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丹波の

上天津(かみあまづ)
京都府福知山市上天津


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京都府福知山市上天津

京都府天田郡下川口村上天津

上天津の概要




《上天津の概要》

牧川と由良川が合流するかなり広い集落で天津小学校がある一帯、勅使・石本・波江に分かれ、それぞれ自治会を構成している。
波江集落入口の案内板波江(はえ)というのは、ひめゆり学徒隊の南風原(はえばる)陸軍病院がよく知られているように、南方海人系の言葉である。南風のことではなく、崖の海岸の意味かとワタシは考えるが、当地にこうした地名があるのは、天津のアマは海人の意味と伝えているように思われる。海人津の意味かと思われる。牧の寺浦遺跡からきは、土錘の散布が見られる。
川の漁と後に水陸交通の要地ということ、背後の山は金属を産するのでそれを目当てに渡来人たちも住み着いた。どこでもそうだが、天田郡一帯でもそうした歴史があったかと思われる。
地内に十五・十九・下十九・八ケ坪・石ケ坪などの小地名があり、古代条里制の遺構とも考えられている。
南北に国道175号が通り、西隣の牧を国道9号が通じ、府道筈巻牧線が地内を北東から南西へ貫通して両国道を結ぶ陸の交通の要地。北方の丹波・丹後の旧国境付近の由良川の流路がきわめて狭く(川そのものはもっと狭いがこちら側の山と対岸の山との距離が約200m)、洪水の時はここが堰になり下流へ排水しにくく、そこより上流の水位が急上昇する洪水の常襲地であり、天津の田圃は全面冠水する。このため地内東部の由良川沿岸は桑園になっていた。特に明治29年・同40年・昭和28年には大きな被害を受けたが、今は新しく堤防が建設されている、これで本当に洪水が防げれば結構だが、由良川洪水はナミなものではないので、現代人の知恵でビシと防げるかは今後の実際が証明するだろうし、こちらが防げれば、あちらの弱いところでは破れるの状態になるかも知れず、全流域全域で万里の長城でもできなかったのように切れ目なく完璧に浸水を防ぐというのは、大借金を子孫に残すというなら知らず、限られた予算の中の自然に対してウカツでテキトーなムレと成り下がったうえに、ゼニに弱く、未来が予見できるはずもない科学者とやらを信仰している現代人にはそう簡単なハナシではない。福知山の歴史とは、その土地柄から大洪水の歴史のようなもの、切っても切れない関係で、これは一つ二つのハードだけでは防げまい、疑わしきはクロと見て常日頃から愛情こめたキメ細かい対応ソフトが市民全体で作られ続ける市民目線による防災が欠かせまい。原発も同じで国や発電屋と自治体当局のみのヤシみたいな連中だけで安全が確保できたりするものではない。それはヤシ安全で、実際にはクソの役にもたつはずもないことはフクシマが証明したとおり。
上天津村は、江戸期~明治22年の村。はじめ「正保郷帳」に見える天津村1、280石の一部。17世紀中葉に分村成立。漆ケ端村上天津村の枝郷だった。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下川ロ村の大字となる。
上天津は、明治22年~現在の大字名。はじめ下川ロ村、昭和24年からは福知山市の大字。

小字「勅使」は、源三位頼政の鵺退治の時、紫宸殿に鵺が現れると諸国から献上した金灯籠はすべて消えたが、当村の灯籠だけは消えず、無事鵺を退治できた。その褒賞のためここへ勅使が下ったのがもとで地名が起こったと伝わる。
金谷段(かなやだん)は、昔は「釜屋段」と称し、前記献上の灯籠を鋳造した鋳物師の住んだ所という。
平束(ひらつか)は、「丹波志」に「奥寺古趾 上天津村
古趾平(ヒラ)ヅカイト云(平使(ヒラツカイ)ヲ誤レリ)ニ行基僧正開基ノ手にナリト云礎残レリ阿弥陀堂アリ仁王田ト云字アリ門ノ趾アリ
平ツカイハ平使(ヒヅカ)ナリ勅使ト云所アリ一説ニ此所鋳物師ノ名アル者住セリ自京師?共不至依之勅使有リ本使ノ宿セシ所ヲ云トナリ」と記している。

《上天津の人口・世帯数》 308・125


《主な社寺など》
石本遺蹟
KTRの線路敷設に先立って行われた発掘調査で明からなった遺蹟で、だいたい「牧駅」の周辺の、牧と石本の中間で両方にまたがる地、駅前広場や高架の線路になっているので発掘前の地形はもうよくわからない。調査は昭和59(1984)年に行われた。
調査報告書より↓


石本遺跡は、由良川と牧川の合流点近くで発展した弥生時代から奈良時代のムラの跡。近くには牧の後期古墳群がある。発掘調査によって住居跡や墓跡を発見。ムラの範囲は時代によって変化するが、川沿いのわずかな高まりに居住域が作られ、低地を田畑に利用したものと考えられるが、絶えず洪水の危険にさらされた土地にある。
古墳時代の溝からは大量の木製農具が出土した。加工品の点数は182点におよび、農具、工具、馬具、狩猟具、祭祀具、装身具、履物など多種にわたる。これら木製品は概ね6世紀後半から7世紀前半のもので、古墳時代のムラの様子を伝えているという。


