京都府福知山市半田
京都府天田郡下豊富村半田
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半田の概要
《半田の概要》
:古代条里制遺構↑ 国道429号(佐治街道)も条里の道を走っているようである。一町(109メートル)間隔に直角に交わる道路網がそれと言われる。今安から半田・新庄にわたる一帯は、古代条里制が行かれ、小地名に松ケ坪・石ケ坪・柿ケ坪などの小字名が残る。周辺よりもいくらか高いらしく、洪水被害がないため、千年の後までも残されたようである。
国道9号から少し豊富谷へ入った修斎小学校や天照玉命神社のあるあたりである。
古代の天田郡の中心地がこのあたりにあったことは間違いないようだが、その基礎は縄文時代までさかのぼる。
半田村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。
明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下豊富村の大字となる。
半田は、明治22年~現在の大字。はじめ下豊富村、昭和11年福知山町、同12年からは福知山市の大字。
《半田の人口・世帯数》 300・122
《主な社寺など》
豊富谷丘陵遺跡の古墳群
今の「電車基地」がある所(↑見にくいか)だが、国鉄福知山線及び山陰本線の複線電化のための電車基地建設工事に伴う発掘調査が行われた、昭和56年度の調査対象地は、福知山市字笹尾・新庄・半田・今安の4地区であり、昭和54年度の分布調査で予定地内に墳墓21か所・城跡3か所・寺跡1か所が確認されており、伐採等によって墳墓4か所がふえ、墳墓関係だけで計26か所の調査を行った、という。方形台状墓というから古い古墳群(というか弥生墓群)である。
下の田畑は条里制を残すのか直角に区切られてている、何条というのか何里というのか何坪というのか。ひょっとして半田は班田のことだろうかと思ったりした、時代が合わないか。和田山や園部にも同じ地名があるので比較すればわかるかも知れない。
田には稲が実り収穫目前のよう、「豊富米」という良いお米が獲れるという。
茶臼山から南西方向につらなる丘陵地に、豊富谷丘陵遺跡がある。ここでは、丘陵の尾根上に累々とならぶ方形台状墓三〇基以上が発掘調査によって確認され、そのあと消滅した。多くは尾根と直交する溝によって画された墳丘に、一基から数基の木棺直葬系の主体部を設けるもので、弥生後期に築造がはじまり、一部は古墳中期までくだるものが認められている。このようなあり方は、丹後・但馬地方と共通している。
これらの丘陵上の遺跡をいとなむ母体となる集落遺跡として、もっとも有力視されるのは、豊富谷の中央をしめる半田遺跡である。半田遺跡は、縄文時代の遺跡としてもさきにとりあげたが、唐古第五様式(弥生後期)から布留式(古墳前期)にかけての良好な土器をともなう遺跡としてもよく知られている。とりわけ、一括出土した土器は、畿内の布留式土器の技法を忠実に再現したもので、古墳時代前期をむかえて、畿内の強い影響力のもとに、豊富谷が飛躍的な発展をとげたことを物語っている。
(『日本の古代遺跡京都Ⅰ』) |
「京都府埋蔵文化財情報」は、
調査墳墓のほとんどが、畿内庄内式~布留式併行期に考えられる方形台状墓であるといえる。そして、鏡を副葬する墳墓と周辺の土器を副葬する墳墓、無遺物に近い墳墓とに分けられる。これら3つの特徴は、被葬者の身分の差を端的に表わしているものと思われる。
すなわち、当地城には古墳時代前期に2つの大きな農業共同体の集団があり、その中にいくつかの構成集団があり、それが上記の結果を生み出しているのではないかと考えられる。鏡片副葬は、北九州、瀬戸内海沿いに弥生時代を中心に見られる風習であり、文化の伝播を考える上で大変興味深い。 |
『福知山・綾部の歴史』↓
豊富谷丘陵墳墓群(福知山市教育委員会提供)
尾根上に累々と続く方形のマウントの連続。長丸形の浅い穴が埋葬施設。
豊富谷丘陵墳墓群
和久川の形成した平野を見下ろすなだらかな豊富谷丘陵の稜線は、よく見るとラクダの背のように起伏を繰り返している。
