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丹波の

旧・三和町(みわちょう)
京都府福知山市三和町


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京都府福知山市三和町

京都府天田郡三和町

旧・三和町の概要




《旧・三和町の概要》
三和町は天田郡の最も東南寄りの由良川支流の土師川上流域を占める。南は兵庫県多紀郡、氷上郡に接し、西は福知山市、北は綾部市、東は船井郡と境する。
丹波山地にあり、同山地から発する細見川・川合川・草山川が由良川支流土師川に合流する地点にわずかに平地があるだけの山村地域。耕地は山麓傾斜地と土師川の河岸段丘上に開ける。農林業の町で、煙草・丹波粟が有名。町の西北から東南に国道9号が走る。
明治22年の町村制施行により菟原中・菟原下・友淵・高杉・大身の各村と加用村の一部が菟原村、細見辻・細見中出・細見奥・千束・草山・芦淵・寺尾の各村が細見村、大原・台頭・上川合・岼・下川合の各村と加用の残り部分が川合村となった。なお下川合の内シデノ・水無田・平尾・三本栓・トビノス・釜池の各小字は一括して大字梅原と改称し、大正7年10月細見村に合併した。
昭和30年3月31日、菟原・細見・川合の三村が三和村となり、同31年4月1日、町制を施行した。町名は公募により、旧3か村村民の和合と発展を期待して命名。面積は90・30平方キロ
平成18年1月1日に福知山市に編入合併し消滅、町域は「 福知山市三和町」となった。


およその歴史的沿革

古代
古代は六部郷・六人部荘と呼ばれ、近世も「六人部の庄」と総称されていた。
町域からは縄文・弥生時代の遺跡は今のところ発見されず、加用で古墳時代の須恵器片がわずかに発見されている。
律令制下では六部郷の東半分にあたる。山陰道には沿っていないが、京から丹後または奥丹波に向かう道は早くから町域を通っており、小式部内侍の「大江山生野の道は遠ければまたふみもみず天の橋立」の「生野」は、この道に沿い、当町の西端から3㎞東にある。

中世
中世の六部郷は寿永3年(1184)頃には池大納言家領34か所中の1領地で、六人部荘。平安末期には平清盛の後妻池禅尼の子頼盛が八条院の荘園六人部荘を領した。平家滅亡のときっ、いったん没収されたが、元暦元年(1184)に、源頼朝が幼き頃、池禅尼によって生命を救われた恩に報いるために、同地を頼盛に返し与えた。その後鎌倉期には後宇多院の蓮華心院領となった。
中世末期には六人部荘は六人部七箇(むとべしちか)と称し、全域を7荘に分け、当町域の菟原荘・河合谷・細見谷・千束谷で六人部上四箇(かみしか)と呼んだ。
菟原荘は摂関家領で、嘉元3年(1305)頃の「摂録家渡荘目録」に氏院領の1つとして見える。元応元年(1319)頃には、日吉神社、荘内重吉・行包2名の領有するところとなった。
当地の名族として樋口氏があり、対馬守を称していた。川合経ケ端城跡・川合日向城跡・細見中手城跡などは樋口対馬守の居城・出城跡である。また友淵城跡明智兵庫頭、川合日代城跡は黒井城主赤井氏の遺臣蟻之助、細見辻城跡は細見長助が居城したもので、樋口・明智・赤井・細見氏および菟原の小野氏などの勢力が当地を支配していたと推定されている。
天正初年明智光秀が奥丹波を攻略するとき、光秀は菟原荘の友淵の万燈山に立てこもったようである。

