍勢を丹波に送ったため、両者の間に大きな兵力の差ができ、その上山名方の小林軍は兵糧が欠乏したため次第に勢力が弱まっていった。
七月になると「山名伊豆守時氏が勢の丹波の和久に居たりしも、因幡の国へぞ引返しける」と『太平記』(巻第三十八)は述べている。このことに関して『丹波志』は、「この戦いに際して、仁木義景は堀村の荒神山に屋敷を構え、荒木山の上には城を構えていた。小林民部丞重長は氷上郡から溺手に廻り、余田の上、高山に登り谷を隔てて攻撃を加えた。一方、山名師義は和久郷に陣を取った。しかし大きな合戦に及ぶことなく、山名軍は兵糧尽きて伯耆に退却した」と述べている。また、『丹波志』の「陵墓部」には、「荒木の風呂の谷という所に、仁木の墓として一間四面の石垣、高さ二尺、中に菩提樹を植えたり、其の脇に松二本有り、仁木兵部大夫義男の墓と云い伝う」とあり、仁木義男にまつわる伝承が生まれている。
以上みてきたように、和久城一帯は南北朝時代においては丹波の重要な場所であった。南北朝時代のはじめのころには南朝の拠点となり、その中ごろからは、南朝側に味方した山名軍の力が大きく加わってきたところといえるであろう。

『天田郡志資料』
羽合(端合とも書く、今俗に従ふ)
昭和校の西に厚村がある。今は下豊村字厚となって居る。が明治廿二年町村制が布かれる前は、独立の村であった。和久市から此辺へかけては、洪水となると、一番先きに水がつく。それで、昔この厚村の人い中に、「このやうに水がついては困るどこか少し高みへ引き越して水害を被らぬやうにしたい」といふ者が出来た。けれども御先祖様から続いた家を離れるのはなかなか六つかしい、永い間作って来た田や畑を手ばなすのも亦御先祖様にすまぬ。どうすれば良いかと村人たちは心配して居つた。そこでどこか、近くの水のつかぬ所へ移って、そこからこれまでの田畑を耕作すらやうにすれば、御先祖様に対しても申訳が立つといふので、遂に茶臼山の麓へ引き越すもの、又八丁路(これは本村から下笹尾へ通つてゐる佐治街道)の南側へ移るものが追々に殖えて、どららにも十数軒の家が出来た。そして、茶臼山の麓の部落を安尾といひ、八丁路の南のを端合と言ったのである。勿論あとにも家は二、三十軒は残って居る。(今は減って居る) つまり厚村が本で安尾や、端合は支である所が端合の方は洪水となるとやはり水がつく。そこで今度はおもひ切って今の高台に引き越した。こゝは昔から戸数は二十戸内外である。でその端合の最初に移った所は鐘紡の北、北丹線の西で今猶裏が田といふ小字がある、その辺が昔の羽合の屋敷址といふ。かういふやうに本は厚村から分れたのであるから、何事もこの二部落は一緒であった、厚村のお宮の屋根がへには羽合からも葺草を持って参る。安尾のお宮に何かあれば厚村、羽合も合力する。しかも祭日は三部落さも九月廿六日であった例の名高い天照の大雨乞の時でも、当日朝か夕かには必ず安尾、厚村から羽合の産土様へねり込んで来る。併し羽合は笹尾と一緒であるから向へねり込むことはない。祭日は今は厚村、安尾は十月十七日であるが、羽合は十月廿六日である。これはとうも致し方かない。一方は下豊富村で養蚕が盛であるのに、羽合は福知山町で養蚕はやらぬから何日でも差支ない。厚村の産土様は聖神社で御祭神は応神天皇、安尾のは武神杜で進雄命、羽合のは加茂紳杜で別雷神、そして氏神様は共に天照様であるこんなことは私が老人から聞いたのを後世のために書きつけておいたのである。


