京都府福知山市榎原
京都府天田郡上豊富村榎原
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榎原の概要
《榎原の概要》
和久川の支流榎原川の谷の集落。府道109線が谷筋を通り、穴裏トンネルによって青垣町に通じている。奥榎原と口榎原からなる。
中世は榎原荘で、鎌倉期~南北朝期の荘園。嘉元4年6月12日付の永嘉門院御使家知申状并昭慶門院御領目録案によれば恩徳院領のうちとして「榎原庄〈房仙法印・預房暁法印、御年貢千疋〉領家〈頼禅法印、得分五千疋預所沙汰、御年貢千疋申子細〉」とあるのが初見(竹内文平氏所蔵文書)という。
榎原村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上豊富村の大字となる。
榎原は、明治22年~現在の大字名。はじめ上豊富村、昭和24年からは福知山市の大字。
《榎原の人口・世帯数》 480・211
《主な社寺など》
大歳神社
大歳大明神 榎原村
祭神 稲田姫命 祭礼 九月十日
本社七尺上家有 拝殿二間三間 鳥居 境内表三十四間裏ニテ廿間 裏行廿八間馬場二間五十間 社田中田一畝十歩高二斗二升五合除地
(『丹波志』) |
榎原神社
奥榎原公民館の脇に鳥居があり、神額に「榎原神社」とあるが、社殿が見当たらない。
榎原明神 榎原村 城山
祭神 平氏ノ祖神 祭礼九月九日 榎原氏ノ氏家氏神
本社二尺五寸 上屋有 境内五間ニ七間
(『丹波志』) |
真言宗滝山観音院観滝寺
室(むろ)山(滝山)の西麓。滝山観音院と号し、高野山真言宗。本尊は十一面観音。
瀧山 観瀧寺 真言宗 榎原村
高野山谷ノ上宝城院末寺 開山法道仙人 中興成遍法印 境内三十間ニ六十間除地 山林東西二丁半南北二丁半 千手観音堂三間ニ三間半 方丈五間七間 庫裡四間七間半 門二宇 郡巡礼十一番札所 薬師堂 地蔵堂 鎮守 土蔵 古へ奥榎原ノ上ヘ滝山城ノ脇ノ地ニ在 後口榎原地移スト云
(『丹波志』) |
瀧山観音院 観瀧寺 (真言宗) 同村字榎原
本尊 千手観世音菩薩
開基 法道仙人 中興 成遍大徳
創建 養老年間 再建 嘉永元年と雖創建後あまり年数を経たれば其間不明なり
而して同年七月十四日雷火にて焼失、依て安政三年三月堂宇再建立、観普堂は慶長年間なるべし。
(縁起)養老年間法道仙人此地に来錫す。当時瀧山の峯に鉦鼓の昔あり、仙人之を探らんとて登れば白湊瀧あり尚登れば嵯峨たら岩上に大なる朴樹ありて光明を放てり鉦鼓は此所にあり。仙人は礼拝して昼は誦経し夜は坐禅すること一週間、其結願の夜大悲千手観世音菩薩出現して告げたまふ。吾、汝を侍てり、汝此木を以て吾が像を作り、堂宇を築きて衆生を済度せよと、仙人は其告げのまにまに彫像建立す。さて此山を鉦鼓山と呼び寺や瀧山観瀧寺と号す。宝亀元年天聴(光仁天皇)に達し勅願所となり寺領百石を賜ふと。当時山上に木坊、尾崎坊、長尾坊等ありき山麓には尼寺もありて法運いと盛なりしき云、降て天正十三年兵火のため寺坊尽く燼滅せしも大悲の尊像のみは火災を免れければ時の大徳成遍上人、
尊像を奉して字谷の奥に下り此所に堂宇を建てたり、今観音谷といふ。慶長年中再び現在の地に移れり。(以土郷土奥料)
(丹波考)いつの頃にや能忠といへる人かの瀧を
年を経て絶えしとぞ思ふたはむれは千瀧の川にひけ白糸
郡西国十一番 郡新四国十四番の札所なり。
檀家 二百三十戸
(『天田郡誌史料』) |
榎原城
奥榎原の中央部の西方にある。
古城 榎原村
古城主榎原氏代々居 天正ノ比ヨリ民間ニ入子孫有 姓氏部二出ス 奥榎原氏(民)家中ヨリ西ニ当 上ルコト弐丁斗郭ハ
(『丹波志』) |
榎原神社縁起には「奥榎原村西ニ城山ト云ふ、榎原氏古城、高サ弐丁、天正年中民間ニ入ルなり、子なき家なり」と記され、城跡の図が描かれるという。
榎原城(字榎原、奥榎原)