近世
慶長5年(1600)関ケ原の戦後は、福知山城主有馬玄蕃頭豊氏、次いで岡部内膳正長盛の領地となったが、寛永10年(1633)綾部へ九鬼豊前守隆季が入封すると、当地域はほぼ綾部藩領となった。
江戸後期には河合村から大原・加用・下川合・台頭・上川合・岼が分村したのをはじめ、草山村からは寺尾村、細見辻村からは中手村・細見奥村が分村して、幕末期には19か村になった。領主関係は錯綜しており、綾部藩領は芦淵・河合・大身・草山・千束・細見奥・細見中出の各村、幕末期には上総国鶴牧藩領に編入された菟原中・高杉・友淵・細見奥の各村があり、一時幕府領となった村は細見奥・細見辻の2か村、ほかに旗本知行の村が、菟原下・菟原中・高杉・友淵・細見の各村であった。知行主の旗本は菅沼・田中・小宮山の3氏が見えている。
当時は菟原中・菟原下・高杉・友淵・大身を含めて菟原荘といい、細見辻・中手・中島(支田の谷)・奥村(枝郷松村)を合せて長谷(はぜ)゙または細見谷と呼び、千束・芦淵・草山(枝郷寺尾)の3か村を千束と総称した。草山の谷頭の戸平は、現在は兵庫県氷上郡市島町に属しているが、もとは天田郡に入っていた。寺尾は元禄年間頃、草山から出戸したものという。稲葉は下川合村の枝村である。千束は京街道が通り宿場であった。菟原中村の細野峠は百観音堂と旅籠・茶屋があり、旅人が休んだ所であった。
社寺
慶安元年(1648)福知山藩主稲葉紀通は狂乱のうえ自殺。紀通はその治世中に、往古から天台宗で、中世頽廃していた中手の寺を再興した。紀通自殺、同家断絶後、城中にあった顕龍院を中手へ移し禅宗に改めたのが、現在の顕龍山興雲寺であり、開山は紀通のもと家臣で、京都妙心寺住職回天法旧和尚。
菟原や細見には紀忠道の子孫と伝える旧家があり、その隠棲地という所がある。三和町から峠を越えた兵庫県多紀郡にかけて、紀氏の祖先を祀る梅田神社の信仰が厚い。
菟原下の梅田神社は、中央に紀氏の先祖と春日大明神、左側に西宮大明神(恵美須神社)を祀る。同社は文治5年(1189)の草創と伝え、紀氏の子孫とする細見伊左衛門が社地を大半寄進したもので、梅田七社の初めである。梅田七社は菟原下の梅田3座、友淵の春日神社、細見辻の梅田3座、高杉の春日神社、兵庫県多紀郡草山の梅田神社、同郡藤枝・小原の梅田神社を指し、七社の祭日には神輿が菟原下の梅田神社に集う習わしであった。現在祭礼の古式は大身の広谷神社に伝わっているといわれる。
旧府社大原神社は、仁寿2年(852)3月に丹波国桑田郡野々村荘樫原に祀られたが、弘安2年(1279)9月に当地に遷座し、応永4年(1397)10月当地の領主大原雅楽頭によって社殿が造営され、正一位の神社を許された。天正年間に明智光秀のために社殿が焼失したが、寛永11年(1634)藩主九鬼氏によって再興され、明治に至るまで同氏族の崇敬を受けた。当地方では最も壮大な社殿である。当社は古来、安産の神として有名で、諸公家や、遠くは伊予国(愛媛県)宇和島藩主伊達家をはじめ、諸大名が祈願した記録がある。

近現代の行政区画の変遷
慶応3年(1867)王政復古となり、それまでの藩主は太政官のもとに知藩事として、その所領を治め、幕府領・旗本領は一時久美浜県に入った。明治4年廃藩置県となると、天田郡は豊岡県に編入され、同県26大区のうち、天田郡は西半は第16大区、東半は第17大区に分かれ、当町は第17大区に入った。同9年8月天田郡は京都府に編入され、当地方はその第1区となった。同22年市町村制施行により、江戸期からの諸村は、菟原中・菟原下・高杉・友淵・大身の5か村を併せて菟原村、千束・芦淵・草山・寺尾・細見辻・細見中出・和祖身奥の7か村を合併して細見村、岼・下川合・上川合・大原・加用・台頭の6か村が合併して川合村となった。昭和30年3月31日、菟原村・細見村・川合村の3か村が合併して三和村となり、同31年町制施行して三和町が成立した。

