京都府福知山市観音寺
京都府天田郡西中筋村観音寺
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観音寺の概要
《観音寺の概要》
由良川南岸の市の一番東で、綾部市に接する。南部の集落に名刹高野山真言宗補陀落山観音寺(「あじさい寺)があり、地名はその寺名による。
当地は今は天田郡に属するが古代は何鹿郡高津郷の地とされ、鎌倉時代には皇室領六人部新庄、南北朝期には天竜寺領六人部庄高津村(のちには下高津村)。
東南部に条里制の遺構が残る。また小字行江田は中世の六人部新荘下高津にあった名田行枝の遺名とされる。
観音寺村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、寛永10年からは綾部藩領、寛政12年には大部分が幕府領となる。
幕府領は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、綾部藩領は同4年綾部県を経て、同9年いずれも京都府に所属。同22年西中筋村の大字となる。
観音寺は、明治22年~現在の大字。はじめ西中筋村、昭和24年からは福知山市の大字。
当村は両墓制で、村西端の丸山を上った所に埋葬され(埋墓)、観音寺境内裏山に墓石がある(祭墓)。天田郡内唯一の両墓制の地とされる。
《観音寺の人口・世帯数》 669・276
《主な社寺など》
観音寺遺跡
村の西北部小字大木巻おおぎまき)から大正3年石剣が発見された。材質は黒色の粘板岩で総長21.2センチの磨製、鋒部は細長く双刃をつけ、中央に鎬があり、九州北部や中国方面に出土する細形銅剣と酷似する。
また大木巻の地続きの小字中宮(なかみや)では、昭和26年弥生式土器・土師器・須恵器の破片と木炭が発掘された、相当長い間の住居跡と考えられた。その後発掘調査がなされ、福知山市と綾部市の境の鉄道から広域農道間くらいの自然堤防上に立地した縄文時代~中世の集落遺跡。弥生時代中期は集落のまわりに環濠が掘られ、その外側に方形周溝墓や土坑が見つかり、墓域として利用されている。分銅形やセミ形の土製品などが出土する特異な遺蹟として知られる。
「観音寺遺跡」
高野山真言宗補陀落山観音寺
あじさい寺として有名。福知山花の十景、ツユ時1万株のあじさいが境内を埋め尽くす。「関西花の寺第一番霊場」でもある。
本尊千手千眼観世音菩薩。当寺所在地はもと何鹿郡に属していたが元禄13年国絵図改めで天田郡に編入された。養老2年に法道仙人が開創し、その後康保元年に空也が中興したという古刹。鎌倉期には寺坊1、000余を数えたとされる、天正の頃8院があったが、寛政頃すでに多門院・大聖院を残すだけとなり、近代にはそれも廃された。両院は興村・観音寺村両村の氏神天日大明神(式内社阿比地神社)の祭祀を執行していたが、明治2年それを失った。現在は本尊のほかに、観音菩薩磁像・仁王像など、鎌倉期の文書6点はじめ近世末期に至るまでの古文書を数多く所蔵し、「福知山市史」「綾部市史」に所収されている。
本堂(十一面千手千眼観音堂)↑ 境内案内図↓
仁王門↑ 明治29年の台風に倒壊し、昭和6年に鎌倉様式で再建されたという。
みごとなあじさい! ちょっと見せてもらいましょう。
写真写すならベスト位置のあじさい庭園を向いた庫裡(?)のガラス戸には黒い幕がかけてあり、庭のあじさいをよく写すことで写真家諸氏の間では知られている。
小国鶏↑オスとメス。尾の長さが10メートルを越えるような尾長鶏の原種だそうで、平安時代初期に中国の昌国から来た鳥だそう。ワシラも写しといてくれヤ、と近づいてきた。
そんなにこっちへ来るな、うまく写せんぞ。人間のように顔を正面にして見つめるのはムリらしく、横顔で見つめてくる、目が顔の横に、耳の位置に付いているから仕方ない。ジュラシック・パークのシーンを思い出すが、オマエはたぶんチラノサウルスか何かの子孫だな。
昭和16年1月に天然記念物に指定。主な飼育地は京都府、三重県など。
やまどりのおの しだりおの ながながしよを ひとりかもねん。
人麻呂の頃にはまだいなかっただろうから、この鳥ではなかろう。
下の2リン、葉っぱのように見えるが、花だそうで、「アジサイの花」と呼んでいるものは本当は葉だそうで、もう少しすると色が変わって青くなる、赤くなる、どちらかだったが、そうした珍種だそう。アジサイといっても色々、さらに変身し、進化している、境内には百種ばかりあるそう。
観音様の霊力で眼病が治り再び光明を得たお礼に七色に変化する光の花あじさいを数本植樹されたのが「あじさい寺」のはじまりだそう。
十一面千手千眼観音も薬師さんと同じように元々は当地一帯の鍜冶屋さんに信仰された観音さんではなかろうか。そう言われてみれば、そうした所によく植えられているような気もする。
観音寺山城
城主大槻将監という観音寺山城が観音寺の東の山にある。
「観音寺城跡」
《交通》
《産業》
《姓氏》
朝倉氏
朝倉氏 観音寺村小根
