京都府福知山市菱屋
京都府天田郡福知山町菱屋
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菱屋町の概要
《菱屋町の概要》
アーケードがなくなって、何か間が抜けた感じもする広小路から見る菱屋町通り↑手前側ポッポランドがある方も当町である。由良川堤防から二筋目になる。
江戸期初頭にはこのあたりには多くの沼沢があり、食料にもあてた菱が取れて、菱を商う大きな菱屋があったことにちなむ地名と伝えるとか。
当時文書によれば豪商のなかには菱屋藤右衛門や菱屋武右衛門のように、菱屋という家号の商人の存在が確認される。また当町の中程に東西の横町があり、菱屋町横町とも永領寺横町とも呼ばれた。
福知山随一の豪商とされる塩屋吉田三右衛門家が当町南端の広小路西角にあったという。吉田家は承応2年(1653)に来住し、酒造・塩問屋・鉄問屋・金融業などを手広く営み財を築いた。藩の財政にも大きな力をもち、銀札座御用金調達や勘定所支配はもとより、庶民の無尽講の講元なども命じられた。宝暦6年(1756)以降はその屋敷が本陣となった。同家は2回の火災をはじめ度々の水害に遭っているが、なお多くの藩の政治経済に関する文書を伝えるそうである。
菱屋町は、江戸期~明治22年の町名。明治初年~22年は福知山を冠称。江戸期は福知山城下15か町の1つ。
明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年福知山町の大字となる。
菱屋は、明治22年~現在の大字名。はじめ福知山町、昭和12年からは福知山市の大字。
《菱屋町の人口・世帯数》 112・52
《主な社寺など》
日蓮宗宝珠山常照寺
上荒河にあった宝珠山蓮華院金胎寺という真言宗寺院が前身という。その後兵火にかかるなどして荒廃していたのを、二一世日量が藩主松平忠房に請い現在地に寺地を賜り再興を図ったという。
寺地の裏はすぐ由良川の堤防のため、しばしば洪水に見舞われたという。また日露戦争の時には付近の寺院とともにロシア兵捕虜の収容所となった。
案内板→
日蓮宗 宗門史跡 宝珠山常照寺の歴史
創建 延慶三年(一三一〇)四月
開山 九老僧 大善阿闍梨日範上人
開基 宗祖直檀 小室平左衛門尉重信
日蓮宗宗門史跡宝珠山常照寺は、九老僧大善阿闍梨日範上人の創建で山陰道八箇国法華宗門最初の霊場でする。
日範上人、山陰道弘法の途上、和久の庄「福知山和久市」で日蓮大聖人の教化を受け、題目修業をつとめる、小室平左衛門尉重信と出会う、その縁で和久の庄荒河山にある、真言宗宝珠山金胎寺に一宿を乞い、寺主照圓坊と問答論議の末、開悟得道させ真言宗を法華宗に改宗、寺号を常照寺と改め、延慶三年(一三一〇)山陰道法華宗門最初の道場となる。
創建より法統連綿三百四十九年、その間たびたび兵火、洪水、災害に遭い諸堂宇、仏像、僧坊ことごとく焼尽、ただ寺号を存するだけとなり、万治二年(一六五九)第二十一世唯心院日量上人、時の城主松平忠房公に請願して聴許、旧荒河山から寺を城下「現在の地」に移転、第二十二世恵雲院日禅上人と二代、十九年に亘り復興、延宝六年(一六七八)七堂伽藍全て完成する。
爾来、長い寺歴の中、洪水、災害による幾多の困難も歴代上人と檀信徒縁者の熱い尊い信心護寺により乗り越え、真浄大法を伝持して今日に至っている。
第二次大戦前は、京都の大本山本圀寺の末寺で山陰の蝕頭、中本寺でした。
昭和四十八年(一九七三)十二月には日蓮宗寺院の中で歴史的価値が大変高く尊い寺院であるという称号「宗門史跡」の認定を受けました。
寺宝
