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丹波の

畑(はた)
京都府福知山市夜久野町畑


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京都府福知山市夜久野町畑

京都府天田郡夜久野町畑

京都府天田郡下夜久野村畑

畑の概要




《畑の概要》

畑観光マップ

国道9号から畑川を北へ入った谷間の農山村集落。畑川が中流で二谷に分れる辺りから、西側の谷には上流にかけて西ノ谷・金ノ尾(きんのお)・稲垣(いねがい)・柿本・今里の集落が並び、東の谷には桑村・小畑(おばた)がある。西に居母山(730m)山系、東の龍ヶ城(646m)などにはさまれた谷あいに位置する。
畑村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。たたら跡・鉄穴場(かんなば)跡からは相当大規模な江戸期製鉄業がうかがえるという。また漆の主産地の1つだが、明治維新以降衰退し、養蚕が盛んになるにつれて明治末年以後急速に消滅したという。
文化12年(1815)4月配札と修行の途次当地を通った野田泉光院は、「日本九崎修行日記」に次のように記しいるという。
  イトヲ谷立、辰の刻、道々托鉢、畠村と云ふに三里の峠あり、金尾村と云ふに下り、宿求る処男あり、御宿の儀は女房次第と云ふに付、嚊へ相談し一宿す、小衛門と云宅。(二日条)
  キン尾村立、辰の刻。道々托鉢、今日も峠を越へ、奥畑と云ふ村托鉢、又峠を越へ三滝山と云ふに赴く。(三日条)
明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下夜久野村の大字となる。
畑は、明治22年~現在の大字。はじめ下夜久野村、昭和31年からは夜久野町の大字。平成18年から福知山市の大字。


《畑の人口・世帯数》 263・132


《主な社寺など》

今里塚田古墳
今里塚田古墳
畑今里の塚田にある。昭和四二年(一九六七)調査して古墳であることを発見した。封土は大部分流失しているが、円墳らしい形をしている。下夜久野地域では、今西中の長須古墳とこの古墳の二基のみで貴重な存在である。
(『上夜久野村史』)

八幡神社(小畑)
龍ヶ城への登り口、円満院の高い所に鎮座している。ずっと下に鳥居がある。鐘楼があってそこから写したものだが、左はお寺の旧本堂なのか、それとも当社用の建物なのか不明。当社は右の石段の上にあるが、参道に獣除けのフェンスが張られていて、近づけない。
円満院の鎮守社として建立されたと言われるが、お寺よりも古いのではなかろうか。畑の7集落の総鎮守。当村はあるいは東の佐々木側から開発されたとも見られる。村々は川のゼッタイに下側から開発される、と考えるのは江戸期以降のことで、本当は上流側から開発されることもよくあるもので、龍ヶ城を越えてやってきた人々による村の成立は十分にあり得ることではある。
八幡神社(小畑)

村社 八幡神社 同村字畑小字小畑鎮座
祭神 応神天皇
社殿 流造唐破風三方椽勾欄付柿葺  境内 三百六十歩
末社 六社神社 五社神社 祭日 十月十三日 氏子 二百二十戸
(『天田郡志資料』)

八幡神社(小畑)
祭神…ホムダワケノミコト
応永8年(1401)南北朝の武将荻野朝忠が円満院を建立した時、その守護神として創建されたもので、以後600余年、畑7集落の総氏神として鎮座してきた。
平成11年までは地元小畑部落によって古式に則り、宮当番を勤めた。約50年前の話によると、10月13日が祭日とされ、早くから太鼓や横笛の練習がされるほか、山車や奉納相撲の土俵つくり、宵宮の芝居の準備などが行われた。当日は7集落より選ばれた28人の担い手によって神輿が神事の後、御旅所に鎮座してから7集落の巡行に出る。
また、福知山市上野条(金山地区)御勝八婚宮の25年目ごとの例祭には神輿がここに集結され、御勝八幡宮の御神体が畑八幡の神輿に移され、6社の先頭に立ち、古来からの順番により巡行される。
氏子でない遠く離れた畑より何故この祭礼に重大な役目を奉仕するのか詳らかでないが、事例は極めて珍しいことである。
除夜祭神事…宮司による祭典のみ。
秋祭り…神輿巡行は5年に一度と決められているが、奉納行事の太鼓、笛、衣装など保存継承する人々(子ども)が不足し、「保存会」を結成し、努めているが不十分である。
(『夜久野町史』)

