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私部郷(きさいちべ)(きさいべ)
京都府綾部市私市町
京都府福知山市私市
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京都府福知山市私市
京都府綾部市私市町
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私部郷の概要
《私部郷の概要》
私部郷(きさいべごう)(きさいちべごう)は、「和名抄」丹波国何鹿郡16郷の1つ。刊本に「私部」、高山寺本は「和部」とし、いずれも訓はない。因幡国八上郡の私部郷も刊本は「私部」、高山寺本は「和部」としているが、「和部」は「私部」の写し間違いと思われる。
郷域は旧佐賀村の一帯、中世の私市荘で、今の綾部市私市町、福知山市報恩寺・印内・私市のあたりに比定されている、福知山盆地の真ん中になる。郷内には式内社の佐須我神社、私市円山古墳、奉安塚古墳などがある。山麓の印内や山野口あたりは鉱山地帯である。すぐ北には成山3号墳(綾部市小西町)という、古墳前期初頭の由良川水系最古とされる一辺20メートルの方墳がある。東海系の土器も出土している。古い時代になるほど東海と関係が強いような感じである。
私部は、フツーはちょっと読める人はないと思われるが、キサイベあるいはキサイチベと読んでいる。キサキベのことでないかとされる。そうだとするとキサイチとなるのがわからないが、本当はキサキツベでツはノの意味だという、あるいは私部には市が立てられていてその市をキサイチと呼んだという。
私部は天皇の皇后の部民の意味で、皇后に属した私有財産、当部民からの税は皇后のものであったと見られている。皇后を「私」と書くのは中国漢代の皇后付属の官人や組織を私官・私府と称したこととの関連であろうかという。
敏速六年紀、二月一日条に「詔して日祀部・私部を置く」とあり、この私部は「釈日本紀」はキサイチベと訓じている。私部は大化改新で廃止された。
『新撰姓氏録抄』の、
右京皇別下。大私部。
開化天皇皇子彦坐命之後也。日本紀漏。
の「大私部」はオオキサイチベの訓がある。
当地の私市円山古墳や奉安塚古墳、式内社の存在などは、当時福知山盆地最大クラスの強力な勢力が存在したことをうかがわせる。大和の進出と当地勢力が大和政権と組んでさらに強くなり周辺の覇者となろうとした合作の部かも知れない。
近隣の私部
私部は全国に設置されたという。大阪府交野市に私市小学校があるが、近隣の私部を見てみると、
丹後国熊野郡
平城宮出土木簡に「丹後国熊野郡私部郷高屋□□大贄[ ]納一斗丘升」。
平城宮木簡に「熊野郡私部郷」と記すものがあり、この(熊野)地名が七世紀以前にさかのぼることも、藤原宮木簡に「熊野評私里」とあることで確認できる。また、天平勝宝元(七四九)年一二月に丹後国司が奴婢四人を進上しているが、そのなかの一人は熊野郡戸主大私部広国の奴倉人であった。私部というのは、后妃の私有民(部)で特定の職能を通じて物や労働力を提供する人々のことで、『日本書紀』にも、垂仁天皇の後宮に丹波(当時)から五人の女性が入ったことが記され、こうした伝承とも熊野郡の私部地名は関連する可能性がある。ただ、私部は大化改新四五年)で廃止され、私部の供給と関連する地名としての私部郷の名もその意義を失った結果、郷名としてのこらなかったと考えられる。
(『久美浜町史・史料編』) |
木佐一サンは2010年の電話帳によれば、丹後に20軒見えるが元々は丹後町此代だそうで、全国的にもきわめてめずらしい、というかここにしか見られない苗字だそうである。
此代は竹野神社のすぐ近くで、神明山古墳があるところ、鬼神塚のある一帯集落になる。記録にはないが、当地も私部であったのかも知れない。私部は金属と関係があるのかも…
東史郎氏の陣中日記にも木佐一という戦友が出できたと記憶する。
丹波国船井郡
城崎郷では、欽明天皇の頃に名代の屯倉としての私部が私市に設置され、郡家直轄の村落となった。天平17年(745)、城崎郷私部里里長戸主私部智国の血縁で、私市出身の私部継人が東大寺僧に貢進され(正倉院文書)、私部氏族の居住が確認される。というが、私はまだ詳細を知らない。
