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丹波の

三俣(みまた)
京都府福知山市三俣


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京都府福知山市三俣

京都府天田郡上六人部村三俣

三俣の概要




《三俣の概要》

上六人部小学校があるあたり。土師川の中流北岸。北から平石川が合流する少し低いところで、三俣とはこの地形をいうものか。
中世は奈良高福寺領三俣戸(みまたべ)庄が史料にみえ、当地のことと考えられる。
三俣村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。山裏組14か村の1つ。
三俣橋?
当村の京街道の渡し場(三俣の渡)を安井川というそうで、合流点直前に今は「三俣橋」↑が架かっているあたりだろうか、昔の旅はワイルド、ここを渡るのか。ビンボー人は泳いで渡ったのだろうか。明治24年頃京都~宮津間に馬車が通うまでは渡しがあったそう。文久元年の覚書に、
川水出候時分、往還之旅人河越之者、高水之時は、駕乗掛六人・八人・十人にてもかゝり候而、越可申候、いそぎの使など、其断有之候は、弥以大勢罷出、何卒越可申候、御大名方之急之御使者、被通候時分、若人馬之儀頼被申候はゝ、庄屋年寄罷出、随分肝煎、差支ざるやうに可仕候、尤も軽き者にても、水出候時は、河越可罷出事、
  附 川越賃は洪水人数候時分も、一人に付而弐拾銭、大抵之高水には拾弐銭可取之、御大名方歴々より御礼受候儀は、庄屋可為差図事   文久元年酉六月
明治4年綾部県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上六人部村の大字となる。
三俣は、明治22年~現在の大字名。はじめ上六人部村、昭和30年からは福知山市の大字。


《三俣の人口・世帯数》 353・153


《主な社寺など》

式内社・生野神社
生野神社(三俣)
小式部内侍の「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」。その「いく野」とは当社の鎮座地の地名である。
国道9号線から見れば、上六人部小学校のすぐ裏側に鎮座。祭神は天鈿女命。別称正一位御幣(みてぐら)神社。「延喜式」神名帳の天田郡四座の一。当社を産土神とする村は、古くは当村のほか池田・堀越・上野・生野・坂室・萩原・正後寺の8か村、各村ごとの神社も生野神社を本居とする。往古当社は、裏山の山上にあったが、往来の武士に祟りがあるということから中古麓に移したという。山上には陰陽石があるという。鳥居の手前を左右に通る道が昔の京街道という。案内板がある。
生野神社案内板(三俣)
延喜式式内社 生野神社記(御弊神社)
式内社とは延喜五年(九二七)藤原忠平によって調査され、延喜式目に選上登録された中央政府にも相当名の知られた神社のことで、当市内に四座ある。
祭神は、天鈿女命で平和な舞踊や音楽を愛好されると共に、九州から伊勢まで男神を無事送り届けられたという勇ましい女神様でもある。
徳川時代の参勤交代には、当地方の領主綾部藩の九鬼氏をはじめ、福知山、舞鶴、宮津、峰山、豊岡、和田山等の大名が行列美々しく此の道を通る時は、必ず参拝して長途旅行の安全を祈願し、神前の榊の枝糞を戴いて御守とし、帰途これを返納したので以来、旅行、出張、転勤外遊等の生活と道中安全の神様として有名である。
社殿は、慶良年間(一六〇〇)関ケ原の戦の頃、社殿の改築があり、更に元禄年間(一七〇〇)忠臣蔵討入の頃、神祇管領より正一位を授けられているが社殿は後の山上にあった。
明治六年(一八七三)生野神社と改称、脂和四年(一九二九)拝殿新築、昭和八年(一九三三)社務所を建てた。
御幣神社 鎌倉時代(一二〇〇)から江戸末期(一八〇〇)までは、みてぐらはんと称えていた。これは、綾部藩主九鬼氏が生野に倉庫を建て上納米を取立てていたが、毎年当神社へ御供米を奉献していたので、御幣(みてぐら)と呼ぶようになったという。
祭日は、春季大祭四月十一日で、子供相撲や、剣道大会が奉納され、秋季大祭は十月十日で市内随一の、重量一一二五キロで、八十人の氏子が奉仕する金色燦然たる御神輿と、子供樽御神輿や御幣太鼓三基が綾部藩奉納の武具行列と共に、勇壮な奴毛槍連中が練りひろげられるのも名高い。氏子は、三俣、池田、堀越、正後寺、坂室の約二五〇戸で、全地域を御神輿が巡行し、各区の御旅所で休憩するが、江戸中期には、下六人部学区の多保市の西和田ノ前という所に六メートル四方位の岩塚かあり、その附近が、中六人部学区の一宮神社の御神輿と、上六人部学区の御幣神社の御神輿と、立会祭礼の御旅所であったともいう。
御加護 いずれにしても、地域社会の発展と商売繁昌、家内安全、学業成就、歌舞音曲の上達や旅行道中交通安全の神様として、御加護はすばらしいものがある。謹白
昭和五十八年(一九八三)十日十日
     奉献  氏子総代一同

