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丹波の

板生(いとう)
京都府福知山市夜久野町板生


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京都府福知山市夜久野町板生

京都府天田郡夜久野町板生

京都府天田郡上夜久野村板生

板生の概要




《板生の概要》

町の北西で、西は鉄鈷山山系を隔てて兵庫県朝来市和田山町に接する牧川上流部。東西を富岡山(707m)・鉄鈷(かなとこ)山(718m)両山系にはさまれた牧川の源流板生川流域を占める全長約8㎞、最大幅0.5㎞のに細長い谷間を。川沿いを府道56号(但東夜久野線)が走る。下から三ッ谷(みつや)(現三谷)、中心集落の羽白(はじろ)、田谷垣(たやがい)・今西の集落がある。
地名は、早くは応永17年8月23日付の建仁寺領諸国注進目録に「一 丹波国夜久郷板生・野々村両地頭職」と見えるという。
板生村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上夜久野村の大字となる。
板生は、明治22年~現在の大字名。はじめ上夜久野村、昭和34年からは夜久野町の大字。平成18年から福知山市の大字。



《板生の人口・世帯数》 441・167


《主な社寺など》

宇徳神社(田谷垣)
宇徳神社(田谷垣)

村社 宇徳神社 同村字板生小字 鎮座
祭神 進雄命
社殿、 構造 仝前
当社もと宮山の中腹にありしを(年代不詳)此地に奉移す(旧境内は百廿歩)大正六年四月五日許可の上境内拡張、社殿、拝殿、渡殿を建つ。是より先明治四十年四月六日付許可の上小字両院合熊野神社、三谷新宮神社、山神神社、愛宕神社、上三谷三柱神社、熊野神社、羽白三柱神社、田谷垣愛宕神社、山神神社、鎌倉神社、現世武神社、田谷三柱神社、地主神社を合祀す。
境内 二百六十二歩余
末社 稲荷神社、八幡神社
祭日 十月十日 祈年祭三月十八日 新嘗祭十二月五日 大正十五年六月十八日供進社に指定せらる。
財産 …
(『天田郡志資料』)

宇徳神社(板生田谷垣・氏子板生)
祭神 進雄命(井上常蔵史料によれば播耶把麻能男神)
社殿 構造 仝前
当社はもと宮山の中腹に在りしを(年代不詳)此地に奉移す(旧境内は百廿歩)大正六年(一九一七)四月五日許可の上境内拡張、社殿、拝殿、渡殿を建つ。是より先明治四十年(一九〇七)四月六日附認可の上、小字両合院熊野神社、三谷新宮神社、山神々社、愛宕神社、上三谷三柱神社、熊野神社、羽白三柱神社、田谷垣愛宕神社、山神々社、鎌倉神社、現世武神社、田谷三柱神社(田谷今西の境)、地主神社(今西にありジノシサンと呼ばれる)を合祀す。
境内 二百六十二歩余
末社 稲荷、八幡
祭日 十月十日、祈念祭三月十八日、新嘗祭十二月五日
大正十五年(一九二六)六月十八日供進社に指定せらる。
財産 田八畝廿八歩 山林五反二畝〇七歩
基本金千二百廿三圓
(『上夜久野村史』)

宇徳神社(田谷垣)
祭神…スサノヲノミコト、ハヤタマノヲノミコトほか
明治40年国是により、宇徳神社に熊野神社(両合院)、新宮神社・山神神杜・愛宕神社(三谷)、三柱神社(上三谷)、熊野神社・三柱神社(羽白)、愛宕神社・山神神社・鎌倉神社(田谷垣)、武神社(現世)、三柱神社、地主神社(田谷)を合祀する。
夏祭り…それぞれの小宮にて神事。
秋祭り…御輿1台、太鼓台1台、板生地区を巡行していたが、今は途絶えている。
(『夜久野町史』)


薬師堂(上三谷)
薬師堂(三谷)
境内から弥生土器が出土したともあるが、紛失して今はないそう。
《板生三谷・薬師堂の願かけ石》
小石に穴をあけ、これをお供えして願かけすれば、難聴や耳病に霊験あらたかと伝えられている。
(『夜久野町史』)


真言宗高野山自性院末長谷山瑞林寺(羽白)
瑞林寺(羽白)
長谷山瑞林寺成就院 真言宗 板生村
高野山自性院末寺 開山実栄
境内十七間六間半 古来薮也 薮代銀納
方丈五間ニ四間 庫裡四間半ニ三間 鐘楼 鎮守
正観音郡内廿九番札所
(『丹波志』)

