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享保の強訴(きょうほうのごうそ)
福知山藩(享保19年・1734)


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京都府福知山市

福知山藩の享保強訴の概要


《享保の飢饉》


享保期(1716~36)は、当地一帯でも享保10年干魃・13年大洪水・14年大水・17年虫害(イナゴ)、20年大洪水、これは江戸期最大とされる卯年の洪水で、舞鶴の京口や職人町あたりでも、今の建物ほどには高くはなかろうが、ニ階天井まで水が来て、天井を破って屋根に逃げていたという、海は見えるところにあるのに信じられないような記録が残されている。
田辺領の山崩れ大小二千所、士人是を山津波という。城辺南北三里東西一里余一円に水没せり。市中の小屋押流さるる三十軒余溺死三十余人、城外住居の諸士妻子溺死十余人、在所にては二百軒潰れ六、七十人死する由。

西日本(近江・伊勢以西)の一帯は天候不順による長雨・冷害と続き、米価は2倍はざら4、5倍にも以上にはね上り、各地で米騒動が起った。特に17年は飢死者数知れずという状況で、天明・天保の飢饉とあわせて江戸時代の三大飢饉と呼ばれる。享保19年(1734)に福知山藩強訴発生、前年には田辺藩でも強訴(赤松義民)が起きていた。
時代は「享保の幕政改革」で知られる徳川吉宗の時代で、テレビなどでは南町奉行・大岡越前守忠相様の活躍したころであり、与謝蕪村が生まれたころである。目安箱や養生所、町火消しだとか、その名さばきに、オイオイと泣いて喜ぶ人がどこかの町あたりにはいるというが、何でもそうだが、テレビもけっこうワルイ面も持つものだと思うな。オール国民はだいたいは当氏と似たようなレベルで、あんなもんだけを見てると確実にオールアホ国家になり果ててしまうかも知れない。最強のはずの幕府ですら大変だったようであり、下々の各藩もそうであったであろうし、さらに下々の農民などはさらにさらに大変なことであったと思われる。
いつの世もマイナスの負担は弱いところにしわ寄せされる。四公六民を五公五民に引き上げ、これは表面数字上では一割だが、実質は二倍近くの増税になったと言われ、さらに定免法にしたため、特に凶作時には困窮した、国民の余裕は上ヘ吸い上げられ人口増加はなくなった。今のどこかの国のようなものか、貧困と格差が広がり、人口は減少し、借金は増加しているのだから、改革改革とお叫びだが、さらにさらにワルイのかも知れない。

享保飢饉の様子は『草間伊助筆記』に、
七八月ニ到リ、西国・九州・四国・中国筋都テ稲虫一チ時ニ生シ、次第次第ニ五畿内東も移リ、此虫後ニハ大キニ相成リこがね虫之如クニテ悉ク稲ヲ喰ヒ枯シ申候、(中略)、其虫形チ甲冑ヲ帯シたるやうニありて、一夜之内ニ数万石之稲ヲ喰ヒ、田畑夥敷損毛有之、土民飢渇ニ及ヒ、西国筋僂五畿内大坂辺東道路ニ倒レ候もの数しれす、米価古銀ニテ五六月頃僂七月中旬東ハ壱石六拾四五匁、追々高直ニ相成リ、九十月之頃百弐三十匁ニ成候

享保飢饉は稲虫・蝗虫の大量発生が直接の原因となって引き起こされる。「蝗虫」「虫害」というのはイナゴ説と、ウンカ説があるようである。一夜のうちに数万石を喰ったというのならイナゴでなかろうか、しかし大陸ならともかく狭い島国では蝗害は発生しにくいと見られている。中国ウンカが偏西風に乗って飛んできたとかも言われる。海の真ん中でもトンボの大群が飛んでいたりするから、あることなのかも知れない。大昔の戦国国盗りゲームには、「イナゴ大発生」という危機要因があったのを思い出すが、どこまで史実を反映したものかは不明。バックに大雨や干魃などの天候不順があり、作物が弱っていたと思われ、虫が発生したというだけでは起こりにくいのではなかろうか、自然の乱れに自然発生したもので虫が悪いわけでもなかろう。

