京都府福知山市上紺屋
京都府天田郡福知山町上紺屋
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上紺屋の概要
《上紺屋の概要》
アーケード街の新町通りの一つ西側の通り、両側。次の交差点あたりまで、その先は鍜冶町。広小路を挟んで反対側も当町で、数件先から下紺屋となる。
有馬豊氏時代(慶長-元和)の福智山城之絵図は、のちの上下の紺屋町を上中下に三区分して描くが、上紺屋町の町城は下魚屋町通(のちの広小路)より南で変化はない。染物屋などが集住した町だが、鍛冶町から続いて鍛冶職や火薬職なども住んでいた。当町から出火した例は多く、明和元年(1764)7月13日には上紺屋町より出火、43軒を焼失したのをはじめ、文化4年(1807)3月22日の大火では城下722軒、由良川対岸の中村151軒、池部村120軒を焼いた。
上紺屋町は、江戸期~明治22年の町名。明治初年~22年は福知山を冠称。江戸期は福知山城下15か町の1つ。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年福知山町の大字となる。
上紺屋は、明治22年~現在の大字名。はじめ福知山町、昭和12年からは福知山市の大字。
《上紺屋の人口・世帯数》 124・70
《主な社寺など》
《交通》
《産業》
《姓氏・人物》
大本教の教祖・出口なおの生誕地
出口なおと大本教
出口なおは天保七年(一八三六)十二月十六日、福知山の上紺屋町に桐村五郎三郎・そよ夫婦の子供として誕生した。天保年間といえば全国的に飢饉が多く、ちょうど天保七年の飢饉は特に激しく、西日本では餓死者もあいつぎ、翌年になれば有名な大塩平八郎の乱が発生した。当時の農学者、佐藤信淵はこのころの当地方の状態を彼が綾部藩を巡回しまとめた『巡察記』に、当地方は貧窮で出稼ぎも多いところといっている。こんなときに福知山藩では藩政改革を行ない厳しい倹約令や商業統制を実行し、万延元年(一八六〇)の大一揆(市川騒動)を招くにいたった。したがって出口なおが誕生したころは世情の不安の最高潮に達したときともいえるのである。
桐村家は大工業を営み、五郎三郎の父、祖父はかなり腕のたつ大工であったらしい。現、下紺屋の浄土宗法鷲寺を菩提寺としており、現在も十基ほどの石塔を残し祀られている。なおの生れたころより桐村家は激変していった。天保八年(一八三七)祖父の死、なおの六歳のときの父の転職と十歳のときの死は、母親そよに一層の苦労をかけることになり、しだいに一家の窮乏が深まってきた。したがってなおも父の死後より十七歳までは奉公に出て家計を助けた。十一歳から十三歳までは上柳町かな屋新兵衛宅に、十四歳から十五歳は呉服商の港屋重助宅と饅頭屋の泉屋清兵衛宅に、十六歳から十七歳は米久呉服店の中井久兵衛宅で奉公した。嘉永五年(一八五二)九月、なおは奉公をやめて母のそばで働らき生計を助けることにしたようである。この奉公期間中に福知山藩から孝行娘として表彰されたという。
なおは嘉永六年(一八五三)、十八歳のとき、出口政平・ゆり(なおの叔母)夫婦に子供がなかったので養女として迎えられた。二十歳のとき、中筋村より聟の政五郎を迎えた。政五郎は腕のたつ大工であったが、酒と芝居と洒落ずきの明るい人気のある気楽な人物であったという。そのため金銭的にも何かと不自由が生じ、家はしだいに没落の一途をたどった。明治時代には一層苦しくなり、明治五年(一八七二)には二十年近く住んだ家を売却し借家へ移らねばならなかった。これから、なおは生計を維持するために豆腐・饅頭をつくって販売した。明治九年(一八七六)、坪内村の売り残していた土地に夫婦で材木を運び小さな家をつくり移り住んだ。ここが明治二十六年(一八九三)までなおが住んだ家であり、なおが神がかりしたところでもあった。それはともかく、なおは多くの子供を育てた。