大歳神社(桑村)
大歳神社(桑村)
当社も立派な銀杏樹がある。

大歳神祉(桑村)
祭神…オオトシノカミ、ミトシノカミ、ワカトシノカミ
昭和40年頃まで、春祭り・夏祭りが行われていた。
境内に町で最も大木と思われる銀杏樹(胸高囲6.2m)がある。
秋祭り…小畑の八幡神社に合わせて行う。
(『夜久野町史』)

大歳神社(柿本)
大歳神社(柿本)
地図によればこの社だが、グルリと獣除けフェンスで囲まれていて近づけない。
大歳神社(柿本)
祭神…オオトシノカミ、ミトシノカミ、ワカトシノカミ
春祭り…戸主が集い区長(宮司総代)の祝詞に唱和する。
秋祭り…畑区の祭り行事の日に合わせて執行することが多い。
春祭りと同様区民が祝詞をあげ、お詣りの者はこれに唱和する。
(『夜久野町史』)

大歳神社(金尾)
大歳神社(金尾)
大歳神社というのは鉱山と関係がある神社のように思われる。当社も獣除けフェンスがあってこれ以上近づくのはムリ。
大歳神社(金尾)
祭神…オオトシノカミ、ミトシノカミ、ワカトシノカミ
夏祭り…お供、献酒、氏子参拝。
稲荷神祉祭…幟立、お供、氏子参拝。
秋祭り…幟立、収穫物お供、献酒、氏子参拝。
(『夜久野町史』)

神明神社(西ノ谷)
大歳神社(金尾)
村を見下ろす小高い所に鎮座。周辺は城跡だろうか。神明社というのも何か金属のにおいか漂う。

神明紳社(西ノ谷)
祭神…アマテラスオオミカミ
元旦…氏子金員で参拝。区長により祝詞奏上(テープ)し、一斉祈願をする。お供えした酒・ご飯など振舞う。
6月…田植え終了時、当番は掃除し自由に参拝する。
秋祭り…当番掃除、お酒・赤飯・ニシメを準備し、参拝者に振舞う。
(『夜久野町史』)

賀茂神社(稲垣)
賀茂神社(稲垣)
旧畑小学校の後に鎮座。立派な参道がある。
賀茂神社(稲垣)
祭神…ワケイカズチノミコト
阿弥陀如来、大日如来祭…1月6日
賀茂神社祭…1月15日
節分祭…2月3日
初午祭…2月
石之権現祭…10月9日
稲荷神社祭…10月28日
風日(210日)…氏子全員お参りして無事を祈る。
秋祭り…日程は八幡神社に合わせる。宮当番がお供など行い、氏子は個々に神社にお参りする。
(『夜久野町史』)

村木神社(今里)
村木神社(今里)
ここの境内にも何の木なのか巨木がある。
村木神社(今里)
祭神…ククノチノオオカミ
お御戸開き…1月4日。
摂杜愛宕神社…幟立、お供。
摂社稲荷神社…同上。
秋祭り…小畑の八幡神社に合わせて行う。
(『夜久野町史』)