「虫送り」も馬鹿にしてはならないぞ。何でも馬鹿にするのが根拠なしに思い上がった現代日本人の大馬鹿な所で、今では虫よりもワルイのが農業を喰っているよう、メデタイ国の食糧自給率は39%(カロリーベース・農水省)とか、しかしオイル漬け農業のオイルの自給率は0%、肥料や飼料もほぼ0%、等々換算していけば、本当の自給率を厳しく見れば0に近い、農業が農村が亡べば国は亡ぶ、もはや亡国状態。安全で安心な安価な食糧をせめて8割くらいの国内確保策は政治の責任と考えるが、その人類歴史上に見たこともないようなとんでもない亡政治の亡国がアメリカ大統領候補二人共に反対しているが、今こそ全世界をリードしてTPPを成立させるのだそう、アホの思い上がりの骨頂と、全世界が泣いて笑っていることであろう。しっかり退治しよう。


『日本災異誌』は、損毛率50%以上の諸藩は西国、中国、四国を中心に46藩で、うち西国27藩は損毛率83%に達する大被害をうけたという。飢人数は幕領67万1961人、諸藩197万4059人、餓死人1万2172人とされている。1万4000匹以上の牛馬が死んだといわれるのは、上図のようにみな喰ってしまったのだろうか。
餓死者は実際はもっと膨大だったと言われる。もし膨大な餓死者数を正直に報告して、幕府に「オマエの藩の政治は悪い」と責められるのを恐れ、よいかげんに数字を伝えたと言われており、諸藩すべて右に倣えだったらしく、でたらめさは大本営の先輩格であったよう。『徳川実紀』によれば餓死者969、900人で、この方が実数に近いのではと見られている。しかし正確なところは不明で、「数知れず」のようである。
餓死者が膨大だったので、幕府は救済策として諸大名・旗本などに米を払い下げ、金銀を貸与し、幕領には夫食米を支給し、種粋や種麦代、牛馬代などを貸与し、さらに富裕者に対して窮民の賑恤をうながすなどの方策をとったという。
米の不作はたちまち米価の高騰をもたらして都市問題をも生じて、江戸最初の打毀といわれる米買い占め商人・高間伝兵衛の打毀しが起こったのは翌年(享保18)正月のことであった。



《享保の強訴(福知山藩)》
社会のかかえる矛盾は解決を求めて、いつかはどこかで裂ける。圧力をため込んだプレートの裂け目が、忍耐の極限を迎えれば一気に激しく動くようなことであろうか、地震のない地表などないように、人間社会とても同じ事である、自然不順と重税に全国的に農民一揆が発生した。何事もそれなりの理由あって発生するもので、誰か発頭人の悪者が好き好んでムチャクチャを起こして発生したりはしない。矛盾が集中する弱いところではじける、そうした大事件を経験して人の歴史は一歩進むことになる。あれはテロ分子だ、式の米帝的思考では何も進歩はしないのである。
一般には一揆と呼ぶのか、しかし打毀しや蜂起といった激しいものよりも「強訴」と呼ばれる形態の行動が全国的に多かった。
福知山藩の場合も、全藩一揆だが表面的には意外とおだやか、つつましいくひかえめな行動で推移している。この時の記録は少なく、残された断片をつなぎ合わせて復元するより手がないようである。


福知山藩政の改革(要するに増税)
強訴勃発の背景には全国共通の凶作などがあるが、福知山藩には次のような諸事情がいくつか累加されていた。
当時の福知山藩主は5代朽木玄綱で、彼は美濃岩村藩主松平兵庫頭乗紀の5男で、福知山藩朽木家に養子に迎えられてから5年、年齢も25歳に過ぎなかった。
藩は本格的な財政改革にのり出し、享保17年(1732)に河瀬傑右衛門・清水安左衛門を御勝手頭取に任命し、藩財政のたて直しに当らせた。藩の財政は極度に悪化し、借金によって暮らしている状態である。できるかぎりの倹約をしているが、その効果もあがらない。御家中の扶持方米も数カ月滞っている。この上は、借財の返済や掛買金の支払いも停止し、御手前暮し(古い借金をたな上げにし、新しく借金をしないで実収入の範囲内で生計を立てる)の新法を立て再建をはかるしかほかはない。
しかし、今年は蝗害が甚だしく上方筋で米が高騰している。幸い我藩領は、大方の出来で収納も昨年並になりそうである。この機に御手賄(御手前暮し)の新法を断行して行くこととする。万一不時の公用が来れば打つ手はないが、借金で近年特別難儀した暮しぐらいは続けていけるか、の藩主の手紙が残る。
収入は上がらるメドもないのに、生活は奢侈化していき、一度レベルが上がるともう下げられない、支出は増える一方だが打つ手がない。月給数ヶ月の遅配で何とか食いつないでいた。