拝殿(舞殿)の正面、庇が大きく飛び出していて迫力がある。
生野神社(三俣)
生野神社(三俣)

生野神社 式内神名 郡中4座  六部郷 三俣村
祭神 天鈿女命 祭九月十八日六月十六日 里民狂言ス
本社南向  拝殿 籠家 華表
境内凡百間余山林古木多シ麓ニ社アリ社家ナシ
古此神ヲ産神トシテ祭礼ニ預リシ村数八ツ 所謂三俣村池田村堀越村上野村生野村坂室村萩原村正後寺村也 今村々ニ別社ヲ斎祭タレトモ元本居トスルハ此神ナルヨシ 村老伝之 又曰芦淵村字タマフト云所ニ流鏑馬田ト云所有 古ヘ御弊神社祭礼ニ預タリトモ云
生野元ト今ノ八ケ村ハ都テ生野ト云 三俣本村ナリ 今生野庄トモ云リ 生野町ヨリ北ニ坂有十間余下リテ平地有 此所今萩原村ノ地ニ雲田ト字スル田地在 上古明神天降玉フ古跡ナリ 今ハ若宮ト唱フ社ハナシ 古跡部名所部ニ出之
神天降玉ノ時紅簾(ヘニスタレ)ノ牛ニ乗降玉フト云 此尊躰坐タリシニ何比歟氷上郡余田ニ持行 于今在之 今余田ニテ開帳アルハ此神躰ナリ
社地ヨリ廿間斗前ニ一段高所アリ古ノ鳥居有リシ所也 石場残レリ 又同所ヨリ西エ六十間斗ノ所ニ畠ニ貳間四方塚アリ 古ノ旅所ナリト云伝フ
古ハ山上ニ社有 往来ノ武士ニ祟リ有シ故 中古麓ニ移シ祭ルト云 元禄年中以来正一位御弊大明神ト篇セリ 其後ハ咎ノナシト云 上古ハ六部七ケノ大産神ナリトモ云ヘリ 今生野八ケ尊敬之
(『丹波志』)
天田郡には数少ない式内社の一社だが、200年前の『丹波志』があるばかりで、古い由緒を文献的に尋ねるのは困難である。本来はどうした性格の神様を祀る社なのかを知りたいわけだが、あとはほかの「生野」の例を探りながらだいたい似たようなことかと推測の上に推測を重ねてみるしかない。
大阪市生野区は元々は江戸期の生野村という村の名を受け継ぐものだそうで、古くは摂津国東生(ひがしなり)郡であった、そうすればその「生」のナリかも知れず、ナリノが本来の呼び名だったかも知れない。ナリなら川の意味、成相寺のナリだが、ナライと読むならナラは山城だそうで、国の意味になる、ナルなら太陽の意味である。福知山でも石原の裏山に難波山がある、東生郡・西成(にしなり)郡が難波の本来の範囲だそうで、難波(浪速)のナはどの意味かわからないが、そうしたことならナリと関係があると思われるが、一般には太陽の庭の意味だとよく言われている。
神功皇后紀に阿利那礼(ありなれ)河の名が出てくるが、今の慶州の閼川(アリナリ、アツセン)の事という、この川は新羅建国の聖地で、ここで始祖王・赫居世が生まれたと伝わる。アリはアリランのアリアラで、光明のこと、ナレは川のことである。川の流れのように、の「流れ」と同じ意味である。雄略紀の浦島子の話の直前に久麻那利(くまなり)という地名が出てくる、今の錦江(熊川)で広州市にあるそうだが、熊津とも書かれる百済の古都。「津」もナリで、「津」は湊だが、本来は川口にできた湊の意味であることがわかる。
百済野と呼ばれたるのもこの辺りで、その遺称とされるJR「杭全(くまた)駅」がある(今は東住吉区)。
この周辺は仁徳紀の横野堤の築かれた所といわれ、片江はもと浜江と称し玉造江の一部であったという。猪飼野は猪甘津(いかいのつ)とされる。猪飼野から南西部の高台にかけては、仁徳にちなむ伝承をもつ神社や古跡が残るという。河内湖が入り込んだ湿地帯で、大和川も流れ込んでいた。川であったり湊であったりした所のようで、だいたいは仁徳時代に開発がなされていったようである。
三俣も川が三ツ又になっている土地で、生野とは川野の意味とも取れなくはない。