今安から和久川をさかのぼることおよそ三・五キロメートル、口榎原の地で南方より支流榎原川が流れこんでいる。この榎原川にそう山峡を南へ行くと、穴裏峠に至り、兵庫県の東芦田に達する。豊富谷の最南端といってもよい集落、奥榎原の中央部西側の標高一六○メートに
比高にしておよそ七○メートルの山に、城郭の遺構がある。
長い東西でおよそ一二○メートに 南北でおよそ三○メートルが城域で上辺約五メートル、深さ三メートル程の二つの堀切りで、三つの部分に区分されている。東部の集落側の曲輪群が中核部分と推定でき、主郭は東西約一○メートル、南北で約二○メートル、○・五メートル低く西側に小曲輪がつき、この小曲輪の西の堀切り側が土塁風の盛土となっていて、南隅に虎口の遺構がある。盛土に虎口の防禦と見張りを兼ねた建物があったのかも知れない。主郭の北から東にかけて約三メートル低い、幅四メートル程の帯曲輪がめぐり、その東縁の一部に低い土塁の跡が残っている。主郭の南側にも、幅五メートル、長さ一五メートルの腰曲輪が付属し、東隅に井戸跡ともとれるくぼ地とその外側に、士塁跡らしい遣構が残っている。堀切りの西側に南北約一○メートルに、東西がそれぞれ一○メートル、一二メートルの二つの曲輪が東から西に連なって二番目の堀切りに落ちている。そしてこの堀切りから西側は細長い
「馬場風」の削平地となり、その先端は地山とも曲輪跡とも判別できない。
東から西に連なる三つの部分のうち、大手道が南側を通る東の曲輪群が最も固い防禦施設を施している遣構からみて、当初はその一帯のみが「詰の城」的働きをしていたのを、ある時期に西方に拡張したのではなかろうか。『丹波志』に「古城 榎原村 古城主榎原氏代々居 天正ノ比ヨリ民間ニ入子孫有 姓氏部二出ス 奥榎原氏(民)家中ヨリ西ニ当 上ルコト弐丁斗」とある。
(『福知山市史』) |
「榎原城跡」
《交通》
穴裏(あなのうら)峠
榎原谷の一番奥が穴裏峠(約400メートル)で、今は上にトンネルがある、越えれば東芦田(兵庫県丹波市青垣町)に達する。屏風の峰急峻急坂であるが、古来よく利用されたという。
「永代録綱目実記」に、福知山藩領猪崎村の年貢米を天秤棒を担い、弁当二日分と蠟燭を持ち1日半で夜を徹して氷上町本郷まで運んだという記事が見える、そこは加古川の港で、そこから下って大坂米問屋へ運送したという。
当年九月末つ方より、初て御上納、氷上郡本郷と申所迄持いたし、猪埼村より百石納申候、此米壱荷ニ弐斗五升は米弐升つゝ入、此米机の上ニ而よりわけ、人足四人壱日半つゝかゝり、弁当二日分、ろうそく四丁、夜とうしニ持付候所、屋(原注・宿)となく蔵の軒ニ荷物つゝ置、藪の中ニみの笠着て雨のふる夜を明し、其明の日斗り納、其晩四時半ニ返り困人候、其後ハ朝五ツ半四ツ時立ニして、市嶋弁とう、黒井ひる、石生とまり、石生より二里半ある所七ツ立ニして本郷着仕候、
市島-石生経由の今の国道175号経路に切り替わる前は穴裏峠越であったと考えられている。
《産業》
榎原銅山
旧上豊富村字榎原にあって、明治四十年を中心に前後約十ヶ年間稼行した。当時は鉱員約二百人その他の職員約百人がこれに従い、黄銅鉱を産し、銅の外に銀・亜鉛等も産したが、大正時代に入り振わなくなった。
天田郡の北部から西部にかけては、古代から金属鉱物を産したことは推察されるが、その地方の神社に、採鉱冶金をつかさどる神として信仰された天目一箇命(天一目命)を祭った神社が多いことは注目すべきことである。
(『福知山市史』) |
榎原の主な歴史記録
『福知山市史』
隠田集落としての奥榎原
中世たとえば平安末期のいわゆる「源平時代」のような戦乱時代には、いろいろな事情で都を離れて、山間僻地の人目につかぬところへ避難し、そこで土地を開墾して生活するということもあった。そういう人々を落人といい、そういう村を人文地理学では隠田集落という。全国的に有名なのは、熊本県の五箇ノ庄、宮崎県の椎葉、徳島県の祖谷、岐阜県の白川郷、奈良県の十津川郷などであるが、丹波はかって谿羽ともかいたものがあるように、山また山で、しかも都に近いため、山奥には至るところに、落人の子孫と称する集落が見られる。この付近では、綾部市の黒谷、大江町の北原・橋谷などがその例である。しかし、その集落が平氏の子孫であるということを裏付けられるところは案外少ない。
