京都府福知山市下野条・上野条・行積・長尾・天座
京都府天田郡金山村
明治34年発行
『幼年唱歌』
『大江山』
作詞 石原和三郎
作曲 田村 虎蔵
むかし丹波の 大江山
鬼どもおおく 籠りいて
都に出ては 人を食い
かねや宝を 盗みゆく
源氏の大将 頼光は
ときの帝の みことのり
お受け申して 鬼退治
勢いよくも 出掛けたり
家来は名高き 四天王
山伏すがたに 身をやつし
険しき山や 深き谷
道なき道を 切り開き
大江の山に 来てみれば
酒顛童子が 頭にて
青鬼赤鬼 集って
舞えよ歌えの 大さわぎ
かねて用意の 毒の酒
勧めて鬼を よいつぶし
笈のなかより 取り出だす
鎧かぶとに 身をかため
驚きまどう 鬼どもを
ひとり残さず 斬りころし
酒顛童子の 首をとり
めでたく都に 帰りけり
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旧・金山村の概要
《旧・金山村の概要》
金山というのは鉱山のことである、こうした地名である以上は本当に鉱山があったのである、当時は今のようにありもしないのに命名するようなエエカゲンなことはしない。花倉(長尾)川、大呂川、雲原(天座)川の流域、大江山と天ヶ峰と三岳山に囲まれた地域である。どちらを見ても高い山と深い谷ばかりでタイラな土地はまずないが、当地は鬼退治(酒呑童子)伝説の地で、当地がずばり「鉱山」の地である以上は、その「鬼」とは本当は金山で働く鉱山労働者のことでなかったか、の説も十分にうなづかれる。
実際に「鬼退治」が行われたらしい証拠としては、延応元年(1239)七月廿六日付けの「関東御教書」に、鈴鹿山并大江山悪賊を停止しろの沙汰が出されている。時代は下って鎌倉時代のことであり、この大江山がはたして当地の大江山かは不明だが、こうした文書が残されていて、あるいは当地かも知れない。「鬼」はなかなか強かったようで、難しくとも何度もやれ、と沙汰されている。テロと米帝みたいなハナシになるが、どちらが真の鬼だったかはわからない。
金山は、室町期に見える地名で、応永27年7月20日付の足利義持御判御教書に「丹波国金山天寧寺事」とあるのが初見。
鎌倉末期御家人那珂氏が常陸国から当地に入部して、姓を金山と改めた。大呂の天寧寺はこの金山氏の惣領宗泰が名僧愚中周及を迎えて建立したもの。愚中和尚に帰依していた足利将軍家は祈願寺に指定し、同年月日の足利義持御教書では天寧寺の門前敷地・向山が安堵され、また同28年8月12日の足利義持御判御教書では天寧寺の末寺・寺領が安堵されているという。
当地方は江戸期には「佐々岐庄」のほかに金山郷とも呼ばれたらしく、長尾村の薬師堂の什物箱に金山郷長尾村とあり、保科領5、000石であったので「五千石領」ともいわれた。
近代に金山郷域に金山村が成立した。金山村は、明治22年~昭和30年の天田郡の自治体。下野条・上野条・行積・長尾・天座の5か村が合併して成立。旧村名を継承した5大字を編成。昭和30年に福知山市の一部となり、村制時の5大字は福知山市の大字に継承された。
今も旧村域を金山地区と呼んでいるが、遺称としては金山小学校があった。
平成3年に天津小学校と統合となり、その跡地は老人介護施設になっている。
《交通》
《産業》
旧・金山村の主な歴史記録
金山氏
大中臣氏略系図
江戸時代の後期に編さんされた『丹波志』は、天田郡巻四「古城部」に大呂の金山城を挙げ、城主大中臣那珂宗泰が常陸国から来住したと伝えている。康安二年(一三六二)二月三日、字大呂の天寧寺に私領の田畠を寄進した宗吽は那珂宗泰の法名で、寄進状の事書に「きしん申天寧寺りやうの事 たんはのくにささきしもやまのほうのちとうしき(後略)」とあって、
