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丹波の

上佐々木(かみささき)
京都府福知山市上佐々木


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京都府福知山市上佐々木

京都府天田郡三岳村上佐々木

上佐々木の概要




《上佐々木の概要》

佐々木川の最上流部で、北は三国山(577m)を経て兵庫県出石郡、西は夜久野町に接する。三国山は明治35年の国県境改訂まで丹波・丹後・但馬の境を占めていた。
中世には佐々岐庄上山保の地。
上佐々木村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、延宝5年から上総飯野藩領。下佐々木村は当村枝郷、中佐々木村は当村の内とされる(天保郷帳)。但馬国に羽柴秀長が入部したのに伴い福知山から佐々木谷を通り久畑へ抜ける往還路が定められ、当村には本陣が置かれた(威光寺文書)。本陣のほか旅籠・商家もあった地内小野原は但馬国出石方面と雲原方面の分岐点にあたる。集落は同地のほか三岳山麓の野際(のぎわ)と、仏坂峠近くの仏坂に形成されていた。野際には三岳神社の御旅所があった。三岳信仰の盛んな時には山伏の宿坊がありにぎわいを見せたという。
万延元年(1860)に専売制の撤廃などを要求した福知山藩市川騒動の影響をうけた飯野藩領五千石騒動の廻状は、強訴相談の集結地に野際の千ケ原を指定していた。明治4年飯野県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年に三岳村の大字となる。
上佐々木は、明治22年~現在の大字名。はじめ三岳村、昭和30年からは福知山市の大字。


《上佐々木の人口・世帯数》 109・57


《主な社寺など》
当集落の東に三岳山(839m)がそびえ、大国主命を祀るという三嶽神社(本来は蔵王権現を祀る)が鎮座する。大江山(千丈ケ岳)は832mだから7mぱかり高く、このあたり一の高山。
野際に三嶽神社に奉仕する神人がいて、山伏の宿があり、今も農家に、「何々坊」と称する家が数軒あるという。
産土神は地内小野原の小松神社で、その隣に日蓮宗京都本圀寺末法久山蓮秀寺がある。