先祖ハ但馬国ヨリ出 越前国ニ住 朝倉左エ門督義景討死後 子孫此所ニ住ス 今朝倉伝兵衛一党分家アリ 紋木甲図ハ越前永平寺ニ在 当村寺ノ弁天ノ並 石碑有 法名梅雲院殿大球宗元大居士 天正元年癸酉八月廿日
(『丹波志』) |
古跡に朝倉義景の墓があるという。
当村の庄屋もつとめた朝倉氏の先祖は但馬国より出、越前国に住み、朝倉左衛門督義景討死に後に子孫が当地に住みついたと伝える。義景が越前の一乗谷で討死したのは、この碑銘と同年同月だそうで、子孫が祖霊を祀ったものかという。
兵庫県養父郡八鹿町に朝倉という所があるが、越前一乗谷の武家・朝倉氏はここの出という。日下部氏で、日子坐王あるいは表米親王の裔としている。
観音寺の主な歴史記録
『丹波志』
観音寺村興村ハ往古何鹿郡ノ地也卜云 興村ハ観音寺村ノ出戸、昔日下高津ト云地也卜云
茂正按ニ観音寺村ヲ中トシテ東ハ高津村也 西ハ奥村也 延喜式阿比地神社ハ何鹿郡ノ内ニ出其地乎 今建興村 然則興村ハ往昔何鹿郡タルコト明シ 延喜式ハ今九百有余年歳霜称久
地変改替所トシテ不有ト云コトナシ 此社モ何鹿郡ノ地ヨリ天田郡内ニ移シ祭ルコトモ知ルヘカラス 然レトモ右両村ハ高津ノ分村ト云ヲ以テ考レハ元何鹿ノ内タルヘカラス 今無拠 正保亥年且元禄庚辰年両度ノ国絵図改メニモ天田郡郷村小中ニ在 依之天田郡ニ属シ世置 元高津村一箇ノ地ヲ両部二分タルコト不知所以 共拠最不審ノコト也 委神社ノ部ニ出。 |
『福知山市史』
観音寺の草創伝承
観音寺の成立を示唆する最初の信頼できる史料は、建仁二年(一二○二)三月付の「観音寺別当職補任状」である。これは平高盛というものを観音寺の別当職に任命したものであり、任命者
は花押があるが具体的にはわからない。また、別当職に任命された平高盛という人物もどんな人物かそれを裏付ける根拠は今のところは無い。うがって考えれば、六人部新御荘政所宛であるため、六人部新荘の領家職が平頼盛(清盛の異母弟で池大納言という)であり、六人部新荘は鎌倉時代に入り源頼朝が台頭してきても、命の恩人の子供の頼盛へは平家没官領注人から除いて、寿永三年(一一八四)四月五日に還付し、その子孫か庶流が領家として伝領したものと思われる。
これによって観音寺が、中世鎌倉時代初期の建仁二年三月以前に、六人部新荘の高津に成立していたことがわかり、おそらく平安時代にさかのぼることが確実視される。建仁二年三月以前の状態については『観音寺文書』では明白でない。
寺伝では開山を法道仙人とし、仙人が奈良時代、元正天皇の養老四年(七二○)に一霊木をもって三体の観音像を刻み、一体を加佐郡大江町室尾谷の観音寺へ、もう一体を兵庫県氷上郡市島町岩戸寺へ、またもう一体を観音寺へ分置したといい、その時が、観音寺のはじまりであると伝えている。そののち、村上天皇の応和元年(九六一)に阿弥陀聖とか市聖とかいわれ、京都で念仏を弘通した空也上人が来寺し、観音寺を興隆させたと伝承し、その空也を中興開山と位置づけている。永保年間(一○八一~一○八三)には、後三条・白河天皇の戒師であった真言宗小野流の盛尊僧都が来寺したと伝え、また仁安年間(一一六六~一一六八)には、真言宗東寺金剛院実賢僧正が来寺して以来、多くの学侶の入山をみると同時に、寺坊も次第に建立されたと伝え、多聞院・宝性院・実相院などが生まれて寺運の興隆をみた。
鎌倉時代には、武家衆の尊信保護をうけ、当寺の寺宝として、執権北条時頼の寄付といわれている観音の磁像を伝えていた。しかし、先年火災の時焼失した。室町時代には、多くの寺領の寄進をうけ、当地方における名刹として、その寺勢を保っていった。現在、観音寺は市内字観音寺にあって、補陀洛山観音寺といい、真言宗高野山派の末寺である。近世よりこの方、本尊千手観音は三十三年ごとに開帳を行なう風も生まれていった。
観音寺の信仰
観音寺の草創に関しては、鎌倉時代をさかのぼり平安時代に求められることは、一応肯定できるものである。少なくとも、中世以前に多くの宗教の密教化がはかられ、荘園制ないし真言権門体制の勢力が拡大されるなかで、観音寺はそれらと結びついて、寺域の確立をすすめていったものと想像できる。そして六人部荘という、古い荘園支配における領主側の寺社の宗教を利用した統制や、また村落生活における真言密教の呪術性をふまえたことなど、あらゆる社会構造の次元で宗教的現象をつくり出していった。その宗教的現象のうち、観音寺のもつものの一つとしては、観音信仰があげられよう。
『観音寺文書』のうち「左衛門少尉中原朝臣寄進状」と「左衛門少尉中原朝臣願文」には、鎌倉時代に観音寺が観音信仰の盛んな寺であったことを認めることができる。その文書には、「不断念仏供料田畠」が中原朝臣から観音寺へ寄進され、「不退の勤行に励ませ、観音霊場として未来の盛昌を期し」、「安養浄刹の妙台」に到達できることを祈らせた。また「六趣群類」からの「抜苦の出離」を得るべく祈らせた。
