神戸郷(かんべごう)天田郡
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京都府福知山市 |
天田郡神戸郷の概要《神戸郷の概要》 神戸郷は、「和名抄」刊本にみえるが訓を欠く(高山寺本には見えない)。他にみえず遺称もなく詳細は未詳。「和名抄」丹波国天田郡十郷の1つ。「地名辞書」では旧三岳村、「福知山市史」では旧金山村一帯と推定している。いずれも確証はない。 『横山硯』に、明智光秀が横山城(福知山城の前身、塩見信房の居城)を陥れた時、荒河にあった支城「中山の城も数万勢に取巻かれ、主も家来もあやうきながら、取巻多勢を切抜かんと打合ひ、互に大刀疵を蒙りて神戸庄へ逃げ行きけり」とみえる。古代神戸郷との関係は不詳ながら、ともかく神戸という地名がみえる。この時は金山方面へ逃れた者も多かったようで、そちら方面にあったものかも知れない。 なお「大同類衆方」に「川守楽 丹波国神戸鴨等之家爾所伝方」と見える。 神戸郷の主な歴史記録『福知山市史』 神戸郷 和名抄の天田郡の中に出るのであるが、今その地名を伝える地は見当たらない。大日本史国郡志にも今不レ詳としており、日本地理志料は拠レ図按レ之川口荘有二天津・大呂・行積・癌木・一尾諸邑一或可三以擬二神戸郷一附以侯レ攷といっている。故に大日本地名辞書にも「今詳ならず、三岳村古郷名を缺く、此歟と云ふも徴証なし」とし、参考のため次の文を挙げている。 大同方云、川守ノ薬、丹波国神戸鴨等之家爾所レ伝方、原老大穴持命乃方也、瘡類?疔毒、小児胎毒、諸悪聚、上気眼疾与之 大同類巽方という平安時代の医薬に関する書物に川守薬と出、それが丹波国の神戸(社領民)鴨等の家伝の処方(薬の調合法)であるという意味であろう。そこで川守が今の加佐郡大江町河守のことであるかどうかということであるが、和名抄の天田郡でどの郷にも属しない部分は、旧金山村から旧上下川口両村の北部にかけた、加佐郡に近接する部分だけとなる。加佐郡の方を見ると、天田郡に接するところに旧河西村と旧河守上村があるが、吉田博士の地名辞書には、和名抄の河守郷は大江町成立以前の河守町と、河西・河東の両村を合わせた地域を指したようであると書き、その上、大同方に丹波神戸の川守薬とあるのはこの地の方剤であったのであろうとしている。そうして和名抄には別に加佐郡にも神戸郷があり、これについては博士は大江町の河守上村のことであろうとしている。以上を総合して考えると、天田郡の神戸郷は加佐郡の神戸郷と持続して、どこかの神社領となっていたもので、確たる証拠はないとしても、旧河守上村には例の元伊勢河守大神宮(古くは外宮のみと思われる)があり、その社領とも考えられないものか。あるいは前記大同方にいう鴨等から、京都加茂神社に関係があったものかもしれないが明らかでない。以上の点から考えて、天田郡の神戸郷は旧金山村辺であったと考えられる。そこで大同方に丹波国神戸鴨等之家に伝える薬に、川守(河守)の名がついていても、当時の地理的感覚からみてなんら矛盾を感じないであろう。 伝説関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『天田郡志資料』各巻 『福知山市史』各巻 その他たくさん |
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