当時宗泰が、丹波の国佐々木荘下山保の地頭職であったことを知ることができる。
佐々木荘は前にも述べたように、延暦寺の末寺妙香院の荘園で、三岳・金山及び上・下川口の一部を含む地域と考えられ、標高八三九メートルの三岳山の尾根を境に、上山保と下山保に分かれていた。
丹波来住後の大中臣氏は、所領の地名金山を姓として名乗り、明徳の乱 (一三九一)には、山名氏に与して幕府の怒りにふれ、一族滅亡の危機に遭遇するなどのこともあったが、幸い、将軍家の崇敬篇い天寧寺の開山、愚中周及の執り成しによってこと無きを得、その後は、代々幕府の奉公衆として名を成したのであった。また、大呂の桐村谷に居を構えた庶流は桐村氏を称して、戦国のころには宗家金山氏をしのぐ勢力を築いている。
両氏共、金山・桐村を名乗るようになってからも、かなり後世まで、大中臣・那珂氏を併称していたことは、天寧寺・金光寺文書 などによって明らかである。ところでこの大中臣氏は、『群書類従』所収の大中臣氏とは別系で、その出自については長い間謎であった。『丹波志』は、大中臣氏の丹波来住を宗泰のときとしているけれども、桐村正春家本『大中臣氏略系図』は、宗泰の祖父経久に、「丹波国金山地頭」と注を付しているのである。
(『福知山市史』) |
金山氏と桐村氏
佐々木荘の地頭大中臣氏は、系図によると、金山地頭となった経久のあと、「金山ノ初」とされる宗継と「桐村之初」とされる盛経の系統に分れる。宗継の次の宗泰は大呂に氏寺天寧寺を建立し、その子実宗が金光寺を建立する。そして経久から数えて六代目の持実・元実・政実は室町幕府の奉公衆として、早歌の伝唱家として都で活躍するのである。ところが、十六世紀後半に入ると、在地の天寧寺文書や金光寺文書から金山氏が姿を消していく。それにかわるように、桐村氏が登場するようになる。具体的なことは不明ではあるが、「天寧寺過去帳(第一)裏書」には、次のような伝承も記されている。
桐村ハ信長へ付キ
金山ハ信玄へ付キ
信玄滅却ニ依テ 後、桐村ヘ金山ヲ打テトレト云付ケラレ、桐村金山ヲ打
シ、大呂村上谷金山城山ノ麓ニ勝負山ト云アザ名于今有之、金山打死者桐
村滅却ヨリ三年以前、赤井五郎卜云者、軍出立騎馬ヲソロヘ、百人余大呂
ヲ通ル、何方へト云コト知ラズ、桐村但馬寺坂江牢人之時、牧殿繁昌也
十六世紀後半頃から佐々木庄において金山氏と桐村氏の間に対立ないしは、在地での勢力交代があったのではないかと考えられる。
このように考えると、先に述べた天文十七年(一五四八)に金山備後守殿と桐村左京進殿が並んで奉加元となっていることも注目される。金山氏と桐村氏の桔抗した情勢を物語っている証左といえよう。
桐村氏に関しては、天文二十一年(一五五二)の威光寺の本堂造営棟札に、「旦那大那阿富元経」とみえ、桐村元経が上山保の真言寺院、威光寺の造営にあたっていることがわかる。また、近世初頭に三岳蔵王権現の別当を務めた桐村甚左衛門は野際に住んでいた。このことから、桐村氏は上山保を中心に勢力を伸張していったのではないかと思われる。
一方、金山氏は、金山備後守政実のころから、下山保(金山郷)の祭祀の強化をはかったことをうかがわせる史料がある。森家所蔵の地誌(『佐々木庄史話』)である
一、里老曰 金山備後守殿為御地頭ノ時代 天座村モ御領内 金山殿三
岳ヲ御信心被成候故ニ 恒例之神事 天座村モ同様ニ三岳相勤事
古昔ヨリ天座村モ佐々木庄ノ内ニ有之候ヨシ甲伝キ