真言宗御室派恵日山円満院(神通寺)
円満院(小畑)
小畑の天平年間聖武天皇の勅命により行基が創建したという真言宗御室派恵日山円満院(神通寺)。
アジサイ寺として有名だが、訪れた時はその時期より少し早い。後のピークは龍ヶ城。境内の案内板↓
円満院由緒概略
当山は、鎮護国家万民豊楽を御祈願とし、善男善女に随喜喝仰の大善大慈千手観音を本尊となし奉る古義真言宗の旧刹にして、院記によれば長くも聖武帝の勅命により行基菩薩の開基にして、菊花御紋章を許されたるものと見られ、応永年間南朝の忠臣荻野朝忠霊験を富久貴の観音に受け此の地に移すと見へ、応永八年上棟すとの棟札あり。
現在に至るまで幾多の消長ありしが、殊に明和六年祝融の災に遭ひ堂塔伽藍什宝殆ど烏有に帰す。その後再建されしも明治十六年重ねて災厄に遭ひ宝藏の外悉く焼失したり。今の方丈は明治二十八年元の礎石の跡に、庫裡を大正十一年に新築新築されたものなり。
熟々当院縁起を温ぬるに、聖武天皇一夜夢に大士の霊告を聴かせられ、丹波の国富久貴峰に伽藍を建立し我を安置せよ、然らば鎮護国家万民豊楽の洪謨成就せんと、帝叡感斜ならず、直ちに行基菩薩に勅してその勝区を探ね伽藍を営構せしめ給ふ。依って一刀三礼の丹青社撰んで観音尊像を刻して安置し奉り、寺領三千石を勅賜し玉ふ。霊験日々に弥高く信男信女踵を接して寺門隆盛を極めたり。これ当山の濫觴なり。
然るに保元、平治後、兵乱熄まず。大伽藍塔頭は兵馬軍陣の屯する所となり、寺領其他も貧吏の略奪に委せ衰微その極に至る。
其後、荻野尾張守朝忠、観音信仰厚くある夜老翁夢に告げて曰く、我久しく富久貴の迹を垂る、卿我を信ずること切なり、伽藍を再建し衰頽を興隆すべし。慈眼視衆生福聚海無量の我本誓必ず卿が身に及ばんと、朝忠歓喜胸に満ち二男を出家せしむ。当山中興開山宥賢阿闍梨之なり。
斯くて朝忠数万石を領し、当山の東南十数町の頂に龍ヶ城を築き武運益々隆昌を致す。而して富久貴観音を当地に迎へ、新たに本堂寺坊数千宇を建立し寺領二百石を永代祀堂料として寄進す。時に応永八年なり。後刻剃髪し出羽入道と称す。蜜巌院殿従四位前出羽入道自覚良性大居士即ち之なり。
爾来六百余年の星霜を閲し幾多の盛衰興亡ありと雖も、法燈連綿として茲に三十一世を重ね由緒正しき尊像の尊厳を冒涜すること無く今日に伝へ、特に一願一成観音の名高く深き信仰の対象とはなりしなり。
昭和戊寅 自開基一千二百年春


円満院(小畑)
山門の下を東西に通るのが糸街道・府道530号(桑村雲原線)。
広い駐車場はないが、何台かは駐められる。たまにはアジサイなど自然美にひたるのもいいかも…
恵日山神道寺円満院 畑村 小畑
京仁和寺御所末寺 真言宗 開山行基 中興開山阿闍梨祐賢
本堂 千手観音行基ノ作 五間七間棟札方丈庫裡二王門二間ニ三間門長屋二間半八間 鐘楼
応永八辛巳年三月廿六日
大願主 荻野出羽入道朝忠
本願 阿闍梨祐賢法師
境内山林四町ニ十一町郡内巡礼卅三番札所
畑村古城地龍ヶ城寺山也 古城部ニ出ス
古城主ノ牌石在 諸伽藍多
田畠高五石一斗二升七合二タ
鎮守八幡宮畑七里惣産神也 神社ノ部ニ委
(『丹波志』)