天満神社
天満神社(上天津)
祭神は菅原道真、旧村社。上天津の産神で近世には勅使天満宮と称した。天津文書に載せる縁起に、
「抑々当社天満宮事ハ、北野天神同社也、延長八庚寅年六月廿六日、京都雷電厳敷数多落ル、其時丹波国大夕立ニテ雷電数多落ル、是ニ依而村々ニモ石塔ヲ建テ菅家公ヲ崇メ奉ル、其後藤原時平卿家来末孫ノ浪人、当国へ来テ其石塔恨ミテ、追ニ取テ川ヘ投込ト云々、又其後ハ石塔之顔(ママ)チ、川中ニ出現シ給フ、去人其石塔之顔チヲ取上牧上尻ニ南堂ノ木云フ榎木有テ、其木ノ下(モト)ニ置奉ルヲ、荒河庄五郎ト申者、勅使平束ト云フ所ニ小社(ホコラ)ヲ建立シテ、勅使ノ産神ト崇メ奉ル也、其後天正年中ニモ再建スト云、又万治年中ニ修覆致ト云」とあるという。
菅原道真というより天の神様を祀っているということではなかろうか。それもイカヅチの神のようである。
天神 川口郷 上天津村
祭神 菅家  祭列九月廿五日
本社 三尺五寸 四尺 拝殿 二間二間半
境内 竪十間横八間半 除地
(『丹波志』)

祭日・六月二十五日、十月十七日。氏子・四十八戸。末社・高良稲荷、猿田彦神社
(『天田郡志資料』)


檀那寺は牧の曹洞宗光泰山永明寺


《交通》
国道175号



《産業》



上天津の主な歴史記録


『舞鶴市民新聞』(030117)(写真も)石本遺蹟出土の下駄
由良川考古学散歩-104-
二の字二の字の下駄の跡
 雪の朝二の字二の字の下駄の跡
 田ステ女の有名な句である。俳仙といわれた丹波・柏原出身のステ女がわずか六歳のときに詠んだ句だそうだ。この天性の豊かな感性がとらえた情景の妙、ただもうお見事というほかない。ステ女の生きた江戸時代は下駄が広く普及し、多種多様な下駄が履物として愛用され、「下駄文化」が花開いた時代であった。だから、雪の日にはそれはもういっぱいの二の字で埋めつくされたことだろう。
 さて、その二の字のルーツを求めて時代を一気に遡ろう。写真は福知山市石本遺跡から出土した下駄である。石本遺跡は北近畿タンゴ鉄道宮福線の牧駅の辺りで、かつての調査において古墳時代後期の溝跡から多量の木器が出土している。この下駄もそのひとつで、今から千四百年ほど前のもの。「連歯下駄」といって、足をのせる台と歯を一木から削りだしたもので、古いタイプの下駄である。別材でつくる台と歯とを組合わせたものを「差歯下駄」というがそれが現れるのは中世に入ってから。
 この石本遺跡の下駄、寸法は長さ二十二センチ、幅十センチ、高さ五センチ、台部厚一・五センチ。鼻緒を装着するための孔が、台部の前に一孔、後に二孔、計三孔ある。見てのとおり普通の下駄である。ただ鼻緒がとれてなくなっているだけである。下駄というのは古墳時代から
あんまり形が変わってないね。
 いやまてよ、よく見ると、前の鼻緒孔(下駄用語で「前壺」という)の位置が左側に片寄っているぞ。そう、いい所に気が付いた。古墳時代の下駄は前壺の位置が左右どちらかに片寄っている、すなわち左右の足の区別があるのだ。これは左側に寄ってるから右足用なんだね(わかる?親指の位置だね)。今の下駄のように前壷が中央に位置して左右の区別がなくなるのは奈良時代以降のことだ。ところで、石本遺跡の溝跡からは全体の形状のわかる下駄が写真のものも含めて計三点出土しているが、どういうわけか三点とも右足用である。古墳時代の人は片足しか下駄をはかない、なんてことはないから、どこへいったんだろう片方の下駄は。
 ともかくも古墳時代には下駄はあった。ではそれ以前はどうか。古墳時代前夜、三世紀ごろの日本を記した中国の書物『魏志』倭人伝には「皆徒跣(=はだし)」とある。はたしてそうなのだろうか。未開人と決めつけた固定観念で書かれた記述のようにも思える。なぜなら、弥生時代の考古資料として「田下駄」があるからだ。田下駄は水田耕作に使用する農具の一種で、純正の下駄とは言いにくいが、構造的には下駄の先駆的なものとも考えられる。田下駄の存在は下駄の起源を考える上にも重要で、下駄は古代中国では「屐(げき)」と書き、本来ぬかるみを歩く履物をさしていたのである。
 石本遺跡の人々も下駄を履いてぬかるみを闊歩していたのだろう。雪に二の字の跡をつけていたのだろう。雪の二の字は溶けてなくなるが、ぬかるみに刻んだ二の字の跡は後世に残ることもありうる。いつか発掘でみつかるといいね、二の字二の字の下駄の跡。(近)



