丹後の地名プラス

丹波の

前田(まえだ)
京都府福知山市前田


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府福知山市前田・秋津ケ丘・東佳屋野町・西佳屋野町・南佳屋野町・小松ケ丘・長田野町・大池坂町

京都府天田郡雀部村前田

前田の概要




《前田の概要》

雀部小学校や自動車学校のある一帯で、鉄道より北側に元の集落があり、南側の洪積世段丘上は元は原野であったが、今は住宅地になっている。
中世は松尾社(京都市西京区)領雀部庄。前田は早くは室町期に見える地名で、康安元年7月12日付の氏衡書状案および同日付の氏衡注進状案によると、7月10日に荻野参川入道が大勢を率いて雀部荘に乱入し、「雀部庄前田」において御代官中務丞父子4人が討たれたという、神官同士の不和葛藤事件であった。
前田村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領、のち一部が柏原藩領。明治4年、福知山藩領は福知山県、柏原藩領は柏原県を経ていずれも豊岡県、同9年京都府に所属。同22年雀部村の大字となる。
前田は、明治22年~現在の大字。はじめ雀部村、昭和11年福知山町、同12年からは福知山市の大字。一部が同47年長田野町1~3丁目、同48年大池坂町となる。



《前田の人口・世帯数》 4652・2057


《主な社寺など》

岩畑遺跡・愛宕山遺跡
愛宕山東麓の小字岩畑(いわはた)から縄文・弥生時代の石鏃・石斧・凹石・石包丁・石槍・石錘など200点以上が採集され、早くから集落が発展していたことがうかがわれる。長田野の下層は片麻岩状の粘板岩よりなり、小石器製作には材料が得やすいとされる。またサヌカイトなどの移入品も混じっている。サヌカイトは讃岐石のことで、讃岐と大和河内の二上山付近で採取される安山岩、叩くとカンカンと音がする硬い石、大江町の内宮さんにはカンカン石(「金のなる石」)があるが、あれがそうでないかと思っているが私の頼りない知識では何ともわからない。大江山で採れなければ大和あたりから持って来たものであろうか。
また愛宕山の東北隅から弥生式の高杯形土器3個と台付無頸壷1個も採集された。

宝蔵山古墳群
前田霊苑
宝蔵山古墳群「前田霊苑」という墓地になっている一帯で、ここにはかつては宝蔵山という山(標高約50メートル)があり、その山には弥生後期の墳丘墓から続く古墳前期の宝蔵山古墳群があった。当市では最も古い古墳群で、最も新しい4号墳でも広峯15号墳よりは50年ばかり古く四世紀後半のものとされる。
上の写真は紫の丸の位置から1234号墳の方向を向いて写したもの。1234は方墳、56は円墳、眼下に明天神社など前田の集落を望む位置にある。4号墳が最も古く、56は未調査らしい。
4号墳は25×20メートル、高サ2メートル、6つの主体部がある。第1主体部は組合式木棺墓、第2は甕棺墓、第3は小型の箱式石棺、第4は大型の甕棺、第5は甕棺、第6は甕棺。6つも主体部があり、甕棺、古墳と言うよりも墳丘墓の伝統を強く残しているように感じる。
4号墳4主体部←『宝蔵山古墳と成山古墳』より。4号墳第4主体部。
甕棺といえば北九州ではないか、吉野ケ里の膨大な甕棺墓を思い起こすが、あれは弥生時代のものである。
当地あたりでは子供用の甕棺は見られるが大人用には使われない。甕は山陰式と畿内式の土師器という。地元の土師氏とつながるかも、といってもこの時代に土師氏とは言わないだろうが、鉄鏃、鉄剣など鉄器も副葬されていて、この氏は甕ばかりではないようにも思われる。古代がますますわからなってきそうな古墳群である。