これらの願文で注目されるのは、六道に迷う亡者を救い、浄土に導こうとする十世紀以降の浄土教の成立期以降の来世的観音信仰の形態で展開されていたことであろう。十世紀以前は、密教的観音修法であって、個人的・来世的というよりは、やはりそのころの仏教の特色とでもいえる護国的な傾向の内にあったものである。ここでいう六趣とは六道のことであって、衆生がそれぞれの業によって赴き住むところを六つに分けたもので、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道をさす。また抜苦の出難というのは、この六道に迷う衆生を浄土に引摂することであって、観音が六道に各々あって、亡者が六道のいずれの世界へ行くのも防ぎ、第七の世界である浄土へむかわせるという思想である。これは、いわゆる六観音信仰ともいう信仰形態に近づいているといえよう。つまり六道輪廻、堕地獄の恐怖が深まり、その恐怖が観音により抜苦代苦できるという思想で、六道抜苦のために観音を供養するという思想と結びあっていったのである。また、先の「左衛門少尉中原朝臣願文」では、「念仏転経の行」とか「不断念仏を奉唱」して、西方極楽往生を求める方向での信仰でもあった。この場合でも観音の効験がはたらくといっているのである、つまり観音の上には阿弥陀があり、観音を頼むことにより阿弥陀仏とともに来迎して、衆生を極楽に導いてくれるのである。この信仰形態は来世信仰として、恵心僧都源信の天台浄土教の発展のなかで極楽浄土の信仰と観音信仰が結びあったものである。浄土教の信仰では、阿弥陀の脇士として、つねに観音を設定していく信仰形態が固定化されていくことは、こういった意味からである。
観音寺は山号を補陀洛山といっている。この由来も補陀洛往生の信仰からつけられたものであろう。補陀洛山というのは、観音のいるところで、修行の未熟な衆生は、まずこの補陀洛山に落ち着くことが大切であって、更に前述の西方極楽浄土を願うものは、ここから極楽浄土へ観音によって送り届けてもらえるという考え方から設定されているのである。
この信仰の民俗的発展は、平安末期の熊野那智の補陀洛山信仰が盛んになり、那智の熊野詣をして観音の利益にあずかろうとした風習が生まれて以来のもので、当地の観音寺にもその考え方が入ってきたものと解せられよう。平安末期には観音巡礼が次第に盛んとなった。以降、中世社会の京都市中では七観音詣として観音霊場を参詣することが盛んであったことは、公家衆の日記にも多くあらわれている。それとともに、周知の西国三十三所札所を巡礼する風も生まれた。後世になると、庶民の間で西国巡礼が流行するが、霊場が広い地域にまたがり、お詣りすることが困難となるので、丹波霊場を、さらに両丹霊場をと近世になるに従って発展させていくのである。観音寺は丹波西国第一番の霊場とされている。
観音寺の信仰形態のもう一面は、祈祷寺の性格をもっていたことである。真言密教を勤仕する宗派としては、公私にわたる祈祷を行なうことは当然のことと思われる。京都市中・奈良の大寺院は国家鎮護などを目的に国家から多分の保護が加えられて、祈祷寺的傾向にすすんだ事はよくわかるが、それでは奥丹波の中世の時代に、観音寺という一地方寺院がどんな祈祷的性格をもっていたのであろうか。
『観音寺文書』によれば、鎌倉時代の文永十一年(一二七四)八月に、観音寺別当職には僧玄全というものが、「大夫公の附属を以て」補任されており、この大夫公というのは北条氏一族のものであり、この人の力によって玄全が補せられている。鎌倉時代には観音寺は北条氏の力が相当加わっていたことを物語っている。弘安八年(一二八五)四月付の「某田地寄進状」(『観音寺文書』)には、
(花押)
寄進 御忌日田事
合参段者 行枝内長江
蓮修房
右件田は、亡父尊霊の御忌日田として寄進し奉る所也、下地に於ては蓮修房永代を限り進退領掌せしめ、 而て毎月十四日、殊に懇切を抽で、彼の後の菩提を訪じ奉る可きものなり(後略)とある。この場合の花押は誰か判別に苦しむのであるが、北条氏流の花押には間違いなかろう。北条某は亡父の尊霊を祈らせるための御忌日田として、行枝内長江を選び、三段を観音寺に寄進し、毎月十四日にその後世のための勤行祈祷を執行させているのである。今のところ十四日を命日とする北条氏関係者の具体的な人はわからない。
本来、霊位は祀ってなごむものということで、施与・供養するということが生じてくるのである。宮廷・貴族の中で種々の儀式をもって、古代社会以降この形態を育てていった。例えば、鎌倉時代のはじめの「吾妻鏡』には、崇徳上皇の菩提を追善することが度々述べられている。福知山の隣、綾部でもそのため崇徳院領であった栗村荘に対し、文治二年(一一八六)三月二日に、源頼朝から武士の狼籍を停止し、領家であった故前宰相藤原光能の後室比丘尼阿光の進止に従うべきことを命じている。これらは、皇族・宮廷人の後世安穏、菩提追善、鎮魂儀礼の一部分として行なわれていた例である。
鎌倉時代ともなれば、仏教の浸潤のなかで、観音寺という特定の場での方式化された儀式によって、故人の鎮魂を期待する儀礼をもたらした。それは、丹波の観音信仰が霊場として、早くから観音寺の霊地化をすすめ、真言密教の秘法を修す形態と結びついて、特定の人の追善を祈祷するという信仰を成立させていたものと考えられる。
