福知山城(ふくちやまじょう)
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京都府福知山市内記1丁目5番地 京都府天田郡福知山町内記 |
市民に愛されてやまない福知山城↑ 復元が進み、荒城のイメージはない…、今がマッ盛りの感である。 NHK2020の歴史大河ドラマ「麒麟がくる」の重要舞台の一つになるであろう福知山城。日本人はこうした歴史ジャンルが好きなようで、別にTVドラマがあってもなくても、遠い昔からすでに十分に愛されているようで、『天田郡志資料』もその半分がこのお城時代の記述になっている。どこがそんなにエエんじゃい、とワタクスなどは戸惑うのだが、考えてみれば、当城の建設によって当地の近代史が始まると見て大きな間違いはないだろう。現代史の根本は市民が当城を乗り越えるところにあろうがそれはまだ強くは意識もされていそうにもない。明智光秀関係では彼のお城が復元できているものは多くはなく、たぶんこの福知山城しかない、きっとこのお城、大カツヤクするのではなかろうか。。。 福知山城の概要今はこちら(東側)から登るが、こちらは裏口であった、この裏口すらも書かれていない絵図もある。 東側に「釣鐘門」↑が復元されているが、これは本来は正門ではない。 福知山城本丸へは北側の大手門から入り、右ヘ左ヘと進み、西側の二の丸側から天守台へ入った。しかし今はその道はない。 写真↑では城の背中で、反対側が正面である。 地図を見てみる。 明治初年藩地図↓ 福知山今昔絵図↓ 『福知山・綾部の歴史』↓(キャプションも) 「福知山城下絵図」(模写)より城郭・武家屋敷部分(原図:島原市本光寺常盤歴史資料館蔵・福知山市振興課提供) この絵図は約6×4メートルの大きなもので、城下絵図の中でも最も整備されたもの。堀の幅や深さなどの数値が記されている。 福知山城の西側は… 福知山城は、こちら側(西側)が正面で、こちら側から本丸へ入ったのだが、今はどこにもそんな道はない。古図にはこんな石垣↑もない。 《二の丸はいずこ》 「本丸」の西側には「二の丸」があり、その「二の丸」と「本丸」はだいたい同じような高さであったように描かれている、しかしその「二の丸」部分が今は見当たらない。 「本丸」より「二の丸」側を見ると↓ 向こうに見える上が平らな高台↑は「伯耆丸」。(その右は市役所) この間には、「二の丸」があるはずなのだが、ところが↑↓ない! このあたりに↓「六角門」があるはずなのだが、ない! 「二の丸」と仮にも「丸」というのだからこんなに低い↓ハズがない。 「丸の内」と呼ばれた今の内記町よりは少し高いだけ。古図と現状の地勢は違っている。「二の丸」はどこにある。 写真の西側石垣下を左右に(南北に)通る道は「新切り通し」↓と呼ばれていて、古図にはない、この道を作るためか、あるいは掘りを埋め、堤防をかさ上げするための土取り場となったか、「二の丸」部分高台は切り下げられたように思われる。 フェンスから身を乗り出して写す、しかしうまくは写せない。ドローンが欲しいところ。 「二の丸」部分はその町割りも最新型で、城郭の中枢地のものではなさそう。 「本丸」を置く高台は、ここで突然に断ち切られている↑ 今は人が一人歩けるくらいの面積しかない。 たぶん、この高さで、ずっと先まで続いていたのでなかろうか? 福知山城「二の丸」から「本丸」を見る↓ 本丸の西側(二の丸側)↑高い石垣になっているが、この石垣は新しい感じがする、しかも下の方には土止めがしてある、まだ新しい石垣のようである。 本丸のある高台で石垣があるのはこの面だけである。よく目立つ立派な高い石垣だが、どうやら最近のもののようである。 『目でみる福知山・綾部の100年』↑のキャプションには、「福知山城跡・大正9年。戒厳令により明治5~6年頃姿を消した天守閣の跡に朽木家藩祖を祀る朝暉神社を再建、能舞台も設け公園化され、花の名所となる。」とある。銅門番所がすでに現在の位置にあるようだから、この写真は伯耆丸側から写したものと思われる。今の石垣はない。 さらに同書には興味引かれる写真がある。↓ キャプションに「福知山衛戍病院。明治末期。明治31年福知山城伯耆丸に新築。後に陸軍病院、戦後国立病院に変わった。前面の残土は二ノ丸を8メートル余削平した際の名残である。」とある。 写真を写した当時は、まだかなり残土が残っていたように見える写真である。 