三岳山
三岳山(福知山市)
姿のよい高山(天田郡No.1で839m)、写真の正面山麓右手あたりにかつて鉱物を採掘した廃坑があり、俗にマプ谷という、下マブ谷、マブ谷、マブ谷口などの小字名のマブは漢字で書けば間歩で、石見銀山でも、地下の鉱物を掘り出すための穴というかトンネルというかを間歩と呼んでいた、夜久野町今西中にカナマブという小字地名があるが、坑道などと呼ぶのは明治になってからである。鉱山であり、鬼退治伝説の山で、修験と密教道者の修業の信仰の深く敬うべき山であった。
三岳(みたけ)という名は御岳(みたけ・おんたけ)・弥山(御山・みせん)などと同じようなことで修験系の道場の山で敬意をこめてこう呼ばれたためと思われる。山自体が信仰対象であり修業の場で、上の方は女人禁制であった。三岳と呼ばれるようになる以前の本来の名はたぶんササヶ嶽とかいうのではなかろうか。
写真右手中腹に蔵王権現(今の三嶽神社)、山頂に奥宮の白山権現が祀られる。
密教と修験道の道場としての三岳山
 三岳山(八三九メートル)は、北丹波では最も高く山容も偉大で付近の群峰を圧している。人間も時代が古くなるほど自然に対し神秘感を覚え、いろいろ災害に対する畏怖感と呪術的信仰にかられるものである。
この山ろくの三岳地区に残る「三岳山蔵王権現之由来之覚」には次のように書いている。
 蔵王権現ハ孝徳天皇之御字大化年中ニ 丹波国天田郡佐々岐之庄三岳へ分入被遊?所ニ 跡ヨリ役之行者尋来リ 三岳之岩戸へ己け入 三七日之勤行ニ而 一七日(注、一週間目)ニ当而地蔵菩薩篭守之御前出世志給ふ 二七日ニ毘沙門天勝手ノ御前出世志給ふ 七尾七谷目ニ蔵王堂建立ニ而御い巳ひ(注、謹しみ祭り)被遊?故 役行者ノ開地と申伝?
とある。
 すなわち三岳山ではかの大化の改新のころに、蔵王権現が降っており、後より役ノ小角がたずねて来て、三岳の岩戸へ分け入り、三七日の行を行ったところ、地蔵菩薩の垂跡神である籠守(子守)明神、毘沙門天のそれである勝手明神、最後に釈迦如来のそれである蔵王権現が現われたので、岩戸からいくつもの尾や谷を越えたところに、蔵王堂を建てて祭ったというのである。この三神は大和の大峰山にも同様に祭られている。この書き物はもちろん後世にかいたものであるが、いつのころからかこのように信じて来たものであろう。役ノ小角は諸国の高山を跋渉して難行苦行をし、蔵王権現の威神力を感得したというが、このことは、わが国に修験道が盛んになる端緒となった。
 後奈良時代をへて、平安時代の初め、延暦二十四年(八○五)に、最澄が天台宗を、翌大同元年(八○六)に空海が真言宗を伝え、いわゆる密教を起こすと、日本固有の山岳信仰と、仏教でも重んずる山林修業に、さきに述べた役ノ 行者以来の山岳修業とが合わさって、修験道はますます盛んとなり、平安時代から鎌倉・室町、更に近世まで続いて行われたのであった。これは仏教の一派修験宗となり、難行苦行とともに呪文を論し、祈祷を行い、除厄治病を業とするようになった。修験者はいわゆる山伏である。一説には中国から移入された道教の影響もあったという。小角の後、円珍がこれを伝え、醍醐天皇の世(十世紀初)に真言宗の聖宝が三宝院流を開き、堀河天皇の世(十一世紀末)天台宗の増誉が聖護院流を開き、両者ともに進行方向は反対であるが、大和の大峰山(山上ヶ岳〔八三九メート〕)と紀州の熊野に参拝するのであった。
 福知山市の三岳山は、おそらく平安時代から修験道の道場に選ばれていたものらしい。というのは、この三岳山を取りまく、中世の佐々木荘一帯は、密教の聖地となり、鎌倉時代には、天台宗比叡山延暦寺の一坊妙香院領となった記録があり、一方その頂上近くに祭られている蔵王権現社(今の三岳神社)の別当職には、その山腹の字喜多の宝寺院(廃寺)や、金光寺や、佐々木の威光寺などが、こもごも任ぜられたようである。後の三寺はともに真言宗高野山末である。別項、平安時代の文化財の項でも記述している通り、そのうちの藤原(平安)時代に属するものは、ほとんど三岳山麓の三岳地区・金谷地区及び金山地区に遺存し、地方的ではあるが、この地区が当時代、仏教文化の中心地であったことを物語っている。
 三岳山上には岩場があって行場に適する。なお姫髪山の頂上南斜面には、いわゆる「大門の行者さん」が祭ってある岩場がある。三岳山は本来御岳(みたけ)山であって、頼光の「見立て山」ではなかろう。氷上郡市島町の神池寺、綾部市の弥山、舞鶴市と高浜町の間の青葉山(松尾寺)などと、中世には山伏が山から山へと修業をつづけたのであった。江戸中期の「丹波志」には、三岳山は「本社ヨリ上ハ女人結界」とある。結界とは修行を妨げないための出入禁止地であって、大和の大峰山と同じであった。三岳山を核とする真言宗の寺院は上夜久野方面から三岳・金谷方面、そのほかに山を越えた福知山市畑中の雲龍寺や、榎原の観瀧寺をも含めて九ヶ寺が、昔から今日まで地縁的に親密な関係にあり、これを「三岳結衆」と称している。このことは、歴史的に三岳山の勢力がいかに大きかったかを示している。
(『福知山市史』)