享保15年(1730)に、永川改めが命令され、翌享保16年3月に南郷から始まった。この御改めによって長田村では、永川高が6石6斗1升減少し、新切高19石9斗6升1合増高となった。他郷の永川改めがまだ済んでいないのに御年貢上納を命ぜられたので御断り申し上げたが、聞き届けてもらえなかった。という。
享保16年に、江戸藩邸が焼失し、その復興のため高10石に12匁5分ずつの御用銀が賦課されており、新田の改検があって、村高に20石ほどの増税が申し渡された。6月上納期が来ても、一度に納めることが出来ず、割当て月を3つ分けにして、やっと上納をすませる始末であった。この最中に6月に城下町では大火事があって「広小路より上は壱軒不残焼申候」という惨事があった。長田村の御林にて元木六百本を伐り、町の類焼者に渡されることになった。そのため、村々から人足を出し京口まで運ばされ大変難儀をした。

このような事情で百姓達は大変こまった。そこで、翌享保18年正月から2月まで、御領分の庄屋・組頭残らず御城に参上し、飢扶持下賜の御願いをした。御上も事情を理解され、御城米500俵を御救米として下されることになり、長田村へも22俵1升4合下された。
当時藩主の朽木玄綱は、江戸在勤中(奏者番)であり、財政不如意で民間から借銀(というより御用金強制申付・強制寄附。返済するとは言っているがそれはない)という有様であった。財政逼迫の時御用金を申し付けた例は多いが、この時の「貸主」の一人が、一揆首謀者と目された石場村の庄屋又左衛門であった。
年貢は強訴前後の収納は不作にもかかわらず、減免されるどころか若干増徴された。福知山藩は3万5千石だが、享保19年には3万9545石もとった。さらに藩は1200石の大量の米を大坂へ回送してモウケをあげ藩財政再建に狂奔せざるを得なかったという。農民の餓死対策よりも藩のモウケを優先させ、その手前勝手な強欲ぶりを見せた。

《強訴の勃発》
長田村と堀村の当時の記録などによれば、強訴はだいたい次のように推移したという。
享保19寅年(1734)10月、年貢割当の免定が来た。殊の外の悪年だというのに全く年貢が減免されていないどころか若干の増税ため、藩内よそ村の小百姓たちは年貢減免の願に城下へ集まって、藩役人と談判している、とのうわさが伝わってきて、「よそ村が行くなら我々の村も行こう」というので、長田村の農民たちも10月30日福知山へ詰めた。
村役人としても「指置申儀難成」ほっておけないので後から村役人も皆城下へ詰めた。立ち会ってみると詰めているのは当村だけでなかった。「領内の小百姓残らず罷出居申儀に候故、庄屋組頭も壱人も残らず福知山ニ相詰居申候」といった状態だったという。
係りの役人から退去するよう説得をうけて得心して3日昼退去した。11月8日になって、郡奉行が庄屋組頭、頭百姓1、中百姓1、水呑百姓1の1村5人宛召集、願の筋は聞き届けられ、御用捨米が出た。長田村へは89石3斗2升8合であり、12月に完納したという。

昨年の享保18年にも相当規模の動員によって御蔵米を得ていたが、19年も「小百姓衆福知山ニ相詰居申」、百姓たちの座り込みであろうが、これによる限り、領内の事前の謀議はなかった、そして30日~3日の5日間ねばった、としている。
百姓の要求は明らかに貢租の減免である。外村の集団交渉は5日の晩まで続いた。当時は別に集団交渉権などはなく、一方的に藩側が決めるのだが、現在でもチョンマゲ時代と変わらず事実上ナシの場合も多い、折衝は長引いたが、打ちこわしのような暴力発生はなかった。
結局、18年の飢扶持要求行動を大規模にし、執拗に頑張ったのが19年強訴と言えそうである。