長谷山瑞林詳成就院(真言宗)板生にあり、本尊聖観世音、郡西国二十九番、開基智證大師(丹仮志実栄和尚と見ゆ同人か)
度安元年二月堂宇焼亡 明暦元年権大僧都秀優和尚、現今の堂宇を再建せりと云。郡新四国二十五番の札所なり。
(『天田郡志資料』)

長谷山瑞林寺(板生羽白)
真言宗 高野山自性院末寺
本尊聖観世音菩薩
由緒
開基 智証大師円珍
創建は羽白段の地に藤原初期寛平(八八九ー八九八)の初め開基円珍によってなされたといわれる。寛文年間(一六六一-一六七三)別記には康安元年(一六四八)炎上承応三年(一六五四)別記には明暦元年(一六五五)権大僧都秀優和尚によって現今の位置に移し再建したものであるという。直見高源寺と共に真言寺院として平安の古に建立された古刹であるが、中世期より真宗信仰が弘まるにつれて、何れもより民衆に接しやすい平地に下りて来ている。
瑞林寺仏像は次の様な配置で天台式といわれる。
不動明王
聖観世音菩薩
毘沙門天
古跡 段の奥 寺屋敷
二畝九歩
二畝二十三歩
周囲一帯を合せるとかなり広い面積になり、古寺跡の面影を今も残している
段の観音像
観音立像 台座を合せて八寸五分
金色ぬり 江戸時代の作
四月十一日にまつりを行なう
羽白上地熊谷の地蔵堂
六地蔵 文化十五年(一八一八)文久元酉(一八六一)
南無阿弥陀仏名号碑 四月十日にまつりを行なう
この名号碑は真言信仰とおもわれる
(『上夜久野村史』)

長谷山瑞林寺 板生羽白
真言宗高野派で、高野山自性院の末寺。『丹波志』・『本末帳』では寺院名を「長谷山瑞林寺成就院」とする。『丹波志』では開山を實栄とするが、『寺院明細帳』によると寛文元年(一六六一)の火災によって記録類を焼亡したため開基、創建年代は不詳という。『上夜久野村史』では寛平年聞(八八九ー八九八)智証大師円珍の開基とし、当初は天台宗寺院として開かれ、のちに真言宗に改宗した可能性が指摘されている。
(『夜久野町史』)


浄土真宗西本願寺派教山重規寺(中田)
重規寺(中田)

教山重規寺(板生中田)
浄土真宗 西本願寺派
本尊阿弥陀如来
由緒
天保六年(一八三五)釈浄念師の代に同地カクレ畑に道場として開基された。明治十八年(一八八五)中田部落の大火で炎上した。後現在地に兵庫県和田山町旧東河村の禅寺の建物を移築し、石本隆英師を重規寺中興開山とした。
○明治四拾弐歳(一九〇九)春
法名写録により沿革を辿ると次の様である
初代不詳 昔は一城の武臣タリ
弐代目

(『上夜久野村史』)

教山重規寺 板生中田
浄土真宗本願寺派で西本願寺の末寺。口伝によると天保六年(1835)に道場として開かれたとする。『寺院明細帳』によると明治十一年八月に至り京都府下京区法輪寺住職であった黒田祖禅が住職を兼帯し寺号を移転したと伝える。
(『夜久野町史』)


羽白に中世の古城跡や段殿と呼ばれる居館跡がある。
羽白の段殿(だんどの)とよぶ地は中世地侍の居館跡といい、所伝によれば藤本氏が応仁二年(一四六八)山名氏に滅ばされるまで住していたという。
羽白城址と藤本氏
羽白の藤本株の伝記には、「先祖の段治郎左衛門なる人が、山頂に居城を構えていたが、応仁二年(一四六八)山名軍のために落され、一族落のびて百姓となり、改姓して藤本を称した」ことを誌す系図とほかの文書を残している。
現地の猪子ケ市橋、こだる山谷川の西方、百米の地を段及び段の奥といい、南川をはさんで城山がある。ここが段殿といわれるところで、所謂中世より近世初期にかけての居館址で、伝えられる如く地侍として藤本家先祖はここに住したものであろう。その地には二基の碑がある。同様の文書によれば第六代藤本七右衛門夫妻を記念した碑で、同株の子孫により後世に建てられたもののようである。
第三世、藤本七郎左衛門改名シテ七右 門と称す
第六代、七右衛門家ヲ次キ大庄屋ヲ勉める。及ビ大為に功労ありしかば七右ヱ門死するに及び有馬修より是を賞し金壱封を下賜せらる。
爰に於て碑を建て以て其功労を表し藤本家の先祖(と)す
(『上夜久野村史』)