ところが当福知山市内の豊富谷の、そのまた枝谷を遠く入った奥榎原は、現在では府道小田成松線に沿い、最近は兵庫県氷上郡西谷方面との間に穴裏トンネルが開通して、交通も便利になり、豊かな集落であるが、今から八○○~九○○年も前には、人はほとんど住んでいなかったか、あるいは戸数は極めて少なかったことであろう。落人が住み着くには格好の地であった。そこに榎原氏という一族があり、古くからその氏神として榎原明神を祭って来た。寛政六年刊行の「丹波志」にこの氏について次のように述べている。
―、榎原氏 子孫 榎原村
桓武天皇六代、左馬頭陸奥守鎮守府将軍平貞盛ノ八男常陸介平維衡ノ孫、平ノ正衡ノ次男、長門権守平ノ
維忠の孫、平親盛三歳ノ時、親継ト云者自京具下、于時長治元年二月日、親盛成長ノ後榎原ノ地ヲ令開発
凡今一八代(安永年中) 本家伝次郎、分家仁右衛門、幸左エ門、文蔵、新兵衛、佐右エ門、伝兵衛、凡七軒紋九
曜、系図在、所持仁右エ門
右によれば有名な平安時代の武将で、平将門を討って鎮守府将軍になり、後に丹波守等に任ぜられた平貞盛の五代の孫親盛が、年三歳のとき、親継という者に京都より連れて来られて、この地に住みついた。時は長治元年(一一○四)二月であった。親盛が成長してから、土地を開発して、安永年代(丹波志編纂中である)に至り、本家のほかに分家が六軒、一族計七軒となっていたわけである。長治元年は堀河天皇代の末期で、前記「丹波志」記載の正衡の長男長門守維忠の兄正盛が漸く世に認められるころである。正盛の孫は有名な清盛であり、維忠の孫の親盛は、清盛といわゆる又従兄弟ということになる。長治元年は保元・平治の乱よりおよそ五十年も前で、平氏としてはまだ台頭期であり、その一族が中央から落ちのびて来るということは、一般に考えられるような平家が源氏に追われた結果というのではなく、何か特別の事情があったのではなかったか。ただ、親盛と清盛との間は前述のごとくであったから、清盛が薨じて一挙に平氏が滅亡したことを考えると、源氏の追補をのがれてということも年代的にはあり得ないことではない。
榎原大明神は同地榎原幾右衛門家遺存の文書によると、今からおよそ二五○年前の元禄九年十月二十二日に、平氏の子孫である平正時が創祀したものであることは明らかである。幾右衛門家は正時の子孫であるという。その宮地は榎原氏の昔の城山であり、榎原大明神の祭神は正時の先祖にあたる維忠、盛秀、盛房の三人であった。古文書には、
丹州 天田郡榎原城山鎮守
榎原社 三座
元禄九年十月二十二日
嫡孫 平正時遷宮之
使下司 左 兵 衛
また、同社のはまゆか(浜床)には
元禄十三年八月五日 平正時進之、使下司、左兵衛、平太夫
とある。それからおよそ百年後の「丹波志」には、
神社の部に
榎原明神 榎原村城山
祭神 平氏ノ祖神、祭礼九月九日 榎原氏ノ氏家 氏神
本社二尺五寸 上屋有 境内五間二七間
とあって、規模はごく小さい祠であるが、一明神として出ている。別に榎原には、大歳大明神があり、祭神は稲田姫命で本社七尺に上屋付き、三間に二間の拝殿や、社守の住所もあり、長さ四六間の馬場までついた神社が出ているが、これは俗称口榎原にあるものであり、寛政のころには、奥榎原には上げるべき神社はなかったのであろう。ところがその後五○年ほどたって、天保十三年(一八四二)に、奥榎原で、従来の榎原大明神を村の産土神にしようとし、そのことを榎原氏に申入れたのであった。その時榎原氏の人々は、自分等の血族的親愛感と村役人の強引な交渉の仕様と、同じ村民としての付合の義務感とが交錯した様子が、当時書き残した記録になまなましく述べられている。