また享保19年11月3日から3日の間、領内62か村の庄屋百姓一同は町内土師屋に集合、衆議一決下の8か条の要求を藩老につきつけた。という資料が残る。
  一、御定法通り免状下渡の事(定免以上の課税をせぬこと)
  二、永川引捨ての事(荒地の年貢を控除すること)
  三、賦札賦金相止の事(割当寄附お断り)
  四、新竿新界五ヶ年延期の事(増税の為の新検地お断り)
  五、一日一人前につき米五勺ずつ食延し相止めの事(度の過ぎた食用米節約はお断り)
  六、万事産物所相止めの事(農業副産物の藩専売を中止すること)
  七、上納一粒より仕立てること相止めの事
  八、新規取立法御断りの事(新規種目の課税御断り)
       福知山御領内六十三ケ町村                   惣百姓中
   享保十九年八月十六日
   御上様

要するに減税と新税反対であるが、しかしこの資料は「八月十六日」というのがオカシイし、藩専売も享保当時はまだなかったようで、万延強訴のものでなかろうかと言われる。
そうしたことで、この強訴の要求が何であったかは詳しくは伝わらない。強訴の結果、御用拾米が認められ、皆済日限が延期されていることから考えて、藩政改革に反対し、年貢の減免・皆済期限の延期を要求したものではなかろうかという。
享保強訴では、打ちこわしや暴動はなく、農民は持久戦に出て執拗に談判を続け、遂に要求をのませた。農民側の勝利に終わった、おだやかな幕切れかと見える。
エライものだ、今の日本人よりはだいぶにエライのではなかろうか。江戸期の農民を馬鹿に出来る現代人はいかほどいることであろう。


《延享元年の摘発と処分》
それから10年たった延享元年(1744)藩側は思い出したように享保強訴の関係者の摘発と検挙を始めた。この年8月、藩の布告によると、「前年の強訴、不届至極で早速吟味のはずであったが、翌年の大洪水などで延び延びにしてきた。下々の者共それをよいことにして仮初の願ごとにも寅年(享保19年)の強訴を再現するかのごとき言動がみえる。其分に差し置き難く詮議したところ、発頭人は、石場村の庄屋又左衛門、続いて南郷の頭取として堀村の庄屋佐次兵衛其他が浮かんだので仕置を命じた」としている。
この年も凶作で、また同じようなことが起きれば困るというので、そのままに済ますつもりでいたが、いわば見せしめの、別に正当な理由も考えられない「処分」ということで、農民側にに先手とろうとしたようである。


断罪
 ○石場村又左衛門 当春病死故屍掘出し首を刎ね取捨。
 ○惣領杉右衛門(二四歳)重追放、江戸、京、大坂、丹波、近江排回仕るまじく候。
 ○二男、又左衛門妻、領内追放。
 ○堀村佐次兵衛 南郷の頭取致し百姓共に鎌を差し出る様申付…狼籍の下心重罪ニ付死罪。
 ○総領字平治(二一歳)重追放
 ○佐次兵衛妻、二男(一三歳)娘(五歳)領内追放。
 ○伝七(病死)妻、枠(一○歳)娘(一五歳)領内追放。
 ○其他  追放    四人
        戸〆    六人
        牢舎    三人
当時の福知山領62か村は、金谷郷、豊富郷、夜久郷、南郷の4郷に分かれていた。現在のの堀、土師、六人部などが南郷の包括に入る。全藩一揆であった事件の規模からみると、金谷、夜久野にも頭取や庄屋の主動者がいたはずだが、極罪に問われた者はない。
仕置人の田畑山林を取上げ入札にし、村内での生活一切を奪ったことを示している。前記の連累の人たちのその後がどうであったかは今もって何一つわからないという。
これは、百姓に対するみせしめであったろうが、当時まだ生まれてもいないまったくの無罪の者まで処罰したり、喧嘩両成敗のはずが藩側は何も処罰がなく、大人げない恥の上塗りをして、かえって領民の反感を買った。ホウケとるんかえで、藩の権威は根底から揺らぎ、こうして新しい時代へと一歩近づいたことになる。
 福知山さん隠坊の果てか、死人掘り上げ首を切る
という歌が今なお伝えられている。


身命を擲って百姓を救った義民の挙はこれを讃仰追慕する人たちによって顕彰の碑が立てられている。
石場村の薬師堂境内の「紀功碑」↓
石場村の紀功碑
本田又左衛門が享保の義民で、石坪万右衛門は万延の義民。

