鍜冶(かじ)
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京都府福知山市鍜冶 京都府天田郡福知山町鍜冶 |
鍜冶の概要《鍜冶の概要》 市街地のどこからも行きにくい説明しにくい所に位置する。上紺屋から入らないと北向き一方通行、東は上新のアーケード街。かつては刀鍜冶などが居住した町。 鍛冶町は、江戸期~明治22年の町名。明治初年~22年は福知山を冠称。江戸期は福知山城下15か町の1つ。町地の西南隅、上・中級家臣屋敷地近くに設置された南北の町並み。西には武家地と町地を画する四ツ切門があった。 内記郵便局の裏に「森吉稲荷」があり、ここに四ッ切門があったという。案内板がある。 四ッ切口跡 四ッ切口は鍜冶町口門とも呼ばれ、内堀をはさんで大膳丸の北側にあり、武家屋敷の堀端町と町屋敷の鍜冶町を区切る木戸(門)が設けられていました。木戸はほかにも職人口・御霊口等があり、江戸時代のはじめにはすでに設けられており、治安対策の役割をはたしました。夜間は通行できませんでした。 「四ッ」は時刻のことで、四つ時(午後10時)に閉じられるためにこの名があった。この地はまた町方の軽犯罪者に罪を言い渡したり、免じたりする場所であった。 有馬豊氏時代(慶長-元和)の福智山城之絵図には町名はなく、稲葉紀通時代(寛永-正保)の福知山城下図に初めて「カヂヤ町」とある。鍛冶町は武家の刀鍛冶を中心にした町。文政2年(1819)7月鍛冶町より出火した火が大火となり、城下600軒を焼いた。この火事以降、城下は藁葺屋根が禁止となった。 明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年福知山町の大字となる。 鍛冶は、明治22年~現在の大字名。はじめ福知山町、昭和12年からは福知山市の大字。 《鍜冶の人口・世帯数》 104・51 《主な社寺など》 《交通》 《産業》 《姓氏》 鍜冶の主な歴史記録伝説鍜冶の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『天田郡志資料』各巻 『福知山市史』各巻 その他たくさん |
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