いろいろといきさつはあったようであるが、一村の平和ということが重視されたものか、榎原氏の人々もついに応諾して、榎原大明神を奥榎原の産土命とすることに決着したようである。その後百数十年をへた今日では、昔のことは美しく昇華されて、奥榎原全村の人々は一体となって、この宮を氏神とあがめ、近隣にもまれな例祭が行われている。昭和四十八年に氏神は、元榎原明神があったところから別の所へ遷座せられ、例祭にはなごやかでかつ華やかな練込みまで行われるようになった。以上古記録を見る限りでは、奥榎原は、他の氏族の人々も後から入り込んだか、あるいは初めから数氏が共同で開発をしたか、事実を証明すべきものがないが、いわゆる隠田集落に近いものと考えられる。
以上見て来たように源平時代の丹波は、両氏の争いに際して、その敗亡者の逃れ場所となったり、あるいはいわゆる流刑地となったり、あるいは戦場ともなったのであるが、それもつまりは都に近い地理的位置と山国であるという地勢条件がその原因であろう。さらに、政治的には、丹波の諸郷が中央の寺院や権門勢家の荘園となっていたため、これらのものが、互いに闘争を行う時は、いきおいその余波はこれらの荘園地方にも及び、またそのつてをもって都落ちをするものもあったことが想像されるのである。 |
伝説
榎原の始まり 伝承地 福知山市奥榎原
榎原と呼ぶようになったのは、堀川天皇の長治元年(一一○五)に平親盛と言う人がこの地に落ちのびて来て、奥榎原の城山に城をかまえて村を開拓したのによる。当時は口榎原から奥はそんなに開けておらず、大木が平坦地にも茂っていたのである。
親盛は敵に追われて、今の奥榎原の公会堂の付近で力つき、そこにあった榎の木の洞穴に入りこんで身をかくし人事不省となってしまった。翌朝追いかけて来た敵は、その榎の木の洞穴を一応調べたが、洞穴の口には晩のうちにクモが巣を張りめぐらしていたので、追手は巣を張っている所に人が入っているはずがないと深く詮索することもなく去った。こうして助かった親盛は、この地に住みつき、城山に城をかまえて榎原を開拓していった。
今も奥榎原の榎原勇大郎家に伝わる古文書の中から、平氏榎原についての部分を抜き書きすると、「先祖のお住みになった近くに御神体をお祀りする。子孫が永く尊崇するならば、天下も治まり繁栄するであろう。幸いここに榎の大樹がある。この木の洞に神座を構え奉る。それよりこの地を榎原というようになったと伝える」のようであり、城の広さ、堀切の図面なども残されている。
またその頃、一戸だけこの地に住んでいる人があったという。榎原村の草分ともいえる家で、今の当主榎原幸一氏及び口榎原の榎原国太郎氏の先祖にあたる。 『福知山の民話』
伝承探訪
平家落人の村という先入観があったためか、車は穴裏峠を越えて兵庫県氷上郡青垣町まで出てしまった。この峠は福知山地方から西氷上地方への近道にあたり、古来よく利用されたという。再び峠を越えて福知山盆地の西部、榎原川の河谷を走ると、その上流に奥榎原の緊落はあった。
奥榎原は福知山の隠田集落、いわば平家谷である。平貞盛五代の子孫親盛三歳のとき、親継なる者に京都より連れられてこの地に住みついた、と奥榎原の伝承は語る。平家の落人平親盛が拓いた村、それが奥榎原である。今も榎原姓を名乗る一族の人々は、平家の子孫であると伝えられている。現在もこの村には十五・六戸の榎原姓の家がある。
この榎原一族が祖神として祀ってきたのが、榎原明神である。『榎原神社縁起』によれば、この明神は維忠・盛秀・盛房社の三社を祀る。親盛をはじめとして、祖神が盛秀・盛房という名をもって祀られるのは興味深い。伝説が榎の大樹を神座(かみくら)として祀ったと語るように、神のモリ(杜)が祀られるのである。モリは神のいます霊地であった。そのモリの人格神として祀られるのが、親盛をはじめ盛秀・盛房ら平家の祖神であろう。ならば親盛が隠れ潜んだ榎はモリの象徴とでもいえようか。
