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丹波の

石場(いしば)
京都府福知山市石場


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京都府福知山市石場

京都府天田郡上豊富村石場

石場の概要




《石場の概要》

国道429号(佐治街道・豊富街道)沿いだが、少しわかりにくいところ。「成光苑サンヒルズ紫豊館」という老人ホームが国道沿いにあるが、その裏側あたりになる。
石場村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。「元禄郷帳」では「豊留」を冠称する。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上豊富村の大字となる。
石場は、明治22年~現在の大字。はじめ上豊富村、昭和24年からは福知山市の大字。

《石場の人口・世帯数》 141・55


《主な社寺など》

石場遺跡

高杉神社
高杉神社
本殿に「由緒書」があるけれども遠くて小さくてよく見えなかった。
高杉大明神 石場村
祭神    祭礼
本社五尺 拝殿三間二間 境内二町ニ一町 社田高八斗村除
(『丹波志』)

薬師堂と義民碑
薬師堂(石場)
薬師堂に義民本田又左衛門と石坪万右衛門(左側)と、節婦石坪いし(右側)の顕彰碑が立つ。


福知山藩の二大一揆といわれる「享保強訴」と「市川騒動」では、ともに当村より一揆の中心人物を出した。小さな静かな村だけどスゴイ歴史がある。今も花が捧げられていた。
享保19年(1734)の「享保強訴」では、当村先庄屋本田又左衛門と堀村庄屋横山佐治兵衛が豊住郷・南郷・夜久郷の農民を結集して減免などを要求して城下に押し寄せ強訴に及んだ。強訴は農民側の要求を大略藩が認めて終息したが翌20年は大洪水に見舞われたこともあり強訴首謀者の処分が行われないままになっていた11年目の延享元年(1744)7月になって首謀者の検挙・裁判が行われた。これにより又左衛門が発頭人と決定されたが、又左衛門は判決が下りる前に病死した。そのため又左衛門に対する判決は、
又左衛門儀当春病死致し候に付、御吟味別して御念を入れられ候処、又左衛門頭取の随一に紛れなく候、重罪の義存命候はヾ死罪に行はれ、其の上首は獄門に梟けらるべく候へ共、死亡致し候故、屍を掘出し、首刎ね取捨に仰付られ候、
墓を掘り首刎ねて屍を取捨てにするという前代未聞の刑罰であった。又左衛門一族も様々な罪状のもとに、三都追放・領分追放・村追放などに処せられたという。
また万延元年(1860)市川騒動のときも全領民が城下へ押し寄せて藩と密接な関係がある村々の庄屋や町の豪商数十軒を打毀した。中村の庄屋勘左衛門と当村庄屋石坪万右衛門は農民の代表として、13か条の要求書を提出し市川儀右衛門ら3人の退役のみ江戸の藩主に伺いをたててからとなり、ほかの12条すべてが認められたという。



《交通》


《産業》


石場の主な歴史記録


『舞鶴市民新聞』(97.11.11)
*由良川考古学散歩〈42〉*壁のあるいえ*
 壁、英語では「Wall」。イメージ的には目の前を遮断する背の高い板のようなものでしょうか。個人的には『ぬりかべ』 っていう妖怪(ようかい)が好きです。辞書によれば、壁は、①家屋の周囲をかこい、また室内の部屋を仕切るもの」②「障害物」③「目標を達成するまでの苦難」なとが載っています。②では、お城の石垣のような城壁がありますし、③なんかでは「由良川考古学散歩50号?100号突破? 間近の前に立ちふさがる…」なんてのもいいですよね。でも、もちろん今回の題は、①の家屋に関係する壁のお詣です。
 皆さんが今お住まいのお家にはもちろん壁があるでしょう。土壁・板壁、最近ではコンクリートに石膏(せっこう)ボードなんてのもあります。外界の悪天候や喧噪(けんそう)から遮断し、空間を仕切ることで趣向の違う色々な表情を見せる事ができます。また建築構造的には、屋根や二階部分を支える重要な部分です。
 さて本題です。壁の歴史は、いつごろから現れるんでしょうか。
 由良川流域で見つかっている縄文時代・弥生時代・古墳時代の家は、考古学的に皆さんが良く知っている「竪穴式住居」と呼ばれるものです。この住居は、その名の通り、住まいの大半が地面の下。外から見れば、まるで地面からにょっきりと屋根が生えてるようです。堀り窪(くぼ)めた穴がすなわち、壁になるわけです。ですからこれらは壁(外壁)の無い家ということができるでしょう。もちろん家の中には何らかの壁状の仕切りがあったかもしれませんし、この当時に外壁を持った家が無かったわけじゃありません。立派な壁を持った家形埴輪(はにわ)や鏡に描かれた二階建ての家屋、特別の豪族は特別の豪邸を持っていたようです。あるいは一般的な高床式倉庫などにも壁はあります。けれど、なぜか? みんな地面に穴を掘って家を建てていました。不思議です。遺跡でみる限り、このあたりで本格的に壁を持った家が造り出されるのは奈良時代に入ってからだと思います。
 石場遺跡(福知山市)の発掘調査では、古墳時代末の竪穴式住居のムラとともに奈良時代後半の柱穴跡が大量にみつかりました。これらはすべて掘立柱(ほったてばしら)建物の基礎であり、長い年月の間に何回か建て替えられた痕跡と推定できます。同一時期に実際に建っていたのは、三~五棟程度と考えられる小さなムラだったのでしょう。これらはすべて南北に棟を持った二間(柱と柱のあいだ)×三間の建物跡であり、竪穴を掘り込まない平地式の住居と考えられます。これら平地式の住居は生活する場所が地表面より上であるという構造上、わずかな削平で多くの情報が失われてしまいます。この遺跡でも当時の地表面は完全に削られていましたので、実際どんな建物でどんな生活をしていたのか知ることは難しいです。
ですから、この家々に本当に壁があったのかは分かりません。でも考えてみて下さい。屋根に柱のままじゃ、まるで吹きさらしの東(あずま)屋ですもの、きっと分厚い壁があったに違いありません。
 さて、竪穴式住居のムラの時代とは百数十年ほど時間的な隔たりがあり、壁の無い家からある家への変遷は直接はつながりません。けれど、この間の住居形態の変化は特別に大きいものと思います。何かがあったんです。きっと、この間に。それが何かは私もわかりませんけど。ちなみにこのあたりでは、当時の住居は二間×三間の建物が一般的だったのか、他の遺跡でも通有に見ることができます。
 現代人にとって壁は、それこそセンスの良さを顕示する場でもあります。しかし、古代の家では屋根とともに雨風を遮ってくれる大切な部材、頑丈そのものだったでしょう。ただ、きっと子供たちにとっては、絶好の落書き場所であることに変わりないでしょうけどね。 (八)



伝説





石場の小字一覧


石場(イシバ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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