昭和五五年(一九八〇)、この起伏の一つ一つが古墳ではないか、そう考えて調査は進められた。起伏の真ん中には、長方形の穴の痕跡が見つかった。
丹念に穴を掘り返すと、木の棺桶の痕跡が見つかり鉄剣が出土した。起伏は墓であり、人工的に造られたマウンドであることが明らかとなったのである。累々と続く一つ一つの起伏は一〇〇基を超え、一基の大きさは、せいぜい一〇㍍四方、高さは一㍍に満たないものもある。副葬品も、土器やせいぜい鉄器が数点という状況であった。これまでは、一般に古墳として認識されていなかった小さな古墳である。
これらの古墳から見下ろす平野には、半田遺跡が眠っている。古墳の主は半田遺跡の住人で、その共同墓地であろうか。
この墳墓群の中で最も古いものは、弥生時代後期に遡り、古墳時代の中頃まで約二五〇年間にわたって造り続けられている。ここでは、弥生時代の墳墓と古墳との間には、ほとんど差は見られないのである。
このように、巨大な前方後円墳に代表される古墳のイメージとはかけ離れたものであるが、由良川流域において、古墳出現期の様子はどの様なものであったかを知る、重要な資料であることが判明した。(崎山正人) |
半田遺跡
半田遺跡は、和久川右岸にひろがる沖積地に位置する縄文後期の遺跡である。桑飼下式を中心とする縄文土器のほか、打製石錬、打製石斧、磨製石斧、敲石、石錘などの石器類が出土している。福知山盆地を代表する縄文時代の集落跡とおもわれるが、一九七四年に、圃場整備事業にともなう簡単な調査がおこなわれただけで、くわしくは今後の調査にゆだねられている。
(『日本の古代遺跡京都Ⅰ』) |
阿光照神社(あこうしょうじんじゃ)
電車基地とは反対側の山裾に当社は南面し、広い平地を見渡す景勝の地。境内に古墳があり、また須恵器や土師器の破片も多く出土したという。ずいぶん広く削平されていて古墳や山城などがありそうな所で実際当地に古墳も山城もあった。聞かない社名だが、日を祀る社なのだろうか。
阿光照大明神 半田村
祭神 祭礼九月十九日
本社三尺三尺三寸 境内二十五間二十間
本居今安村天照宮
(『丹波志』) |
*由良川考古学散歩〈41〉*遺跡の破壊?*
硬いタイトルです。今回は「遺跡の現状と破壊」について考察し、その保護について慎重に議論を加えていきたいと…。ウソです、うそ。これでは考古学散歩にならないですものね。でもせっかく付けた「題」です。少しは関係あるお話をしましょう。
阿光照(あこうしょう)神社古墳は、その名の通り福知山市半田の阿光照神社境内にあった古墳です。平野部を望むような高台の端っこにポツンと一つだけあり、発掘する前は頂上郡が馬蹄(ばてい)状に「n」形に窪(くぼ)んでいました。
この窪みが曲(くせ)者でした。このような場合、たいがいは横穴式石室の石材を抜き取った穴を考えます。石室の上半分が失われて入り口から奥壁までが陥没しているわけですね。けれども石取りを最優先しているため、石室下半分や埋蔵物は案外無事で残っていることが多いです。
私も何が残されているか想像し願いながら発掘をしました。けれども、いくら掘っても石室はおろか石のかけら一つ出てきません。目の前には、ただきれいな盛り土が広がるのみです。そのうち「n」形の窪みは円い穴が数回の掘削でつながって出来ていることがわかってきました。どうも石室ではなく木棺(もくかん)直葬であるようです。後に聞いたところによれば、境内の相撲土俵の修復にこの塚の盛り土をよく掘り出して使ったということです。この土取りにより棺自体も完全に破壊され、まったく痕跡も残していません。残念ですが破壊されたものは確認のしようがありません。案外、土俵を掘れば埋蔵物の残骸(ざんがい)が出てくるかもしれませんけど。
もう一つのお話は、発掘調査の最中、古墳の盛り土の中からたくさん出てきた弥生式土器のことです。もちろん古墳の年代とはずいぶん隔たりのあるものです。周辺に弥生時代の遺跡が埋もれており、その土を使って盛り土を築いたのでしょう。発掘調査を進めるにつれ、古墳の真下で弥生時代末の竪(たて)穴住居が見つかりました。また周辺部でも溝・柱穴などの遺構を発見し、当時のムラの一つであることがわかりました。どうやら数百年ほど前のムラの跡を破壊して古墳は造られているわけです。現代であったら遺跡の破壊は「文化財保護法違反」といったところでしょうか。ただ古墳の盛り土下の部分が他の部分より遺構の残りが一番良好でした。遺跡を破壊して造られた古墳が、下層遺構の保護に一役買ったという皮肉な例です。何が幸いするかはわからないものです。 (八)