時代は下るが、文明十一年(一四七九)正月二十五日付の「大槻盛雅田地寄進状」(『観音寺文書』)には、何鹿郡の国人大槻豊前入道盛雅が観音寺へ田地寄進を行ない、観音寺に対して「天下泰平から「後生善処」の御祈祷を行なわせている。この場合は、丹波の守護細川政元の慾意のためであった。翌十二年も盛雅により寄進され、さらに天正二年(一五七四)十二月の大槻監物丞吉高の畠寄進状が残っているが、いずれも観音寺に対して、武家衆はその安全を祈らせる性格のものであった。
以上のように、観音寺は観音信仰をなかだちとして、有縁の追善のための、広義の祈祷寺であることを根本の動機として祭場化されていった特色のある寺であったといえる。
観音寺領について
『観音寺文書』で残っているうち最も古いものは、平高盛を観音寺の別当職に任じた建仁二年(一二○二)の「観音寺別当職補任状」である。それには「六人部新御庄政所」とあり、それ以降の文書、例えば、文永十一年(一二七四)・弘安八年(一二八五)の僧玄全の別当職補任状と如意輪供田の寄進状、また南北朝時代へかけての文書には、ほとんどが観音寺の所在を「六人部新庄下高津」などといっている。六人部荘はよく知られているが、六人部新荘といっているのである。こうしてみると、観音寺領の多くは、六人部新荘に存在したことになる。
しかし、六人部新荘はいつごろ成立していたのか分明しない。うがって考えれば、源平の合戦後、源頼朝は多くの平家没官領を得たが、『吾妻鏡』の寿永三年(一一八四)四月六日の条にあるように、平家の残党、平頼盛には彼の所領の多くを返した。そのなかに、六人部荘が含まれている。なぜかというと頼朝はその昔、平治の乱で捕えられ、平清盛にいまにも殺されそうになったとき、平頼盛の母、つまり清盛からいえば継母にあたる池禅尼のはからいで一命を助けられた。源頼朝はこのことを省みて、命の恩人の子平頼盛には彼の所領を返したのである。このようないきさつで伝領されていくうち立荘された時期があったのであろう。いずれにしても、荘園の伝領曲折のなかで成立していったと思われる。寄進された観音寺領の多くはこの六人部新荘に存在している。
そこで、これらの文書には、観音寺の存在する下高津を「丹波国何鹿郡下高津」としている。従って観音寺は天田郡ではなく、何鹿郡に入っていた。いつごろまで何鹿郡になっていたかというと、寛文六年(一六六六)の江戸時代前期まで『観音寺文書』では認めることができる。同文書で、このことに関して、元禄十三年(一七○○)十一月二十三日付の「陣取禁止の某下知状」に「何鹿郡の事、元禄十三年国絵図改の節、天田郡に相極り候」といっている。従って江戸時代中期の元禄十三年に国絵図の改めが行なわれたとき、下高津の観音寺は天田郡に編入されたのである。
観音寺に寄進された寺領の内容は、文書にあるもののみを拾ってみれば、(イ)不断念仏供料田畠、(ロ)如意輪供田(二通)、(ハ)御忌日田、(ニ)燈油田畠、(ホ)妙法経田、(ヘ)鎮守新宮田畠、(ト)四季護摩供田、(チ)霊供田、というような寄進の名目をたてている。中世の地方寺院では、このような名目をもうけて、土地の豪族などから寄進をうけることは、そう珍しいことではない。内容としては、施主の後世安穏・罪業滅生の祈祷を行なわせ、また、修理興行の純然とした観音寺維持費として寄進されている。これらの下地は、観音寺内の住僧が、その作職を得て奉仕していたのである。
文書のなかで、その寄進された土地の所在を示すのに、「嶋田里廿三の坪」に一段とか、「山田里十五の坪」に五段と、「里」や「坪」という言葉を使っていることは、大化改新(六四五)以降、つくられてきた条里制の遺構としてみられる。そういった点からいえば、観音寺一帯は、相当、古くから開かれてきたところである。
南北朝時代から六人部新荘は六人部荘と同じように天龍寺領となっていた。このころには、六人部新荘は六人部荘に包含されていたと思われる。南北朝時代以来、五山官寺領は、幕府・守護大名など武家の寄進・保護をうけて拡大されていった。六人部荘も、そんな傾向のなかに吸収ざれ天龍寺領となっていったのであろう。『観音寺文書』の中に、天龍寺住持職の春屋妙葩の袖判をもつ安堵状・寄進状が四通残っており、それらには、「天龍寺領丹波国六人部荘内観音寺」などとある。
明徳三年(一三九二)八月二十八日付の『天龍寺重書目録』中の文書には、
丹波国六人部荘事、自二五辻宮一譲給候、仍年貢内毎年弐百
貫文、自二天龍寺一可レ有二沙汰一候、為二面々菩提一譲状相副、
所レ令レ譲二与宗サン御房一、如レ件
明徳三年八月廿八日 久世 在判
とある。これは、六人部荘の所職を五辻宮祥益が、その子幸宮久世に伝えていたものを、さらに明徳三年八月二十八日に、久世から宗サンに譲ったものであるが、このときには、すでに六人部荘の沙汰管理権は天龍寺が握っており、天龍寺から年貢の一部の二百貫文を五辻宮に送っていたことがわかり、六人部荘の実質は天龍寺が吸い上げていたと思われる。そのため『観音寺文書』でいうように、六人部荘の観音寺領は天龍寺からの安堵・寄進をうけていたのである。五辻宮とは、中世における親王家の一つで、京都市上京区五辻に殿宅を構え、初代は亀山天皇の子守良親王であった。そもそも六人部荘は蓮華心院(京都市右京区常盤)領として生まれた荘園である。