金山備後守のときに天座村が祭礼に参加するようになったのである。地理的な関係から下山保の村としての参加であった。また、三岳蔵王権現の祭礼ではないが、三岳蔵王権現の二十五年に一度という大祭において、野条の田楽の笛を吹く、堂城家について、『丹波志』は
下野条村
茨木 子孫
童子力森ト云有リ此処ニ小祠アリ祭リアリ八月二日里民神酒御供ヲ供
フ斗ナリ森ノ下ニ民家一軒有之代々童子庄左エ門ト云ヘリ二家立テバ祟リ
アリテ不立一家ニテ相続ス此家二必耳聾ノ者男女ニ不限一人ツゝ有リト云
今ニ女子ニ有之生得耳聾ナル故言語不通
金山備後守元実所持之笛ナルヘシ
姓氏ノ部ニ可載義ニ非卜雖今ニ相続ス故附此所
と記し、金山氏との関係を説く。金山元実は備中守であるので、金山備中守元実かその子金山備後守政実のいずれかを指す。さらに、『丹波志』は金山氏の家臣であった加藤氏について、
加藤氏 子孫
大呂村奥谷
金丘エト云者系図無之 金山氏ヨリ拝領猩々頭所持 今茂左衛門兵左衛
門両家ナリ
という伝承を記す。下山保は金山郷ともよばれ、御勝八幡神社はその鎮守としての性格をになっていたが、その祭礼に参加する諸役のなかに金山氏との関係を語るものがあったのである。
これらの伝承を、先の佐々木荘における金山氏と桐村氏との対立と重ねあわせると、中世を通じて上山保へは十分に進出できず野条の御勝八幡神社を中心とした金山郷のまとまりを重視した金山氏と上山保を中心に勢力の伸張をはかる桐村氏との対立した構造がより理解できるのではないだろうか。一時的なものであったとはいえ金光寺の野条への移転も桐村氏に対する金山氏のとった対抗手段であったとも考えられる。
以上のように佐々木荘を二分する勢力の対立抗争のなかで、上山保と下山保は一体化することなく、それぞれが三岳蔵王権現を信仰の拠り所として祭礼を行なってきたのではないかと考えられる。金光寺は地頭の庇護のもと、中世地方寺院としての組織をもちながら、その支配は下山保を中心としたものであり、蔵王権現の神領とされる上山保にまで及ぶことはなかったということになる。
(『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』) |
金山尋常高等小学校 字行積
創立は明治六年十月五日字行積氏神境内なる地蔵寺を以て教室に充て博愛舎と称す、明治七年五月博愛校と改称、字天座に分校を設置す、明治八年四月行積校と改称して、行積村字宮ノ下腰前に移転、長尾分教場を設く。明治壮三年颱風のため絞舎倒潰したれども人命被害なし。仝廿四年三月新校舎成る総工費五百円と云、仝三十四年七月修業年限二ヶ年の補習学校加設、仝三十八年三月金山村雲原村組合学校を設置し天座分校を廃止す、仝四十一年三月補習学校廃止、仝四十一年四月尋常科六ヶ年制となる、仝四十二年四月新校舎竣成、仝四十三年金山尋常小学校と称す仝四十五年四月実業補習学校附設、大正六年四月修業年限二ヶ年の高等小学科を併置し、金山尋常高等小学校と改称す。大正八年四月小字坂裏の児童を組合学校に委托す、大正九年金山村実業補習学校と改称大正十五年七月金山村立青年訓練所併置、昭和三年三月右訓練所を廃し青訓充用の実業補習学校と改称昭和九年九月廿一日颱風被害校舎二棟傾斜す。昭和十年七月より最新式校舎建築法により増改築工事起工十一月完成の予定、仝十年九月一日実業補習学校を金山村青年学校と改む。
歴代校長 …
大江山の伝説
この物語は平安朝の一条天皇の御代の事であります。貞元年中から引続いて顔の美しい年の若い娘は五人十人と京の都から消えて無くなるのです。過ぐる昨夜も池田中納言国方卿の姫君が姿を隠されたと云ふことで、父君母君の御嘆は非常なものでした。この姫君はとり分け顔も心も勝れて美しい評判の方でありました。家族の方々は神仏に祈願して無事に帰って来るやうにと祈りました。又、当時都で名高い安部晴明に占って貰ひますと、都から遠く離れた丹波の大江山千丈獄に岩屋を作って住む鬼が攫って行ったのであるが、姫君はその中無事に帰られるだらうといふことでした。