三嶽神社(蔵王権現)
三嶽神社は、山の反対側の喜多も鎮座地となっていて、両村の共有の社のなっているよう。
三岳山の八合目(約700メートル)に鎮座。明治以前は蔵王権現(金剛蔵王権現で、吉野金峰山神社の修験道の本尊)と称し、喜多の金光寺が別当寺であった。山頂に奥院(白山権現を祀る)があり、中佐々木に一の鳥居がある。今の祭神は大国主神。旧村社。
三岳山がいつ頃から山岳霊場として開かれたかは不明だが、金光寺に伝わる元亨2年(1322)6月20日付治部榔法印某寄進状に
 寄付 蔵王権現七王子惣大般若転読供米+斤事
  合壱石弐斗(原注・御年貢斗定)者
  佐々岐下山保野条村奴多谷上坪四合田所当内
 右件大般若転読供米+斤、無其足之由歎申之間、為本家
 領家御祈祷、永令寄付之状如件、
   元亨弐年六月廿日
とあるそうで、すでに蔵王権現が祀られていた。
おそらくこの頃には霊場の活動拠点として別当寺が建立されていたと思われ、以降は別当寺を中心にして推移したと考えられる。
江戸時代の蔵王権現については、寺社方覚帳(威光寺文春)に
 一三岳山蔵王権現宮(割注・両山拾ケ村立合修復)
   役行者建立、五間四面但シ八尺間本堂造、天文
   十四年四月廿二日戌刻炎焼、
   天文十七年戌五月願主三岳神宮寺天台首覚ノ大
   行者及海法師建立、五間四面本堂造、
   金山備後守殿・桐村左京進殿御奉加元、元縁拾
   年丁丑十二月十九日申刻炎焼、
   元禄拾四己ノ未十二月領主保料兵部少輔様御奉
   加元、銀拾枚被下御代官小森源太夫殿ヨリ大名
   主牧宇右衛門江御渡ニ被成、別当宝寺院盛俊両
   山ノ名主相揃頂戴之、十方奉加之助力ヲ以社頭
   建立可致旨御下知ヲ蒙ル、
   元禄拾五年御普請社頭成就五間四面八尺間禅堂
   造、
  白山大権現宮(割注・本堂ノ東ニアリ)年頭天王・少将并天王一社二神(割注・本堂ノ北ニアリ)舎利支殿(割注・本堂ノ西)・金+質治屋殿(割注・本堂ノ西ニアリ)
  大黒岩(割注・本堂ノ乾)   岩戸(割注・本堂ノ北七尾谷ニアリ)
  行者堂二間四面「本尊者行者一刀三礼ノ自作ナリト云」
    天文年中以来度々建立亦宝暦元年新ニ建立ス
  鳥井ヨリ十八町(原注・水舟アリ)吉野杉者(割注・三尊野御影所)也、
元亨2年の治部卿法印某寄進状にみえる七王子社は、嘉暦4年(1329)5月日付預所道戒寄進状(金光寺文書)によれば北村にあったことがわかる。この社は近世にも存続しており、寺社方覚帳に「七王子ノ社(割注・宮四尺ニ三尺五寸)右六所権現ノ森ノ内ニ有之」とある。このはか三岳山内にもう一社七王子社があり、上佐々木村の項に「野際村 七王子宮(割注・三尺五寸ニ弐尺五寸) 森境内(割注・長五拾間幅三拾間)除地、無高社人無」と記される。
蔵王権現の祭礼は佐々岐庄上山保と同下山保が隔年に行ってきた。下山保が受持ちの年は、御輿は大呂村の天満宮の下の御旅所まで降りる例で、現在もそこに台石がある。上山保受持の時には山の斜面が急なためか、御弊のみを捧げて野際(のぎわ)まで降りた。現在では中佐々木の小字谷村にある一本杉の根切株の上に設けられた仮殿で神事が行われる。
酒呑童子伝説では、頼光一行が蔵王権現に七日七夜の祈願をこらしたという。