(『舞鶴市民新聞』(97.10.7)) |
浄土真宗本願寺派高松山明光寺
半田には江戸時代から真宗の勝賢寺と明光寺があった。勝賢寺は辻本姓を主とする菩提寺であったが、その由来は不詳。明光寺は享保3年(1718)創建、寛政12年(1800)再建、本尊は阿弥陀如来、開基は泰雲という。明治43年に1村70戸ばかりで2寺を経営するのは困難であるとして、両寺が合併、勝賢寺を廃して明光寺の名を残したという。
明光寺 一向宗 半田村
奥正寺下夜久郷門垣専福寺手次
境内十八間ニ十三間村除
本堂五間ニ四間 庫裡四間半ニ三間
勝賢寺 一向宗 半田村
右同町専福寺手次
境内廿二間ニ十四間村除
本堂五間ニ四間半 庫裡四間ニ六間半
(『丹波志』) |
明光寺 (真宗) 同村字半田
本尊 阿彌陀如来 開基 泰雲
創建 享保 三月十八日、 再建 寛政十二年十二月十八日
住職第六代、明治四十三年。勝賢寺合併と共に元勝賢寺住職高橋一誠住職となる。本寺元は天台宗なりしを改宗せり 境内にある累世碑に曰く 当村(字半田区)有二個之真宗寺院、一者号明光寺一者称勝賢寺、共創於寂如宗主三代、至明治四十三年憂将来両立併合之.因而明光寺住職順信辞、移于江州、於是辻本株爲発起、募有志、建明光寺祖代辻本氏累世之碑、以為記念焉。 大正六年三月 辻本順信識
勝賢寺の什器等は一切残しおき寺号のみは山口県周防国末武村に移せりと云。住職辻本師は江州へ移りたり。
(丹波志) 和久山常福寺址本庄にあり。薬師堂なり極楽寺址小野脇にあり、昔此所に温泉ありし時薬師を安置せり、此薬師は後に福知山寺町西蓮寺(今は廃寺)に移したりとぞ。
威憧寺址市寺にあり、今の熊野神社境内より小さき谷をわたり二丁許上り士ら所に薮の平地あり、寺尾敷といひ土手、切岸又泉池の址などあり、本堂はそれより東の小谷を越ゆる二丁許、高き所に平地のある是なり、今は松樹生ひ茂れり叉熊野神社の近くに鐘撞堂の址もありとぞ。
(『天田郡志資料』) |
半田城跡
阿光照神社のある所がそれという。
『福知山市史』(図も)
半田城(字半田)
新庄城址から西南方におよそ四○○メートル、同じ和久川の北岸の比高約三○メートルの丘陵に城址がある。和久寺集落に通ずる橋を渡った左手で、東西およそ六○メートル余り、南北でおよそ二○メートルが城域で、祠のある東端の曲輪から西南の尾根伝いに、四つの曲輪が連郭式に連なって、西端は堀切りでもって切断している。
その最西端の曲輪は南北約一○メート化 東西で約六メートル、堀切り側に低い土塁の盛土がみられる。二メートル低い二郭目の曲輪は東西約二五メートル
南北一六メートルと最も広い部分で、○・五メートル程の低い土塁で三郭目の曲輪に連なっている。この二郭目の曲輪の東南隅が大手虎口と思われるが、反対側の西北隅にも虎口らしい遺構があり、約三メートル外側に「武者隠し」とも推定できる小曲輪が付属している。三郭目と四郭目との間には幅三メートル程の堀切りがあり、この堀切りを通って北側から前出の「武者隠し」風の小曲輪に至るコースもあったようだ。そして堀切り東方に、小曲輪が三つ程確認できる。付近に「清兵衝屋敷」という個所もあり、記録・伝承はないが、中世末ごろまで土豪の拠った城であろう。 |
《交通》
《産業》
《姓氏》
半田の主な歴史記録
『福知山市史』
半田遺跡(字半田)
半田遣跡は、縄文時代から弥生さらに古墳時代までの長期間にわたる遺物を包含する遣跡であり、現在の水田下には大規模な集落遺跡の存在が推定される。
さて、昭和四十九年五月福知山市字半田の圃場整備事業地内で、衣川栄一氏により土師器が発見され、これを契機に遺跡の確認が行われ、福知山市教育委員会の手によって昭和四十九年十一月二十八日より十二月十一日まで、発掘調査が行われた。
半田遺跡は「豊富谷」のほぼ中央字半田から天照にかけての条里制の施された水田地帯に位置し、その範囲は北は修斉小学校、西は天照神社、東南は鴫谷川対岸丘陵までと、東西約九○○メート化
