呉服(ごふく)
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京都府福知山市呉服 京都府天田郡福知山町呉服 |
呉服の概要《呉服の概要》 「城下通り」の堤防のすぐ下の明覚寺のあるあたり。堤防から見る。 案内板がある。↓ 呉服町の歴史 呉服町は、福知山の城下町が建設された当初からの町屋で有馬豊氏時代(慶長~元和)の「丹波福知山城之図」では、上魚屋町通(のちの魚ケ棚通)までの呉服町と、その北にある職人町通までの下呉服町に分かれていましたが、その後は呉服町に統合され一町になり、間口二百五十四間、家数九十五軒で、町役人を多く出した町である。 江戸時代は由良川水運が盛んで、呉服町の裏側には日本海から由良川を上る舟の船着場で、上船渡口と呼ばれ舟番所がありました。また、京街道治いの町で伝馬町に該当し、問屋・厩・御用宿などが軒を並べ、後に広小路に移る高札場がありました。そのため人通りも多く、福知山の町尽くし歌に「通い通いの呉服町」と歌われています。もともと呉服商を定住させた町で、京阪各地からの物資集散の問屋が多く、間口も奥行も広く比較的大きな商家が集まっていました。また、宿場町としての機能もあり、柳町にかけての東側は、旅館や料理屋が並び、街道側は二階、裏は一階という建物が多く、客間から由良沿岸風景を展望することができ、遊客の魅力となってきました。 しかし、洪水の時は水が堤防を越え、大きな被害を受けることもありました。 呉服町 呉服町通りは大きな道路(城下通り・府道55号)に改修されて、以前とはすっかり変わってしまったと思われるが、この道路がかつての京(但馬)街道で、この街道の両側町である。写真の青信号のもう一つ先の十字路(京町通り)から、右手写真が切れるあたり(職人町通り)までで、間口・奥行の長い塗屋・紅殻格子の家が多く並び、城下町の名残をとどめていたという。かつては三丹地方のみならず鳥取方面からも呉服物の仕入れに来た町であった。 呉服町は、江戸期~明治22年の町名。明治初年~22年は福知山を冠称。江戸期は福知山城下15か町の1つ。有馬豊氏時代の絵図によれば京町通から魚屋町通(魚ケ棚通)(青信号の通り)までを呉服町とし、魚屋町通から職人町通までは下呉服町と記している。 京町通りを堤防へ突き当たった所に京口門があり、街道を通行する旅人は京方面から福知山城下町に入ると京町内の1番目の角を北へ折れてまず当町内に足を踏み入れることになったという。 福知山町づくしには「通いかよいの呉服町」と通行人によるにぎわいを詠んでいる。次の信号の所から出てきてゾロゾロと歩いていたのだろうが、今はもちろんそんな姿はない。 当町はもと呉服商を定住させた町とされるが、宿場の役割をはたすと同時に福知山が京・大坂をはじめ各地の物資の集散地としても機能したために当町には比較的大きな問屋も集まった。堤防側の旅館や料理屋では裏が由良川堤防で、街道側からはニ階、裏からは一階という建物が多く、客間から由良川沿岸風景を展望することができ、遊客の魅力となっていた。 「堀村代々庄屋記録」によれば宝暦6年当町播磨屋藤八方より出火し、明6ツまでに広小路から京町までを焼き、焼け残ったのは明覚寺・ぬしや忠兵衛・扇屋七右衛門・かうじや仁兵衛・四ツ切兵左衛門・おうぎや嘉兵衛だったという。 文政5年西本願寺門主が城崎入湯の途次、当町明覚寺に宿泊。福知山藩は送迎の役人を定め、夜分到着のため高張の纏提灯50張を領分境の多保市村へつかわし藩主の使者のほか重臣たちも出迎え、当町内には自警団を組織させた。この一行は藩からの出迎え人数も合わせると400人に及び、加えて但馬・因幡の講中300人も出迎えに集まり宿屋は大変混雑したという。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年福知山町の大字となる。 呉服は、明治22年~現在の大字名。はじめ福知山町、昭和12年からは福知山市の大字。 《呉服の人口・世帯数》 43・23 《主な社寺など》 浄土真宗本願寺派朝耀山明覚寺 案内板がある。 明覚寺(呉服町) 江戸時代のはじめごろ、福知山の城下町が整備されたとき、市内の各地にあった寺院が城下町の北側に集められました。明覚寺は下六人部長田村にあったもので、城下町の外緑に配置された寺院の一つです。明覚寺は規模も大きく、門、本堂をはじめ庫裡や鐘楼など講堂もそろい、まとまった景観を示しています。山門は福知山城の城門を移築したもので、比較的細い部材で構成される軽快な門であり、高麗門の形式はほとんど当初のままで、福知山市の指定文化財になっています。 明治維新の直後、福知山城の建物はほとんど破却されましたが、城門のいくつかが、市内に移築され、かつての城下をしのぶ遺構となっています。明治29年(1896年)の大洪水では、裏の堤防が決壊、本堂以下、大損害を受け、同31年に本堂は再建されました。 なお、明覚寺のほか、城下町にある正眼寺、法鷺寺の門は、いずれも旧福知山城の城門を明治になって移築したもので、福知山城の面影を伝える建築として貴重なものです。 福知山市 「丹波志」「 天田郡志資料」によれば、元々は長田の法林寺がある所にあったという、ここに豪摂寺があったが、それは山城へ移り、その跡地に当寺があったという。開創は開基を西願、天正12年(1584)長田村に創立、二世明順の時現在地に移転という。 京口門の守りということだろうか。 明治29年大洪水では、裏の堤防が決壊、本堂以下大損害を受け、同33年に本堂を再建した。
《交通》 《産業》 《姓氏》 呉服の主な歴史記録明覚寺の案内板にあったもの。伝説呉服の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『天田郡志資料』各巻 『福知山市史』各巻 その他たくさん |
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