生野甲山(兵庫県朝来郡生野町)
生野といえば生野銀山↑であるが、この生野は今は但馬国朝来郡だが、元は播磨国に属し、『播磨国風土記』神前郡条下に、
「生野と号くる所以は、昔、此處に荒ぶる神ありて、往来の人を半ば殺しき。此に由りて、死野と号けき。以後、品太の天皇、勅りたまひしく、「此は悪しき名なり」とのりたまひて、改めて生野と為せり。」とある。
品太天皇は応神のことで、仁徳の父になる。だからだいたいはこの時代、神功皇后から磐之媛時代の開発になると思われる。丹後海部氏も品田天皇御宇、直の姓を定め、国造とされたという。この時代に丹後丹波の旧丹波王国領土の再開発が始まったものかもわからない。
その当時に銀山として開発されたものかわからないが、たぶん銅山でなかろうか、最近でもカドミウムの土壌汚染があるとかの鉱毒の地なのか、その露頭部分では人を半分ほども殺す地だったのかも知れない。鉱山でありまた円山川・市川ラインの交通の要衝でもある。

生野は、掛かり詞に都合のよい地名でよく使われたようだが、しかし本来はイクノと呼ぶのかナリノと呼ぶのか、川などの交通並びに鉱山の地で、河内王朝初期時代に開発が進められ葛城氏や「生野」氏の開発になる要地であろうかと思われる。巨大古墳がつくられる元の素地はこうした各地の土地開発事業開発にあったのかも知れない。

私は鉱山神鍜冶神と考えるのだが、ご神体は「紅簾の牛」の乗って現れたものという。天鈿女と猿田彦は夫婦神といい、同じもの、また猿田彦と天目一箇も同じともされる。赤いというか明るいというか、明るく輝く身体をした元々はアラの光明的な神であり、天照大神以前の太陽神であったと思われ、それが鉱山の火と結びついたかもわからない。鉱山にはよく天照が祀られる。
また池田の妙見神とは夫婦とされるが、妙見もまた鉱山神である。
さらに当社祭日は九月十八日だが、これは妙見社と同じ日で、天目一箇神の祭日である、これらはみな同じ性格の祭神であろうかと思われる。
仏教的には真言宗と、さらに古いと思われる薬師信仰の地であり、これらも鉱山があったのでなかろうかの思いを強める。しかし鉱山跡があるとかの話は聞かない。