恵日山神通寺 円満院 (真言宗仁和寺末) 同村字畑
本尊 千手観世昔菩薩(三十三年毎に開扉) 脇立 不動明王
開基 行基菩薩 中興 阿閣梨祐賢
当山縁記に曰く。聖武天皇一夜観音大士の霊夢に感じたまひ、行基菩薩に勅して、当国に行化せしめたまふ。果して丹但三国の境なる富久貴の山頂に平地を得たり、此地に大伽藍を造営、百三十六坊を建立し一刀三礼の千手観世音の尊像を彫りて安置し、寺領三千石を勅賜せらる。之を当山の濫觴とす。然るに星移り物変り、保元平治の後、天下漸く乱れ、富久貴山頭輪奐の聖域は兵馬に蹂躙せられ三千石の寺領は暴将猛卒の掠奪する所となる。堂塔の破壊、住侶の離散はいふも更なり、かくて建武中興の際、当地の豪族荻野尾張守朝忠かの富久貴山観音大士を信仰すること特に篤く、転々其衰頽を歎ず。一夜夢に老翁の告ぐるを聞き敢然として興隆すべき決心し、其次男をして出家せしむ、前記中興開山祐賢阿闍梨は即ち此人なり、朝忠は南北合一の後遂に仏門に入り落髪して出羽入道と称し富久貴山の観世音を当山に迎へ奉り、本堂、寺坊等を建立す。
実に応永八年の事なり。斯くて寺領二百石を寄進し、祐腎阿闍梨を山主として益々正法の興隆に尽せり、爾来法統連綿として今に至るまで三十世なり、
朝忠の子孫相続きてありしに天正年間、黒井城主赤井直政の攻むる所となり遂に亡ぶ。
明和六年火災に遭ひ、堂塔、寺什殆ど烏有に帰す。間もなく再建したれども、明治十六年四月八日復た失火、宝蔵の外悉く焼失せり。現在の方丈は明治廿八年、火災前の礎石のまゝに建立し、庫裡は大正十一年八月建立せり。本堂の礎石は方七間なれども現在のは方二間半にしてよく整備せり。
寺宝 釈迦涅槃像(軸)(巨勢金岡の筆といふ) 両界曼荼羅(軸) 十六善紳(軸)
   不動尊(軸) 龍虎(狩野周信の筆といふ) 三賢図(山雪筆) 梵字不動尊(伝に弘法大師筆と)

(『天田郡志資料』)

恵日山円満院 畑小畑
『丹波志』・『寺院明細帳』によると真言宗御室派で仁和寺(京都市右京区)の末寺。『丹波志』では「恵日山神通寺円満院」とあり、前身寺院である神通寺は行基菩薩(六六八~七四九)の建立で、もと天台宗であったと伝える。本尊千手観音像は行基作と伝えるが、現在この千手観音像は伝わっておらず、『寺院明継帳』の由緒では延暦年間(七八二~八〇六)に桓武天皇の御願に依って行基菩薩自ら本尊を彫り、天台宗の一宇を建立したとするが、行基は宝亀十一年(七八〇)桓武天皇の即位より以前の天平勝宝元年(七四九)に没しているなどの齟齬もあり、廷暦年間とする創建年代には確証がない。『円満院過去帳』によれば「第初世中興当寺大施主龍ヶ城々主荻野尾張守彦六朝忠重家御次男、応永二年(一三九五)二月十五日□」、さらに『丹波志』収載の鐘楼銘には「応永八辛已年三月廿六日・大願主荻野出羽入道朝忠
本願阿闍梨祐賢法節」とあり、応永年間に竜ヶ城主荻野朝忠によって再建、弟の宥(祐)賢阿闍梨を中興開山とし、真言宗に改宗したものと伝える。
(『夜久野町史』)

観音堂
柿本観音堂の案内板
当村には桑村の薬師堂、稲垣の阿弥陀堂や12世紀の作とされる千手観音像を記る柿本の観音寺などがあるそう。
佐々木の谷と違って石仏などをあまり見ない。



《交通》

糸街道
この街道は兵庫県氷上郡佐治方面から上千原に越して額田に達するのを受け、額田から畑の桑村、小畑を経て仏坂峠から福知山の三岳へ入り、さらに三岳の上佐々木から雲原へ出、与謝峠を越えて与謝郡加悦町に通じる。
「糸街道」と称されたのは、加悦地方機業の原料生糸が地元夜久野はいうにおよばず、現兵庫県氷上郡青垣町地方からこのルートで運ばれたことに由来する、村道時代に道路改修費に苦慮していた当局は府道昇格への請願の中で、「糸街道」としての重要性を強調し「現今二於テモ蚕糸業ヲ以テ生命トスル当地方ト機業ヲ以テ主業トスル加悦町方向ト密接ノ関係有之殊ニ沿道木材他林産物ノ生産多量ニシテ本路線ノ必要ハ関係村民ノ日夜痛感スル所」と述べている。
(『夜久野町史』)