八ヶ谷古墳群
宝蔵山古墳の東800メートルくらいの場所にあった20メートルくらいの方墳。ここも山だったが、今は削平されて住宅地の一角になっている。5世紀前半の築造とされる。3基の埋葬施設はすべて箱式石棺。頭蓋骨・歯・琴柱形石器・勾玉・管玉・ガラス玉・青銅鏡・竹櫛・直刀・刀子などが出土。琴柱形石製品は北近畿では珍しく、京都府下では唯一のもので、玉杖の飾りなどかとされる。宝蔵山古墳の次の首長墓と見られている。

愛宕神社
愛宕神社(前田)
自動車学校の西側にある愛宕山の山頂に鎮座。
入口に案内板がある。→愛宕神社案内板
愛宕神社由来
  福知山市大字土師小字手白山一番地
祭神 伊弉諾命 火皇産命 珂遇突智命【如具土神】
  神仏習合の思想に基づく祭神【愛宕権現太郎坊=天狗】と本地仏【勝軍地蔵】も祭祀されており仏教色濃厚である。
境内社 日吉神社…事代主命   幸之神社…猿田彦命
    稲荷神社…保食神    八幡神社…誉田別命
    大神神社(皇大神宮社)…大日メ命
祭礼  春祭 一月二十四日   夏祭 七月二十四日
 一般には防火の神として信仰厚く、お祭には近在からのお参りが多い。昭和十年代以前の参詣には「愛宕道」と呼び慣わされてきたコースが利用された。
伝説  慶長十四年(一六〇九)頃、前田一ノ宮の森【現明天神社の杜】の大桧が夜毎燐光を放つのを見た村人が京都愛宕神社の分霊を勧請し、ここに祠を建てたのにはじまる。
藩主有馬侯が由良川で鷹狩の際、行方不明になり一ノ宮の愛宕神に祈念したところ霊験があり忽ち飛びかえってきた。
伝説  慶長十七年(一六五七)有馬侯が祠を現在地に遷座(創建)
明暦三年(一六五七)松平忠房侯社再建、脇宮、鳥居寄進寛文七年(一六六七)愛宕神社を近郷五社の一つに選定【一宮神社・天照玉命神社・荒木神社・奄我神社・愛宕神社】元禄五年(一六九二)朽木稙昌侯拝殿造営、鳥居修復、社領安堵、宝永二年(一七〇五)火伏せの大釣鐘鋳造。以後朽木家代々の庇護厚く、祭礼には藩侯の代参もあった。【梵鐘は明治政府の「神仏分離」製作にり、改鋳して鐘楼とも前田の東林寺が申し受けたが太平洋戦争時の金属供出で失った。】
神宮寺 寛永十四年(一六三七)藩主稲葉紀通候は愛宕神社守護のため葛野郎【現京競市】愛宕山大善院末寺として手白山の麓に雲前寺創建、亀岡馬路村【現亀岡市】から中川盛秀が別当として招かれ以後十二世まで世襲。明治二年(一八六九)雲前寺廃寺、廃寺後の建物は明治六年(一八七三)から二年間土師・前田両村の学校仮校舎として使用された。
社改築 慶応四年(一八六八)四月総改築【九日八日から明治に改元】現存社殿の基本形態はこの時のものである。
二枚にわたる棟札に朽木近江守をはじめ奉行ほか職人六十四名の名前がむ見え、明治維新の変革期における藩主肝いりの大普請であったことをうかがわせる。資金調達のため土師河原で、芝居を興行したともいう。平成九年(一九九七)には「府社寺等文化資料保全補助事業」も受け、瓦総葺替ほか大修理を行なった。
手白山 八合目に遺る土塁から戦国時代は砦だったことがうかがえる。遷座後は両村で土地争いが絶えず、松平侯の時「山は土師、社は前田」という裁定が下された。明治に入り山は国有林にされたが、三十三年(一九〇〇)払下を受けた。払下後、明治・大正へかけて植林に力を注いだ。
明治三十九年(一九〇六)には雀部小学校児童ににより千三百本の桧苗を栽植したという。
明治以降土師、前田交互年番で護持している。