国方卿は取り敢ず其の由を奏聞されますと帝も叡慮を悩ませ給ふて、すぐに御前に御詮議あることになりました。
其の時丁度丹波の目代藤原保友と云ふ者は早馬に打ち乗って注進に参りました。
「丹波の国は言ふまでもなく近国のもの若い男女が沢山紛れ失せますにより、其の父母家族の者達は、普く尋ね廻りますが一向その居所か分りません。その中に当国の大江山に城を構へて異形の者が沢山集ってゐることが分りました。この城はたゞの城ではなく石を畳んで塀を作り岩を穿って門として居ります。其の首領は神変不思議の術を使ひ、宙を飛び形を隠し、俄に風雨を起し刀を使はずに人をつんざき獣を殺す等真に人間とは思はれません。何卒早く強い討手を下されます様、さもなくば天下の大事となりませう。」と申しました。
諸卿は会議せられて、当時天下に又とない強い大将として知られた源頼光に退治させるがよいと定まりました。
そこで帝は直に頼光を召されて大江山鬼退治の宣旨を腸はりました。頼光は勅命を承って急いで我家に帰り一族の者どもを集めて軍評定を開きました。酒顛童子は変化なれば先づ神仏に祈をかけ、神の力を頼むがよいとて、頼光と保昌は八幡宮へ、綱金時は住吉宮へ、貞光季武は熊野宮へ参籠して、祈願をこめ、別に家来達は大井の光明寺に詣でて願書を捧げて一夜祈り明しました。また都の社や寺々は皆様々の秘法を修して大江山鬼退治の御祈を行ふのでした。
年号も改めて正暦元年とせられ、その三月廿二日源頼光は長男下郎判官源頼国、右京権太夫藤原保昌、瀧口蔵人渡邊綱、勘解由判官卜部季武、主馬佐酒田金時、靫負尉碓井定光其の他の郎従家人千二百余騎をつれて光明寺をたって丹波路へ向ひました。
其の日は老の坂を越えて無根坂あたりまで来ましたが、頼光は俄に頭痛がして進むことが出来ませんから此の地に一泊することになりました。其の夜は夢に八幡大菩薩か現はれて、此度鬼を退治るには多勢で行く時は勝利覚束なし頼光自ら数人の家来をすぐって忍び入り謀を以て之を討つかよい、鬼共は幻術を使ひ通力を持ってゐるが、神の加護によって汝は必ず勝つであらうとのことでありました。
そこで翌日頼光は藤原保昌並びに四天王の人達を集めて夢の示現を話し軍議を開きました。渡邊綱は進み出で、「頼光公の御夢の通りで、大江山の城は実に堅固な構であるとの事、又立て籠る賊は皆枝葉の手下ばかり、張本酒顛童子は大江山の奥に連る千丈嶽に居るとの事、若し大江山の城を陥れても落城したと聞いたならば酒顛童子は千丈嶽から又他の山へ逃げてしよふであらう。所詮は我等数人が大将頼光公に随ひ千丈嶽に忍び入り賊の張本を打ち殺すに限ると思ひます」
と申上げました。保昌も聞いてその意見に賛成しました。
そこで軍議は一決して多くの軍勢は野州判官殿を大将として、大江山を囲みて攻め立てることゝし、次の日の夕方丹波の国府津に着きました。当国の目代藤原保友は四百余騎を引き連れ、喜び迎へて案内者となりました。