《産業》
今里には「たたら」「鉄穴場(かんなば)」と呼ばれる製鉄遺跡があるそう。
夜久野町畑地区には金尾(きんのお)、直見地区には金谷(かなだに)の地名が残り、居母山(いもやま)一帯では土中に砂鉄を含むという。中世には畑のヤナ谷遺跡で砂鉄を原料とした「たたら吹き」によって製鉄が行われており、天田郡では古代より鉱物資源の利用が盛んに行われていたようである。
(『夜久野町史』)


畑の主な歴史記録


畑村 西ノ谷 金ノ尾 稲垣 小畑 桑村 柿本 今里 右同
高九百十石 家数百八十戸
直見峠ノ道ヨリ東ノ方畑村ノ内杭木山迄国境峯疆 此村七ヶ所ニ民家アリ桑村 西ノ谷 今里 柿下 金ノ尾 稲垣(本村ナリ) 小畑 中古三岳ノ左リト雖不分明 茂正按ニ古文治ノ此庄司ヲ置シ時 三岳ノ庄ニ属スル事有ニヨリ此唱ヘ有リト知ナリ 今土地ヲ按ニ三岳ノ庄ニ可混合所ニ非 三岳庄トハ大山ヲ隔テ水源下流夜久郷ノ地ト知レリ 夜久郷中ニ出ス 夜久郷ノ囲ヲ以テ可考知
金マノ尾ノ民家中ヨリ登ル嶺ヲ金マノ尾峠ト云 東ヨリ西ニ越 直見村ノ内金谷ニ越谷民家有 畑金ノ尾里ヨリ拾五六丁登 金谷エ七八丁下ル本道也
畑村ノ地ハ南口ノ方ニテハ一谷デ 夫ヨリ奥ハ二谷也 間ノ山ヲ中山ト云 小畑ヨリ稲垣ニ越峠ヲ二王峠ト云 頂迄小畑八幡ノ鳥居ヨリ八丁 頂ヨリ稲垣辻ノ札迄 五 牛馬道 小畑ノ神通寺ヨリ北ニ高山ト仏供儀山ト云 又中山ノ続ニ蓮如峯有リ レン子ニホウト呼 蓮如峯ノ北ノ今里エ越嶺ヲ八王峠ト云 牛馬通
畑谷ヨリ西ノ方為母山ト云 大山有 木立無之 直見村堺畑村地多ク 畑村ノ奥今里垣本ヨリ直見村ノ内 才ノ谷ニ越 才木峠牛通 畑谷ハ南今西村堺ヨリ今里ノ奥但馬堺迄五十三丁也 但今西村堺ヨリ稲垣札場迄十七丁 稲垣ヨリ柿本ノ橋迄七丁半 橋ヨリ今里迄九丁半 今里ヨリ但馬国堺峠嶺迄十九丁 金尾ノ谷口ノ橋ヨリ金尾峠迄十八丁 稲垣ヨリ下今西中村ニテ廿七丁 同井田村マデ五十丁同山額田村マテ五十六町
小畑桑村ノ谷ハ今西村堺ヨリ佐々木谷ノ奥仏坂小野原峠迄三十五丁 但今西村中ヨリ桑村迄十二丁 桑村堺ヨリ小畑仏坂小野原峠迄廿三丁
稲垣ヨリ桑村ニ越 桑村峠牛不通非本道 但馬国堺スコウ峠 大坂也 為母山ノ続 牛馬道 但馬小坂村堺札場ヨリ三十七丁小坂ノ中村ニ出 久畑村エ通
(『丹波志』)