愛宕山大権現 土師村に祭る
慶安年中に前田村の並松の末に夜な夜な神燈の光をはなつ。前田氏の某是を伺ひければ、其神遠江国より天降りしとのたまわく。依つて前田氏土師村の山ながら前田の稲干場にて有りける此所に小社を建て祭りたる神なり。然る後に大旱の年あつて御上より前田氏に雨を祈り給ひけるに其神徳あらはしてうるおひを下しける。此の悦びに松平主殿頭忠房公宮を建立し給ひ御領分軒別木を植えて奉納給ふ処なり。
(『曽我井伝記横山硯』)

村社 愛宕神社 雀部村字前田鎮座
祭神 加具土神 (大正十一年七月昇格村社)
創建 慶長十七年 改建は明暦三年 拝殿造営元緑五年
   社殿総改築明治元年以て今日に至れり。
祭日 一月廿四日 八月廿四日 十一月廿三日
境内末杜 五社 信徒、土師、前田両区にて約三百戸
祭礼には古来藩侯の代参ありしが現今は両区長立会にて執行す但し隔年当番当社は福知山城主松平主殿頭の代近郷にて選定されし所謂五社の一にして事あれば郷人は五社詣とて巡拝するを例とす又此の近所には加具土神を奉祀せる所希なるを以て参拝者常に多し(五社とは一宮神社、天照玉命神社、荒木紳杜、庵我神社及当社なり)
基本財産 山林三町五反余  積立金 貳千数百円
(伝説) 福知山城主有馬玄蕃頭豊氏侯曾て放鷹を催したる際其愛鷹行方知れずなりぬ侯大いに惜み前田村一ノ宮に奉祀せる愛宕神に祈念せられけば愛鷹忽ち飛び帰りたり、侯其霊験に感じ遂に此手白山に遷座奉斎せられしなりと、これは慶長十七年にして当社の創建にあたれり。
(『天田郡志資料』)

雲前寺については『丹波志』は、
雲前寺ハ山ノ麓乗表ヨリ貳町南ニ在 境内貳拾八間四方
別当中川氏代々勤之落髪十徳者之子孫譲

手白山は出城山だろうか、中世の山城、あるいは弥生期の逃げ城か、あるいは環濠集落か、古くには何かあったと思われる。
福知山藩では当社が城の鬼門にあたるとし防火の神として崇敬、同時に領内5社の1つとして「五社参り」を領民に勧奨した。そのため同社祭礼の日には城下近辺各町村とも1戸1人は参詣する習わしであったという。

明天神社
明天神社(前田)
自動車学校の東隣に鎮座。案内板がある。明天神社案内板

明天神社由来
明天神社の創祀は詳らかではありませんが西暦一八〇〇年前後には宮講を組織し当屋による神前奉仕を行うなど近世的な村氏神として成立してきたと考えられます。
所在地 福知山市大字前田小字一ノ宮一九〇〇番地
祭神  天照大神
本殿  一間社流造(正面の柱間が一つ、切妻・照屋根で手前の屋根が長く伸びた形)
遷宮  明治四十年(一九〇七)九月十七日
    明天神社は元からこの一ノ宮の地に祀られていたのではありません。ここから北東方向、前田の大田圃のその先、直線距離にして約九百メートルの由良川河畔の崖上、小字風呂ケ坂にありました。神社を含む付近一帯は前田東村と呼ばれる集落であり前田村の一部を形成していました。
遷宮の経緯を前田史(歴代区長記録の沿革史)は次のように伝えています。
「往古ヨリ東村二三十戸程ノ人家アリテ茲ニ氏神ノ社殿アリシガ明治二十九年二未曾有ノ大洪水アリ堤防決潰人家流失家屋倒壊人畜死傷者数多ク実ニ酸鼻ヲ極メタリ之レニ依リ人家ハ此地ニ永住ノ望ミナキヲ以テ思ヒ々ニ植或ハ赤所方面ニ全部転宅シタリ氏神モ此洪水ノタメニ上屋ハ潰ハレ垣流失駒犬例レ籠屋流失実ニ目モ充テラレヌ有様ノ處又四十年ノ洪水弥々此惨状ヲ見ルニ忍ヒス遂ヒニ幾多ノ難関ヲ経テ移転ノ大事業ヲ完成セリ」
 遷宮の際、村内に散在していた社を境内社として合祀しました。
境内社 拝殿向かって右
     浦島(東村)
     一宮(一ノ宮)・松尾(林ノ前)・厳島(打木谷)合祀
    拝殿向かって左
     貴船(水ノ森)・天王(上町)・武大(坪ノ内)合祀
     稲荷(坪ノ内)
御旅所  しめ縄を張った大きな磐座の一角(境内右手奥)秋の例祭には川北稲粒神社との間で交互渡御(西暦偶数年前田から・奇数年川北から)の慣わしがあり、ご神木・神宝・お供え等を捧持した一行が到着すると御旅所で両神社一緒に神事を営みます。
祭礼 祈年祭 三月中旬(春分の日頃)   豊年祈願
   祈願祭 八月三十一日        風避け祈願   例祭  十月上旬(体育の日)    区民祭
   感謝祭 十一月下旬(勤労感謝の日) 収穫感謝
年始には初詣で新年を寿ぎます。
遷宮以前、村内に社が散在していた頃は五社参り(貴船・武大・稲荷・天王・松尾)といって村人が正月や祭日に巡拝したと伝えています。  遷宮百周年記念