三月廿四日の早朝には大江山に着き城の廻りを取巻いて閧の声をあげました。賊は高い城に立て籠り力に任せて大岩、大木など抛かけて谷底にある味方を防ぐのです。味方の心はやたけにはやるのですが、高山の頂きにある城を見上ぐるばかりで進むことが出来ません。然し乍ら別動隊となった頼光朝臣丘下数人の人達は大江山を向はずして、廿三日午の刻過ぎ無限阪を立つて千丈嶽に向ひました。その日は丹波の国福知山と云ふ所へ着きましたが由良川に沿ふて草尾根の家が二三十もありましたので、こゝに泊り、用意して来た山伏の姿とない翌日早く出立しました。藤の衣に笈をかい、頭巾眉半はに着なして、金剛杖をつき、都方の山伏か伯耆の大山に詣る様に見せ、藤原保昌が五十八の年長であったので先達となりました、卜部季武四十一、渡邊綱三十八、碓井定光三十七、源頼光三十七、坂凪金時三十六など主従六人打連れて歩きました。二十五日には三岳郷に着きまして三岳権現に夜もすがら祈り明し一紙の願書を奉納しました。
帰頂禮、当社権現者、住吉大明神之変座而、国家鎮衛之実宝社 (中 略) 爰頃年丹州前後乙間、在魔道成就之者。徒悩
人民。恣乱国家。其幻術自在 (中略) 頼光苟生於弓馬之家。適応於朝廷之選将赴於千丈悪魔之巌窟忽拝於四所和光社壇
(以下略)
正暦元年三月世五日
左馬権頭 源朝臣頼光
夜が明けて奉幣して神前を出ましたか行手の道もわかりません。どうしやうかと思ってゐる時幸にも柴刈り行く木こりに出あひました、頼光は、「此の国の千丈嶽はどうして行くのか教へてくれ」と申しました。
「この山の峯を向へ越し谷を隔てゝ向ふに見えるのが千丈ヶ嶽でありますが鬼か住んでゐるので人間は行けませぬ」と答へました。それなればこの峯を越えて行かうと老木の繁る峯や谷越えてゆく程に向ふの岩の間に庵を作り三人の老人がゐるのです。頼光は此の人達の前まで行って、
「もしあなた方はどうしてこゝに居られますか、又何をする方ですか」と尋ねました。
「私達は迷ひ変化の者ではない。一人は津の国の者、一人は紀の国音無し里のもの、今一人は京近い山城のもの、此の山の向ふに住む酒顛童子に妻子をとられた無念さに、その敵を討たんと此頃に来た者、お身達を見るに常の山伏ではなく勅命によって酒顛童子を滅す爲に来られたものと見える。私等三人の爲にも敵討ちの出来ることなれば先達となって案内致さう」
「仰の如く我々は酒顛童子に向ふもの、山路に踏み迷ふて難儀を致します」
と頼光の答に翁達は喜びの色を顔に浮べて、
「それなれは充分に疲れを休めて忍び入る用意せられる様、又彼の鬼は常に酒を好み酔ふて伏したる時は前後も知らず眠るのである。私達は此處に不思議な酒。神便鬼毒酒と云ふのを持ってゐる。お身達が此酒を飲む時は却って力を増し鬼共の飲む閧は飛力自在の力も失ひ切るも突くも自由になる。それ故、神便鬼毒酒と云ふのである猶又こゝにある星鎧は御身之を着て向はれなば鬼は恐れて飛び掛れぬであらう」
さて頼元に兜を渡された。六人の人達は先刻からの有様や言葉によってさては八幡、住吉、熊野の三社の御神の導きと感涙にむせびました。翁達は先達せんとて、山を越え谷を渡って細谷川まで来ました。翁は此虚で止って、
「此河上を登って行くと、十七八の姫に出会ふであろう。それに詳しく聞かれよまた鬼に向ふ時は援け得させん、我等は真実
は三社の神であるぞ」
とてかき消す如くに行かれました。六人の主従は後伏し拝み河に沿ふて登る程に教の如く十七八の姫が血のついた着物を洗っては泣いてゐました。頼光はこれを見て、
「お前はどこの人か又なぜ泣いてゐるの」と尋ねました。
「私は都の者でございます。或夜酒顛童子に掴まれて是まで参りましたが、恋しい二人の親達は今はどうしていられるかと思ふて泣いて居りまする」
「お身は都で誰の姫か」
「私は花園中納言の濁娘、妾の様な不幸な人が岩屋の中に十余人も居りまする。此の程は池田中納言国方卿の姫君も捕へられて参られました。皆始めの程は可愛がって置くがその後は身の中より血を搾って鬼共は酒だと云って飲み肴だといって四肢を裂いて食べます。側に見てゐる妾達は気を失って倒れる事もありまする。堀何の中納言の姫君も今朝血を搾られ給ふたので、その着物を妾は洗ってゐるのです」