畑村 西ノ谷、金ケ尾、稲垣、小畑、桑村、柿本、今里
    高 九百石  民家百八十戸
 直見峠の道より東の方、畑村の内、サイキ山まで峰境、此村七ケ所に分れ.中古、三岳の庄に属せりと云 文治の頃庄司を置きし時三岳圧に属せしか、今土地を見るに、三岳の庄に混ずべきにあらず、即ち三岳庄とは大山脈を隔て、水源等も夜久郷の地なること疑なし、金尾の民家中より登る峠は直見村の内金谷へ出づ、上り十六丁、下り七、八丁本道とす。
此材、南の口にては一谷なれど奥の方は二谷なり、間の山を中山へといふ、畑より稲垣へ趣ゆる峠を二王峠ごいふ、八幡社の鳥居より頂迄八町、頂より稲垣札ノ辻迄五丁許、牛馬可通、小畑の神通寺より此の高山は、仏供儀(ブクギ)山といふ、又中山の続きに蓮如峠あり、畑谷より西の方に為母山の大山あり、木立なし、直見堺なり、山は畑村に多くかゝれり、畑村の奥、今里、柿本より直見村の内.才ノ谷へ趣える才ノ木峠あり、牛馬可通、畑谷は今西村堺より、今里の奥、但馬境迄五十三丁あり、柿本の橋迄七丁半、橋より今里迄九丁、今里より但馬境迄十九丁、金尾の口の橋より金尾峠迄又十八丁なり、稲垣より下、今西中村迄廿七丁、仝井田村迄十二丁、額田村迄、尚六丁なり。小畑、桑村の谷は、今西村境より佐々木谷の奥、仏小野原まで、三十五丁、但し今里堺より桑村迄十二丁、村堺より小畑分仏坂、小野原迄廿三丁、稲垣より桑村へ趣ゆる桑村峠あり、牛馬不通、又但馬国境にスゴウ峠あり、為母山の続なり、牛馬可通、但馬国小坂村堺、札場より三十七丁小坂なし、中村に出て久畑村へ通ず、
(『天田郡志資料』)

ヤナ谷遺跡
所在地 畑(ヤナ谷)
遺跡 ヤナ谷は、伏見山の北西の谷に位置する。一九七五年、ヤナ谷林道開設工事に伴い、衣川栄一によつて発掘調査が行われた。遺跡は谷部の緩斜面を利用して砂鉄を原料とする「たたら吹き」による製鉄が行われていたことが判明し、注目すべき遺構は製鉄炉の発見である。
炉は長方形状で、地上部では周囲に炉壁があり、炉の長辺側(東西)の外側に炉壁に沿って各一条の溝が配置されている。溝は長さ五メートル、底部幅五〇センチ、深さ二三〇~五〇センチである。溝と炉の底は、ほぼ同じ高さで、溝側面には石列に近い石積みがあって、石積みの表面には山土を貼り付けた部分が残っている。さらに石積みの上は叩き締めた土壇状の盛り土があり、西側に配された二列の石列で区画されている。土壇の幅は溝端から石列まで約一・五メートルである。炉の外北側は炉底より三〇センチ高く、木炭片や鉄滓粒が混じった硬い面となっている。次に炉の地下講造については、炉底表面より六五センチまでは木炭や灰が充満している。その下部はマサ土になっており、本炭は粒状から粉状になったものが多い。炉を築く時、湿気を防ぐために薪等を燃やしたものと考えられている。つまり上述した炉の本体は、大船であり、炉の外に見られる東西の溝は小船になる可能性が高いと思われる。なお、炉を中心として周囲には柱穴や礎石等が見つかっていないが、炉の規模からみて屋内「たたら」であると調査者は判断している。
遺物 ヤットコ、鉱滓、木炭といったものが見つかっている。ヤットコは鉄製で先端の挟み部分は、円形の心とそれを半円形に覆う部分とが対をなし、支点より手前は断面長方形~正方形の握り部分がある。支点には円形の鋲が入れられている。
(『夜久野町史』)