『舞鶴市民新聞』(070209)(写真も)舟形木製品(上:石本遺蹟、下:峰山古殿遺蹟)
由良川考古学散歩-153-助け舟
「…わたしは今、毎日の暮らしにまったく疲れ果て、心身ともに病気がちである。いったいこれは、何か悪いものにでも祟られているのか、その原因をつきとめるべく、手当たりしだいに占い師や祈祷師にすがってみた。効果があるかどうかも分からないまま、ともかく言われたとおりに、いろいろやってはみたが、苦しみは増すばかりで、なんの安らぎも得られなかった…」
 ほんと、お気の毒ですね。でもこれは、現代人の叫びではありません。なんと、奈良時代の人の嘆きなのです。有名な歌人・山上憶良が詠んだ沈痾自哀文(万葉集巻第五)の一部を現代語風に綴ってみました。
 それにしても、世間のシガラミを生きていく中でいろんなストレスを抱え込み、悩み疲れてしまうのは、古代も今も変わらないのですね。だから、癒される手段が必要なわけで、それはもう、藁にもすがる思いなのです。
 そこで、お助け舟というわけで、ひとつご紹介させていただきましょう。写真は、福知山市石本遺跡から出土した舟形木製品です。これは、古墳時代後期(六世紀)のもので、お呪いやお祓いに使う小道具です。この木製の小道具には舟形のほかにも人形、馬形、刀形などがあって、石本遺跡からもいくつか出土しています。
 ほらね、古墳時代の人だって悩んでいたのですよ。毎日、古墳造ってハッピーに暮らしていたわけじゃないんだな。
 つらいことはお舟に浮べて流しましょう、ってわけで、こんなものこしらえていたんだろうね、きっと。当人にしてみれば、これでも必死なんでしょう。
 だからさ、現代の老若男女のみなさん、わたしたちも、自分の舟形でもこしらえて、それに辛いことや悲しいことを詰め込んで、みんな水に流そうよ。
 困った時の助け舟とはよくぞ言ったもの。遺跡から出土する古代の遺物といえども、このようにみなさまのお役に立つ時がきっとあるのだと私は信じるのです。 (近)


伝説


『福知山の民話と昔ばなし』
鬼がおいていった山
牧川が由良川と合流する手前、左岸にポツンとまん頭を置いたような山があります。地元の人達はこの山を、地光寺山と呼んでいます。
以前に、この山の頂に地光寺という寺があったということから、この名前がついたといいます。
むかし、むかしのことです。庵我の鬼が城に赤鬼と青鬼が住んでおりました。ある日鬼たちはちょう度真向いの牧の愛宕山が出ぱっていて、眺めが悪いので「あの出っぼりを取って来て、鬼が城へ引っ付けようやないか」と相談しました。そして、赤鬼・青鬼は、牧の愛宕山へ来て、山の半分をちぎって、荷って帰りかけました。
「ヨイショ!・ヨイショ!」……ところが、この山重くて重くて、肩が痛くてたまりません。鬼たちはちょっと休もうと、杖にした鉄棒に「うん」と力を入れました。
さて、鬼たちは、ひと休みしてから又運ぼうと鉄の杖を抜こうとしたが、なかなか抜けません。やっこらさ引き抜いたと思ったらあとには大きな穴がポッカリとあいてしまいました。
鬼たちは、大きな山を荷って、どうやら石本まで来ました。もうとても重くて、鬼が城まで運べそうもありません。「もうとてもかなわん。ここに置いといて帰ろうや。」と荷なって来た山を投げだしたまま、鬼が城へ帰ってしまいました。この残して置いた山を石本の人は、「地光寺山」といい伝えています。
そして、一休みした時、鉄棒を抜いたあとに出来た穴は、牧の芦田家にあった深い深い井戸になったと伝えられています。(文責 芦田 重治)





上天津の小字一覧


上天津(カミアマヅ)
井口 岩才 家寄 石ケ坪 石本 石本前 石本下 石本川原 打木 江寄 小川尻 樋ノ向 岡ノ木 オサノ町 川原田 金谷段 北小川尻 佐古 界川 菖蒲谷 島田 清水 正田 正田道ノ下 下十九 十五 十九 素ノ掛 竹ノ端 茶屋ケ坂 丁田 地光寺 天王口 天神前 天神上 土居崎 中土居 中島 中川原 八ケ坪 バシヨウメ 平束(ひらつか) 兵白 丸野 水汲 南小川尻 山根 矢田 安井前 奴田(やつこだ) 薮ノ下 ユリ フロヤ 丁ノ顔 桑ノ掛 下河原 椿木原 入谷 イノギ 大源 コモ谷 下山根 菖蒲谷 地光寺 椿原 挟間山 東谷 別所 ユリ

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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