七王子神社(野際)
野際集落(福知山市上佐々木)
このあたりの集落はどこも似ているが、野際集落も谷底を走る国道427号線からはスゴイ坂道をヨジ登っていかなければならない。Dでは難しくLにして一車線の細い道を切り返しながら登る、対向車があればどうすることもできないので先の方を見ていて来ないかと確かめ確かめ登る、登る、登る、天か雲の世界へ登るような気がしてくる。大きな車は田舎道はムリ、そうした仕様には作られていない、軽トラいっぱいっぱい仕様である。
こうした石造物↑があちこちに残る、三体の仏か、釈迦・千手・彌勒なら蔵王に合体する前の姿であろうか。背後の山が三岳山、人家は野際集落。この道が登山道である。
七王子神社↓。集落のはずれにある。清掃が行き届いている。老夫婦が境内の掃除をしておられた。「今年は天気が悪くて掃除できんでね。掃除してもコケは取るなとか結構むつかしいてね」とか。
七王子神社(上佐々木野際)
鳥居をくぐってまっすぐに行けば七王子社。右手の道が登山道↓
七王子神社(野際)
ここから1.2キロで三嶽神社、1.8キロで山頂とある。
三岳登山道
七王子神社は、由緒不詳、祭神は大巳貴命である。この神社は、三岳山への登山口に位置する。昭和二十七年に遥拝所ができるまでは、神輿と祭礼道具はここの輿堂に保管されていた。遥拝所には、木製扇形付鉾(七王子神社、勝手神社、籠神社、三獄神社)と藁草履が残されている。
(『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』)

蔵王なら吉野だが、熊野修験も流れているのではなかろうか、在地の元からあった諸神社を蔵王の王子社ともしているのかも、おそらく七つの地元の社をまとめて蔵王の子としてここに祀られているのではなかろうか。


小松神社
小松神社(上佐々木小野原)

上山保(三岳地区)
 まず、上山保の場合である。上山保で三岳祭に参加する地区と神社は、小松神社(小野原、七王子神社(野際、小和田神社(谷村)、佐々木神社(下佐々木)、一宮神社(一の宮)、森尾神社(常願寺)の六ケ村である。
 小松神社は、由緒不詳、祭神は伊奘冊命尊である(以下、祭神は明治十六年「天田郡神社明細帳」による)。境内社に須賀神社がある。現在、本殿に木製扇形付鉾と御幣、秋葉神社と荒神社の御幣が残存している。
(『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』)


日蓮宗京都本圀寺末法久山蓮秀寺
蓮秀寺(上佐々木小野原)
境内の案内板
蓮秀寺沿革蓮秀寺の案内板
当山は法久山蓮秀寺と称します。日蓮宗に属し、正保三年(一六四六)四月一日の創立にして、小野原村庄屋(現渡辺象)由利弥右ヱ門の招聘を受け、一の宮妙福寺の修行僧善日請上人の開山より始まりました。寛文五年(一六六五)神宮寺七番地内に始めて本堂を建立、文化四年(一八〇七)上佐々木地区に大火災あって当山も類焼し、止むなく屋敷替えの上再建せるも、その後も度々の災害により安政元年(一八五四)中興十九世英顕日研上人の代、今の地に本堂を再建して現在に至っております。平成二十一年一月吉日


法久山 蓮秀寺  (日蓮宗)  同村字上佐々木
  開山 善牲院日請大徳(宗租日蓮上人十九代の法孫と云)
 本尊 十界具足大曼荼羅   開基 由利彌右ヱ門
 中興 日研上人
 創建 正保三年(二三〇六)四月、再建は安政五年(二五一七)三月、文久二年(二五二二)二月山門兼鐘楼再建
当山は嘉永(二五〇八-二五一三)年間は本堂のみなりしが、十九世日研上人に至り堂宇稍完備せり。然るに明治四十年六月廿日、 附近に失火ありて飛火し幸に類火は免れしも、諸堂宇、尊像、寺什に至るまで大損害を被りたり。剰へ仝年八月十七、八日の洪水にて山崩潰、所有田面廿四歩は土砂の爲に埋没したり、されど今は漸く旧態に復せり。
 行事 一月三日、読経会 一月四日、廻禮 二月十五日、涅槃会 二月十五日、祖師誕生会 四月八日、花 祭 七月十五日、施餓鬼会 九月十二日、龍口法難会 十月十三日、会式 十二月四、五日、星祭
 檀家 五十戸  財産 田一反九畝七歩、畑三反一畝三歩、山林一町三反六畝八歩
(『天田郡志資料』)