伝説

市民病院の脇を流れる弘法川。上流側を見る↓
弘法川
同じ橋から下流側↓
弘法川
上流で工事をしていたから、そのために濁っているものか。
舞鶴の久田美のかわ川と同じような伝説。このあたりでは弘法川は涸川どころか、洪水を繰り返す。この川の下には古い由良川本流も流れているのかも知れない。
弘法川
 淑徳女学校の下な街道をまつすぐに西に向って三丁許往くと、弘法川橋といふ小さな橋かある。その川が弘法川又近所ではカナイ川とも言って居る。どこでも川には水か流れて居るが、此川は常は涸川で只雨の降りつゞくか、一時でも大夕立のあつた折だけ水か流れる。弘法といへば直ぐお大師さんを思ひ出す。この弘法大師さんは、あちら、こちら広く巡って道を直したり、橋を架けたり。溝をさらへたり、新しい田をこしらへたりして到る所で人のため世のために善いことをなさったから、いつまで経ってもお大師さん、お大師さんと信仰される。お大師さんと名のつく方は外に沢山あるのに、お大師さん言いへば誰もこの弘法大師さんだと思ふ位有り難く思って居る。
ある日このお大師さんが此あたりへ来られて笹尾はいふに及ばず、正明寺、宝、市寺とうろうろお巡りになったがえらいお大師さんでもお腹もすくし喉もかはく、お大師さんは大そう喉がかはいて苦しい、どこかによい水があればよいが。お茶でも一杯よんでくれゝばよいがとこのカナイ川のふちへ来られると、川端に婆さんか洗濯をして居る。これ幸ひと「これこれお婆さんわしは喉か涸いて困つとるが、おじやまであらうがよい水か、お茶かを一杯よんで下さらぬか」と頼まれても、婆さんは聞かぬ振をしてバチャバチャやってをって洗濯の手を止めない。振り向きもしない。が二度三度くりかへして頼まれると一寸顔を上げて 。「どこの乞食坊主ぢや、人の仕事のじゃまするな、喉が涸いたなら、この川水を呑め」といはぬばかりであった。大慈大悲のお大師さんも、この婆さん甚だ心のわるいやつじや、ヨシヨシ一つ困らせてやらうと、「婆さん、お前はわしがこれほど頼むのにお茶一つくれない、お前の心がもっと女らしくなるやうにこのわしの杖を進ぜる」といひながら婆さんの居る一間程上な川のまん中にグシャツと杖をつきさされた。とあら不思議やな、今まで流れて居った水は一滴もないやうにその杖の下へ流れ込んでしまった。
婆さんはびっくりしたが仕方なく洗濯の仕かけを提げて家に帰つた。近所の人に話すと。アンタはなしたわるい人じゃ、あんな乞食坊主のやうに見えてもあの方が此間うちから聞いたお大師榛にちがひないと聞いて、婆さんはあわてゝあたり界隈残らず尋ねたが、もはやどこにも見つかれなかった。こんなことで、遂に水が流れなくなった。そして弘法川といひ出したのである。。此川は下笹尾製氷会社附近では.水か流れて居り、厚村の東、西駅の辺で大谷川に合して和久市の神明さんの裏から荒河にいって和久川に合し後由良川に注いで居る。   (以上羽合、弘法川二項は老竹記)
(『天田郡志資料』 )

弘法川の弘法伝説
…なるほどこの川は昔から、正明寺辺から笹尾の下水田のあたりまでの間は、年中ほとんど水が流れておらず、長雨や台風などの大雨の時にだけ満水して流れ、沿岸の田畑を荒らすのであった。そのため、戦前から戦後にかけて、(戦争中、一時中断したが)大改修が行われて、河岸河底が整備されたのであった。しかし年間の水の流れ具合は以前と大して変らない。その原因は、もともと正明寺から笹尾にかけて、一帯の台地は室山(市寺山)から流れて来た岩や土砂が、何万年の間に堆積したところである。このことはこの川の改修の時、川底まで深く掘り下げた時、台地の底の方には、径三○センチ~五○センチの角のとれた石を無数に含んで、礫や土砂が重なって堆積していることが実見された。つまり地形学でいう扇状地なのである。そこで扇頂部から流れる市寺川・室川は、正明寺の上付近で、この堆積層の中へ伏流するので、川の底面には水がなくなるのである。しかもいったん伏流した水は、扇裾部である笹尾の下で湧き出るのであって、現在鐘紡KKの敷地に渾々とわき出ているのもその一部である。
なお弘法川の改修に際して昭和二十七年九月字正明寺において川の部分を深さ約四メートル余、幅約一○メートル掘削中、たまたま焼土や焼石の層を発見し、そこからは弥生末期ないしは土師器に相当する黄褐色の土器及び須恵器の破片を数十個掘り出した。その箇所の地層の断面は、弘法川一帯のそれと同じく砂礫の累層で、中には直径三○センチ以上の石さえ無数に含んでおり、この川が数千年の間にいかに猛烈な運搬作用を行ったかを物語っている。
これら土器の埋没状態とその焼土層の状態及びその面積から推定して、あるいはそこが古代の住居跡ではなかろうかとも思われる。そのことは出土土器中に、あるいは煮炊きに使ったかと思われる裏側のすすけた土器が混じっていることによっても、一層その想定を強め得るのである。なおこの焼土層の上には四メートルあるいはそれ以上の砂礫が堆積しているが、出土土器の大体の古さを、新しいもので約千年は経ていると見るならば、一年間に平均○・四センチ堆積したものと推定される。この笹尾から市寺にかけての台地は、地形学的には崖錐と古期扇状地と段丘とが合成されているのであるが、少なくとも弘法川の氾濫区域における砂礫の堆積の過程を知る上には、この土器包含層の発見は大いに役立ったといわねばならぬ。
(『福知山市史』)





厚の小字一覧


厚(アツ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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