夜久郷の鉱山
夜久野には「鉄鈷山(かなとこやま)」「金尾」など採鉱が行われていたことを表す地名がある。居母山山系北部の花崗岩が分布する一帯は砂鉄を産出し、今里・金尾(きんのお)・才谷・西垣・田谷垣・副谷などに製鉄遺跡が散在する。それらの遺跡はヤナ谷の製鉄遺跡のように明治以降に稼働し、大正期から昭和二十年代までに鉱石はほとんど搬出されたとのことであるが、近世にもそれに近い場所で採掘や精錬が行われていたと考えられる(夜久野町教育委員会『ヤナ谷製鉄遺跡発掘調査報告書』)。
製鉄遺跡は、主に鉄の原料である砂鉄の採取場と製鉄場(たたら)からなる。砂鉄は鉄穴(かんな)流しという、流水によって土砂より分離する方法が慶長期より用いられ、さらに近隣の製鉄場に運んで精錬した(森弘志「夜久野における製鉄遺跡について」)。また兵庫県出石郡但東町の製鉄場に夜久野から小坂峠を越して砂鉄が運ばれたという伝承もあり、他地域の製鉄場へも供給されたようである。
製鉄場が山の奥地にあるのは、「砂鉄七里に炭三里」というように精錬に多くの木材燃料を必要とするめである。炉の遺構の周囲には、製鉄時に砂鉄から排出される不純物の鉱滓(鉄滓)や羽口・ヤットコなどの道具が出土する。ヤナ谷・小栗尾・深山・西垣で出土した鉱滓は室町時代以降の方法である屋内タタラによるものであるという(『ヤナ谷製鉄遺跡発掘調査報告書』)。
近世の夜久野の鉱山について確認できる史料は少ないが、直見村才谷の深山に鉄山があったということが確認でぎる史料がある。文化十三年(一八一六)に直見村の才谷と同村の栗尾・宮垣・西垣・桑谷・大岶・金谷・山中とが入会地(深山)の境界について争った際、才谷側が藩に出した口上書に「当村才谷深山与申西方ニ御座候、往古ハ当村壱ケ村之山ニ御座候処、其頃鉄山御座候ニ付不残伐払小生ニ相成」と記述している。すなわち文化期よりみて「往古」とされる時代に、深山に鉄山があったとのことである(『同』)。
また日置村の銅山についての史料がある。宝永二年(一七〇五)に日置村において銅山を開山したい旨の出願が福知山藩に出されている。出願は認可され、郡奉行をとおして地元の村々へ箇条書が下されている。
箇条書の内容は次のとおりである。
①火元を大切にすること。
②日置村や近隣の村々から銅山に日雇いに出て農業春の農閑期に稼ぎに行く場合については容認し、庄屋へ届け出てその指図を受けなければならない。鉱山が繁盛して外から人が多く山に入り込むようになったら、すぐに当地支配の代官へ報告すること。
③山師(鉱山経営者)との間に、中切(長期の決算取引)や「銀元江組合」ならびに米銀の貸借などを行って
はならない。
④銅山へ炭薪を売った場合はただちに代銀を受け取ること。小商人は山に入り込まないこと。特に近辺の村々の役人はそのことを常々吟味すること。
⑤男女に限らずその人請(保証人)に立ってはいけない。なにごとも手引き・挨拶(仲介)は絶対にしてはいけない。
⑥博打賭の諸勝負は言うに及ばず、村の百姓共が下財(坑夫や山師)と関わることをかたく禁ずる。また山働きの者が村へ入ることも禁ずる。
⑦銅山へ関わり出入りが生じ訴訟を起こしても、藩は取り上げない。
銅山の出願者は史料からは詳しくわからないが元々地元の村々と関わりのない「山師」(銅山経営者)であり、農民が鉱山での日雇いや商い取引などによって、銅山と経済的に深い関わりを持つことを藩は禁じている。また積極的な鉱山繁栄政策をとらない方針であったようである。なお日置村内のどこに銅の鉱脈があったのかこの史料には記述はないが、『丹波誌』には中夜久野の八ヶ谷(日置村)に銅山があったとあり、それに近い場所と考えられる。
くだって宝暦八年(一七八五〉に、夜久郷より「金山」の出願がなされている。この史料にみえる「金山」は鉱山と同義で、「鉱石の採掘場所やそれを吹き分ける(精錬する)ところを含めた場所」(『ヤナ谷製鉄遺跡発掘調査報告書』)であり、銅山なのか鉄山なのかは不明である。金山の場所も詳しくはわからないが、福知山藩が牧川の下流域の村々に対し、鉱山が田地諸作に支障を及ぼさないか照会している。この藩の照会に対して村々より回答が出されている。猪野々村では村役人と惣百姓が集まって相談したところ、川上に鉱山ができれば洪水の際に鉱山から流れ出た砂が田地に入り、用水請けの田地が「金灸」(金クソ=鉱滓がたまることか)となり、後々百姓にとって難儀なこととなるのではとの懸念を示している。また十二村でも、諸作に支障があるとは必ずしも言えないとしながらも、鉱山の廃水の毒性や鉱滓の流れ込みについては聞いておりいずれ悪影響が出るのではないかとしている。村々の回答では鉱山の悪影響について言及しながらも強く拒否するにはいたっていないが、それ以上の史料がなく場所も特定できないため、その後の展開は確認できない。操業したとすれば今なお残る鉱山遺跡のひとつである可能性もあるだろう。
(『夜久野町史』)