蓮秀寺は、「寺社方覚帳」に「慶長年中」(一五九六~一六一四)の建立と記載されているが、「牧家文書」では騒動発生時点の享保十一年(一七二六)からおよそ七十年以前とされていることから、一七世紀中頃の創建とも思われる。また同書には、蓮秀寺と同じ時期に「三十番神」を、騒動の約四十年前(一六八六年頃?)に「七面明神」を祀る宮をそれぞれ建立したと記している。「三十番神」は、当初は「小松大明神」(小松神社)に並んであり、後に蓮秀寺側に遷したという。一方、「七面明神」は寺山の中にあったようであるが、現在それがどこであったかは確認できない。しかし同書に、「ま婦谷」にあった田畑および山林を勝手に蓮秀寺領にされた者の訴状があり、その中に「七面明神」も目分の所有地内に存在するとしている。これによって、七面明神も「ま婦谷」にあったと想定されるが、これは地籍図に「マブ谷」とある地域と推定され、これは「寺屋敷」より北側の地区である。「マブ谷」の「マブ」は、鉱山の穴あるいは坑道を指す「間分」と考えられ、鉱山の跡とも想定される地区である。
 このように、小野原では、三岳山に隣接しているにもかかわらず、集落付近で確認される地名や堂社等からは、それとの直接的関係性を有すものはほとんど見られない。むしろ三岳山に関しては前述した小野原の北側や野際の方が明らかに顕著であり、小野原は近世以降の遺構が目立っている。それは近世初頭に宿場町として整備され、あるいはそれ以前の景観が喪失したのではないかとも感じさせる状況ではあるが、やはり推測の域はでないだろう。
(『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』)


《交通》


《産業》


上佐々木の主な歴史記録


歴史的に見た天田郡の鉱産
 この地方の最近の鉱産物について述べる前に簡単に歴史的な説明をしておこう。最も古い記録は文武天皇の四年(七○○)に丹波の国から錫を献上したことで、次は元正天皇の養老六年(七二二)に丹波から銭貨を鋳造して献上したことであり、第三には天平神護二年(七六六)に天田郡華浪山から産出した白鑞を献じ、その質について疑問を生じ、朝廷の大問題となり、唐の専門家の鑑定を求めたという記事が注目される。この華浪山は、地名辞書では今の天津・金山の辺であるとされている。そして前記文武天皇の場合も同地から産出したものであろうと述べている。平安時代から近世までは特にとり立てて述べるほどのことばないが、近世になると金谷・三岳及び鬼ヶ城の周囲から盛んに採掘された。要するに天田郡の北部ないし西北部から、大江山脈一帯にかけては、各種金属鉱物の産地といえ、金谷・夜久野方面には採鉱冶金に関係がある地名・信仰・伝承・風習など興味ある問題が攻究されている。
   鉱産資源の種類と地質
 鉱産資源は第一節で述べた地質と密接な関係がある。ほとんどの金属鉱床は火成活動の産物であり、鉱床の種類や分布は火成岩と地質構造に支配されている。当地域の金属鉱床が火成岩の多い北半部に集中することも当然のことと言えよう。金属鉱床に対し非金属鉱床にはいろいろの成因のものがある。
 金属鉱床としてはつぎのようなものがある。
(1)蛇紋岩など超塩基性岩に関係深いもの
 河守鉱山のクローム鉄鉱床は脈状鉱床である。超塩基性岩の風化によりニッケル・コバルト・クロームなどが土壌中に濃集した風化残留鉱床としては、区域外ではあるが加悦町の大江山鉱山のものが挙げられる。
(2)酸性火成岩に関係深いもの
 本地域北部には白亜紀から第三紀始めにかけて活動した酸性の火成岩である所の花崗岩や流紋岩が広く分布し、これに関係した脈状金属鉱床が、鬼ヶ城付近から上夜久野地区にかけて多数存在する。しかし、大部分は小規模で、現在稼行中のものはない。おもに黄銅鉱・黄鉄鉱・閃亜鉛鉱・磁硫鉄鉱よりなり、若干の金銀を伴うことがある。たとえば、河守鉱山の銅鉱床、金谷の田和銅山(富国鉱山)、常願寺の三国鉱床、立原の大呂鉱床、三岳の日尾鉱床(隆盛鉱山)、同一の宮鉱床、榎原の榎原鉱山、大江町室尾谷付近の鉱床が挙げられる。梅谷鉱山の閃亜鉛鉱床は花崗岩の接触鉱床と言われ、大江町仏性寺のモリブデン鉱床も花崗岩に関係する深成鉱床である。
(『福知山市史』)