たぶん本丸・二の丸(さらに伯耆丸・内記丸)と続く一体の高台が法川から「旧切り通し」(藩政時代)まで続いていたが、明治中頃あたりに、「二の丸」の高台部分は切り下げられた。内記丸も南部が鉄道敷設のために削平されたようである。 「二の丸」は何のためかはわからないが、そのため、全体の高台の規模は半分以下になったと思われる。ついでだ本丸部分も取り崩そう、そうなったかも知れない、天守台下は岩磐だそうだから、固いためあきらめたか、朝暉神社があったからか、ともかく福知山城にも存亡の危機が及んだと思われる。古い物はすべてダメ、敵だ破壊せよ、が当時の中央政府役人どもの考え方であったようである。何か在地勢力の闘争があったのかも、と想像させられるような所である。 空から見ると、その名残が少し残っている感じもする。 当城の案内板より↑ 「二の丸」部分がいつ、なぜなくなったのかについては、文献を探してみるが、不思議な話であるが、明治になってから「二の丸」部分が取り壊された、あるいは豊岡県福知山支所が「二の丸」にあったとか、そんなことくらいしかなく、何もこれといった詳しいものが見つからない。この問題は福知山では誰もが知ることであえて言うまでもないことなのか、あるいはタブーなのか。しかしよそ者にはわからない、ご存じの方あればご教示賜りたい。 そしてともかくも天守台は残った。 今の天守台のあるところが先端でここは少し高い、ここを頭にして、今の自衛隊のあるあたりから、ヘビか龍がうねうねと横たわっているような丘陵があった。だから福知山城の雅号は「臥龍城」。ヘビの頭の先には「蛇ケ端(じゃがはな)」の地名が残されている。…のかも知れない。 〽 蛇ケ端蛇ケ端蛇が出るじゃげな、こわい蛇じゃげな嘘じゃげな、ドッコイセー。 と歌われる。 こちらが正面である。↑ 今の建物は推定復元したもので、本当にこんなカッコウをしていたかは、誰にも確かなことは不明である。まして光秀の頃の姿はわからない。石垣が上の写真で言えばちょうど真ん中あたりに一本の線がある、右側が古く、左は転用石が見られず新しいように見える、ここで継ぎ足したように見えて後に増築したのでなかろうかとも思えるのである(発掘調査によれば3回増築されていて、当初の2倍以上の建築面積になっている)。 そうだとすれば光秀時代は今の半分程度(写真でいえば右半分、南側半分ほど)だったのかも知れない。増築は光秀時代かそれとも後か資料を繰ってみるがわからない。 ←こうした幕末期の古図を手掛りに復元するのだろうか、ムリだと思う。 石垣だけしか残っていないが、だいたいこうだっただろうと、現在人が頭を絞った創造物かも知れない。 福知山城は、 天正8年ごろ、明智光秀が丹波の拠点として城を築いたのが始まりとされ、以来順次整備が進められ、慶長5年ごろに完成したようだとされる。明治の廃城令によって取り壊された。 そのずっと後、市民の「瓦1枚運動」などの熱意によって、3層4階の天守閣が、 昭和61年11月に再建された。本年はその30周年とかで記念イベントなどが計画されているという。 今の天守閣は、 望楼型の独立式を基本として復元され、初期天守閣の特徴がよく現れたものとなっているという。そう言われれば何か望楼部分には信長の安土城(これもよくわからないが)の面影がある。 鉄筋コンクリート作りで、天守閣内部は郷土資料館として公開され、 古代から近代にかけての、城や福知山にかかわる歴史資料が展示されている。 当時のものは、石垣と銅門番所↑(位置は移動)と井戸だけである。 案内板に 銅門(あかがねもん)番所 この建物は福知山城の銅門の脇(市役所の東)にあった番所で城内の建築物として当寺の面影をしのばせるものです。 大正時代のはじめに天守台(小天守台)に移築され更に昭和五十九年天守閣再建に伴いこの場所に移築されたものです。 銅門そのものは今は寺町の正眼寺の山門として移築されている。この門のほかにも寺院山門に転用されて当時の城門が残されている。 北側に「下り桑門」が再建されている↓ 右手の道も「二の丸」に通じていたのであるが、その先で今は途切れている。 《福知山城の残された石垣》 天守台を置く石垣、西面、南面の石垣は築城当初の面影を残すよう、あまり大きな石はない、一見乱雑、小さい石などは置かれているだけのようなもので、チカラがかかっている様子でなく、つかんで引っぱれば簡単に取れる、タヨンナイな大丈夫なん、の感じがするが、こうでないとダメで、しっかり作ると想定外に大きな地震などに耐えられず崩壊してしまうのである。