龍ヶ城は標高六四五㍍の城山で、夜久野町字畑と福知山市字常願寺にまたがる。頂上は平坦で、東西約五〇㍍、南北約一八㍍の長方形をしており、北側には土塁がある。地元ではこの城主を荻野朝忠と伝えており、その子孫という荻野や赤井を姓とする家もある。
荻野朝忠は『太平記』に登場する丹波の有名な武将であり、その根拠地は氷上郡葛野荘(氷上町)とされている。『太平記』によれば朝忠は元弘三年(一三三三)四月、足利尊氏に先立って六波羅を攻撃した千種忠顕に従っていた。その後、建武三年(一三三六)尊氏が九州へ脱出した時には、これを助けるために仁木頼章を大将として氷上郡の高山寺城に立て籠った。ところが康永二年(一三四三)一二月、尊氏を恨むことがあって南朝方の児島高徳に応じ高山寺城で叛旗をひるがえすが、山名時氏に攻められて降参した。また貞和四年(一三四八)高師直が四条畷に楠正行を攻めた時には仁木頼章の配下として参戦し、観応二年(一三五一)尊氏親子が丹波へ逃れ出た時には石龕寺(氷上郡山南町)でこれを警護している。さらに山名が若狭の領地のことなどで南朝方に寝返った文和二年(一三五三)には、師直の妾の子を大将に取り立て山名を攻めている。その後の彼の動向は不明だが、貞治六年(一三六七)長講堂の中殿御会という天皇の命じた行事に、荻野出羽守や波多野出雲守など多数の侍が列席したとある。
最近の研究では、朝忠は建武四年から尊氏に叛する康永二年までの間や山名氏が尊氏に叛した後など、丹波守護代として、福知山の和久嶋や雀部城の戦いなど丹波各地の地頭たちの活躍を認承したことが知られている。しかし、龍ケ城に拠ったことや夜久野に来たことも当時の史料には全く書かれていない。夜久野に来たことはあったとしても直接的なつながりはないのであろうか。『丹波志』には、福知山の堀村に朝忠の屋敷があったことや龍ケ城主の位牌の文字も記録されている。その戒名は「従四位前出羽入道」、俗名は「荻野尾張守朝忠」という。地元に残るこの位牌は後世の作に相違なく、『太平記』からの引用であろうか。
ここで注目されるのは康永二年から少なくとも応永八年(一四〇一)までの約六〇年間、綾部安国寺の領地である今西村(夜久野町)を押妨した荻野出羽入道の存在である。長講堂の中殿御会に登場する出羽守は、荻野朝忠の子供か兄弟と見てよいため、安国寺領を侵した出羽入道は出羽守と同一と考えられる。当時、今西村の範囲であった井田村の四位ノ宮は朝忠を祭神とする。これを護持した庄屋の荻野五右衛門は稲葉紀通によって一家皆殺しにあった家だが、天正年間(一五七三~九二)には荻野甚左衛門という土豪であったという。以上により龍ケ城は、荻野朝忠の城というよりも、その子孫が拠った城であり、現在の遺構は朝忠より数代下った時期のものと推定される。(衣川栄一)
(『福知山・綾部の歴史』)




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『夜久野町史』各巻
その他たくさん



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