日範上人坐像 享保三年(一七一八)一月一日常照寺第二十七世日経上人が開眼した旨の銘文がある。
日親上人坐像 正徳二年(一七一二)願主蜂屋平兵衛門、胎内に版木の細字、法華経一部一巻が納入され像底に日法聖人作正中山於テと銘記してある。
横山城主大膳亮頼氏廟所
穣心執貴慮亮頼氏廟顔
(現・福知山城)
=日範上人ノ御縁デ法華宗門ニ帰依、織田信長ニ遵ワズ諸将士共々城ヲ枕ニ討死=「横山家史ヶ一族の御霊が史跡として常照寺東の廟所に祀られている。
維時 平成二十七年(二〇一五)十一月二十三日
宗祖日蓮大聖人御生誕八百年記念事業 本堂屋根修復完成之砌 |
宝珠山 常照寺 (日蓮宗) 同町字寺
本尊 釈迦牟尼仏 (丹波志)多宝塔中、多宝仏坐像、四菩薩立像、四天王立像、鬼子母十女神立像、日蓮
大菩薩坐像、日朗菩薩坐像、日範上人坐像等安置
開山 日範上人(宗租二世日朗上人の弟子) 和久市 小室平左ヱ門(現源太郎氏の祖)
中興 日教上人
創建 暦応三年(南朝は興国元年)四月、 再建、慶安三年四月、文政四年三月再建。
当山日蓮大菩薩の嫡孫九老僧大善阿闍梨日範上人の草創にて山陰道八ヶ国法華宗最初の道場たり。開山日範上人は元真言の高僧なりしが一日日朗上人に謁して論議し遂に改宗す、斯くて弘法のため当地に来る、和久川の辺にて憩ふ、時に高らかに題目を唱ふる声を聞き近くに嬉戯せる童子に尋ぬるに、童子は此所に小室平左ヱ門尉重信といふ人ありて常に師の唱へらるゝ如く題目を唱ふと、日範上人直ちに其童子に誘はれて重信の宅に到る、小室氏、師の法華宗にして租師、日蓮上人なるを聞き忽ち合掌再拝して曰く吾亦日蓮大上人の教化を蒙り日夜怠りなく信仰し題目修業をなせり、吾は故ありて此所に来り住めり、願くは節暫く留って里人に説法したきへと請へるに男女雲集せり、此時和久の庄に宝珠山蓮華院金胎寺といふ真言宗の寺ありき、上人一宿を乞ひ寺主照圓と問答論議せしに、高祖の嫡孫なるを知り愕然として遂に開悟得道して寺を授け受法改宗して宝珠山常照寺と號す。京都大本山本圀寺末にて一等寺格なり。創建より法統連綿三画十年世を代ふる二十。第廿一世唯心院日量上人、其間屡兵炎にかゝり堂宇、僧坊悉く焼燼し、仏像、経巻汚損滅亡し、唯寺號を存するのみにして弘法の浄地をも失はんとす。日量上人の悲痛たとふるに物なし、且つ、城下を去る十数丁、和久川を隔て、往復亦不便なり、爲めに賽者漸く減少す。是に於て地を城下に選ばんとし家老檀那星野善右ヱ門尉勝吉に嘱して、城主松平主殿頭に請ふ。侯直に聴許、即ち現今の地を賜ふ。されども堂宇造営は日量上人、単独の力の及ぶ所に非らず、遠く京師に巡錫し近く隣傍に奔走して浮財を仰ぎ、素志将さに成らんとして溘焉遷化す。時に寛文十二年八月廿一日なり。第二十二代日蝉師、相続、上人の志を紹ぎ延宝六年三月上旬より十方に勧進して堂宇、坊舎悉く成る、爾来寺門益々興隆せしに宝暦八年七月十三日焼失、再建、覚束なく僅に雨露を防ぐばかりの四間に五間の本堂兼用の仮堂を建てたり。後数十年を経て文化八年五月、丹後熊野郡新庄村、妙音寺十八世要解院日教上人当寺へ転住、堂宇を再建し方七間の本堂、四間に六間の庫裡を建営す。時に文政四年なり。当時の世話方は乾長十郎、佐藤治右ヱ門、足立喜平、片岡孫右ェ門等なり。現今の本党是なり。爾後、妙見堂、門、鐘楼、土蔵建築。第四十二世日感上人、庫裡の腐朽、且つ狭隘を憂ひて之を改築せんとし、明治廿六年秋、檀徒惣代.佐藤治兵ヱ、片岡久兵エ、四方仁助、永井傳助、太田伊兵エ、町外にては岡鹿都佐賀村、片両健之介、仝孫次郎、仝元右ヱ門、仝孫太夫等と協議し、二千五面圓の予算を以て仝廿七年秋起工、仝廿八年六月、成功。翌廿九年八月三十一日未曾有の大風雨にて本堂北隅の堤防決潰・妙見堂流失し本堂は大破、其他寺什宝物、全部流失又は破損、其惨状紙筆の盡すべきにあらず。日感上人、檀徒と相談して復旧。
工事費八千八百圓を投ず。三十二年五月完成。此年秋四十三代文教日悟相続し、四十年五月遷化。仝年八月大水害、山門の流失、本堂須弥壇の顛覆、器財の流失、庫裡、床板等の損寄甚だ多し。仝年五月より無住、前往日感上人代務中、此惨事あり。師は齢米寿加ふるに此水害に逢ふ、然れども四圍の事情を見て病を務めて再住す。翌四十一年十月遷化。其徒弟の加歴となら者三名、依て現住英智日要四十八代前住の遷化につき諸堂の復旧を急ぎ檀頭と協議し直に着手し、工費四千八百圓にて十二月成功。されども予算を超過すること千余圓、檀頭の有力者各之を支出す。尚将来を慮り佐藤、片岡、其他にて予算六千五百圓を投じて本堂の地上げを計画し、大正三年三月起工、高さ拾二尺九月成功、大正七年檀頭佐藤治兵衛、年回記念として位牌堂新築基金を寄附せらる。依て大正八年三月建坪六坪の位牌堂を新築す、工費一千八百余圓にて九月成功。世話方、四方仁助、仝九年六月、庫裡九尺の地上げを協議し、三ヶ年計画ないしも大正十二年末、俄に起工、金六千余圓各有志の浄財を以てす、これ亦超過せり。当山境内地は従来官有地なりし故字堀吉田歌太郎氏に仏下の手続を依頼し其筋に於て台帳調査の結果、境内地は全部墓地となり、所有者佐藤、片岡、其他五十三名となれるを発見せり。依て終に当山の所有に帰す。吉田氏四ケ年間の苦辛多とすべし。永久に没すべからず。昭和二年堤防改築に依り残りの土を得て東西墓地、及鎮守堂等、又九尺の地上げをなし茲に境内完く地上けを丁せり。
檀家 約四百戸
明智光秀公の位牌保存 法名 長存院殿前丹江太守兼日州刺史明窓玄智日光大居士
行事 …
(『天田郡志資料』) |
鎮守社なのか「妙見大菩薩」社が鎮座↓
「菱屋地蔵尊」がある。
「天保十三年(1843)菱屋町名主役森下七兵衛氏の発願により、京街道に面した下柳町と菱屋町との交差地点に創建寄進安置された。明治二十八年頃、永領寺境内に移転、その間、度重なる火難・水難も町民の熱意により克服。江戸時代から明治・大正・昭和・平成と百五十五年間、町内始め市民に親しまれ尊崇されてきた」が現在地の常照寺境内に安置することになったという。
真宗大谷派永領寺
常照寺から少し南ヘ入った所には永領寺があり、その南の東西の町筋を永領寺横町と称した。永領寺は氷上郡佐治の僧広瀬宗賢安立という者がこの地に草庵を結び、医を業としていたが、藩主の息の疱瘡を治した功により地子を免じられ、のちに一寺を建立したと伝える。
永領寺 仝字菱屋
本尊 阿弥陀如来 (恵心僧都の御作と傳ふ)
開山 権少僧都安立(氷上郡佐治の出と云)「本書下巻有馬侯二四頁参照」
創建 元和六年九月、 再建は宝暦十三年十一月本堂落成。
此頃、氷上郡・佐治の僧(永領寺開山権僧都安立)来りて、下紺屋町に、草菴を結び、傍ら医を業とせり。同町封馬屋敷といへるは、かの山岡道阿彌旧封馬守の仮寓せし所にして、当時馬廻役稲垣五郎助居住せり。而して侯、藩地、城下の限界を厳密に区別せられし以来、稲垣は藩地に転居したり。故に、かの僧は、此封馬屋数に移りて、仏像を奉安し、益勤行を怠らず、従って信徒漸く加はりたり。時に、侯の息、大九郎君(侯、三子あり何せなるか、詳かならず)疱瘡に罹り、頗る重態なりしを、かの僧、之に投薬して、全癒したり。侯。いたく悦びて、免税とせられき。依て終に、此所に一寺を建立して、永領寺と号せり。
(『天田郡志資料』) |
《交通》
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