家計の困難は一層すすみどうにもならなくなったという。明治十六年(一八八三)の旱魃、明治十八年の全国的飢饉では「(前略)京都二條外堀には投身多く、為めに交番所を設けらる、且同府下は乞食多く入り込み、昼は橋上に袖乞、夜は橋上に露臥し、又貧のため棄子多し」といわせる惨状をつくり、併せて明治十四年より松方正義(大蔵卿)の財政改革が行われデフレーション政策下で庶民の生活は大きく疲弊したときに相当する。福知山でも明治十七年(一八八四)五月、天田郡の農民の借金返済に関する大きな騒擾が発生し、寺町の海眼寺以下数カ所に拠って集会をもったのである。なおは糸引き・紙屑買いなどで生計を維持したという。
明治二十年(一八八七)夫の政五郎が死んだ。明治二十五年(一八九二)正月、なおははじめて神がかりした。元日に霊夢を見、五日から十三日間神がかり状態になり、その間、断食状態のなかで神との問答をくり返し、水垢離をつづけたというのである。なおの狂気を心配した人々が法華僧に頼んで祈祷してもらったり、福知山の金光教会に占ってもらったりした。翌二十六年の二月から三月にかけて三回目の神がかりが生じた。このとき神がかったときの言葉を釘で柱などに書き続けたのが筆先の始まりといわれている。
明治二十七年(一八九四)、なおは亀岡の金光教や京都市河原町の天理教を訪ねると同時に近隣の人々の病気治しを行い、そのための神を祀るために大島景僕の離れ座敷を借り最初の広前を開いた。しかしこのなおの教団は金光教の艮の金神に立脚したものであった。したがって、こうした金光教との関係は明治三十二年(一八九九)までつづいた。
そして翌年、上田喜三郎がなおの五女すみと結婚して出口家に入り王仁三郎と改名し、彼の手によって新しい教団組級と教練拡大の方向がうち出されて全国的な宗教活動の教勢が生みだされていったのである。しかし何といっても、なおの苦難の生活体験は明治という近代国家の成立していくなかで生じたもので、その体験が大本教の原点でもあったように思われる。大本教の展開、王仁三郎の業績は多くの出版に譲るとしてなおの前半生についての概略にとどめる。
(『福知山市史』) |
三千世界を水晶の世に ●出口なおと大本
宗教法人大本は、明治二五年(一八九二)綾部にて出口なおによって開かれた神道系宗教である。
なおは、天保七年旧一二月(一八三七年一月)福知山の上紺屋町で生れた。その頃から生家が没落し、九歳で商家へ奉公に出て家計を助けた。一七歳頃、叔母が跡を継いでいた綾部の出口家の養女となり、一八歳で大工政五郎と結婚、三男五女を生んだが、なおが五〇歳のとき夫と死別。苦しい家計を支えるため、なおは糸引きや饅頭売り、紙屑買いなど昼も夜も働き通した。その上、子供たちのなかから絶縁者や家出行方不明・自殺未遂・発狂者を出し、「地獄の釜の焦げおこしとは我のことか」と、不幸のどん底の人生に耐えねばならなかった。
明治二三年、三女ひさの狂乱、続いて長女よねの発狂など心労が重なり、同二五年旧正月、なお自身が神がかりとなり、神の言葉を口走るようになった。座敷牢のなかでろくろく字も知らないなおが、釘で柱に書いた神の啓示が 「おふでさき」(神諭)の始めで、以後大正七年(一九一八)昇天するまでの二七年間に多くの「おふでさき」を残し、大本の根本的な宗教観を示した。その内容は、天地創造、神の経倫、神と人とのかかわり、日本民族の運命と変革の予言、人類への予言と警告などであるが、これらを通じて一貫する中心的な考え方は、「世の立替え立直し」 である。「いまの世は強い者がちの悪魔と金ばかりの世」「これでは世は立ちゆかぬから艮の金神があらはれ三千世界の立替え立直しをいたすぞよ」そしてこの世を「さっぱりさらつ(新)にいたし 三千世界の大せんたく大そうじを致し すいしょう(水晶)の世にいたす」というもので、大本はそのための神の御用に奉仕するために現れたのだと言っている。