ずうと時代が下ってくると、山上に当社があった時代には往来の武士に祟りがあったと言うが、麓へ降ろされてからはそれはなくなり、かえって旅の守護神と考えられるようになり、「今も旅立する者、此御社に詣づれば、無事に帰着し得ると云。依って遠近の賽者頗る多し」という。福知山の殿様も舞鶴の殿様も皆参勤交代のおりには当社へ詣で、旅の安全を祈願したという。

また明治に徴兵令がしかれた頃には徴兵を逃れるために、その後はもっぱら武運長久祈願のために、天田、何鹿、氷上三郡からの参詣者が絶えなかったという。祭神が天鈿女命で、歌舞音曲の平和の女神だから、とか言われるが、たぶんそうしたむつかしい話でなく、「死に野」でない「生野」であったからかも知れない。ここの神様によ~くお願いすれば、必ず生きて帰ってこられると、庶民は考えたのかも知れない。

丹後にも生野はある。
宮津市喜多に生野神社、喜多の古名は生野という。
網野町生野内に式内社・生王部神社。


曹洞宗景福山長川寺
長川寺(三俣)
景福山長川寺   三俣村
曹洞宗船井郡須知玉雲寺末寺
萩原村源助 小田姓ヲ称 野端村八郎佐衛門ヨリ先祖養子セリ依之其後小田氏并酢漿ニ文字ノ紋ヲ譲ルト云 其家系ノ内村長ヲ勤メ法身ヲ多保市善光寺来弟子ト成リ其後長川寺ヲ開基ス法名宗心ト云 慶長年中也 其二代岳州和尚法地トス
(『丹波志』)

景福山 長川寺 (曹洞宗)  上六人部村字三俣
 本尊 釈迦牟尼如来  開山 嶽洲義鷲大蝉師
 開基 護園院殿寿山祖了大居士
 創建 慶長年間。伝へいふ萩原村に源助といふ者あり、村役人々勤むる家柄なり、後発心して多保市善光寺に入りて修業し終に本寺を開くと、宗心は法名なり、二代嶽州の時法地さなれり。郡西国第十六番札所
 檀家  二三〇戸   財産 田畑山林合計一町六反歩
(丹波志) 西観寺大光寺址堀越にあり。方四間の釘なしの堂ありしと云ふ、今も礎など残れり、之を除けば祟りありと云
◎堀越の城主が手鎗の柄にて穿りたら池あり、アヲテの清水と云ふ。◎大蔵山高源寺址同所にあり ◎詠歌、まゐるより 山路を行くは高源寺法のちかひに任せ越さなん。 野をも過ぎ山路に向ふ高源寺法のちかひにまかせこえなん ◎郡四国第八番の札所なりしといふ。 ◎上野小路古址、上野に在り、 ◎萩原に具足師。弓師、弦師といふ地名存す。 ◎上野山光大寺址上野にあり。法性坊、榊坊、求問坊、谷坊等合せて四ヶ寺ありて何れも真言宗観音寺の末寺なりしと云。 ◎正後寺
址もあり。 ◎坂室山医王寺加門院址、坂室にあり。
(『天田郡志資料』)

古城跡

古城 浅木山ト云  三俣村
古主浅木縫殿ト云 悪子孫
浅木ケ嶽トモ云 河合ト三俣ノ堺ナリ 三俣分ノ地也 四方山高シ依之 外ヨリ不見 東浅木ケ岳ト云ヨリ 京愛宕鞍馬山 丹後山見ル 西天田 東何鹿 後八木氏移之 住スト云 八木尾張守ト云 九代目今彦太夫也 其外子孫有 姓氏ノ部ニ委出
備前守浅木ケ城ニ移 夫ヨリ山家ノ城ヲ責ル 其夜大両ニ給シ上原辺ノ郷士白抱氏山家ノ谷氏ニ加勢シ夜討ス 先忍ヲ入 弓ノ弦ニ切 鉄砲ニハ水ヲ入置 故可防ヤウナリ 大原ノ北東三郡カ嶽迄引討歿ス 此事丹波興敗記ニ出ツ 三郡カ嶽ニ石碑在
(『丹波志』)