戦国時代の観音寺
細川政元は細川勝元の子で、父のあとを継いで丹波の国・摂津の国の守護を兼ね、管領にもなり権勢を強めた。将軍義材(義稙)をやめさせて義澄を将軍の位につけ、以降、専横な態度が募り目にあまるものとなった。この政元に反抗したのが家臣の薬師寺元一で、政元の養子澄元をたてようと計画したが失敗した。このような情勢のなかで、永正四年(一五○七)四月政元は急に京都を留守にして若狭へ下った。若狭の守護武田元信が隣国の丹後の一色義有を攻めるのに加担するためであった。ところが『細川政元記』などの記すところによれば、いったん若狭に下った政元は、やがて奥州辺まで、波々伯部源次郎・須智源太など丹波の国人を供にして修験道を極めるための廻国修行に出ようとした。驚いた武田元信などの諌止で政元は思いとどまり、丹後の国への攻略に専念することにした。政元という人物は修験道に凝り固まった人であったので、こんな計画を思いついていたのである。
以上のような政治情勢の進むなかで、同四年四月二十六日には、細川政元の被官香西一族も数千人の軍勢を率いて嵯峨から丹波に下った。翌二十七日、政元は丹後から丹波に帰り、丹後一色氏攻めの準備に本腰を入れた。五月、細川政元は何鹿郡高津に陣をとり、澄元は牧(福知山市)に陣をとり、澄之は丹後の国田辺に陣を布いて、内藤貞正・波多野元清らの丹波勢を従えて、丹後の一色氏の配下の石川直経を加屋城に攻めた。一方、武田元信らの本隊は、一色義有の阿弥陀峰城を攻めた。この攻撃に対して、一色義有の軍勢もよく戦ったので、武田元信は城を攻め落とすことはついにできなかった。『宣胤卿記』には「丹後国合戦、一色と武田也、細川は武田に合力す、武田方多く討れ云々」と述べているように、かえって武田方の方に分がなかったようである。
福知山の牧は丹後へ通ずる要所として澄元が本陣にし、綾部の高津一帯には政元の本陣が設定されていた。そこで永正四年(一五○七)六月二十一日付の『観音寺文書』(「陣取禁止の某下知状」)には、「丹波国何鹿郡下高津観音寺事、去る文安以来、守護使不入の段は勿論、殊に去今両歳、在陣せしむるに依って寺中荒廃」と述べている。これによれば、永正三年・四年の両年は、観音寺が武家方に使用され、軍勢の出入りが激しく寺がひどく荒廃したことを嘆いている。『観音寺文書』の「永正四年、細川殿寺領分御書」にも、細川政元が四月二十六日に丹波へ下向し、上高津の隠竜寺を宿所に、澄元は観音寺を宿所に利用していたことを述べており、先の寺中荒廃というのも、細川政元の一色義有攻略の際に関係したものである。そこで「向後に於ては、取陣、寺内借宿の段一切停止し
屹」と、花押は誰か分明でないが、おそらく幕府の奉行人でもあろうか、観音寺を今後、陣取に利用してはいけないと下知を下している。戦乱などの時には、多くの軍勢が移動すると、大体、地方寺院はその陣所に選ばれるのであるが、観音寺も、陣所に使用されたときがあったといえる。永正四年十一月二日付の『松尾大社文書〔社蔵文書〕』)では、隣りの雀部荘でも次第に年貢の取り立てもうまくいかず、かなり荒れてきた情勢を述べているのであるが、あわせて、当地方の戦国時代への兆しが出てきていたものといえるのではないか。
前述の細川政元は高津の陣をあとにして、京都に帰った。しかし、それより約一ヶ月のちの六月二十三日、彼のもう一人の養子澄之が家臣の香西又六(元長)・薬師寺長忠と組んで、政元を襲い殺した。この原因を『宣胤卿記』には、澄元が細川の家督を継ぐと、彼の重臣の三好之長が権力をにぎるので、澄之と組んで香西氏らが実権をにぎろうとするはかりごとであったと伝えている。 |
『福知山市史』
観音寺遺跡(字観音寺)
昭和二十六年九月、市内字観音寺小字中宮において桑園を水田化するために掘下げ工事中、地下約一メールのところから素焼の土器と木炭のかけらが発見された。明らかに弥生式と思われるものと、土師器・須恵器の破片が散在していた。ほとんど小さい破片ばかりで、中に完形品としては直径八センチの灰白色一部黝色の須恵器の小皿一個にすぎなかった。そこは砂賀壊土を約一メートル掘下げると円礫を交えた礫層ではなはだ堅いところであった。出土した木炭も指頭大のもので単独に発見されたので、現地で焚火されたものか疑わしかったが、よく広い面積を掘ればあるいはもっと木炭の集積したところがあるかとも思われる。農夫の話によればこの地点を含み東西数百メートルだけが礫層であるという。発掘地も一ヶ所でよくわからないが礫層の堆積及び分布状況と地勢を総合すると、その南方が観音寺のある谷であって、その谷川が由良川本流に向かって直交的に流れ注いでいた時代に、その谷の方から流されて来たものではなかろうかとも考えられた。ただ注意すべきは、同地に極めて近接した小字大木巻から発見された石剣についての、京都府史跡名勝天然記念物調査報告[以下略して京史調報告という]第三冊の報告文である。