ササキは佐々木小次郎ではなく金属に関係する地名と考えられる。ササは金属を意味していて鉄や銅など、キき村だろうか。ササ山(三岳山の古名?)の麓の集落だからササキなのかも?
当地から登尾峠を越えて但東町に入るとそこにも佐々木があり、カジヤというバス停がある。
福知山市にも雀部(ささべ)という所があり鍛治屋敷跡(前田)があるという、このササも同じ意味と思われる。舞鶴朝来にも笹部があった。単にサで金属、ササと繰り返しても意味は同じ。

…同君によれば、「金光寺の奥の院は、この三岳山の蔵王権現で、そこには金屋殿という小祠もある」この三岳山が、シキ谷のある山で銅山であり、小葉田京大教授の『鉱山の歴史』に宝暦一二年の諸国の銅山から大阪への廻銅の表が示されている。その中に丹波国佐々木九、八七六斤余とあるのは、ここのことだろう。丹波で佐々木という地名はここにしかない。また「この上佐々木は、古鬼原といい、普通はおの原と呼ばれ、シキ谷もその一部であり、金光寺には山伏寺であった古文書がある」と宮本君の話である。

…このように楽々、細、笹、ササは、同一のことを色々の漢字で示していることがわかる。
 このササは、諸国の鉱山のある所の山名、地名になっていて、鉱山の歴史を調べる人の興味をひいており、たとえば松田壽男博士に従い丹生の研究に協力した大和水銀の故井上純一氏などは、ササは銅山の銅のことではないかと言っていた。この問題については、私もいろいろと研究してみたが、たとえば飛騨国の方言では、ササキは粒状の自然銅のことであるし、銅山には、ササメ、笹森、笹山、笹ヶ嶽などがよくある。これらについてはいずれ別の機会に述べるが、まず私の結論から言うと、ササは銅山だけでなく、砂鉄のことも指しているのではないかということである。
日野郡では、砂鉄は粉鉄(こがね)と言っている。粉鉄という呼び方は、日野郡だけでなく全国的に分布していたと思われるが、このことは、たとえば古代製鉄伝説である炭焼伝説につねにからまっている黄金伝説、つまり黄金-コガネとの関連に注意しておかなければならない。というのは、黄金伝説というからには、いかにも黄金が出たように見えるが、現場を調べると、なんのことばない砂鉄の採集場所である。このことは、炭焼伝説を調べる上に重要なことで、黄金ならば炭を焼く必要がないわけで、こうした場合のコガネと言われるのは、明らかに粉鉄-砂鉄であり、だからこそ、炭を用いて製鉄を行うわけである。このように理解して、はじめて炭焼伝説の中に黄金の話が出て来ることの正しい意味が見えてくるのである。同じように、製鉄の竃(かま)のことから、炭焼伝説に、鴨-竃も出て来るものと思われる。
 かく炭焼伝説の黄金は粉鉄と考えるべきであるが、粉鉄は小小鉄(ささがね)であり、滋賀の楽波は小波であり、ササは、こうした砂鉄の如き粒の小さいもの、あるいは礫の如く、音をたてる金属性の鉱石のことではあるまいか。つまり、楽々福神-磯々吹神ではないかというのも私の考えである。
(『鬼伝説の研究-金工史の視点から-』)

神宮寺峠
かつてここが丹後国との国境であった、今は雲原との村境になっている。
神宮寺峠(上佐々木・雲原)

神宮寺峠というのは神宮寺があったことにちなむものか。この山の上にあったものか、峠を下った所にあったものか、どの神社の神宮寺かも不明。この峠には「従是北宮津領」(電柱の先の石柱)と刻んだ石柱と助太郎柳の伝説を残す石碑がある。
古くは国・村境を決める際に、助太郎という強力者の投げた石の落ちる所を境界にしたとの伝説があり、大正期頃までは石の落下点に植えたと伝える太い柳の木があった。人々は柳に願い事をし、かなうと酒をかけたといわれている。