明天神社の創祀年代は不明であるが、「安康天皇ノ御代ニ丹後国内宮鎮座皇太神宮ノ御分署ヲ勧請シタルモノニシテ、明天社即チ天照ノ意ナリト(古老言伝)(中略)(社蔵記録)、本殿ハ天保十一庚子年改築ニ係ル」(神社明細帳)という。草創は安康の時代という。雄略の同母兄であり、弟の雄略の時代のこととして吉佐筒川の島子の話が集録されている。郡志資料は月夜見命、丹波志は菅原道真とする。

明天神 前田村
祭神 菅家 祭礼九月十日
本社  籠家二間四間半
境内廿一間ニ廿間竹藪ナリ
中田六畝歩高九斗修理料年貢地村除
(『丹波志』)

村社 明天神々社(指定) 雀部村字前田鎮座
祭神 月夜見命 (祭礼御神木、稲粒神社へ渡御)
祭日 十月十七日(もと東村に在りしを明治四十年九月現地に奉移す)
末社 武神社  一宮神社 稲荷神社 厄神々社の四社あり
氏子 百六十戸  基本金一千数百円、田五反歩。 境内約三反歩
(『天田郡志資料』)


曹洞宗瑞龍山東林寺
東林寺(前田)

瑞龍山 東林寺 (曹洞宗) 雀部村字前田
本尊 薬師如来  脇立 日光、月光両立像
開山 実巌和尚  開基 雲山玄良居士
創建 延宝七年二月十九日『丹波志に寛永八年とあり』
再建は文久二年二月廿四日
(伝説) 当山に安置せる聖観音は恵心僧都(恵心は天台宗の高僧、天慶五年大和葛城に生る寛仁元年寂す、諱は源信、普通其住所、横川の恵心院に因み恵心僧都といふ)の作といふ。慶長年間、字坪内なる大柳樹の下に埋れて夜毎に不思議の光を放つ、前田平八郎といへる者其所を発掘すれば観音像ありき、依て小堂を建て、之を安置す、其年、疫病大いに流行す、郷人皆此観音に祈願して無事なるを得たり。これより信仰するもの益々多く堂宇を改建せしが更に当寺境内に奉安し今猶病気平癒の祈願、祈雨の爲に参詣する者多し。
檀家 百十七戸(内福知山七戸)