《交通》


《産業》


板生の主な歴史記録


板生村 タヤ垣 羽白・本村也 今西 三ツ谷 四ケ所也 右同
高六百五十九石四斗貳舛九合
板生村ノ内今西ヨリ但馬国天谷村迄三十二丁弐十間 牛馬道 但シ牛ノ尾峠国境杭迄十三丁貳十間
国境牛ノ尾峠峯疆左右山並尾続峯疆 道境牛ノ尾峠峯ニ杭有
(『丹波志』)


伝説

金鈷山
◎鉄鈷山(板生)但馬出石との境、鉄鈷山系の最北端にあり、標高七一九メートルで当地での高山である。その昔、但馬粟鹿の大明神(兵庫県山東町)が、この山頂で劒をきたえたとか、そのあとが山の上に残っているので「金とこ山」の名がつけられたという。
(『上夜久野村史』)

《鉄鈷山伝承(板生)》
鉄鈷山の頂上付近にある巨岩の上で、粟鹿神社の神剣を鍛えたとの伝承がある。
(『夜久野町史』)

当地周辺の鉱山の歴史は一般には中世からとか言われるが、こうした伝承があるなら古代、それも古墳時代まで遡るのかも知れないものになる。丹波・但馬の建国と金属は深く関係していたように思われる。あまり見ないが「粟鹿神社由緒」が『上夜久野村史』に引かれている。
粟鹿神社由緒には国司文書第二巻朝来郡故事記の部の記事に関連した記事がみられる
崇神天皇十年丹波国青葉山中ニ陸耳御笠ト言フ者アリテ無状ニ人民ヲ賊フ、日子座王頼ニ依リテ之レヲ伐ツ、則チ丹波ノ国ト若狭ノ国ノ界ニ到ルノ時甲胃鳴動シ以テ光耀ヲ放ツ事燃ルガ如ク、茲ニ巌石有リテ其貌ケ甚ダ全甲ニ似タリ、依テ是ヲ名ヅケテ将軍甲岩ト言ヒ又其地ヲ鳴生(ナルオイ)ト称ス然ルニ其賊ヲ逐ヒ給フノ時其採持ツ所ノ裸剣潮水ニ触レ以テ鉄錆ヲ出ス此時??忽チ双ビ来リテ、其剣ノ為メニ貫徹セラレ死ス、之レニ依リテ、其鉄錆自ラ消却シ以テ故トニ復ル依テ其地ヲ爾保ト言フ、其レヨリ皇子官軍ヲ率ヒテ頻リニ陸耳御笠ヲ逐ヒ征へ給フ時ニ陸耳忽チ稲梁ノ中ニ入リテ潜伏ス皇子忽チ馬ヲ進メテ其稲梁ノ中ニ入リ将ニ殺サントス陸耳忽チ雪ヲ起シ走リ飛テ空中ニ遁レ南ニ向フテ去ル茲ニ於テ皇子甚ツク稲梁ヲ侵シテ荒蕪ヲ成ス故ニ其地ヲ志多久ト言ヒ又志多詞ト言フ、亦タ南ニ向ヒテ土蜘、陸耳、正女等ヲ逐ヒテ蟻道郷ノ岸ニ到リ此所ニ於テ土蜘、正女ヲ殺シ給フ、其流血地ニ染ミテ紅ノ如シ依テ血原ト言フ後世之レヲ千原ト称ス、茲ニ陸耳出テ降ラント欲スルノ時、丹波国造、日本得玉命、亦下流ニ有リテ是ヲ遂ニ将ニ迫ラントス、陸耳忽チ河ヲ越ヘテ遁ル則チ官軍楯ヲ列ネ河ヲ守リテ矢ヲ発ツ事蝗ノ飛ブガ如シ、陸耳ノ党矢二中リ、多ク死流シ去ル、故ニ其地ヲ河守ト言フ、又官軍屯セシ所ヲ楯原ト言フ、此時舟壱艘忽然トシテ其河上ヨリ下ル皇子之レニ乗リテ土蜘、陸耳ヲ馳セ逐ヒ、由良湊ニ到リテ土蜘ノ往ク處ヲ知ラズ、茲ニ於テ皇子陸地ニ立テ礫石ヲ拾ヒ占ヒ以テ陸耳ノ與佐ノ大山ニ登ルヲ知ル、依テ其地ヲ號ケテ石占ト言フ又其舟ヲ楯原ノ右ニ祀リ舟戸ノ神ト称ス其レヨリ與佐郡ノ大山ニ到リ深ク捜索シテ陸耳御笠ヲ馳セ逐ヒ出シ給ヒ遂ニ白絲ノ濱ニ到ル此所ニ於テ賊遁ルルニ道無ク海上ニ浮ミ引キ退ク皇子忽チ数十艘ノ舟ヲ集メ、謀リテ其内壱艘ヲ艤装シ諸神ヲ勧請シテ先導トシ稚向ケ責戦ヒ給フニ依リ陸耳敵シ難クシテ遁ル皇子勝ニ乗ジテ軍ヲ進メ玉フ時ニ賊取テ返シ台風ヲ起シ怒濤雪山ヲ又ルガ如ク吹起リ其為メ三昼夜ノ間暗黒トナリ、旦帆柱、砕ケテ徴鹿トナリ舟鉸、離レテ恰モ算顆ヲ乱スニ異ナラズ依テ衆皆気ヲ失ヒ、夢ノ如ク茫然タル所ニ、幻トモ無ク遙カニ空中声有リテ曰ク皇土ヲ?