上佐々木村 小野原トモ云 右同(保料避前守領)
高九百七十九石九斗三升四合
 上佐々木村ノ内四百廿八石弐斗余分テ、中佐々木村ト云、佐々木シケ(四箇)ト云、又三岳ノ庄(トハ欠)佐々木三ケヲ云、畑谷村佐々木村ヨリ但馬国久畑市場村マデ壹里拾四丁三十間牛馬道但シ上ノ尾峠国境迄二十四丁四十間国境上ヶ尾峠峯疆左右山並尾続峯疆三国嶽峯疆道境ハ上ヶ尾峠ニ杭有之
佐々木村ヨリ丹後国西石(さいし)村迄二十八丁、牛馬道、但シ神宮寺峠国境迄十六丁 国境神宮寺峠峯疆左右山並尾続三岳山峯疆道境ハ神宮寺峠峯疆
(『丹波志』)





上佐々木の小字一覧


上佐々木(カミササキ)
赤畑 アヒ畑 アゾ谷 アゾ谷ロ アゾロ アイネ アミタノ下 家ノ本 家ノ脇 家ノ上 家ノ西 家ノ北 家ノ裏 一ノ坪 一丁田 井笹ロ イヅミ田 イロナシ イツキ イザザ 馬ケ谷 ヲカ 岡田 岡畑 岡道畑 大畑 大前 大江ノ上 大江ノマヘ 大谷 大井田 大アサ町 大和田 大和田一ノ切 大和田ニノ切 大和田三ノ切 大和田川向イ 大和田茶ノ木ノ下 御高丸裏 オメ田 ヲナビ垣 ヲクヅエ 川原畑 川原成畑 川方 川バタ 上大成 カゴ岶 カゴ原 カヤ畑 カツラ田 カイチノ下 カキガ原 カモン カンカケ 切畑 切畑滝ノ下 京田 クル谷 クルビ谷 クロガイ チニンボヲ 小前 小中 小中尾 小中段畑 小中道ノ下 小田方小寺 小谷山ロ コト角 楮屋開地 荒神北 荒神ノ下 コシマヘ コンヤ田 コウロ田 コモヅチ コシマヘ成畑 ゴウロ田 岶畑 サワ田ユリ サワ田 清水ノ上 清水ノ下 清水ノ上下 清水開地 下月田 下大成 下マブ谷 四十代 七合田 神宮寺 神宮寺峠 シヨブ谷 シヨブ谷口 シラガ谷 シラガ谷口 ジクヤ 杉ケ岶 スキザキ スモゝ田 外岡 田中 田中向イ 高岶 竹ノ下 谷バタ 滝ノ後 大成 段畑 茶屋ケ城 ツメトモ林 ツヘロ ツゝラガイチ 寺垣 寺垣道ノ下 テラカイ 出口 堂ノ前 堂ノ後 堂ノ浦 トウデン トビガソ長谷 長谷口 長谷奥 長坪 長地 長畑 中林 中西 中西川バタ 中ゾ根 ナシヰ 西又 ヌタン田 ネラヲ 子ラヲ谷 登尾 ノキハ ノザゝ口 ノセガイ ノセガイ道ノ下 畑中 林ノ下 八ケ岶 馬場 馬場水口ハトカイ ハリノ木 東田 平林谷 ヒシロ田 ヒシロ大井田 ヒヱ田 ヒモノ田 ヒルババ ビワガ谷 ビヤガキ フカ田 細岶 前田 前田開地 的場 豆田 松ノ成 松ノ木岶 マブ谷 マブ谷口 道畑 道バタ上 道バタ家ノ下 宮ノ越 宮本 宮ノ北 三月田 妙子田 無所前 無所前下 無所ノ後 無所前イツキ 森尾 森尾茶木ノ下 森ノ木 桃ケ原 門口道バタ モガカ モンロ上 山口田 薮ノ上 薮ノ下 山伏グロ ヤナ谷 屋敷ノ上 屋敷ノ下 ヤシキ 大舛田 和田山 ワラズロ タヰノウラ 宮ノ下 河原田 家の下 成畑 マトバ シブラ谷 大崩 ゴトク田 イザノ口 松ノ下 外畑 花屋開地 田中掛向イ 渋羅谷 神宮寺 長谷 登尾 イキワ ヤナカ岶 小崩 大崩


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50音順

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市町別
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京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市

若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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