堀村の円浄寺境内にある「義民 横山佐次兵衛之碑」↓

新しく建て替えられたものか、そんなに古いものではない。花が手向けられている。



享保強訴の主な歴史記録


『天田郡志資料』
享保強訴
  一、飢饉と米価
福知山騒動が起った万延元年から丁度百二十六年前の享保十九年に福知山領民の強訴があった。随分古いのとさわぎが大袈裟でなかったのか、あまりうはさを開かねが、その結果は寧ろ悲惨であったと思はれる。詳しく書き残したいとはおもふが、どうも材料無しでいたし方がない。たゞ私の見聞の限りを傾けて記しておく。さて享保十七、十八は両年とも大飢饉で就中西国、四国、中国が甚しく、米価はまずます騰貴して前年まで石三十匁内外のが六十匁にもなってある。故に餓死する者多く、その数約九十六万余人と見えてゐる。
  二、理財に長じた清水氏
財政の困難は我が藩ばかりではない。享保十六年二月群臣に命じて三年間諸事倹約に従はしむ。因て其節目を論告すなど、年代記に見える。当時我が城主は朽木出羽守玄網侯であった。侯は濃州岩村城主松平兵庫頭乗記侯の五男で前代土佐守植治侯の養子となった方である。万延の騒動も網張侯は養子であった。騒動と養子私は奇妙におもふ。さて此頃藩の財政は逼迫の極であって藩士への口米さへ十六ケ月間も不渡であったと言ふから其の困難さが想はれる。そこで侯は河瀬丈右術門、清水安左衛門二氏を拳げて整理に任ぜられた。この清水氏は特に理財に長じてゐたから所謂会計課長といふ格で熱心に整理に当つた。かの口米が不渡の際困憊した士卒の妻子が相携へて清水氏の門前に迫り喧しく饑餓を哀訴したといふ。氏はこれらの慰撫にも大いに努め幾年かの後には藩の金庫の床板が金銀貨の重量に堪へで撓み折れた位であった。

  三、領民城下に迫って強訴
享保十八年二月救助米が下った。が領民の困難は少しの救米位ではおっゝかない。あちこちに餓死者がある程なのだから。藷の取立に無理があったか果ては騒動を起した。それは石場村の庄屋が発頭人であったと言ふ。福知山騒動にも石場は関し係てゐたが今度も豊富郷はいふに及ぼす南郊さては遠く夜久郷までも引き入れて上納その他の軽減を名として強訴を企てたのであった。享保十九年晩秋数百人の集集団はまづ、城下に迫り役人宅を暴らし廻ったのだが惜いかなその人名及び有様が一切記録にない。なほ又こゝに一つ不審なはこの暴動の処分が十会年後の延享元年になつてゐること。藩では何故かく延ばされたか。それとも発頭人以下の検挙が出来なかったのか。一時にしては又々気が荒ら立つと、わざと延び延びにせられたのか。

   四、首謀者処罰
福知山騒動の時にも夜久野、上豊富辺から発頭人が出た。やはり俑をつくったものが享保年代にあったからではなからうかなど私はいろく想ってゐる。かういふことは現代でも仝じことた。同盟休校のあった学校では何かといふと直ぐまたそれをくりかへす誠に忌ましいことである。さて延革元年首謀者に対する宣告文は

      石場村先庄屋又左衝門弟
        名 代   六右衛門
               與兵衛
百姓の頼みの品により無拠筋を申上候儀は可有之事に候然る處去寅年願之儀に付致徒党大勢城下へ昼夜相詰甚敷騒動其仕方御地頭を不恐体は不届至極に候依之其節の頭取之者此度数日被遂御詮議候處石場村先庄屋又左衛門儀当春致病死候に付御吟味別而被入御念候處又左衛門頭取之随一に無紛候重罪之儀存命候者被行死罪其上首は獄門に可被梟候得共致死失候故屍を掘り出し首を刎ね取捨に披仰付候  以上


  五、従犯者の処刑
又左衛門の嗣子松右衛門は追放の刑に處せられた。これは当時なは幼年であつたから軽減された。追放の刑は武家時代の正刑であったが、各時代で多少異つた所がある。大体重追放、中追放、軽追放の三種である。こゝのは重追放で丹波は勿論朽木侯の領地のある江州もその外江戸、京都、大阪へも一切立ち寄ることが出釆ないのである。次男、益五郎と又左衛門の妻とは御領分外へ追放。その他
  堀村庄屋、 左次兵衛は死刑、その家族等は入牢、大油子、高内、和久寺の庄屋及び百姓数十人は入牢、追放、最も軽い者は閉門で済んだものもあった。かくてこの強訴一件は終結を告げた。





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