桓武平氏の系図に従えば、平親盛の名は見当たらない。しかし、三歳の親盛が家臣に手をひかれて逃げのびてきたと語る榎原の伝説は、まぎれもなく貴種流離譚である。高貴な神の子の流浪を語る悲劇の物語である。今はそれも断片的な伝説でしかないが、かつて奥榎原の人々は、自らの祖先の出自を、こうした高貴な物語として語り伝えてきたといえよう。それは自らの村の由来を語ることでもあった。
榎原明神を訪ねると、山の麓に祀られた小さな社であった。それはかつての榎原城跡(榎原氏の古城)からここに移されたのである。
(『京都の伝説・丹波を歩く』) |
道分け地蔵と草の口
奥榎原の奥の端に、穴の裏峠という大きな峠がある。
いつの時代から開かれたものか、詳しくは知らないけれど、峠にかかる所に道分け石があり、「南無妙法蓮華経」と刻まれ、その両側に「左やまみち・右あなのうら」とあり、元録九年六月吉日と刻まれている。
この道分けに対峙して石地蔵が建てられている。錫杖をもった修業大師像の地蔵さまで、これにもわきに、「左やまみち・右あなのうらみち」と刻まれ、後側には、宝永六年六月二十四日、吉田市左ヱ門作とある。今から二百七十年前のことである。
所でこの道分け地蔵について、悲しい話が伝えられている。
広びろとした榎原山の中でも、片平谷・余田谷・綾が谷は四百町歩もあり、奥榎底・口榎原が同じ権利を持つ入会山で、むかしはこの山の草を刈り取って農作物の肥料にしたのである。だからこの山でいかに多く草を刈り取るかが、その年の稲の収穫に大きな影響をするのであった。
六公四民とも、七公三民とも言われた時代でお米の穫れ高の六〇%も七〇%も納めねばならなかったので、むかしの百姓は、山草が唯一の肥料であったから、お米を少しでもたくさん収穫するために、山草刈りは文字どおり、取り合いをする程一生懸命であった。
それで村では定めを作り、毎年「草の口」という日を決め、草の口があくと、みな自分の刈り取るなわ張りを決めて、そのなわ張りの中で毎日草を刈り、堆肥にしたり、麦肥といって麦を刈り取った後のあぜ間に入れ、すき込んで肥料としたものである。
草の口の前の晩は、この穴の裏峠の下に、奥榎原・口榎原の村役人が夜を通して、たき火をたき、先きへ行ってなわ張りをして、抜けがけする者がないように見張りをした。
さて、当日になると、両村二百戸の男は、われ遅れじと、朝の暗いうちから集まり、たき火を囲んで、庄屋の号令が出るのを待った。
庄屋は午前五時、みんなが集まったのを知ると、草の口開きを告げる。さあ号令一下「それ行け!わあ!」とわれさきにと草山目がけて走る。巾一米位の狭い道、急坂あり、飛所ありで、ちょうど障害物競走のように道を走るのである。全く命がけといってよい。
ある年のこと、例年のように草の口があく号令と共に、みんなが一せいに走り出した。ところが通称飛所におりる断崖で、下村の百姓がつまづいて転んだから、さあ大変。次から次から押しかけて来る大ぜいの人達に踏まれて、とうとう命を落してしまったのである。わあわあといっていた喚声は、しばらくして、悲嘆のどうこくに変ってしまった。
その年の山草刈りが終るまでへ村の百姓達の頭から、この悲しみは去らなかった。
あくる年、草の口を前にして、山のふもとの追分けどころに、お地蔵さんが建てられた。踏み殺された百姓の供養のために……。 (文責 大槻 勝治)
(『福知山の民話と昔ばなし』) |
榎原の小字一覧
榎原(エハラ)
綾ケ谷 石内ロ ウナマキ 奥谷 奥風呂口 大田 上条 片山 川除 亀房 カ子イ場 カヤガ谷 北浦口 蔵本口 清水 塩坪口 惣ノ貝 高谷口 谷ノ奥 寺入 峠ケ口 長田 中スカキ 野 ハサ谷 平 深サコ 方平 南ケ谷口 山谷 山野 余田谷 奥谷口 綾谷口 亀房口 石内 谷奥 蔵本 綬ケ谷 石内 奥谷 ヲクブロ 片平 上条 亀房 カヤガ谷 カウフチ 北浦 塩坪 高谷 滝山 峠 峠ロ ヒエガ谷 フカサロ 間ノ山 南ケ谷 宮コシ □□田 余田谷 ロクラヤ カメヤマ フカサ 奥谷口 亀房口 綬谷口 余田谷口 蔵本
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