古城 安場ト云  三俣村安場
屋敷跡堀構有 城山ト云 山下ニ墓在 塚四尺斗石ノ塔有 此所ニ狐鳴ハ産ニタゝルト云 其塔ヲ神躰トシテ壹間四面四ツ足ノ社産神ニ祭 若宮八幡ト号 八月十五日祭り 地所敷地斗
(『丹波志』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


三俣の主な歴史記録


『丹波志』
三俣村 本村 上安場 平石 下村 綾部領
高五百八拾七石六斗七升  民家百四十戸
按生野ノ名延喜式ニ生野ノ神社アリ生野ノ名无 古キコト也 然トモ郷庄ノ名ニモ不聞 上古ハ生野郷ナラン 然トモ六人部郷中ニ在 生野町ノコト此末ニ弁ス
産神正一位御幣大明神ト篇セリ 神社ノ部委出之 此延喜式ニ生野神社ト出セリ 此社有テ以テ三俣村ニ先ニ出ス
産神ノ南限ヨリ東ヘ二町斗行ハ谷川ヲ越シ左エ行ハ平石 民家二十二戸 ナリ 右エ行ハ藤谷ト云 是ヨリ栢ノ木嶺迄十八町斗藤谷 民家四戸 ハ村落ナリ 嶺ヲ越レハ何鹿ノ大嶋村ノ内安場迄一里 牛馬道 又三俣村ノ村落上安場エ本村ヨリ凡五町南ナリ 民家十戸 民家ノ中 東ノ山中ニ八木助之丞屋敷此アリ旧栖部ニ出之
三俣村京道川ノ渡場ヲ安井川ト云 四町斗川上ニ安場 民家在 堰在リ 字安井ト云 今生野川ト云所ナリ 右ニ云安井川ヲ越下町ト云 辰ヨリ戌ノ方エ三町斗町並有 東側ハ三俣村ノ出戸 西側ハ堀越村出戸ナリ

『天田郡志資料』
村社 式内生野神社 (指定) 上六人部村字三俣鎮座
祭神 天宇受目命 氏子 二百三十戸
(郷土史料) 境内方百間許、古木鬱蒼たり、生野庄(三俣・池田・堀越・上野・生野・坂室・正後寺・萩原の八ケ村)の氏神なり、社地より廿間許前に高き所あり、(今の小学校の在る辺)古、鳥居の址にて石など残れり、又同所より西へ六十間許の所に畠の中に方二間の塚あり、古の旅所なりとぞ。本社は往古山上にありしを今の所に奉移せり、元禄年中より正一位御幣(ミテグラ)大明神との扁額を掲げたり。上古は六人部七ケ村の産土神なりしと云。本社の山上に在りし頃往来の武士に祟りありき。今も旅立する者、此御社に詣づれば、無事に帰着し得ると云。依って遠近の賽者頗る多し。毎年春季大祭の御神楽の奉納あり。(近年、境内を拡張して社務所も新築され大いに面目を一新せり)