此ノ剣ヲ発見セル堂屋敷ハ観音寺村落ノ北西ノ平地ニアリ、由良川ノ南岸ヲ去ル僅ニ二町ノミ。此ノ辺一帯土地少シク
隆起シテ一部分ニモト中ノ宮神社ノ鎮座セン処アリ、前年合祀サレテ今其ノ址桑畑ト化セリ。遺跡ノ局部ハ社祠ノ北西、
道路ニ接セル地区ニシテ、モト同ジク桑畑ナリシヲ、約二尺内外堀リ下ゲテ田ニ変換シ、委員実査ノ際ハ麦ヲ植エ、何等
特違ノ点ナカリシガ土壌ニ混ジテ薄手素焼ノ土器片存シマタ斎址ノ甕ノ残缺一ヲモ得タリ、発見者朝倉半蔵ハ既ニ故人ト
ナレルヲ以テ、石剣出土ノ状態ヲ詳ニスル能ハザリシモ、里人ノ談ニ依レバ此ノ畑地変換ノ土工ノ際ノ発見品ハ石剣ノ外
ニ素焼ノ土器類、銅ノ細長キ品、五輪塔ノ用石等アリシト云フ。就中銅製品ハ今猶ホ朝倉氏ノ遺族コレヲ保管シテ一見セ
シガ、五輪ノ塔ト共ニ後代ノモノト解セラレ、堂屋敷ナル字名卜聯関セルガ加キモ、素焼ノ土器ハ古キモノト見ルベク、
今実物存セザルモ、上述遺跡ニ存セン破庁ヨリ推スルニ弥生式ノ系統ニ属シ、石剣ト時代ヲ同ジクセルモノノ加シ。
右の小字大木巻という所は、今回土器等の発見された小字中宮の西に、溝一つ隔てて相接する地点であって、両字の地はもともと一体と考えて然るべきであろう。そうしてみると今回中宮で、弥生式土器並びに土師器・須恵器等の破片が発見されたことは偶然ではない。やはりこの地域に長年の間、人が住んでいた遣跡であるとも考えられる。なお、この西方約五百メートルの字興には、別項に述べる台付無頚壷(第Ⅳ様式)が発見されたのであって、この付近もまた、観音寺の両弥生遺跡の連続地と考えられる。
さらに広範囲に考えるならば、綾部市字青野の郡是製糸工場付近に弥生式遺物が散布すること、同市字岡で磨製石斧が発見されたことなどが思い合わされて、由良川氾濫原の中央部に、東西にこの種の遺物が分布することも想定されるのである。由来由良川は幾千年の間にあるいは南にあるいは北にと蛇行したことであろう。最も古い時代にこの構造谷の南の山ろく地帯(今の綾部井堰から高津・石原をへて前田に及ぶ低地帯)を流れたこともあったらしい。しかし現在は、由良川は総体的にこの谷の中央より北側を流れているが、この河道がほぼ決定する過程においては、中島のような時代もあって、観音寺・輿・石原の北部(石原の北部、戸田に至る道路の西側からは須恵器を出している)のような微高地形的な自然堤防が出来たものであろう。そのころ既に水稲耕作を覚えていた住民は、水田に近いこの辺に居を構えていたものとも想像されるのである。(字中宮の造物が局部的な礫層から出ることだけは前記のごとく別に考えられることである)これらの地域は、現代においては由良川の洪水時には多くその氾濫地域に入るところであって、決して好ましい住居地ではないが後にも述べるように、江戸時代後半でさえ市内字段畑の北方の集落は高地へ移ったし、下前田(前田東村)のごとぎは、明治の後半に南方段丘上へ移転した事実がある位であるから、この氾濫原に人が住み得なかったとは断定出来ない。こういうことを考えるためには、由良川の堆積作用や土地の隆起・沈降運動によって、洪水の状況にも相当の変化があったことを前提におかなければならない。
観音寺の石剣(字観音寺)
市内字観音寺小字大木巻のうち、堂屋敷と称する部分から大正三年五月、土地所有者が畑地を掘り下げて田としようとして土工に従事していた際、偶然石剣を発見した。この石剣については、かって考古学雑誌に紹介され、また京史調報告第三冊に梅原委員により詳細に発表されているから、それによってその大略を紹介しておこう。
この石剣は有樋式細型で、山口県及び岡山県で発見された石剣と酷似して、背をはさんで相対した二条の樋のあるのが特徴である。黒色の粘板岩をもって作った総長二一・二センチの磨製品である。鋒部は細長く両刃をつけ、中央にしのぎがあり、断面は届平な菱形を呈する。茎がこれから延びて関(まち)の部分には両側に少し切り缺きを加えている。身の下方中央茎の両側に円い孔を各一個あけている。由来九州北部及び中国方面には細形銅剣が出土するが、それとの間に密接な関係が存することが考えられる。岡山県飽浦発見の銅剣には、関に近く二孔をうがっている点まで、この地出土の石剣と同一の様式を示している。この場合人類の利器発達の順序からすれば、石剣が細形銅剣の原型であるとの考えも成り立つが、この石剣が、石器として自然に発達すべき形としては余りに技巧に過ぎ、かつその製作に当たり、金属器を使用した形跡がある点から見ると、むしろ細型銅剣こそこの石剣の原型であると考えられる。
わが国で発見される細形銅剣は、考古学者の研究の結果、その実年代は西暦紀元前後を中心とするものとされているから、この石剣の作製された年代もほぼ想像されよう。この造跡には土器の破片があり、弥生式系統に属し石剣と時代を同じくするもののようである。