(『天田郡志資料』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


前田の主な歴史記録


『福知山市史』
岩畑遺跡(字前田)
愛宕山遺跡に隣接する東側一帯の住宅地と畑地になっている広い地域である。段丘面であるこの台地は、長田野台地の段丘(七○メートル)より一段下位であり、約三○メートルの台地であるが、由良川の氾濫原よりは十数メートルの崖で境された良好の土地である。
昭和四十七年夏に偶然石鏃が発見されたが、その後急速に石器の数が増加し、現在では、打製石鏃・打製石斧・磨製石斧・凹石・石庖丁・石槍・石錐・石錘などの種類がある。
最も数の多いのは石鏃で、二百個以上が採集され、大きいものは四○ミリ位から小さいものは、五ミリ程度まであり、無柄の平基式と凹基式がその中心となっている。しかし、有柄式のものも少数ではあるが存在している。石材はサヌカイトが圧倒的に多く、一部チャートが加わっている。石錐は数点採集されているが、中にはかなり使用のあとがうかがえるものもある。
石斧は、打製石斧・磨製石斧が共に採集され―○個位あり、磨製は大型蛤刃石斧が多く、石材は砂岩が中心であり、打製ではバチ型の粘板岩のものもみられる。
凹石は砂岩と花崗岩でできており福知山では、半田造跡とこの岩畑遺跡からのみ発見されているものである。
石庖丁は一点であるが、両端が欠損していて大きさは明らかでないが、幅をみる限りでは、かなり使用して磨いた形跡がうかがえる。孔は二孔あるが、一孔は完全に残っており、他の一孔は、錐のあとがはっきり分かる。石材は粘板岩で作られている。
石錘は届平な河原石を利用し両端を打ち欠いたもので、二個採集されている。
石槍は、サヌカイト製で五センチのものであるが、形はよく整い、断面は肉厚の菱形をなしている。サヌカイトの剥片は数千点を数えるが、かなり大きなものもあり、ここで石器を使用しただけでなく、石器を製作した可能性があることを示している。また、サヌカイトは、福知山付近には産出しないことから、かなり遠方の地域との交易があったことがうかがわれ、今後の研研究課題であろう。
土器は、弥生式土器がかなりあり、中期にみられる凸帯文の破片が採集されているが、縄文式土器についてはまだ発見されていない。

『日本の古代遺跡・京都Ⅰ』
宝蔵山古墳群
現在、長田野工業団地となっている長田野丘陵の北縁には、前期から後期にいたる特色ある古墳が数多くいとなまれている。前田集落の背後の丘陵上にある宝蔵山古墳群は、六基の古墳からなり、一-四号墳が調査されたあと消滅した。
丘陵の頂部をしめる四号墳は、自然地形を最大限に利用した一辺二〇メートルあまりの方墳で、墳頂部に壷棺三、甕棺、箱式石棺、木棺直葬各一の六基の埋葬主体があった。とくに第六主体の壷棺は、山陰の小谷式(島根県小谷遺跡を標式とする土器)の大型の二重口緑壷と、畿内系のいわゆる茶臼山式(奈良県桜井茶臼山古墳)とよばれる二重口縁壷と小型丸底壷の三個体を重ね合わせたもので、この古墳の年代と性格を特徴づけている。全体に副葬品に乏しく、少量の鉄器類と管玉などがある程度である。
宝蔵山四号墳は、綾部市の成山三号墳とならんで福知山盆地を代表する前期古墳の一つであるが、弥生後期以降顕著にみとめられる、山陰地方の影響を強く受けた在地色豊かな前期古墳であり、年代は四世紀後半代の末ごろにもとめることができよう。
宝蔵山一-三号墳は、一辺一〇メートル内外の方墳であるが、墳頂部に複数いとなまれている土壙墓のなかに、弥生後期の土器を供献したものがいくつか認められることから、弥生後期の土壙墓群あるいは方形台状墓と古墳とが重複しているものと考えられている。