『福知山市史』
生野神社
字三俣に鎮座し、祭神は天鈿女命命である、延喜式神名天田郡四座に列している点から、今より千百余年の昔、中央に知られていたことは明らかである。外に参考となる文献がないので、ここには丹波志の巻之一神社の部に載せるところによって記述する。したがって、村名は江戸時代のままで「今」というのは丹波志が書かれたころ、つまり安永~寛政のころをさしている。
 当時は境内およそ方百間余で山林古木多く、麓に社があり社家はなかった。いにしえこの神を産土神として祭礼に預かった村数八つ、すなわち三俣村・池田村・堀越村・上野村・生野村・坂室村・萩原村・正後寺村であった。今各村に別社を斎き祭っているが、本居としたのはこの神社であったと村老は伝えている。又芦測のタマコという小字に流鏑馬田という所があり、いにしえ御幣神社の祭礼に預ったともいう。生野というのはもともと前記八カ村を総称するので三俣が本村である。今生野庄ともいっている。生野町より北に坂があり、十余間下って平地がある。ここに今萩原村の地に雲田と字する田地がある。ここは上古明神が天降りたもうた古跡である。今若宮と唱えている。(古跡部・名所部に出ている)天鈿女命が天降りたもうた時紅簾(ベニスダレ)の牛に乗って下られたといい、その尊体が鎮座しておられたところ、いつのころか氷上郡余田へ持ち行き今そこにある。今余田で開帳があるのはこの神体である。
 社地より廿間ばかり前に一段高い所がある。いにしえの鳥居があったところである。石場が残っている。又同所より西へ六十間ばかりの所に畠に二間四方の塚がある。昔の御旅所であるといい伝えている。昔は山上に社があり、往来の武士に祟りがあったので、中古麓に移し祭ったといわれ、元禄年中から正一位御幣大明神という額をかかげた。その後神のおとがめがないとか。上古は六人部七カ村の大産神であったという。今生野八ケがこれを尊敬している。
 右は丹波志の文の口訳であり、現在よりおよそ二○○年前のことである。地元の郷土史家荒樋重雄氏は、生野神社に関して次のように述べている。
天のうずめの命を祭神とする神社は、他府県ではほとんど見当たらないが、丹波北部には式内社だけでも三社ある。福知山市字三俣にある生野神社、兵庫県青垣町にある佐地神社は、それぞれ単独神を祭神とし、綾部市館町にある赤国神社は、瓊瓊杵命と猿田彦命、天鈿女命の三柱を祭神としている。いずれもその地方の産土神で、古い信仰の神社である。いずれも元伊勢から日帰りのできる距離に点在し、元伊勢の創設に伴い、その外垣として創設されたものであろう。
流鏑馬という行事は、騎馬を馳せて馬上から 鏑矢で的を射るものであって、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮をはじめ諸所の名神・大社では現在も執行されている。もし右の記事に誤りがなければ、当社はさすが式内社だけあって、古来崇敬が厚く栄えていたことが推察される。また萩原村(市内字萩原)に雲田という田地があり、天鈿女命命降臨の地といわれ、丹波志編さんのころには、そこに若宮という社は今はないと書いているが、多分その地に、この由緒伝説地としてそれ以前には祭っていたものと思われる。天田郡の郡名がこの雲田にがあるのではないかという一説は「天田郡名考」の項で触れた。天鈿女命が紅簾の牛に乗って降られたといい、その尊体(多分その姿の木像であろうが)がいつのころか氷上郡の余田に持ち行かれ、「今」すなわち寛政のころには祭礼などに開帳されていたとも述べている。更にいにしえの鳥居の位置も記しており、同社より西約一○○メートルほどの所に約二メートル平方の塚(盛土)があり、それもいにしえの御旅所の跡であるとしている。ところが同書古跡の部には次のように記している。
 御幣大明神旅所古跡 多保市村
 一宮旅所ノ南一丁斗ニ在 岩ヲ重子(ね)シ塚三間四面也三俣村ヨリ此所ニ来リ玉へリト云
とある。そして別に
 一宮大明神古跡 多保市村
 宮村ノ一宮惣社ナリシ時ノ旅所ナリ 民家の西和田ノ前ト云所ヨリ一丁斗西 田地ノ中ニ三間四面ノ岩重(積)ノ塚アリ
としているから、その場所から一○○メートルばかり南のところが、御幣神社の御旅所であったのである。
宮村(旧中六人部村字宮、〔現市内〕)の一宮神社については別に述べるが、御幣神社は旧上六人部地方の惣社的な宮であり、宮村の一宮神社は、旧中六人部と下六人部のそれであったらしく、そのころは両社の立合いの祭礼となっていたので、両社の御旅所が多保市にあったというわけである。(一宮神社の項も参照)また前項のごとく丹波志に、この神社は、「元禄年中以来正一位御幣大明神ト篇セリ」とあり、地方人はこの宮を「みてぐらさん」という。固有名詞としてこのように呼んでいる類例は少ない。「みてぐら」とは
広字苑によれば弊(御手座の意)、「神に奉る物の総称、ぬさ、御幣……」とある。
本居宣長の「古事記伝」には
 美弓具良(みてぐら)は何物にまれ神の献る物の総名なり。諸祝詞などを見て知るべし。名の義はまづ古へ神に献る物及人に贈り物などする物を凡て久良と云りと見ゆ」
とある。これに対し民俗学者柳田国男氏は「日本の祭」の祭場の標示において、ゴヘイは漢語の幣とはちがって、神に進献する財貨ではない。本来神の降りたもう場所のことであるごとく述べている。それが後に他の地に移動するようになると、何かのしるしを手に持って移動することになり、そのミテグラを手に持つ者が神の指令をうけたもの、御祭を奉仕する最も重要な役だという考え方が一段と強くなって来たことも争そわれぬのであるといっている。なるほど日本古代の祭祀関係方面では、神座とか、磐座(岩座、石窟)のように座を「くら」と読ませている。民俗学では巨岩怪石のあるところ、特にその洞窟などをも「いわくら」と称して、古代信仰の一類型として取扱っている。この地方では、隣の氷上郡市島町竹田の石像寺の裏山の中腹に聳えている巨大な岩とか、綾部市宮代町の岩の洞窟、福知山市内では字大門や字川北門前の行者岩、字喜多の三岳山上の行場など、信仰の対象地となっている。別の民俗学者吉野裕子氏は、その箸「日本古代呪術-隠陽五行と日本原始信仰」において、「くら」の本義は岩と岩との間の洞窟などをさすように、何でもV字型のところをさしたもので、手を合わせたりしても、両手で何かを捧げたりしても、その凹所に、何かを入れたり出したりするところに呪術性を感じたものであるとしている。天照大神の岩戸がくれの場合とか、猿田彦神説伏の場の天鈿女命の恥部云々の話などを例示している。広辞苑に「みてぐら」の説明に「御手座」とも書いている意味は、何か別の考えによったものであろうか。