将来の思わぬ自然災害を計算に入れて、わざと頼りなく作ってあるそう。そう言われれば、ヘリはしっかり積んでいるが、まんなかあたりはブヨブヨで、上下方向、左右方向の圧力に縮んで耐えられそうに見える。言葉かえれば、石垣で大事な所はヘリだけ、真ん中は見た目だけの飾りのようなものなのかも知れないが、スゴ~の知恵で積まれた超絶石垣で、野面積み、乱石積み、穴太積みなどと呼ばれている。自然石や石塔、石仏などを加工せずそのまま用いた何とも豪放というかお粗末というか、 最近の石垣を見慣れた者には異様に見える。石垣は福知山市指定文化財に指定されている。 (舞鶴城の石垣もそうで、子供が城跡の石垣登りして遊んでいた、小さな石をつかんだところ、それが抜けて、子供は石垣から落ちて怪我をしたという事件があった。今も石垣を登るなの看板がある。 熊本城はどうするのだろう、復元するといっても、石の位置が一つでも違うともう復元不可能とか。一つの一つの石のようで実は全体になっている。この石垣↓でも崩れるほどの地震が将来永劫ゼッタイにないとは限らない、しっかり写真でも残しておかないと復元はできないだろう) 転用石は500個もあるそうで、案内板には、 福知山城石垣の転用石 福知山城の石垣には、自然石と割石に混じって五輪塔・宝篋印塔などの石塔類が大量に使用されています。もともと供養塔等、他の目的で作製された石造品が石垣等に利用されたものを「転用石」といいます。現在、転用石は石垣の中に残るもの、福知山城再建時の発掘調査により確認されたものをあわせて、五〇〇個余りが確認されており、そのほとんどが天守石垣附近に集中しています。 福知山城は築城時に明智光秀が近隣から石塔を集めたという伝承があり、これは、石垣に利用する大量の石材が近辺になかったこと、築城に時間的余裕がなかったためといわれています。 転用石の利用は石材の不足、短期の築城のためという理由の他に、旧地元勢力・権威の否定ともいわれていますが、城を守護するものという意識があったとも考えられています。 転用石で最も多いものは五輪塔の一番下の部分ある地輪(方形)が全体の六五%、次いで宝篋印塔の基礎(方形)が十一%余を占めています。その他、わずかですが石仏、南無妙法蓮華経を刻んだ笠塔婆、石臼、燈篭などがみられます。年号などが刻まれている石もあり、一番古いものは延文四年(一三五九)、もっとも新しいものは天正三年(一五七五)で、いずれも明智光秀が福知山に入ってくる以前のものばかりです。これに転用石は光秀の福知山城築城の様子を伝える数少ない中世資料の一つであり、資料的価値の高いものです。 転用石と呼べばカッコいいが、それは大本営語に近いヤシ語のようもの、実態は窃盗石強盗石徴発石とか呼ぶべき石かも知れない。 光秀に寺を焼かれ、つぶされ、石塔も取られた、という伝承は周辺の村々にはいくつも残されているが、本当のことと思われる。そうして寺を壊し城を築いたのは何も光秀だけのことではないが、そうした村々では今も光秀は恨まれている。中世型の特権はブッつぶす、城下町の近世型の町人は育てた、そのため今も讃えられている。当時だって階級社会だから評価は社会的立場によっていろいろだが、要するには武士と新しい型の商人による農民支配体制であったように思われる。その武士は亡びたが、富豪の末裔は生き残り、好き放題をする世の中になった、しかし次に滅びのは彼らである、そう長くももつまい。 《豊磐の井戸》 天守の東側にある。 こんな案内板がある。↓ 《福知山城築城前史》 すでにどこか当サイトでも書いていて、親切にもどなたかそれをWeb上に紹介して下さっている話であるが(大感謝)、もう一度書いてみる。 由良川本流と土師川支流が合流し、そこへ法川も流れ込む、大河の氾濫原に、南方から突き出しヘビのような丘尾の先端の一番高い位置にあり、大昔から神聖で重要な地とされてきたと思われる、周囲より高く(比高30メートルくらい)、眺望は最高、いかにも神が降臨して来そうな所である。 ヘビの頭から東方「蛇ケ端」方面を見る↓ 福知山という山はどの山? 市名にもなっている福知山(福智山・福地山)という山はどの山のことなのか、またどうした意味を持つ山名なのだろう。 問うてもだいたいは不詳ということになっている。 