当時は、明治政府が推し進める政策の裏で、多くの民衆が貧困と犠牲を強いられていた。大本は、明六一揆や自由民権運動などの「世なおし」精神を受継ぎ、終末観による民衆救済と平和をかかげた新しい宗教として受け入れられ、その活動は、底辺の苦しさを自ら経験したなお自身の必死の抗議と抵抗であった。やがて、なおの五女すみと結婚した出口王仁三郎(亀岡市曽我部町出身)が、「おふでさき」をもとに八一巻の『霊界物語』を著し、大本教義の聖典として体系化した。また教団組織を拡充し、綾部の在地的な小教団から全国的な大宗教教団へと成長していった。こうして大本は、全盛期には信徒三〇万・別院二七・分院三九・支部約二、〇〇〇を超える組織に拡大したのである。
しかしその革命的な思想のため、大正一〇年・昭和一〇年(一九三五)の二回にわたり、国体の変革を企図する「邪教」として弾圧を受け、幹部の逮捕、神殿・本殿の破却など壊滅的打撃を受けた。
戦後復活し、戦前以上に隆盛となった。特に「お照らしは一体、世界は一つ」と万教同根・人類愛善を訴え、二度の世界大戦を再び繰り返さないように世界連邦運動に積極的に取組み、世界平和を願う宗教運動を展開している。
(『福知山・綾部の歴史』) |
まともに暮らす庶民が苦しむのは、明治近代国家の成立にある…、金を持つ強い者勝ちの世界にある、庶民は弱いのだから、すべてがしわ寄せられ、こんな苦しみや犠牲や抑圧を受けることになる。世の中がイカレている、それにも気付かぬクソどもの強権支配にある。カシコイ。何のまともな教育を受けたわけでもないのに、しっかり世の中のヤシを見抜いている。近代国家とかぬかすの権力に大弾圧を受けながらもその教えを曲げることはなかった。弾圧をする側にいたり、強い側に寝返ったり弾圧に負けたようなクソどもが、口先では日本をよくするとか大ウソを言っているが、それはムリである。
近代化遺産とか大宣伝してもらい、それにのせられ踊らされることしかできない、彼女よりははるかに高度な教育を受ける幸運に恵まれながらもナチャケナイばかりのアホみたいなもんどもと違う。人間として本当の意味でカシコイし立派、こうした智恵ある人が増えて多くなれば世の中はもう少し住みよくなることであろう。。
2018年は没後100年となり、記念事業など計画があるという。
『京都新聞』(2017.7.12)(写真も)生誕地に残る「産湯の井戸」↓
*大本の出口なお開祖 来年没後100年*
*「産湯の井戸」保存・発信へ*
*福知山「人柄しのばれる形に」*
大本の出口なお開祖(1837~1918年)が生まれた福知山市上紺屋の土地を、宗教法人大本(本部・亀岡市)が取得した。
大本は大正-昭和期、政府による2度の宗教弾圧で、開教の地の綾部市や亀岡市の神殿が破壊され、開祖にちなむ遺物は少ないという。土地にはゆかりの「産湯の井戸」が残り、大本は没後100年の来年に向けて保存整備し、開祖生誕地として発信していく。
出口開祖は、大工の桐村五邸三郎の長女として福知山で出生し、綾部市の出口家の養女になる19歳まで過ごした。夫の病死などを経た1892年、同市で開教し、人類の将来への予言・警告などの「お筆先」を記した。出口王仁三郎教祖と布教活動を始め、教えは全国に広がった。
生誕地は、市街地の新町商店街近くにあり、大本が昨秋までに約450平方㍍の土地と建物を取得した。大正時代に別の人物に建て替えられた建物は、老朽化のため取り壊したが、出口開祖の産湯に使われた井戸は唯一保存した。今も水が出るといい、大本は井戸を「宝物」とし、屋根や顕彰碑、案内板などの設置を検討している。
宗教法人大本は「仰々しい建物を建てるのではなく、開祖の素朴な人柄がしのばれる形で整備したい。開祖が福知山で生まれたことは、市民に知られていない。井戸を永久保存していき、生誕地を知っていただければ」としている。 |
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