伝説






三俣の小字一覧


三俣(ミマタ)
合口 稲葉 石ノ本 岩ノ間 池ノ町 鷺谷 丑ノ裏 上ノ段 大畑 老村 隠レ谷 鍛冶屋ノ下 角田 カゴネ 黒ケ市 九五 コグレ ゲンジキ ゲンシク谷 小町村 神戸 権田瀬 坂室田 座頭谷 砂田 辷リ石 惣谷口 惣ケ淵 田ノ奥 田ノ奥口 滝谷 滝谷口 棚田 竹ノ下 段 茶屋ケ前 寺ノ下 天ガタハ 出口 堂ノ木 堂ケ成 長野 長野口 中井 中ノ谷 梨ノ木 名国畑田 畑下 葉山 八ケ坂 ハサマ 馬場ノ前 火ノ谷 火ノ谷口 彦三田 ヒシリ岩 芒ケ成 宮井 官之前 宮ノ裏  宮ノ下 水木 森ケ下 山ノ谷 山ノ谷口 山添 山根矢通 安井 八ツ町 湯上 湯ノ内 由良ケ谷 悪道 雲岡 藤谷 上安湯 水汲戸 雲田 畑 湯舟 花山 稲葉 岩ノ間 大畑 上ノ段 上安場 鷺谷 砂田 立目 堂ケ城 中ノ谷名国 花山 平石 火ノ谷 藤谷 山添 矢道 湯舟 ユフイ

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福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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