そんなバカなことはない、お城のある山だろうとワタシは考えていたのだが、推測通りにズバリ、福知山(吹風山)という山は、この天守台の置かれている山だとする書がある。 石垣のある福知山城の以前からすでにここには神社や掻き上げの城が置かれていた。 『福知山支略』に、 福知山城起ハ古へ吹風山と云し頃、山上ニ八幡宮有依之八幡山ト云、後小笠原長康其子信氏十世孫主水正頼勝ニ至、明智氏城築ノ際八幡宮中村聖社々内ヘ移ス、堀村一宮ノ末社八幡トモ云、氏を横山とす、後又姓名ともに改塩見大膳頼勝と云、其子頼氏復姓して横山大膳頼氏と云、父塩見頼勝八幡宮の脇に掻上城を築、横山頼氏継之、此頃より名横山城と云、頼氏功雲ト号、永禄中、堀村之内字児段に隠居し、永禄十四年卒墓アリ、元禄年中同氏之者建之ト云、功雲ノ子又塩見と復姓、塩見大膳信房父功雲隠居領横山城居、此地に代々住、氷上郡波多野の旗下たり、波多野家信長破私殺之依之塩見信房信長に不随、天正三年明智光秀賜二丹波国一、光秀時ニ本ノ城主也、則当国に討入責之、当主塩見信房没落、弟四人あり、宗部伝記に曰ク、土師・猪崎・荒河・安尾等の支城在… 塩見(横山)氏の城よりも古くは荒木氏の城が当山にあった、それらにはここでは触れないが、八幡神社は今は堀の一宮さんに鎮座しているし、横山と呼ぶのも堀村あたりから見た呼び名であろう。 中世の山城というのは、特には設備がない、 雪舟の国宝「天橋立図」に描かれている手前に「今熊野城」と、その奥に「阿弥陀ヶ峰城」である。たぶんこの位置ならそうだろうと考えられているもので本当にそれらの城かは確認できないが、「城」と言えば近世の石垣の天守閣を常設した城と考えてはならない。古墳のようにも見えるが普段はこのように土木工事が施されているだけで何もない、「シロ」であって、何かあればそこを使うために空けてある場所なのである。「ノリシロ」の「シロ」はノリを付けるために空けてある何もない所であるのと同じである。実際にここは丹後一色氏の最重要な根拠地「城」、本丸城で、若狭武田氏に攻められて当「城」に立て籠もるが、その時には、その時までには柵や垣を作り、建物も建てて、城らしい戦闘基地になるのである。一色氏の根拠地の大本ですらこうした城であるから、いわんや枝葉の城にいたっては、想像してみよう。 後の世の頼りないわれらから見て、お城らしい建物が建ったり整備されるのは、福知山城も光秀からということになろう。 しかしそれら中世山城よりもずっと以前から、弥生・古墳の時代からこの山はフクチ山と呼ばれていたのであろう。 福知山は「吹風山」と書かれている。これについては、同書に、 福知山といふ名は和泉式部歌集に、丹波なる吹風(フクチ)の山の紅葉は散らぬ前よりちるかとそ思ふ、 ○ちは風の古言にて吹風山也、又福知といふ文字を置れしハ明智侯也、和銅年中富士山の名を屓せられし旧例文字引かれしと、い上丹波記・丹波志、○彼式部の詠により城地元より後の方今岡村地かける、○委ハ古図ニ見えたり、竹木生茂り恰も細長くて大蛇の如し頭の方東向依蛇ケ端の名あり、○然れは紅葉も多くて秋はいと豊有としらる 『福知山支略』『福知山支略後拾遺集』の著者は関三蔵という幕末から明治初期の町人だが、藩の協力ばかりしていた経済通の人らしくこの功績に対して士分に取り立てられた人。元町人かばや利兵衛という人。市川騒動ではよく知られたチョーワルモノである。 にくむのをしりつつよくの関三蔵 父母の御恩もしらぬばか物 と万延の「いろはぶし」に歌われているが、万延の藩政改革(というかなりふり構わぬ増税策)の中心人物の一人で領民からは深く恨まれて騒動後には領内追放になった。今もこうしたよくの御仁であふれるどこかの国だが、両書は刊行されることはなく、自筆原稿のまま残された。こんな人が書いたものだから、あまり信用されないかも知れないが、今は『福知山市史資料編3』に収録されている。 『福知山支略後拾遺集』には、 福知山地名之事、和泉式部歌集ニ有、丹波なる吹風の山の紅葉々ハちらぬさきより散るかとぞ見る、此歌歌集ハ見るト然り、現地ヲ見スシテハ詠かたき也、式部再ヒ嫁付藤原保昌妻ス、保昌丹後守ヲ拝命後式部トモ任国引越途中現地ヲ見詠シ成ヘシ、委ハ本書初メニ記ス 関氏は歴史学者でもセンセでもない人だが、こうしたまったく畑違いの、いわば「ドシロートのアマチュア」が意外と真実の正鵠を射ていることがあるからバカにしてはならない。