九州大(現福岡大学)教授中山医学博士は、九州北部の弥生遺跡から時に石剣の出ることに注意し、これをもって金石併用時代のものであるといわれているが、この遺跡もまた同じ類に入るようである。銅剣の模造と思われる磨製石剣は、朝鮮半島の弥生式系統の遺跡にもその例が多いが、この遺跡もその間の事情を示す一資料であり、また上代丹波の開発を物語る史跡といわねばならぬ。ちなみに当地発見の石剣は、今東京博物館に陳列されている(京史調報告第三冊)。
思うに、わが国上代において西方から青銅文化が伝播して来た時代に、既に長期の間石器を使用して来て、その製作に熟練していたこの地方の住民の誰かが、青銅は容易に得られなかったので、当時としては珍しい銅剣を模造したものであろう。そうしてそれは実用に供したものではなく、酋長などの権威の象徴か何かに用いられたものと想像される。なおこの遺跡の西方約四○○メートルの地点に、式内阿比地神社が鎮座していることも注目すべきことであろう。梅原博士は京史調報告第五冊において、中郡周枳村の式内社大宮売神社境内の地下の土器包含層から、弥生式系統の土器や石製模造品の出土したことを述べた後で、「これらは上代における特殊の宗教的意義を有するものではなかろうか、との推測に導かれる。古い神社の境域からこの種の遺物を出すものには、大和の三輪(大神)神社、常陸の鹿島神社、下総の香取神社などがある」と述べている。 |
『福知山・綾部の歴史』
興・観音寺遺跡は、綾部市との境に近い、由良川の形成した沖積平野に広がる遺跡である。大正三年(一九一四)、農作業中に偶然有樋式石剣が発見され、古くから一帯に弥生時代の拠点的な集落の存在が予想されていた。
平成元年(一九八九)、近畿自動車道建設工事に先立つ発掘調査において、田圃の下から幅三㍍、深さ一・四㍍の大きな溝が長さ四六㍍にわたり発見され、ここから多量の土器が出土した。溝は緩く弧を描き、およそ直径一〇〇㍍の範囲を囲むものと推定される。溝の内側には竪穴式住居も確認された。土器は、弥生時代中期(四期)に属するもので、この時代の集落遺跡であることがわかった。
その後の圃場整備に関わる発掘調査において、最初に見つかった集落から西に二五〇㍍と北に二〇〇㍍の二か所に、別の溝と竪穴式住居の組み合わせが確認されたのである。
弥生時代の集落は、なぜかそのほとんどが周囲を溝と土塁で囲まれており、環濠集落と呼ばれている。集落の外観は、一種砦のようなものであった。
竪穴式住居などからは、木の葉のような形をした大型の石鏃が出土している。石鏃は、小型の一㌘程度のものは飛距離と速度に優れ、小動物の狩猟に適している。大型の三㌘を越えるものは、飛距離と速度は落ちるが貫通力・破壊力は増す。このことから、大型の石鏃は戦闘用の武器であることが想定されている。縄文時代の遺跡からは、大型の石鏃が出土することはない。弥生時代になって、戦争が起こったのであろうか。この時代の墓から出土する遺体には、まれに石鏃や剣の切っ先が刺さった状態で見つかるものがある。米を作る平和な農村風景は、そこには見られないのである。
平成元年の調査において、分銅形土製品が出土している。昔使われていた秤の錘に似た形をしているため分銅形と呼ばれているが、人の顔を描いたものがあり、呪いの道具ではないかと考えられている。分銅形土製品は吉備地方を中心に出土するもので、他地域で出土することはまれである。また、先に述べた石鏃には、香川県で産出したサヌカイトと呼ばれる石材が使われている。さらに、出土した土器の中には、土の色や模様の特徴から河内地方や瀬戸内地域で作られたものが確認されており、何かを入れて運ばれたのであろうか。土器の作りを見ても、丹後、播磨、摂津などいろいろな地域の特徴が見られる。土器作りは、女性の仕事であったと推定されており、遠く離れた地へ嫁いできた花嫁がいたのだろうか。
いずれにせよ、これらのことから広域で活発な交流が認められるのである。
弥生時代は、どんな時代であったのだろうか。
近年の発掘調査の成果は、想像を超える複雑で高度な社会を営んでいたことを明らかにしつつある。(崎山正人) |
『読売新聞』(2003.12.16)
*弥生中期の環濠跡出土*集落規模の貴重な資料*福知山の観音寺遺跡*
弥生時代から鎌倉時代にかけての集落遺跡「観音寺遺跡」(福知山市親音寺)から、弥生時代中期(一世紀ごろ)の環濠跡が出土し、調査していた府埋蔵文化財調査研究センターが十五日発表した。同遺跡での環濠跡の出土は初。昨年度の調査で環濠跡の東側から多数の住居跡が見つかっており、集落の北西端とみられる。同センターは「集落の規模を知る貴重な資料」としている。
由良川改修工事に伴い、五月から約三千平方㍍を調査。環濠跡は住居跡を囲むように南東から北西に弧を描きながら掘られ、長さ約三十八㍍、幅約四-五・四㍍、深さ一-一・六㍍の規模で見つかった。出土した土器のタイプから時期を判断した。外敵の侵入を防ぐため水をためたと見られ、北から南に緩やかに傾斜していた。
さらに、環濠の西側から、幅約一・五㍍の溝で区切られた長さ約十八㍍、幅約十一㍍の方形周溝遺構も出土。棺を収めた跡は見つからなかったが、環濠のすぐ外側に築かれ、一辺が八㍍前後とされる通常の方形周溝墓より規模が大きく、集落で首長クラス直系の人物の墓ではないかとみている。