フ賊退治ノ為メニ諸神皆此浦ニ向フト茲ニ於テ官軍大ニ気力ヲ得ナリ此時又ノ平然声有ルト等シク無数ノ鮑浮ミ出テ船ノ鉸トナリ守護シ奉リケル十一年十月三日此所ニ於テ皇子忽チ、陸耳御笠ヲ殺シ給ヒ、後ニ平定ニ帰ス、依テ、諸卒ノ息ヲ憩メンガ為メ、出雲ト隠岐ノ両国ニ一七日ヲ送ル、然シトモ嚢ニ台風ヲ起セシガ為メ海面非常ニ荒レ果テ、大ニ通船ノ便ヲ失フ、是レニ依リ、辛フヂテ磯辺ニ沿ヒ、伯耆ノ国ヲ過ギ稲葉ノ国青屋ガ崎ヲ経テ加路ノ港ニ到リ又、磯ヲ伝ヒテ二方国、雪ノ白浜ニ押シ寄セ諸軍ノ息ヲ続カセ給フ、依テ其地ヲ諸寄ト謂フ、夫レヨリ多遅磨国美含郡鳥志鳴ニ御船ヲ寄セラレ順風ヲ窺フ時ニ磯辺ヨリ世ニ比類ナキ鮑多ク浮ミ出テ白石鳴ノ根ヲ廻ル、見ル中チ、艤舟壱艘忽然ト現レ出タリ此日前二出船セシ
丹波国與佐郡浦嶋ニ皈着スルヲ得ナリ十一月三日本地ニ御船ヲ寄セラレシ時ニ、沿ヒ来リシ艤舟ノ中ヲ窺ヒ給フニ、九穴ノ鮑一ツ有リキ皇子奇異ニ思召シ依テ思ヘラク是レ疑ヒ無ク神也ト比時歌曰空晴テ嵐ニ松ノ響コソ顕レ出シ神ノ心ヨ期チ鮑ヲ御衣ノ袖ニ請取リ鎧櫃ニ納メテ凱陣有ラセラル、尋テ鎮征ノ吠又征討中、種々ノ奇異ナル事共有リシ條々ヲ奏聞シ玉へハ天皇深ク其忠勤ヲ褒賞シ給ヒ住スルニ丹波多遅麿ノ両国造ヲ以テシ亦タ日下部足尼ノ姓ヲ賜ハレ十二月七日而シテ多遅麿ニ降ラセ給ヒテ多遅磨、丹波ノ境ナル東河郷ニ暫ク旅館ヲ構へ給ヒテ、再ビ衆ヲ率ヒテ山陰ノ諸国ヲ迎按有ラセラレ其平定ノ吠ヲ奏シ給フ十一年四月茲ニ到リテ山陰道余リ皇化ニ帰ス御在職年間長久ニシテ壱百四十四年ニ至リ垂仁天皇八十四年九月九日薨御寿二百有余歳、多遅磨国阿波賀郷鴨ゲ端ノ丘陵二サ死サル兆域、東二十八間、西十一間、南十一間、北九間高直径三間九分、周囲五十七間、守戸二畑
因曰九穴ノ鮑ノ朝来郡枚田郷内高山麓ノ穴淵ニ放チ給ヒケルヲ後世ニ到リ赤淵神社ノ相殿ニ細メ以テ崇敬ヲ厚フシ日下部家裔孫及栗鹿、枚田、久世田三色ノ人民ノ鮑ヲ喰フ事ヲ禁ジテ之レヲ畏敬セリ

粟鹿と鮑、アワに何かありそうだが、磯砂山の和奈佐老夫婦もアワから来た者かも知れない。重要な地名だが意味がわからない。アワは青で、青砂鉄、これはスティールが採れる高品質の砂鉄だが、それを意味するとも言われる。
出石神社は天日槍だが、粟鹿神社の周辺もそうした渡来人の足跡が濃い。





板生の小字一覧


板生(いとう)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『夜久野町史』各巻
その他たくさん



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