と云って泣くのでした。日本中で強者として知らぬ者もない六人の主従もこの憐れな話を聞いて共に涙にむせびました。
頼光は
「様子はすっかりわかりました。私達は天皇様の命によって鬼を打ち平げ御身達を救ふ爲に参ったものですから道案内をして下され」
と云ひました。姫は之を聞いて夢かとばかり打ち喜び河上をさして、
「これから河に沿ふて行くと鉄の門を立てその入口には鬼共が集って番をしてゐるのか見えます、その門へ忍び込まれると鉄の御所と云って立派な館を作り張本酒顛童子が住んで居ます。夜になると私達を集め手足をさすらせ、臥してゐます。常にその周りには星熊童子、熊童子、虎熊童子、鉄童子といふ四天王童子に番をさせます。酒顛童子は色赤く、せい高く、髪は総髪で昼の間は人ですが、夜になると一丈にもあまる姿となり恐しい限りです。彼は常に酒を好み酒にに酔へば眼ってしまひ何事があっても知りません。あなた方は何とかして岩屋の中に忍び込み童子に酒を飲ませて酔ふて眠った時に討ち取って下され」
そこで六人は姫の教へた通り河上へ進んで行きますと程なく鉄の門に着きました。番の鬼共はこれを見て
「これは面白い近頃人を喰はぬので、欲しいものだと思ってゐたに、飛んで火に入る夏の虫さは此者共いざ引き裂いて喰ってやろう」
「いやいや、あわてゝ事を仕損するな、かくめづらしい客人一応頭へ申してからのこと」
「それもさうか」
と二三人は奥をさして駈け込み、かくと酒顛童子に告げました。すると童子は、
「それは不思誠、先づ内へ入れよ。対面せん」
と申しました。そこで六人の主従は内へ入れられました。程無く童子か来るのを見ると色赤くせ里高く、髪をみだし大格子の着物に紅色の袴をはき、鉄棒を杖にして大きな眼であたりを睨みました。酒顛童子は言ひました。
「この大江川千丈ヶ嶽は空高く聳えて、谷深く道もない、鳥獣さへた易くは通れぬ山、お身達はどこから何しに来たのか」
頼光は静かに
「私達は道の修業、役の行者の跡を慕ひ、道なき山々踏み分けて法の力ふ験すもの本国は出羽の黒羽昨冬より大峰山に年ごもり、やうやう春になったれば都を一見しそれより伯耆の大山に越えんと、ゆふべ夜をこめて立ち出で山に踏み迷ひ是まで来ましたが、幸にも童子殿のお目にかゝる事何よりの仕合せ、一樹のかげ一河の流れも多少の縁今宵一夜の宿をかし給へ。酒もあれは童子殿にもさしあげ私達も頂いて終夜の酒宴を仕ろう」
童予は之を聞いて打ち喜び、
「偖ては面白い山伏達、共に酒を飲むも面白く話を聞くも興あろう。それ四天王童子達酒宴の用意を致すやう」
頼光はこの時座敷を立ち、翁に貰ひ受けた酒を取り出し、
「これは都から持参の酒、召上り下されよ」
とて毒味の爲頼光盃一つさらりとのみほし酒顛童子にさされました。童子も、盃受けて飲みましたが実に不思議の酒で其味は甘露の如く此上なき良酒と喜びました。そこで六人の主従は代る代る盃を進めて童子に飲ませましたが童子は此上は美しき酌人に酌させん。我か最愛の女見給へとて、国方卿の姫君と、花園卿の姫君を呼ひ出し酌させました。終ひに章子は喜びの余り我が身の上を語り聞かせんとて言ひ出しました。
「我か生れは越後の国、山寺育ちであったが法師共数多の者を刺し殺し、流れ流れて此山に立て籠り都より思ひのまゝに金銀財貨姫女まで召しよせて、思ひのまゝの暮しいかなる者も此の上の暮しはあるまひ、然し乍ら心にかゝるは都の中にかくれなき頼光といふ武士、力は日本にならびなし、又その郎党に貞光、季武、金時、綱、保昌、何れも文武二道の達人これ等六人は常に我か目の上のこぶ、すぎし春にも我が手下茨木童子を都に上らせた時、七条の堀河で彼の綱に渡り合ひ綱が髪むづととりつかんで来らんとした所綱は三尺五寸の腰刀ぬく手も見せや茨木が臂を打ち落した。其の後漸く策略によりかひなはとりかへしたが恐るべきは彼のやから」