『福知山市史』
前田の古墳(字前田)
宝蔵山古墳
福知山高校の東隣、府道綾部・福知山線沿いの由良川の河岸段丘上、前田集落を一段下に見下ろす前田共同墓地の丘である。昭和四十年、国鉄山陰線、福知山・綾部間の複線化工事用土取り場となったため、発掘調査が実施されたもので、四基中西端の第四号墳のみが重要遺跡として保存されている。丘の東から第一・第二・第三号墳は、直径一○~一五メートルの円墳で封土がはなはだしく流出して不明になっていたが、内部は土壙墓と呼ばれるもので、一号墳に二ヶ所、二号墳に三ヶ所、三号墳に二ヶ所の埋葬主体部分があった。鉄刀・鉄剣・鉄鏃及び、多数の土師器が出土している。棺外に置かれていた土師器は、前もって割って埋葬したもののようであり、表面にすすがつき、実用器であったことを物語っている。形も山陰地方の弥生時代後期の特徴をそなえており、古墳出土品としては珍しいものであ」る。
第四号墳は、高さ三・五メートル、一辺三○メートルの方墳で、海抜五五・七メートルの河岸段丘上にある。土壙の中に木棺を直接埋葬したもの一、小形の箱式棺一、大型の甕形土器をつなぎ合わせたもの一、壷棺三の合計六基の埋葬主体部があった。箱式棺は薄い板石四枚で四方をかこい、蓋石も板石数個で積まれて簡単なものである。おそらく、子供用であろうか。長さ五三センチ、幅二○センチ、高さ三五センチのごく小さいものである。壷棺三基の内、一つは口径二一センチ、胴径三七センチ、高さ四三センチである。他の二つは口径三五センチ、胴径五八センチ、高さ七六センチの大形壷棺である。壷が利用されたのは、亀岡法貴墳、田辺の堀切六号墳の例から推して、洗骨葬と呼ばれる風習がわが国の古墳時代にもあったものと推定される。
ところで、宝蔵山古墳群は、弥生式土器の特徴をそなえた土器や棺に用いられた土師器から判断して、古墳時代前期つまり四世紀に築造されたものであろう。綾部・福知山間の由良川沿岸では後期古墳は多いが、綾部市小西町の成山古墳とこの宝蔵山は、前期のものとして貴重である。由良川南岸のこの一帯は、由良川氾濫原を見下ろす丘陵上にゲシ山古墳群一六基、八ヶ谷古墳(琴柱形石製品)、中坂古墳群、上野平古墳群と数多くの古墳が四世紀から七世紀にわたってつくられているのである。しかもこれ等の中で、横穴式石室は小規模な平野古墳のみで、後のものは横穴式粘土室や甕棺・壷棺等土や土器のものが多い。この地方には岩石を容易に入手できる所が近くにないが、大字「土」、「土師」の地名があって、土器製作にたずさわった人びとの集団が、土器生産を中心に繁栄し、古墳にも多彩な応用をしていたものとみてよいのではないだろうか。宝蔵山古墳のみでなく、長田野周辺を広く総合して比較研究することもより必要であろう。

『日本の古代遺跡京都Ⅰ』
八ケ谷古墳
八ケ谷(やつがたに)古墳は、宝蔵山古墳群の東南、尾根上に単独でいとなまれた方墳である。
墳丘は二三×二〇メートルの規模で、少量の埴輪片が表面採集されている。墳項部には三墓の箱式石棺をおさめ、その内部に玉類、変形四獣鏡、琴柱形石製品、竪櫛、直刀、刀子などの副葬品を入れていた。五世紀前半代の築造とおもわれるが、埴輪の存在や副葬品の構成などの点において、前代の宝蔵山四号墳とは異なり、畿内古墳文化の影響をはっきりと読み取ることのできる古墳である。いずれにしろ、当地域では、宝蔵山四号墳→八ケ谷古墳とつづく、方墳による首長墓の系譜をたどることができる。