私部郷の主な歴史記録
『日本書紀』敏達天皇
六年の春二月の甲辰の朔に、詔して日祀部(ひまつりべ)・私部(きさきちべ)(きさいちべ)を置く。
小学館版の注釈
后妃全体のために置かれた部。『漢書』張放伝に「大官・私官、並ニ其ノ第ヲ供ス」、服虔注「私官、皇后ノ官」とある。初めは「藤原部・忍坂部」のように皇后の名を冠し、歴代の皇后ごとに個人別に置かれていたのが、本条のように一括総括されて「私部」といった。地方の各地に置かれた。
丹波國何鹿郡私部(きさいへ)は皇后(きさき)部の義、敏達天皇六年紀、置二私部一を釈紀にキサイベと訓んでゐる。禮記難記上夫有二私喪之葛一の注に、私喪妻女子之喪也と見え、漢書張放傳大官私官の服虔注私官皇后之官也とあり、私は小の義、方言にいふ私小也、梁盆之間、凡物小者謂二之私一。かく私部は皇后のために置かれた部で、その地に設けられた市を私市(きさいち)といふ、後世私市氏があり、武藏國に居るもの最も著はれ、七黛の中號して私(シ)ノ党といひ、今北埼玉郡騎西(キサイ)町はその故里である。
(『日韓古地名の研究』) |
私部(きさいちべ)
私市町とよぶ町名はもと私部から出た地名である。
私部は御名代部として置かれた品部で、五世紀のはじめ允恭天皇が、皇后忍坂大中姫のため御名代部として刑部(おさかべ)をおいたのがはじめである。六世紀の後半からは固有名の品部を廃し、皇后の御名代部を私部と表現するようになった。『日本書紀』の敏達天皇六年(五七七)に、「詔して日祀部 私部を置く」とあるのがその初見といわれている。この私部はそのころと思われるが、何皇后の御名代かはわからない。私市に式内社佐須我神社があることや、佐賀小学校の運動場付近に後期古墳があり、その一つの奉安塚古墳から、金色にかがやく甲胃・馬具類や、ボウ製鏡・装身具・須恵器などが多く出土したことは、私市に有力な首長の存在したことを物語っている。
(『綾部市史』) |
私部(きさいちべ)郷
私部郷については、「大日本地名辞典」に次のように記述されている。
和名抄、何鹿郡私部郷。○今佐賀村是なり、小幡郷の西南にして和知川の峡谷に在り、大字私市の名存す。私部とは本来后部の謂なれば、キサイツベと唱ふべきごとし、然れども私部を敏達紀の傍訓に
已にキサイチベと注す、後世専らキサイチと呼び、私市の二字を充つ。(注、河内にも同名あり)
延喜式佐須賀神社、今私市に在り、(下略)
右は、まことに妥当な説明である。
私部は本来后部であるからキサイツベと呼ぶべきであるが、その中のツは古語で、今のノに当たり、そこで皇后のために置かれた部民ということであり、つまり旧佐賀村は皇后領であったわけである。なお郁文館発行「本朝六国史」所収の「日本書紀」の敏達天皇の条には、「六年春二月甲辰朔詔置二日祀部
私部一」と注している。この書はその例言に「伴信友翁の校訂本を定本とし、数種の異本を参照校訂した」とあるから、「大日本地名辞典」はあるいはその異本によったものであろう。それはともかくとして「本朝六国史」では、私部を古くからキサイチとよんでいる。その後平安時代末期から鎌倉時代にかけて、郷制が一変して荘園となり、郷が荘となったので、この地は私市荘となった。清水正健編「荘園志料」には、これについて次のように述べている。
私市(キサイチ)荘 和名抄何鹿郡私部郷の荘となりしものなり、荘名は寿永三年(注、一一八四)の鎌倉下文に見えて、加茂別雷社領四十二所の一なり、今も郷中に私市村存せり。
とし、別に徴証として、「加茂注進雑記」(加茂別雷神社の報告書)の寿永三年四月二十四日の記事に同荘が見えること。外に鎌倉・室町両時代の丹波私市荘に関する記録を挙げている。旧佐賀村字報恩寺小字林に鎮座する加茂神社は、おそらく、同地が加茂社の荘園であったころに勧請したものであろう。
(『福知山市史』) |

関連情報


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん
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