権力によりそうというスタンスが気にくわないが、ドシロートよりワシの方がよく知っているなどと勝手に思い上がるは今の日本知性の主流で、学者らしい謙虚さがない、そんなバカ者のマネはしてはなるまい。ガクシャセンセセンモンカのハナシはそこそこに聞いておいた方がいい場合が、悲しいかな情けないかな、原発に見られるように実際には多いのである。彼らのほとんどが今だに天皇バンザイ史観から抜け出せていないし、科学的真実よりも我が身の方がはるかにかわいい。我が身のためには真実もヘッサラで隠し曲げる。 当然ながら真実はどうした社会的地位にいる人が言っているかということではなく、言っているその中味で判断されねばなるまい。総理大臣が言っているのだから、とか市長が言っているのだから、とかで、それが正しいに決まっている、と考えるアホクサイ脳死市民は今でも実際には多数であり、このリクツで日本社会は基本的には作られている。しかし、何事も疑う、聖域はない、これが科学の立場である。権威に疑うことなしに従うなどはロボットならさらに立派にこなす仕事であり、いやしくも人間様の生き方ではなかろう。 関氏は何か古文献を調べて言っているのではなかろう、古くからそのように伝わっていると城内に伝わる伝説的な有名な話をどこかで聞いていて、それを書いたものかと思われる。城下でも知っていた人もあろう。和泉式部はさて置いても、フクチ山という山は当城のある山だという伝説のミソの部分は信じられそうに思われるのである。この話はそこが重要なのである。 どうでもよいことかも知れないが、吹風山の「風」はチと読む。風の古語はチ(シ)であったようである。ワタチの持っている『古語辞典』などには何も書かれていない、ずいぶんと古い文献以前の古語のようである。東風(コチ・小風)吹かばにほひおこせよ梅の花…とか、アエの風はアエチと言うし、嵐はアラチの事と言う。アナシは戌亥の風、ツムジは、ハヤテは、 参考 「takusankanの周易占いノート」 そうしたことで吹風山はフクチ山あるいはフクシ・フクジ山と読める。 和泉式部風な歌だが、本当に式部の歌かは別としても(誰にも確かなことはわからず、否定も肯定もムリ)、古代の歌詠み達はこう漢字で書いたのであろう。フクチヤマは彼女が命名したのではない、彼女の代ではムリな地名で、フクチヤマと呼ばれていた当地に吹風山の漢字を当てたというだけのことである。 横山とか八幡山とかも呼ばれた山であったが、フクチ山とも、光秀よりもずっとずっと古くからこの山名も伝わっていたと思われる。 光秀が名付け親ではない、いかにも古代らしい山名であり、ずっと後世の光秀が名付けることはムリな山名である。 彼よりも千年も古く当地住人の祖先たちが名付けた名であったと思われる。あるいは当地にあった大原神社関係者の命名したものかも知れない、大原も樫原も福知も、漢字で書けばまったく違うように見えてしまうが、本来は同じ意味と思われる。 この山は横山、八幡山とか、あるいはフクチヤマとも古くから土俗では呼ぶそうです、と光秀は聞いて、城の名に採用したということでなかろうか。文献的には天正9年4月10日、この城を光秀とともに訪れた茶人津田宗及の日記に「福地山」とみえるのが早いという。 風が吹く山と書くから、紅葉は散る前に、風に吹き散らされるのではないか。と式部は心配に思えたのだろうか。 今もモミジが植えられているが↑、城などは何も詠われていない、城ができる以前にはこの丘陵には紅葉が多かったのだろうか。 しかしこれにしてもフクチ山と伝わった古い山名に、後の歌人がこうした風流な彼ら好みの漢字をたまたまに当てたもので、元々のフクチヤマの意味を漢字で表したものではない。 熊本は熊がいるから、鹿児島は鹿の子がいるから、とかいう意味ではないように、漢字は当字であり、風が吹く山といった意味ではないのだが、しかし推測をさらにするなら、あるいは本当に風が吹く山として、風の神を祀る古代製鉄の地であったのかも知れない。フツーは福地山などと書くのに、吹風山と不思議な当字を書いた、彼女の好みよりもそれなりの理由があったのかも知れない。ワタシはよい天気の日にしか行ったことがなく、風が吹く山のようには感じられなかった。 ひょっとすると古い鉄滓などが出てくるかも知れないが、表面は何度も再開発を受けているのでもう発見はできないかも知れない。周辺は鬼伝説の地で、福地などとしないで吹風の漢字をあてたのにもある程度の正当な理由があったかも知れない。 フクチ山の元々の意味は何であろうか。