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丹波の

印内(いんない)
京都府福知山市印内


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京都府福知山市印内

京都府何鹿郡佐賀村印内

印内の概要




《印内の概要》

印内集落
烏ケ岳東麓の山間の集落。烏ヶ岳登山道の入口になる。
今は辺鄙な所だが、「横山硯」によれば暦応2年(1339)2月下旬、足利尊氏は「一かたならぬ八方の敵に追乱されて三光国師を相具して丹波路さして落給ふ」、「天田何鹿の郡さかひ印内村へ落着給ふ処、いと物くらき日暮方、田辺氏にて一宿遊されて」、「是より小杖峠道案内をさせ、庵我庄の奥山の麓に下り」たという。 この当時以前はメーン・ストリート街であったのかも知れない。
当村には銀山があったという口碑があり、延宝検地帳に「古銀山役」とみえ、また坑門が崩壊した所が数ヵ所ある、という。インナイという地名は古代に遡り当地に鉱山があったものと思われる、銀や銅ではなかろうか。
印内村は、江戸期~明治22年の村。何鹿郡。報恩寺村の枝郷(元禄郷帳・天保郷帳)。はじめ福知山藩領、延宝6年検地の頃は幕府領代官万年長十郎支配。「何鹿郡天田郡元禄高付帳」によると上総勝浦藩領。享保15年の所領別石高帳では幕府領代官小堀氏支配。当村で報恩寺村と同じ桶伏の刑に処された庄屋の伝えがある。正保四年(1648)、藩主稲葉紀通の命で庄屋島村治右衛門夫婦とその子供二人が処刑された。その場所は村より西、川北へ越す峠の麓で、処刑場所と埋葬された所と二ヵ所が伝えられる。
明治2年から篠山藩領。同4年篠山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年佐賀村の大字となる。
印内は、明治22年~現在の大字。はじめ佐賀村、昭和31年からは福知山市の大字。


《印内の人口・世帯数》 63・28


《主な社寺など》

八坂神社
八坂神社(印内)
明治四十三年の「旧何鹿郡佐賀村役場所蔵記録」(「史談ふくち山18号所収」)には、
村社 八坂神社
佐賀村大字印内小字鶯
往古ハ薬王寺牛頭天王ト唱へ来リ、明治維新ノ際神仏混淆ヲ改メ八坂神社トス。
とある。薬王寺牛頭天王といっていたわけだが、牛頭天王ももとは祇園精舎の守護神といわれた薬師如来が本地仏で垂 神は素蓋鳴命であって、神仏混淆に抵触したわけで八坂神社と改称したのである。
(『福知山市史』)

村社 八坂神社
所在地 佐賀村大字印内小宇鴬
祭神 須佐之男命
境内反別 四三五坪
由緒 古は薬王寺牛頭天王と称へ来り、
明治維新の際神仏混交を改め八坂神社とす。
祭日 陰暦十一月八日
(『佐賀村誌』)


多門山興福寺

多聞山見姓院 興福寺(真言宗高野山末寺)
所在地 佐賀村大字印内
本尊 大日如来
縁起 当山は人皇五十四代仁明天皇の御宇嘉祥二年五月法道仙人の開基にして小字横座に在りしが、享保二年祝融の災に罹り、同三年当時の住職泰然上人現在の地に移転して本堂再建す。
当山は印内の高い処に在って交通不便の為住職も度々代わり長く無住が続いた。昭和二十八年の風水害に依り本堂大破し、復旧の見込みたたず、檀家の大半も改宗し、幸運に恵まれず、本堂を取壊し、報恩寺福性寺住職桐村昭道師を兼務住職に依頼して今日に及べり。
(『佐賀村誌』)

当寺にあった梵鐘はいま舞鶴河辺の補陀落山観音寺に現存する。
補陀落山観音寺梵鐘案内板補陀落山観音寺梵鐘
地図になく、誰もいないので、このお寺がどこにあるのかわからなかった。


《交通》


《産業》


印内の主な歴史記録


舞鶴河辺の補陀落山観音寺の梵鐘
市指定文化財
 楚鐘 一口 鎌倉時代 総高八七センチ 口径四七センチ 観音寺(観音寺)
 和鐘は鎌倉時代までのものは剛健で品位が高く、優美な中に引き締まった造型美があるといわれているが、 この梵鐘は小型ながらまさしくこれに相応するもので、丹後地方唯一の当時代の和鐘である。
 乳の間四区六四個の乳の内二区に計三個の欠失が見られるが、他に異常はない。七○○年近い長い歳月に諸所を流転したこの鐘の過去を思えば、この程度の傷痕があるのは止むを得まい。
 銘文は池の間全区に、それぞれ原銘(第一期)追銘(第二期)追々銘(第三期)と三時期にわたって一八五字(史料より推定)を陰刻している。
 第一期の原銘
 「丹波国何鹿郡□□庄 □□□□□□□ 大願主□□□□□ □□□□□□ 延慶元年(一三○八)戊申十月二十日)」
 この第一区の原銘について「日本古鐘銘集成」は
 「陰刻池の問二六センチ×二五センチ一区
(第一区)丹波国何鹿郡印内庄 □□□興福寺鐘 大願主□□□□□ □□□□助□□(年銘前出同文)を出しているが、これにはその欠字を補ったと思われる原史料を明記していないので、なお後検の要があろう。
 第一次の追銘は陰刻、池の間二区と縦帯二区に
 「(縦帯)丹後与謝郡宮津庄泰叟山国清禅寺鐘銘并序、(第二区)(略)(縦帯)(略)(第三区)明暦三年(一六五七)丁酉黄鐘吉辰 花園末葉天竜誌(以下空白)」
 第二次の追々銘は現在地の銘文である。
 「(陰刻 池の間一区)
(第四区)丹後国加佐郡川辺庄 補陀落山 観音寺住侶阿闍梨良快建立之 于時 元禄三庚午年(一六九○)林鐘吉日)」
 右の銘文のうち、原銘の欠字部分はよく検見すると、故意に打ち潰し損亡させた痕跡が見られる。これはこの梵鐘にまつわるなんらかの歴史的意味が伏在していたために、移転の時点でわざと欠字としたかも知れない。
 追銘、追々銘はともに江戸時代の移動を証するもので、この経緯については「丹後史料叢書」に収録した「宮津日記」に詳しい。その概略は、延慶元年(一三○八)に鋳造されたこの鐘は、江戸時代宮津の経王寺の所有になっていた。それが明暦三年(一六五七)価二百目で同町の国清寺天竜和尚(追銘)に買い取られ、そのあと、同町の如願寺が譲り受けて観音寺にあった仁王像二対の内の一対と交換し、元禄三年(一六九○)良快和尚(追々銘)のとき観音寺の常住となったという。
 当時この鐘と交換した仁王像の一対は、もとどこに安置されていたのであろうか、なぜ観音寺にそのころ二対もの仁王像があったのであろうか、それらについての事情はいま知る由もない。
(『舞鶴市史』)


京都府船井郡丹波町にも院内という所があり窯趾があるというが、この地名(院内・印内・犬内)も全国に見られるものである。何か意味があろうが、それについて、
『鉄と浮囚の古代史-蝦夷「征伐」と別所-』は、
菊池山哉は院内地名も別所と同義としている。

「はじめ別所は出入禁制の院内地であったので院内とも称されたものと思われる。だが、遠江をはじめ諸国にも院内があり、白河以北にも院内があるところから元慶二年(八七八年)の秋田の大叛乱の後に移配されたものが、別に院内の名で呼ばれたとも考えられる。京都では院内のことを印地と呼ばれており、別所と同じで蝦夷の移配地であったと思われる。印地を北白川の山間に配置したのは、八瀬・大原の別所の如く見せしめとして京に入れ、京の雑徭役にあてる意図があったらしい。拳大の石を紐で結えて打ち込む印地打はそこからはじまっている」とも書いている。三国(連太郎)氏のこれらの所論は菊池説をとりいれたものであろうが、私には俘囚移配地としての別所に、後から聖たちが遁世したと説いたところに共感を覚えるのである。 要するに私は別所地名由来には各説があるが、菊池の説く俘囚移配地がもっともよくそれを説明していると思えるのである。


伝説


『福知山市史』
桶伏せの刑
 福知山市報恩寺及び印内地区には、庄屋一家が(稲葉)紀通のために「桶伏せ」の刑に処せられたという口碑があり、これについては、故片岡孫九郎氏の詳細な研究がある(「稲葉淡路守と桶伏せ」『ふくち山』第八八・一六八・一六九号)。
 報恩寺の伝承は、「稲葉淡路守から、猪が出たら猪狩りをするのですぐ知らせるよう御触れが出た。当時報恩寺の庄屋役を勤めていた片岡治兵衛は、猪が現われたという百姓からの知らせがあったので早速城主へ申し出た。城主の下知で猪狩りが行なわれたが猪は一頭もいなかった。淡路守は激怒し、城主を欺いた罪で、治兵衛一家五名を桶伏せにより死罪に処した」というもので、処刑の場所も言い伝えている。印内の伝承もよくにているが、処刑の理由や方法などはより具体的である。
片岡氏の記述(『ふくち山』第八八号)を引用すると、
  印内において桶伏せの刑が行なわれたのは、正保四年(一六四七)十一月二十八日である。処刑された者は、印内の庄屋島村治右衛門夫婦と、其の二人の子供である。処刑された場所は、印内から川北へ越す峠に差しかかる道路傍と言われているが、その場所が二ヶ所あって判明しない。印内は烏ヶ岳の麓にある山村で当時猪の被害が 甚しく、農民は極度に困窮していた。庄屋役であった治右衛門は、貢租の減免を領主稲葉淡路守に歎願して、領主の要求通りの年貢を納めなかった。領主から猪が出た時申し出よとのお達しがあった。ある時猪が出たとの申告によって猪狩りが行なわれたが、猪は一頭も姿を見せなかった。そこで領主は庄屋が年貢の減免を図るため、故意に虚偽の口実を設けて、領主を欺いたという罪によって遂に桶伏せの刑に処せられ、一家四人が非業の最期を遂げたのである。相当時間を経てから刑吏が桶を上げて見ると、夫婦共舌をかみ切って死んでいたという。又二人の子供は、刑吏が左手で子供をさげて、右手に刀を持って切り下げた、所謂「下げ切り」という方法で之を殺した。その時に子供が着ていた綿入れの着物が、真紅に血が惨んだまま永らく刑場にすててあったという。治右衛門には、此の外に一人の男の乳呑児があったが、田辺家に嫁していた長女がこっそりかくまったので難をのがれ、成人して田辺姓を名乗り島村家を継いだ。田辺家へ嫁いでいた長女は、晩年に剃髪して尼となり、庵を結んで一家の菩提をとむらった。庵のあった場所を小字堂屋敷と言って、現在は水車小屋が建っている。
というものである。
 「桶伏せ」というのは、河出書居の『日本歴史大辞典』によれば、「をけふせ 伊予松山領で年貢米を納めることのできない部落民に加えられた屈辱的な罰則で、年貢米を納める郷蔵の前で糞桶を頭からかぶって伏せさせることをいう」と書かれている。紀通の桶伏せについては、幕臣の真田増誉の著した『明良洪範続篇巻之八』に記事がある。『明良洪範』は、完成年代が不詳で、江戸初期の徳川氏や、関係のある武将・家臣らの言行・事績を見聞に従って記録したものとされているが、事実とはかなり離れた内容となっている。それには、「或時代官を勤める家士私曲有とて禁獄せしに、私曲の虚実も正さず、其妻子を始め忌掛る者を召捕り、庭に穴を堀らせ首計出して其穴へ埋めさせ、其首へ小桶を冠せ置」と桶伏せの様子を書き、「毎日小桶を取て見て廻り、夫を慰みにせられ」など、紀通を悪逆残忍な城主のごとくに書き、その代官を勤める武士の無惨な最期を見て紀通が乱心したと述べている。
 報恩寺村庄屋片岡治兵衛一家の処刑については、「片岡家系図」・「先祖代々之控」・「常照寺過去帳」(福知山市寺町 日蓮宗)の記録からほぼ確実視され、その時期も、慶安元年(一六四八)七月六日であったことが明らかにされていたが、最近行なった「片岡家文書」の調査によって、この事実は更に決定的となったのである。次の史料は、治兵衛一家の死罪と所有していた田畑山林の始終を詳細に示している。
  闕所地村惣作之田畑并山貰請候一札之事

 ここでは、治兵衛とその妻子が残らず死刑になって家が絶えたあと、その土地は全て没収されて「闕所」となったこと、闕所地の管理は命令で村惣作地となり、村中の責任で耕作し年貢を納めていたことが書かれている。また、事件後三年目の慶安四年(一六五一)二月、かつて治兵衛のもとに奉公していた仁兵衛が、この土地(高四十六石八斗二升六合三勺)を譲り受けるべく、九郎右衛門を通して村方に願い出たところ村方一同これを承知し、領主(松平主殿頭忠房)の許可を得て全部貰いうけたというものである。
 この貰請状の宛名庄屋孫右衛門は、治兵街の弟であり、兄の罪に連座して入牢していた事実がある。延宝六年(一六七八)、二代目片岡孫右衛門の書いた「先祖累代控」(片岡家文書)によると、

と記されている。稲葉氏の後、福知山城主となった松平主殿頭の片岡氏に対する処遇は極めて柔軟である。入牢中の孫右衛門を釈放し、郷士帯刀を庄屋役に取り立てたばかりか、伝承によれば家老稲垣氏の娘を妻に与えた上、闕所地を隷属下人に与えて小前百姓に独立させるなど、極刑に処した稲葉氏とはあまりにも対象的な優遇であった。
 治兵衛の申し出た年貢減免の要求は、「猪による不作」という理由であったと思われるが、これには様々の社会経済的な要因がかかわっていたに違いない 時代はさかのぼるが、有馬豊氏の検地は旧領八万石の石高を十二万石に増高したもので、これに対する農民の反抗もかなりあったようである。また『朝輝神社文書(租税)』(『福知山市史 史料編二』には、「稲葉騒動之砌百姓蔵へ忍入水帳を盗出し紛失之由断有之 報恩寺村辺之帳無之由 御付議之書付有之也 有馬検地之増高無理なる仕方と見へたり」という大西明善の記録があり、稲葉騒動と有馬検地の関連にふれている。一方、幕府の大名政策による藩出費の増大は年貢収奪の強化となり、更に、寛永十年代から連続している全国的な凶作・飢饉は、農村を一層疲弊させていた。報恩寺村の片岡氏は、永禄二年(一五五九)落城までは報恩寺城々主として近郷を支配した土豪であり、治兵術にも地侍としての誇りあるいは藩主への反発心は強かったものと思われる。領民の年貢未進もしくは一揆に対する領主の処置は、情容赦のない厳罰でもって処するのが中世以来の伝統であり、江戸初期の一般的な姿であった。幕府も、島原の乱直後寛永十五年(一六三八)五月十五日諸大名への諭達で、「今度天草・島原の一揆等、その初め速に誅伐を加へば、大事に及ぶまじきを、延滞して多くの人数を損じたり。此後も近国他領の争論などあらんには、先々の令のごとく各其境を守りて、みだりに動く事あるまじといへども、こたびのことに於ては、速に誅夷するをもて簡要となすべし」『徳川実紀』)と述べている。

 紀通の家臣・百姓の処罰については、「寛永二十年(一六四三)、和久市中島氏一族処刑」(「福知山支略」)、「正保元年(一六四四)、夜久野畑荻野氏処刑」(『丹波史年表』、「慶安元年(一六四八)小塩某有罪刑之 其党高坂某奔去 又放逐速見某 坐斬封内邑民数十人及商売等」(『福知山市誌』)などがあがっているが、確たる史料はない。慶安元年「春の御暇」帰国以来、まさに「狂気」のごとく振舞った紀通の行動は、公儀権力と領民の板挟みになったまま、藩政確立に焦燥しつつも崩れゆく藩主の姿を示しているようである。またそれは、戦国大名の残り香を払拭しきれなかった紀通の、農民支配の失敗を物語っているともいえよう。





印内の小字一覧


印内(インナイ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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