と廻らね舌に語り続けました。今は童子も安心して盃さし受けさし受けて飲む程に神便鬼毒酒は五臓六腑にしみ渡り、心も姿も打ち乱れて、前後も知らぬ程でありましたが、「そこらに居る手下ども客僧達に舞を一さし舞ふて慰めぬか」との事に、石熊童子は立ち上り、
「都よりいかなる人の迷ひ来て
酒肴のかざしとはなるおもしろや」
と繰り返し二三度舞ひました。渡邊綱はこれを見て
「年をへし鬼の岩屋に春の来て
風さそひてや花を散らさん
と面白げに舞ふのでした。かくて次第に鬼共も酔ふて倒れ童子も今は苦しげに、
「それがしも酔ひ過ぎた我か代りには二人の姫を残しお相手させる。ゆるりと飲まれよ」
とて奥の一間に入りました。頼光は後見おくりて姫君達を近く呼び、
「今宵こそ鬼共を平げて、お身達な都へ返しまゐらせん。これより鬼の伏しどへ連れ行かれよ」
姫達は喜び乍らいそいそと案内する事となりました。頼光始め六人は笈の中より鎧兜を取い出し剣を持って心の中には三社の神を祈り乍ら奥の間さして行くのでした。石橋を渡って広い座敷を一つ通りぬけるとそこは酒顛童子の寝所となってゐます。
四方には燈火を高く立てて、逆鉾が立てならべてある中に一文に余る童子は倒に髪の間から角を出し、手足を四方になけ出して寝てゐます。その時不思議にも亦老翁が何處からともなく現はれて、
「六人の者達よくも参った。童子が手足は痺れさせてあるから働くことは出来まい。頼光は首を切れ残る五人は前後にたち廻りずたずたに切り捨てよ」
といふ言葉の中に消えて無くなりました。六人は全く三社の神の御援けと教への通りに太刀をぬき一度に寝所にかけ込んで、頼光は真先に酒顛童子の首を切り落しました。すると恐しい大きな首は眼を剥いて、天地もひげく様な、うなり声をあげて空に舞ひ上り頼光めがけて只一噛みと飛ひかゝりました。しかし頼光の兜は三社の賜ひし神の星兜の事とて鬼の牙も通りませんでした。渡邊綱以下五人の者は、酒顛童予の大声に驚いて集り来る手下の鬼共を切りまくりました。然し鬼の第一の手下茨木童子は中々強く渡邊綱と渡りあって負けさうにも見えませんでしたが終に頼光のために斬り殺されました。其の他の多くの鬼どもは酒顛童子茨木童子の殺されたのを見てとても駄目と思ったか、一目散に逃げてしまひました。頼光は総べての鬼を平げて姫君達を助けだし、大江山に向ふた下野判官の軍勢を引きしたがへ、都へ帰られらことになりました。
酒顛童子の首を槍先に貫さ仲間六人でさし上げて其の後には騎馬の武者二百人か従ひ行く勇ましい姿を見んとて近国から集る者は道の両側に押し合ひました。京へ入って見ると東寺、朱雀、大宮、六條の辻々は今日こそ鬼の首を見ようと待つ人ばかりで通行も出来ませんでした。
かくて童子が首は六條油小路から東へ通って河原に出し検非違使の手で曝し首にせられました。
頼光始め鬼退治の人達は直に参内しましたが、一条帝も叡感ましまし、左馬頭源頼光は肥前守に兼任せられ五人の人達もそれぞれ叙位がありました。また捕へられてゐた姫君達は再び合へぬと思ふてゐた父母の人達に迎へられ嬉しさのあまり只泣き人るばかりでありました。 (「前太平記及びお伽草紙に據る)
(『天田郡志資料』) |
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