行積(いつもり)
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京都府福知山市行積 京都府天田郡金山村行積 |
行積の概要《行積の概要》 花倉(長尾)川の上流部、国道176号(通称峰山街道)が通る。この道は古代から中世にかけての山陰道丹後別路であった。今の国道は谷の中腹部を走っているが、古い街道は写真で言えば右手のずっと谷底を走る、集落もそこにある。 中世には佐々岐庄下山保(金山郷)に含まれる、「いつもり」は、南北朝期に見える地名で、康安2年(1362)2月3日付宗吽(割注・大中臣宗泰)所領寄進状(天寧寺文書)に「たんはのくにさゝきしもやまのほうのちとう(地頭)しきなかを(長尾)むらの中いつもり(行積)さいけ(ざいけ)てんはた(田畑)の事」とみえる。これによれば行積は長尾村の内に含まれていたと思われる。 行積村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、延宝5年からは上総飯野藩領。明治4年飯野県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年金山村の大字となる。 行積は、明治22年~現在の大字名。はじめ金山村、昭和30年からは福知山市の大字。 久美浜の今の函石浜には「いつもり長者」伝説がある、紀伊の人としたり伊賀の人としたりするが、あるいはひょっとすると当地の人かも知れない。金山村というように酒呑童子の根拠地かと思われるが意外にも、と言うのか本当の姿は長者であったのかも… 《行積の人口・世帯数》 83・41 《主な社寺など》 六柱神社 「いつもり」の「もり」とは当社のことかも知れないが、当社は「むつもり」のよう、ムハシラ神社と呼ばれている。東西南北と天地の六だと総社のようなものであろうか。伝説では頼光一行が当村に逗留した間、村の開発に手を貸したので、その6人を祀るという。 『丹波志』は、 六所権現 行積村 祭神 祭日 正月二日 九月九日 本社 五尺ニ六尺 高七斗五升除地 場所は小学校の隣。古い名木がある。市指定天然記念物のカゴノキ→やカヤノキがある。 金山小学校跡 学校跡地には老人施設ができている。写真はそれ以前のもので、その門柱や二宮金次郎サンの像などの場所は今は変わっている。 集落はずれにこんな石塔がある、「三岳山御神燈?」と書かれている。この路を左手に行けば三岳山(石塔の右手奥に見える高い山)に登れるそう。 《交通》 《産業》 行積の主な歴史記録『丹波志』 行積村 高弐百六十七石 行積村ヨリ、丹後国小原田村迄二十八丁四十間、牛馬不通、但シ黒神原峠国境迄十七丁、黒神原峠峰疆、左右山並尾続峰疆、道ノ境ハ黒神原峠峰疆、野条村ニ越篠峠、笹ノ峰ノ南ナリ
行積の小字一覧行積(イツモリ) 芦谷 井関 イノ元 家ノ脇 家ノ下 岩手山 岡 岡下 岡ノ峠 岡ノ辻 尾ノ口 尾佐 尾佐下 上ケ原 上由利 川原 腰前 才根 下田 外ケ岶 高杉 竹岶 仲瀬 仲尾寺 根村 古溝 松坂 牧ノ内 的場 宮ノ下 宮ノ谷 妙見 向根 森ケ谷 森ケ端 モガリバ 山ノ谷 矢ノ谷 矢名谷 柳田 若宮 家ノ向 芦谷 荒田 家ノ向 岩手山 上ケ原 芋土原 尾佐 尾ノ口 尾ノ口イ 大谷 落シ ヲゝヘライ 隠ケ谷 小日後 惣弁当 外が岶 高杉 竹岶 玉子貝 根村 的場 松阪 宮ノ谷 森ケ谷 矢ノ谷 矢名谷 山ノ谷 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『福知山市史』各巻 その他たくさん |
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