式部の時代でもすでに不明であったと思われる。ずっと古い日本語というか渡来語なので漢字にするのは難しい。ワシはアメリカ人やとか天から降ってきたんやとか信じておかしくなった現代日本社会で理解するのはムリかも知れない。日本社会の全体が曲がってしまっているし、さらにゼニモウケしか感心がない、どうでもよいことにばかりに集中し続けてきたために、誰もいまだかつてまともに考えてみたこともない問題である。歴史は忘れる、真実よりもゼニモウケが先で、言ってもモウケにならない真実は無視する、モウケになりそうもない事は誰も探求しない、そのうちに真実はウソだとされるようになってきた、これも「日本文化の優れた美しき伝統」だと言えようか。おかしいのがアタリマエでないのか。各自各持場で健全な日本社会の再建に真剣になって努めたいものである。過去を忘れるのはある程度は仕方がない、しかしそれは未来も忘れることにつながる、われらの自身の大事な過去を忘れるようだとわれらには未来はない。 フクチヤマ(福知山・福智山)という山はけっこう各地のあちこちにもあるし、フクジ(福地)フクシ(福士)といった地名もある、有名なマラソン人にもいる、太郎さん花子さんのようなポピュラーな古代の標準名なので、厳密には(全国区では)単に福知山とか福知山城ではなく、丹波福知山とか丹波福知山城とでも呼ばないと間違われるかも知れない。 駿河富士は、『常陸風土記』には「駿河国の福慈岳」と書かれている、フクジの岳である。フジサンと呼ぶよりはフクジヤマと呼ぶ方がより本来の呼び方に近いようである。フクジもフクチも同じことであろう。さらにフジ山、ヒジ山、クシヒの浜とかクシフル岳も同じものであったであろう。 『古事記』でいえば、「天孫降臨」の「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」のクシフル岳のクシフルが原義であったと思われる。 クシフルのフルが脱落してクシとなり、さらにKH互転でフシとなり、その二つが合わさってフクシとなり、さらにフクチとなった。 フもクも大(カ)という語の転訛で、シはソフルのソである。そう言っても信じられないと思うが、簡単に言えばそうしたことである。カシハラなども同じクシフルで、畝傍の白梼原(かしはら)の宮に神武が即位したと『古事記』が伝える。まさにカシハラ(大ソフル)の聖地に初代天皇が即位し、カシハラの地即ちソフルを王都とした、日本とはこうした国と伝えられている。この日が今の日本の建国記念日となっている。記念日を祝う側も反対する側もカシハラの意味を考えてみようとはしないようである。 隣にソフルを都とする国があるし、『三国遺事』に、 東扶余 北扶余の王、解夫婁の相(大臣)の阿蘭弗が夢を見ると、天帝が降りてきて、「これから私の子孫にここへ国を立てさせるつもりだから、お前は(よそに)逃げたほうがよかろう。東海のほとりに、迦葉原という所があって、土地が肥えているから、王都にするとよい」といった。阿蘭弗が王にすすめて、都をそこに移し、国号を東扶余といった。 「迦葉原」はカシハラではなかろうか。この解夫婁王の子が朱蒙(高句麗の初代王)。東扶餘は広開土王に滅ぼされたというからひどく古い国だが、この国の建国説話はどこかの国のそれと地名ばかりでなく全体が似ているとよく言われている。別に似ていても何も不思議ではない、似てなかったらそのほうがおかしい、何と言っても隣同士で顔も同じなのだから。日本の建国神話を何か日本独自のものであるかのように言う者もあるが、そうではなかった、この種の地名もまたそうであった、この種族が古くから持っていたものである。現実の歴史とはあまり関係はなかろう。大陸の打ち続く大騒乱の中で故国を離れて移動を余儀なくされ、命からがらにたどり着いた先が今の日本列島であった。長い時代にわたり広い範囲の多くの人々が大陸や半島などからはじき出された、彼らは盲滅法に海にこぎ出して、幸運にもたどり着いた最後の「掃きだめ」であったかも知れない、あまりに日本独特の世界に例を見ないスンバラシイ歴史を有する国などと言っていれば大笑いされるかも知れない。真実の歴史を見誤るかも知れない。 隣はソフルを都とする国、日本もまたソフルを都として建国された、何もおかしな伝説ではない。オカシイなどと思う方がおかしい。 明治国家、明治の時代は一方では福知山城二の丸を削り取ったが、他方では元々は他国の建国神話に基づいたような神話により、白梼原(橿原)の地に神武陵を建設し橿原神宮も作り、建国記念日(紀元節)も定めた。しかし橿原とは実はソフルのことだとはゼッタイに認めなかった。 本物の過去の破壊と都合の良い「過去」のデッチアゲ、いずれにしても歴史などはヘとも考えてはいない、これが「近代化」なのか、アヤシイ話であるが、自身の頭で考える力もなく、価値判断もなく、これをただ賛美してやまないのが、どこかのマチの基本精神である。どこかのマチだけならまだいいのだが、こうした社会に未来はなかろう。 東扶餘は2世紀頃の建国というから、福知山や柏原という地名もその頃まではさかのぼれる由緒ある超古い歴史遺産である、光秀などはぜんぜん問題でもないが、彼が遠い過去を掘り起こしてくれ、今につなげてくれたのかも知れない、そうした意味では光秀あっての福知山なのかも知れない、エライ功績かも知れない、光秀の業績を引き継ぎ大事に遠い将来へとつなげたいものである。 扶餘は高句麗や百済の故国といわれ、今の北朝鮮から「満州」あたりにあった国、このあたりに、もっと北にあるかも知れないが、少なくともこのあたりに起源を持つ地名のようである。 クシフル岳は天皇さんの先祖が天降った山の名で、筑紫ではないか、当地はそうした地ではない、と思われるかも知れない。 クシフル岳は今では天皇さんが独占しているが、この時代は日本全土に天皇さん(の卵)がいっぱいいたのである。かれらは大きくは故郷を同じくした同じ文化を持つ一族同士で、渡来人と呼ばれている、それぞれ各地にクシフル岳の同一の伝承を伝えていたのであろう、だからこうした地名が各地に残されていると思われる。後に各地の天皇さんはお互いにつぶし合い、最後まで生き残ったのが今の天皇さんということであろう。各地の天皇さんの卵たちは地上から次々に消滅していき、たいした記録も残さなかったが、地名は残ったのである。 『日本書紀』には、この山の名を本文では、日向の襲(そ)の高千穂峰。 一書に、筑紫の日向の高千穂のクシ(木偏に患)触峰。 一書に、日向のクシ(木偏に患)日の高千穂峰。 一書に、日向の襲の高千穂のクシ(木偏に患)日の二上峰。 一書に、日向の襲の高千穂の添山峰(曾褒里能耶麻)。 と伝える。『古事記』や『書紀』本文は天皇家の伝えだろうが、一書にあるのは、あるいは一書を伝えた彼らの祖が天降った山の名かも知れない。 チクシ、ソ、高千穂、クシヒ、ソホリなどこれに関連する地名はクシフル系の地名であろう。千穂はシホ。何とも地名の華麗な展開例を見る思いがしてくる。 若狭湾の冠島(雄島)の西岸、立神岩の少し南に「筑紫ヶ浦」の地名が残り、伴とし子さんがおっしゃる天孫降臨の島である証拠かも知れない、チクシ島、クシフル島であったかも知れないことになる。 地図によればこのあたりのようなのだが↓特に目に付くようなものはない。 大宝元年(701)三月、地震三日やまず、此里一夜にして蒼海と為る。漸くわずかに郷中の高山二峯と立神岩、海上に出たり、今号つけて常世嶋と云う。亦俗に男嶋女嶋と称す。と風土記にある。 筑紫浦はこのあたりに沈んでいるのかも知れない。 「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」はあるいはここかも知れない。 綾部の裏山の四ッ尾山も東側の山頂に藤山公園がある。まだまだアヤシイ地名が各地に残る。 クシフルの意味は、金沢庄三郎は、大(ク)ソフルのことだという。彼らというかワレラの祖はその聖地をこう呼んでいた。 福知山とは、当地周辺の渡来系住民の祖が降臨したと伝えられた聖山であったと思われる。当地周辺に遺跡を残している弥生から古墳時代の人々が残した山名であろう。 福知山お城祭り 瓦一枚運動の再建 詳しい資料が手元にない。詳しくはわからない。 瓦は全部ピカピカで当時の物ではなさそう、番所の屋根もピカピカ。これらの瓦の一枚一枚裏には寄贈者の名が書かれているとか。 法律で定められていたりしてどうしても自治体が作らなければならない建物は別として、法的にはあってもなくてもよいような物は、「長者の万灯より貧者の一灯」。一日城主とか工夫すればよいかと思う。 自治体の税金投入には賛否があるであろうから、まずは言いだしベエから身ゼニをしっかりと切ってもらわねばなるまい。それを原則にしたいものである。 「言いだしベエ」のクセに一銭の身銭も切らない、全部ゼーキンでやる、どこかのマチのハナシだが、「一番キタナイやり方ですな」などと言われている。市民からは見透かされていて、愛されるはずもない、一部市民と当局トップとの癒着の産物、醜いものである、市民が誇れるかどうか考えてみろ。まもなく消えてしまうことだろう。 地図上の場所。市内からよく見える。だいたい駅の方へ行って貰えればわかる。大河の合流点で、かつては河港があり、交通・商業の中心地に立てられている。 《城下町》 城下町の建設こそが、近世の経済史的には重要な所であろうか。各地の城主・政治的軍事的なヌシもよくそれを自覚していて、経済根拠地の育成強化に努めているが、当地も横山(朝暉丘)に城郭を構えて、その北方に城下町を作ろうとしたのだが、当時は詳しくは不明ながら、横山丘陵の北麓に沿って由良川が流れていて平野はまったくなく、今のような地形ではなかったとみられている。 綾部の方から流れてきた由良川本流は、城の下の「佐藤美術館」あたりで横山丘陵にぶつかり、丘陵北麓に沿って今の駅の南側へ流れ、ここでスカイランドのある茶臼山にぶつかり、北方へと流れていたようである。今の城下市街地はまったくなく河原の沼や氾濫原だった 、因みに当時の福知山経済の中心は和久川の下流「和久市」にあったという。 『福知山の自然遺産』より↑ 土木的にも築城よりも城下町建設の方がよほどに大変な難事業であったと思われる。城下町は今の市街地の半分もないが(↑の地図の網がかかっている地域。↓写真に写っている範囲くらい)、それでも現在の土木能力・土木技術をもってしても大変な話である。巨大な堤防と排水機などを備え付けて市街地を水から守らなければ成り立たない、しかしそれでもタマには氾濫する。 光秀の治世は3年ほどで、そのわずかの期間にこれだけの治水治山築城城下町作り工事ができたものであろうか。 長い年月の間に、誰やら誰やらかが少しずつ行ったのだろうが、それらの主語がみな光秀に入れ替わっているのかも知れない。だいたい日本語は主語がないのが多く、リクツポイのが後の時代にその文をいじると主語がとんでもない人物に替わってしまうことがある。元々は主語がなかったと思って古文を読めば歴史がわかることも多い。 『丹波志』猪崎村支 和久市村は、 茂正按 村老ノ説 古何鹿ヨリ来ル大河、福智山城ノ北ヲ西ニ流、今大橋ト云字ノ所、大沼ニテ此所ニ流其下流和久市ノ西ニ流、又一筋ハ厚村ト岩井村ノ間ヲ流、荒河村ニテ合流ルト、今和久市村ノ西厚村トノ間柳瀨ト云田地ノ字アリ、同神明ノ社ノ後ニ市場ノ前ト云所有、以テ考ルニ今ノ和久市村ノ後ニ南ヨリ西流、東ハ猪崎村ト地続ナリ、明智光秀福智山城ヲ改築トキニ長キ岡ナリシヲ三ヶ所切通シ穿、其土ヲ以テ堀村井口ト云所ヨリ今ノ町後ヨリ北ノ方川下和久市村迄十五六丁堤ヲ築、此時猪崎村ト和久市村ノ間ヲ大河流通シト知レリ、因テ大沼ヲ埋メ田地トス、此所于今至テ深田ナルユヘ木ノ枝ヲ踏テ苗ヲウヘ稲ヲ刈ル、元猪崎ノ地続タレハ出戸無疑所ナリ、明智氏築城ノ時川筋違タルニヨリ堤ヲ築キタルト観タリ、此所ニ舩着ニテ市場トナル和久川ノ出合辺故ニ和久市ト名付タルヲ此地古川原ニテ有リシニ信濃国ヨリ浪人貳人来住ス中嶋氏小室氏也、子孫有、姓氏ノ部ニ出ス 光秀は地子を免じて商人を集住させたと言われる。しかし免税にしたというのか、こうした川床や河原沢湖沼の類の地は元々から無税地(無租地)ではなかっただろうか。上川口駅のあたりに六十内(むそち)という所があるが、当地の一帯もその無租地でなかっただろうか。その特例特区策を当面は続けるということであったかも知れない。 《福知山城主一覧》
福知山城の主な歴史記録城内の案内板
かんじんの福知山城の戦い(光秀VS地元横山氏一族)だが、たいした記事はない、だいたい大勢のカタがついてからのことであった。『天田郡志』下巻が「横山硯」を引く、
『丹波志』は、
これは関ヶ原時代だが、
『定本柳田国男集三四巻』 氏には「風位考」などあっておもしろいが、これは「故郷七十年」収録の「イナサ(東南風)」より↓
イナサは海から吹く風の意味のようで、山から吹く風をヤマセというようなことかともしている。 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『天田郡志資料』各巻 『福知山市史』各巻 その他たくさん |
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