同センターは「近くの集落遺跡でも複数の環濠跡が出土しており、由良川沿いでは弥生時代ごろから、複数の集落が政治的な同盟関係を結び、争うようになったのではないか」としている。 |
『朝日新聞』(2002.12.3)
*動物表した土製品出土*福知山の観音寺遺跡*縄文の遺構も発見
弥生中期から中世にかけての逮跡とされていた福知山市観音寺の観音寺遺跡で、動物をかたどったとみられる珍しい弥生中期の土製品が出土したと2日、府埋蔵文化財調査研究センターが発表した。縄文時代の遺構(貯蔵穴)も見つかり、遺跡の歴史はこれまで知られていたより約500年古い縄文時代晩期(約2500年前)にまでさかのぼることが確認された。
弥生期の線刻士製品は長さ6センチ、幅22.5センチ、厚さ1センチ。弥生式土器などと同じ比較的低い温度で焼かれ、目を表したと見られる二つの円と、毛かうろこを表したような細かい筋が何本も刻まれている。
同センターによると、青森県弘前市の砂沢遺跡でよく似た弥生前期の土製品が出土しているが、目に当たる位置に穴が開いている点が違うという。イノシシなどの獣かナマズなどの魚を模したとみられ、農耕儀礼に用いた祭祀用具らしい。
縄文時代の遺構は縦2.5メートル、横208メートル、深さ約40センチの四角の穴。中から深鉢形の土器や打製石器が見つかった。弥生時代の竪穴式住居跡五つと古墳時代の住居跡四つも見つかった。同遺跡は綾部市境に近い福知山市東部に位置し、約10ヘクタールにわたって広がる。試掘で遺構などが確認された約2千平方メートルで5月下旬から調査を進めていた。 |
『福知山市史』
観音寺城(字観音寺)
福知山市の東部、綾部市寄りの字観音寺に、名刹補陀洛山観音寺があり、この寺の東南方の裏山にある遺構が、観音寺城である。規模は小さいが次項の多保市域と同様に、山麓の居館跡とその裏山の「詰の曲輪」跡の遺構とがセットで残っている珍しい城址である。
南から北にのびる尾根筋の東と西は入りくんだ谷で、標高四○メートル、比高にして約一二メートルの先端部の、東西およそ八○メートに 南北およそ三五メートルの部分が、居館跡の遺構と推定できる。東から西に向かって五○センチ程の高低差で四つの曲輪にわかれ、西端部分のほぼ中央部には四メートル四方の矢倉台とも思われる盛土と、南北に走る土塁跡らしい遺構がある。そして東端部分の東南隅には井戸跡らしいくぼ地があって、現在でも水をたたえている。
この居館跡の西端の曲輪跡からジグザグの急傾斜の小道を登ると、居館跡との比高差およそ九○メートルのコブ状の台上に、「詰の曲輪」と思われる三つの曲輪からなる一郭がある。北端の曲輪の西南のところに虎口があり、その外面西側に土塁らしい盛土の遺構が南北にのびている。この曲輪は東西およそ三○メートル、南北およそ二五メートル程で、東側に小さい腰曲輪をもっている。この曲輪より約三メートル高い二番目の曲輪は、東西およそ三○メートル、南北およそ四○メートルの一郭であるが、中央部北面の虎口は、小さいながらも桝形形式をうかがわせる手法である。最高所の主郭は、二郭目より更に三メートル高く東西約一○メートル、南北約七メートルの楕円形の一郭であり、背後の外縁部に上辺二メートに
高さ一・五メートルの土塁がめぐらされている。
この観音寺城址のある尾根筋は、「詰の曲輪」の背後で一旦一○メートル程急傾斜で落下し、再び急坂となって最高所の標高四一六メートルの高岳にせり上がっているが、この高岳の頂上に城郭遺構とも思われる削平地がある。荒木山・鬼ヶ城・龍ヶ城・烏帽子山と同様の居住性をあまり持たない、「繋ぎ」とか「見張り」とかの役目を持った南北朝期の臨時の砦跡ではなかろうか。
『丹波志』の「古城部」に、「観音寺山城 古城主大槻将監ト云子孫不知 家老大槻勢之丞ト云」とある。大槻氏は南北朝期よりその名があらわれ(「大槻旧記」『綾部市史上巻』には、大槻右馬頭清宗足利尊氏に従いとあり)、北部の梅迫の高城山に拠った流れと、綾部市西部の高津を中心とした流れがあったらしい。六人部方面の萩原城・多保市城、そしてこの観音寺城、石原の洞玄寺城の大槻氏は、高津の支流・分流ではなかろうか。 |
伝説
観音寺の小字一覧
観音寺(カンノンジ)
今岡 馬路 江崎 大場 大橋 大坪 大木巻 上川原 鎌石 鍛冶屋敷 岸ノ下 木シキ原 九反田 小守 小島 五反田 沢 里ノ前 下川原 正尺 竹田 地蔵前 中宮 長畑 長江 縄手ノ下 西路 沼上 布上 八反田 畑ケ田 灰田 姫路 東裏 福良 フタ長 細田 丸町 宮ノ前 道ノ上 水取 三ツ長 見粟 山下 山添 行江田 ホシキ原 カクレ谷 カクレ谷 倉谷 堂山 西山 政子 湯谷 難波山 小谷 スキノサキ オバノホトコロ トウカワ 岼ハナ イリズミ 荒谷 コブ谷 広畑 豊堂谷 菖蒲谷 火橙山 難波山東 ミコン荘 ワリサカ 丸山
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