『福知山市史』
八ヶ谷古墳
八ヶ谷古墳は福知山市字前田小字八ヶ谷にある。古墳の位置は、前田口池の西に南から張り出した台地頂部、標高七三メートルのところで、小松ケ丘住宅団地の南にあたる。ここは前田の集落や由良川沖積面を見おろす格好の場所である。戦後は荒れるにまかせた状態で付近には板石が散乱し、地元の子どもたちの遊び場になっていた。昭和三十五年三月、芦田均氏(現福商高教諭)の調査によって、封土の流出に伴う石棺二基の露出が確認され、昭和三十六年九月から福知山市教育委員会が主体となって発掘調査が実施された。
当時はまだ埋蔵文化財保護に対する理解が浅く、埋葬施設だけの調査にとどまり、墳丘や外部施設の調査を残したまま、翌三十七年三月終了した。
八ヶ谷古墳は一辺約二○メートルの方墳であり、発掘調査の時、新たに発見された一基を含めて、南北に主軸をもつ埋葬施設が三基並置されていた。いずれも箱式石棺であり、西から第一・第二・第三主体部と名付けられた。すでに露出していた第一・第二主体部は予想外に破壊され、内部撹乱もひどく石棺の蓋石や側石がかなり抜きとられていたが、幸い完存していた第三主体部によって構造の全容が明らかになった。調査の結果、三基の箱式石棺は細部に若干構築上の差異はあるがほぼ似かよった構造であることが認められた。すなわち、墓墳を掘ったあと比較的小さな板石を立て並べて棺壁とし、外側に二重、三重に板石を置き、すき間を粘土で補強するとともに側石内面にも粘土を張りつけている。棺内は地山上に赤褐色土を置き、その上に河原石を敷きつめて床をつくっており、第一・第二主体部ではさらに床面下に排水溝を設けている。石棺のまわりは赤褐色土と河原石を互層にした裏込めである。蓋石を置いたあとも粘土で固め、さらに赤褐色土でおおうなど板石の貧弱さを補うための配慮がみられる。石棺の内法は第三主体部のもので長さ一・七五メートル、幅○・五五メートル、高さ約○・四メートルである。他の二基の場合は推定も含めて、第一主体部のそれが第三主体部のものよりわずかに小振りであるのに反し、第二主体部の石棺は長さ三・三メートルという長大な規模である。なお、調査の結果第一・第二主体部は同一墓塘内にほぼ同時に築造されたものと推定された。
第一・第二主体部棺内遣物はその大半が持ち去られていたようで、前者からは調査前の採集分も含めて、頭骸骨・歯、およびわずかな玉類と琴柱形石製品一個、後者からはガラス玉若干が出土したにすぎない。第三主体部棺内の遺物は原位置を保った状態で出土した。棺北端で頭骸骨が発見され、北枕の伸展葬であったことがわかるとともに、首の位置で勾玉・管玉・ガラス玉および琴柱形石製品三個、頭骸骨付近で鏡・竹櫛・棺側壁にそって直刀・刀子が出土した。
以上述べたように、この古墳は、極めて特異な箱式石棺構造をもつこと、現在までのところ、府下唯一の滑石製琴柱形石製品の出土をみたことなど、当地方はもちろん、府下でも特筆すべき古墳のひとつである。築造年代は五世紀前半と推定される。
なお、試掘の結果、墳丘裾部に少量の埴輪片を検出したが、その詳細は明らかでない。


伝説






前田の小字一覧


前田(マエダ)
赤所 井ノ向 井根口 岩畑 池部 一ノ宮 打木谷 ウエ ウス田 大石 大畑 沖田 川原 上丁 上クゴ 上子キ 上川原 上長田 上向島 上持徳 上川添水 上大桑ガヘ カヤノ カマ町 口大池 車畑 小丁田 五舛林 三反田 サクラ 下林 下沢 下丁 下向島 下子キ 下川原 下川漆水 下大桑ガヘ 下クゴ 杉 清水尻 ズイリヨ 谷田 谷川尻 滝ノ下 土穴 坪ノ内 天道田 トウトメ 堂ノ下 中山口 中川原 中川添水 中向島 長ツカ 西ノ井 林ノ前 東村 風呂坂 法蔵山 南丁 宮ノ前 水ノ森 見田 六呂市 持徳 山上 山ノハナ 山ノコシ 八ツ谷 ゲシヤマ 子キ 植(うえ) 遠留(とうとめ) 桜(さくら) 赤所 池部 一ノ宮 井根口 岩畑 打木谷 カヤノ 上丁 上大桑ガヘ 口大池 ゲシ山 五舛林 サクラ下林 坪ノ内 天道田 トウトメ 中山口 中サンマイ 西中池 西口池 子キ 法蔵山 林ノ前 ハケ谷 東村 東新池 風呂ケ坂 水ノ森 遠留(とうとめ) 桜(さくら)

関連情報






資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市

若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2015 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved