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丹波の

福知山市(ふくちやまし)
京都府福知山市


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京都府福知山市

京都府福知山市・京都府加佐郡大江町・京都府天田郡夜久野町・京都府福知山市三和町

福知山市の概要




《福知山市の概要》

福知山市といっても、当ページでは、主として、旧福知山市の部分、「平成の大合併」以前の、2006年(平成18年)1月1日に、大江町・夜久野町・三和町の周辺3町を合併編入する、それ以前の、元々、といってもそれほど古いことではないが、昭和31年に確定した福知山市城の部分を取り上げる。

市の中心は400~500メートルの山々に囲まれた福知山盆地で、東憐の綾部市から西流する由良川が、南東の旧三和町から流れる土師川を盆地中央やや西寄りで合して北に向きを変え、旧加佐郡大江町に流れる。北は丹後国加佐郡、東は丹波国船井郡、南は兵庫県氷上郡、西は兵庫県出石郡に接する。
昭和12年(1937)天田郡よりその中央部分が分離して成立した市で、市城は旧与謝郡と何鹿郡の一部を含んだ。
近世福知山藩の城下町として栄え、三丹(丹波・丹後・但馬)を結ぶ水陸の交通の要衝であった。明治期には福知山連隊がおかれ軍都ともなり、北近畿の政治・経済・文化の中心となった。
福知山の名は、天正7年(1579)丹波に進撃した明智光秀が、この地にあった横山城を落城させ、家臣を城代に置いて福智山城と改名、近世的城塞に改修したのに始まるとされている。文献的にはこの城を光秀とともに訪れた茶人津田宗及の日記に「福地山」とみえるのが早いとされる。

〔先史時代〕
長田の和田賀遺跡からチャート製の鋭い石鏃が五個以上と石鎗が出土、先土器時代のものといわれる。奥野部・和久寺の遺跡からは縄文初期と認められる有舌尖頭器が見付かっている。武者ケ谷道跡からは、刺突文小型丸底土器がほぼ完形に復する状態で出土、縄文草創期のものとされ、近畿地方では最古の土器として注目されている。縄文後期に入ると半田遺跡、上野平遺跡などから土器片や石器が出土している。

弥生遺跡は、石剣を出土した観音寺遺跡、集落跡を伴う上野平遺跡・半田遺跡、台付無頸壷が発見された興遺跡など。

丹波は古墳前期の遺跡が乏しいといわれてきた、昭和61年に景初四年鏡を出土した広峯15号墳は全国的にチョー有名である。これは中期の前方後円墳だが、最古といわれる宝蔵山四号墳をはじめ、中期には八ケ谷古墳など特色ある大型方墳が確認でされる。後期は29基が確認された牧古墳群など多くの古墳群が盆地周辺部の台地に散在する。
報恩寺の奉安塚古墳からは、鏡・刀・玉のほか、金銅製馬具なども発掘されるなど、朝鮮文化との近縁性を思わせる遺跡も多い。近くにはに阿良須・有路・荒河・荒倉など、ar地名が多いことなどからも渡来人とみる説もある。

〔古代〕 
天田郡の地名が文献に現れる最初は天平19年(747)九月二六日付の勅旨(「東大寺要録」所収)で、「丹波国天田郡五十戸」とある。「続日本紀」天平神護2年(766)七月二六日条に「散位従七位上昆解宮成が、丹波国天田郡華浪山に白臘を産し、それをもって鏡を鋳て献上した」という記事が見える。この華浪山は瘤木にある花並山とされ、この付近から北部にかけた地方は、鎌倉期から近世までは金山郷と呼ばれ、近代に至るまで錫・亜鉛・銅・鉄などを産し、鉱物の神である天目一箇神を祀る社が多い。

古代条里制は今安・半田・新庄・上天津・土師・前田・観音寺などの水田地帯にその遺構がみられる。長田野周辺は良質の陶土が得られたために早くから陶工が住んだといわれ、現在も土師の地名が残る。 雄略紀17年三月条にみえる、丹波国に贅土師部をおいたという記事はこの辺りのことともされる。

「和名抄」高山寺本に記される天田都内の郷は六部・土部(刊本は土師)・宗部・雀部・和久・拝師・奄我・川口・夜久の九郷であるが、刊本はさらに神戸を加えて一〇郷とする。このうち比定不明の神戸郷と旧夜久野町に比定される夜久郷を別にして、残り八郷はいずれも福知山市城とされる。

「延喜式」(兵部省)に記される丹波国駅馬のうち「花浪五疋」とある花浪駅は、山陰道丹後別路に設けられた駅で、花並山・花並峠のある癌木付近に比定されている。丹後別路は市内字掘の荒木の南で市城に入り、北上して今安・大門・立原・癌木と下野条・雲原を経て与謝峠を越えたとされている。

山陰道丹後別路とは別に、山陰道から丹後へ向かう道は、園部・須知から生野を経由して北方へ向かう「生野の道」があり、小式部内侍の「大江山いく野の道の遠ければまだふみもみずあまの橋立」の中のいく野はこの生野であるとしている。

「延喜式」神名帳に記される天田郡の神社は、「生野神社・奄我神社・天照玉命神社・荒木神社」の四座で、いずれも福知山市内に同名で現存する。また郡境の異動により、何鹿郡式内社の佐須我神社が私市に、同阿比地神社が興に、それぞれ市域に鎮座する。

和久寺には白鳳期の寺院跡があり、塔の礎石と鐙瓦が出土している。また多保市にも塔の礎石があり、七宝伽藍を備えた寺があったとも伝える。

また当市から丹後一帯にかけては麻呂子親王の鬼賊退治の伝説が伝えられ、神社仏閣の縁起となり、あるいは親王が鬼賊平定の祈願のために彫刻したという七仏薬師を祀った寺院が多く、そのほか、この伝説に基づく民間行事が今に行われているところもある。源頼光の大江山の鬼退治の伝説の本舞台がこの地方に定着したのは、それ以前の麻呂子親王伝説が基盤となっているものと考えられる。

〔中世〕
平安時代末期頃から、順次古代の郷名を負う荘園が立荘されていく。土師川流域の六人部谷一帯を荘域とする蓮華心院(跡地は京都市右京区)領の六人部庄。初め藤原頼長の所領で、のちに後白河院の後院領となった土師庄。松尾社社領の雀部庄。最勝光院(跡地は京都市東山区)領の和久庄。六勝寺の一つである法勝寺(跡地は京都市左京区)領の拝師庄。宝荘厳院(跡地は京都市左京区)領の奄我庄など。ほかにも中世を通じての市城内の荘園としては醍醐寺領の河口庄、延暦寺末妙香院領の佐々岐庄、六条御堂(のちの万寿禅寺)の荘園とされた豊富庄、奈良興福寺領の三俣戸庄などがある。
鎌倉時代の丹波国守護は、承久3年(1221)に北条義時の弟時房が任じられて以降、代々北条氏が務めたが、天田郡の地頭については金山郷の金山氏以外詳しく不明。しかし今安付近には天照玉命神社を氏神として祀る丹波氏が大きな勢力をもっていた。丹波氏は丹波国造の子孫といわれ、平安時代以来宮廷に典薬頭を世襲した、寛治5年(1091)に松尾社に雀部庄を寄進したのもその一族丹波兼定(松尾大社文書)。
また、保の呼称の分立もみられ、和久郷の今安保、川口郷の西北部に佐々岐荘が成立して、その荘内に上山保・下山保・河北保が生まれたのもこの頃と推定されている。

南北朝期は、氷上郡栗作庄の地頭でのちに丹波守護代ともなる久下氏が、天田郡にも勢力を伸ばし河口庄に領地をもち、和久城・雀部城なども攻撃している(久下文書)。室町期には細川氏が丹波国守護職を代々継いたこともあって、天田郡地方の地頭・国人は応仁の乱にはおもに細川方として活躍した。しかし永正-大永(1504-28)の間、細川家の分裂争乱に巻き込まれる。当時の天田郡は中部を小笠原氏の末流塩見・横山の一族が支配、東部は細見・小倉・堀・大槻・高橋の諸氏、西部には足立・夜久、南部には芦田・荻野、北部には金山・桐村の各氏が割拠していた。
金山氏は常陸国から佐々岐庄に移った大中臣民の一族で、金山郷の地頭となり天寧寺を氏寺として保護した。その家系は戦国時代まで八代を数えるが、庶流桐村氏によって滅亡している。
応仁・文明の乱以後は、丹波守護代内藤氏、八上城の波多野氏が次第に勢力を伸ばし、各地の土豪はその被官となって、それぞれの地に屋敷を構え塞を築いていた。当市域だけでもそれらの遺跡が50か所以上もある。それらの大部分は、比較的険峻な山の頂上か、丘陵の末端部で要害の地を利用している。

中世天田郡の中心はわかないないが、和久城付近の地には市があり、相当に繁栄していたよう。また「康富記」文安元年(1444)五月一九日条に「土師宿、即向天田郡々司堀孫次郎館」とあり、土師川下流に土師宿があり、天田郡郡司が付近に住んでいたことが知られる。

市城で中世栄えた寺院は、金山氏の保護を受けた大呂の臨済宗天寧寺をはじめ、三岳山の中腹喜多の天台宗(現高野山真言宗)金光寺、下佐々木の真言宗威光寺、奥野部の臨済宗長安寺、猪崎の同宗醍醐寺、観音寺にある真言宗観音寺、堀に創建された日蓮宗善行寺、荒河に創建された同宗常照寺などがある。とくに観音寺・天寧寺・金光寺などは多くの中世文書を伝える。また市城北部にそびえる三岳山やそれに続く大江山には、山岳宗教者が集まり修行の場としていた。


〔近世〕
天正7年(1579)織田信長の命を受けた明智光秀らは当地方に進撃、横山城にあって、天田郡中部を支配していた塩見(横山)氏は滅亡。六人部庄田野城主小野木縫殿助重勝は明智方になびき、のちには福知山城主となった。
光秀は横山一族を滅ぼすと自ら縄張りして横山城を近世的城郭に改築、福智山城と改名した。光秀は当時の由良川を、城郭の東北麓から急に北西に変えて、川の西岸堤防の陰に城下町を形成したといわれ、近世を通じて繁栄をみる福知山城下の基礎を築いたとされる。盆地内の最低部に位置するこの城下は、由良川とその支流の水運に恵まれて、また諸方からの谷筋の集まる交通の要衝として栄えるが、その反面、豪雨などの際はすべての河川の水が集中し、度々大水害に見舞われている。

明智氏滅亡後、福知山城主は杉原家次ほか数氏の代官を経て小野木重勝へと続くが、いずれも短期間で、慶長5年(1600)徳川家康によって6万石を与えられた有馬玄蕃頭豊氏によって本格的知行が行われる。豊氏は同7年には父則頼の所領である摂津国三田の2万石を併せるが、これらの知行地の総検地を実施。村高をこれまでの70パーセント増の四ツ免として総高12万石とする非常に厳しいものであった。しかし豊氏も元和6年(1620)に筑後久留米に転封。その後には岡部長盛が5万石で入部。次いで稲葉紀通・松平忠房と代わり寛文9年(1669)には常陸土浦より朽木稙昌が3万2千石で入部、以後幕末まで領知した。朽木氏の場合は近江国高島郡内の4ヵ村分を含んでいたから、福知山領に限れば3万889石余であった。
行政的にはこれを城下15町を中心にして、地方の村々を南郷14四ヵ村・豊富郷(豊住郷とも)15ヵ村・金谷郷17ヵ村・夜久郷13ヵ村に分け、城下には町奉行・与力・同心を置き、地方は各郷1人ずつの代官を置いて支配した。福知山市城はこの福知山藩領1城下3郷に加えて、延宝5年(1677)上総国飯野藩主保科正景に与えられた旧佐々岐庄15ヵ村(通称五千石在)と丹波国綾部藩領および市城東部の若干が丹波国柏原藩領・武蔵国岡部藩領・幕府直轄領(京都町奉行支配)などである。

朽木氏13代のうち、6代綱貞・8代昌綱・10代綱方は絵をよくし、11代綱条は能筆家であったが、昌綱は特に茶道の名人であり、「新撰銭譜」や「西洋銭譜」「和漢古今泉貨鑑」(12冊20巻)などを著して全国に知られた。さらに蘭学に通じ、長崎のオランダ商館長イサーク・チチングと親交を重ね、自ら蘭文の書簡を交換して、相互に東西両洋の地理的認識を深めあい、「泰西輿地図説」(6部19巻)を著している。


〔災害と一揆〕
水害記録
福知山盆地は由良川を中心に諸方からの河川が集まり、海抜が低く、盆地の出口が極めて狭いため、絶えず大災害に見舞われた。寛文6年以降の江戸時代だけでも50余回の出水の記録があり、4年に1度の割で盆地内のどこかが被災していることになる。

享保強訴
福知山藩は享保年中(1716-36)財政欠乏に見舞われ、その整理に取り掛かったが、同17年には蝗害も加わって不作、翌年には飢民に救恤した。同19年には農民数千人が貢租の減免を求めて城下に押し寄せた。
堀村横山金兵衛の年代記録(横山金平家蔵)には「享保十九年甲寅年霜月三日、大悪年ニハ御領ヘ一連ニ願ニ出ル、三日御城下ニ相詰メ御用捨多ク出テ、高割加米より二通ニ而、何れも拝領ス」とある。一応事件は落着したが、翌20年には大洪水が起こり、領内各地は多大の損害を受けた。その復旧事業のため前年の強訴の責任者の処分が遅れ、事件後10年を経た延享元年(1744)になって、村々の当時の庄屋らを検問し、すでに没した者も含めて処罰した。この時期はずれの処分に対しては「福知山さんおんぼの果てか、死人とらげて首を斬る」という落首が今に伝えられている。
オンボウというのは、今では差別語になっているが、葬儀の世話をする人のことである。差別社会の頂点に立つ者が、実は最下層賤民よりまだ下でないか、福知山さんばかりでなく、世間ではよくあるハナシではある。

万延強訴(市川騒動)
万延元年(1860一八六〇)8月には、領民が藩吏市川儀右衛門らの悪政を非難、大挙して城下に押し寄せ、藩と結託した商家などを襲い乱妨。悪徳藩吏の退役、免状の引下げ、検見引高引捨、農民の副業による産物への専売制の撤廃など13ヵ条を要求した。市川をはじめとする関係者は切腹・追放に処された。

〔近現代〕
明治元年(1868)天田郡内の幕府領は久美浜県に属し、同4年福知山・綾部・柏原・飯野の各藩領はそれぞれ同名の県となった。同年11月天田郡は全域が豊岡県となり、更に同9年京都府に編入された。天田郡の郡役所は同12年に福知山城跡に開庁されたが、同14年には内記に移転した。
 明治22年の町村制施行によって、旧城下の町地15町と旧藩地4町が福知山町となり、大正7年(1918)曾我井村、昭和11年(1936)には雀部・庵我・下豊富の3村が福知山町に合併、翌12年市制を行いて福知山市が誕生した。その後昭和24年西中筋・下川口・上豊富の三村、同30年には上六人部・中六人部・下六人部・上川口・三岳・金谷・金山・雲原の8村が福知山市に編入。翌31年にはさらに何鹿郡の佐賀村の西半部が加わった。

明治23年福知山大隊区司令が設置され、同30年には工兵第一〇大隊、翌年には歩兵二〇連隊が屯営して軍都の色彩を帯びた。
明治32年に阪鶴鉄道の大阪-福知山間が完成。引き続いて同37年には舞鶴(新舞鶴)まで全通した。同43年京都-福知山間が、同44年には山陰本線の福知山-和田山間が開通。大正12年には北丹鉄道も開通した。福知山市街の電灯は明治42年北丹電気会社の創立により点灯、同時に電話も開通している。

昭和25年、旧連隊跡に警察予備隊が駐屯、現在の陸上自衛隊に引き継がれている。同35年市内東南部の長田野を工業適地に指定、同37年には工業開発促進法指定都市となった。面積400ヘクタール、日本一の内陸工業団地が造成された。


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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