南北約六○○メートルにわたるものと推定される。
発掘調査は圃場整備事業の排水路約二八○メートル、幅二メートルの部分に限られたため、遺構の確認までには至らなかったが、断面の観察から縄文式土器・弥生式土器・土師器の包含層が確認された。
また、注目すべき遺構としては掘り方の発見と、道存したヒノキ材であろうと思われる柱根である。一辺が約五○センチの隅丸方形の掘り方の中に、一辺が約一八センチの不整形の柱を確認した。条里制施行以前のものと思われるが、調査の範囲が限定されたためその性格、所属時期は明確にできなかった。
遺物としては次のものがある。
石器
軟質の頁岩で作られた打製石斧、粘板岩を用いた磨製石斧サヌカイト製で縄文時代に通有の打製石鏃、さらに石錘、たたき石等が発見されているが、いずれも縄文時代後期の津雲A式に属するものと思われる。
縄文式土器
縄文式土器の中でも土器に施された文様により、細かく分類すれば、条痕文、磨消縄文、沈線文、刻目突帯文土器等
が出土しているが、いずれも縄文時代後期中葉の津雲A式と呼称される土器形式に比定される。
弥生式土器
ラッパ状の口縁部をなす壷、くの字状に外折する口縁部の甕、さらには高杯等が出土している。弥生時代後期に位置づけられるものである。
土師器
壷・甕・鉢・高杯・器台等が出土しているが、出土遺物の中では最も量が多く、全形を知り得る資料は乏しいが、当地方の土師器の変遷を知る上では貴重な資料である。
須恵器
分布調査でわずかながら杯蓋・高杯等の小片が発見された。 |
『由良川子ども風土記』
半田のもちつき
福知山市・修斉小 福田由美
半田では、むかしから十一月二十三日に、いのこのもちつきをしています。目的は一年間の作物の収穫を祝い、さらに無事に暮らせたことを祝う行事です。この行事は子供会でします。お父さん、おじいさんの小さいころからやっていたと聞きました。方法は、わらをなわでしばり、バットのようにしたもので、地面をたたいて拍子をとります。その拍子にあわせて歌うようにして、「かまあげ庭あげ、お家のはんじょう祝いましょう」その次にその家の家族の誕生を祝います。それは、お年よりから「おじいさんの誕生祝いましょう」「おばあさんの誕生祝いましょう」「お父さん……」「お母さん……」「お兄さん……」「お姉さん……」に続き、名前を知っている友達の番になると名前を言って誕生を祝います。赤ちゃんまで終わると、最後に「お家のはんじょう祝いましょう」と言って家々をまわります。家の人は「ありがとう、よく祝ってくれたね」と言って喜びお菓子などを出してくれます。
かまあげというのは、いねかりがすんだことで、庭あげというのはかりとった作物のあとしまつができて、冬を待つ状態になったことの意味です。そして次に誕生を祝います。家族みんなが元気で一年間を無事に暮らせたこと、また働けたことに感謝し、お祝いするのです。また、各家ではこの日は朝からおもちをつき、収穫を祝うとともに、手伝ってもらった親せきの家へおもちを持って、お礼をしたりしていたそうですが、今では、子供会の行事だけが残り、村の人からも続けるように望まれています。去年は、三つにわけてまわりました。わたしは、三班になって、通りの方をまわりました。そしたら、二班の「かまあげ、庭あげ、お家のはんじょう祝いましょう」という声や最後にいう「お家のはんじょう祝いましょう」という大きな声が通りのほうまで聞こえていました。 |
伝説
半田の小字一覧
半田(ハンダ)
アサ 浮田 大ヅヱ 川向 川戸 川原 上石ケ坪 上小田 角株 柿ケ坪 カケト カナケ田 カワラケ田 カスガイ クゼ 五反田 三反田 サン白 サダコ 下小田 下石ケ坪 正メン田 正見丈 シマ 丈連田(ジョウレンダ) 狸谷 段ノ下 塚本 寺田 中石ケ坪 ナラウ ニ本木 西ノ奥 西地 日ノ上 深田 前田 松ケ坪 宮ノ下 宮ノ腰 水木 棟田 山田 四ツ町 ヨウ田 ヨゴロ 二本木川向 クゼ 狸谷 西地 口ンデ 三ノ下 フクマサ
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