満州開拓移民・陸軍部隊による開墾
当町は地勢上、水田が少なく、大正期から増加する人口と、わが国の食糧問題解決の国策に沿って、昭和7年には多数の満州開拓移民と開拓青少年義勇軍を送り、多数の犠牲者を出した。
第2次大戦中の昭和19年には、南方派遣待機中の陸軍部隊500名により、千束野・梅原・河内ケ野の開墾を行って甘藷を栽培した。第2次大戦後の同21年には旧細見村は、わが国最初の開拓開田による新農村建設事業推進農村となり、同24年にはその成果が上がり、実績全国中6か村の1つに数えられた。また同27年には土師川から揚水して、段丘上の畑32haを新規に開田した。


産業と出稼ぎ
養蚕は明治初年から行われ、生糸の座繰を行っていた。明治25年からは、中出に50釜をもった共同製糸工場が設置された。大正12年頃には旧3村で5、6万貫を収穫したこともあったが、昭和初期の大不況で衰退し、以後は戦争で、米麦と、主に甘藷作りが中心となった。その後荒地の開墾から、揚水による開田が行われた。昭和30年代から、商品作物としてタバコの栽培が盛んになり、同35年頃には、1町の生産額では近畿地方で1位を占めた。古来木炭と薪の生産も多い。
この地方の農家には、古来冬期の農間期に、亀岡市の南部別院地方から大阪府の北部能勢地方にわたる地域へ、寒天の製造に出稼ぎに行く者も多い。


《交通》


《産業》


《姓氏》


旧・三和町の主な歴史記録


『三和町史上』 出稼ぎ
酒造り
「酒屋へ出稼ぎに行くことを『百日』といった。三ヵ月余り働いて帰ってくるためである」〔芦渕〕、「季節労働として灘や伏見へ酒造りに出かけた。杜氏になった者はなかったが、三役になった人はあった」〔芦渕〕。酒造りは本場である灘(神戸)・伏見(京都)への出稼ぎが多かったといわれるが、昭和初年に細見小学校がまとめている「郷土の研究」によると、当時の細見村からの出稼ぎ先としては、「洒造り 七十人 長野・静岡・堺・西宮・灘・神戸方面」とあり、かなり遠隔地までも出かけていることがわか。また『民俗採訪』によると、「兵庫県の灘・西宮・氷上群柏原・愛知県ホテイ町・福井県へ酒造りに行ったが、灘の酒屋へ行く人がほとんどでありた。毎年行く店は決っていた」とある。
 荷物は、「自分の布団と着替えを行李に入れ、篠山へ出て汽車で宝塚まで行き、そこから歩いて御影までいった」(『民俗採訪』)といわれ、菟原では「明治の終わりごろは、西宮の酒屋へ出稼ぎに行くのに多紀部小原駅(兵庫県篠山町)まで、荷物を背負いワラジ履きて歩いていった」〔菟原下〕。
 続いて『民俗採訪』によると、「初めて酒屋に行く場合は、モトマワリになっている人に頼んでおいて口をきいてもらっておいた。酒造りにはオイマワシといって桶を洗う人、ジョウビトといって酒をしぼる人、トウマワシといって道具を準備する人、モトマワシといってモトを専門にやる人がいて、その上にセワヤキ(カシラ)といって指図する人がいる。セワヤキとダイシ・トウジの三つの役をサイヤクという。またこれらの下に火を焚いて米を蒸す釜屋などがいた。ダイシというのはコウジを専門に仕込む人、トウジというのは、作り込み全体を請負う人のこと。トウジはヒトツクリいくらということで請負うが、カシラ・トウジは日給。カシラほ日給三十銭、トウノは二十八銭、モトマワリは十八銭であった。明治末から大正初めのことである。サイヤクには、上がつかえているとなかなかたれない。サイヤクは、篠山付近の人が九分九厘を占め、この辺の人はモトマワシがせいぜいであった」とあり、出稼ぎの雇い主の決定から、職場での仕事の様子・賃金まで詳しく知ることができる。また、「一五人から一七人で組を組んで仕事をした」〔岼〕、「トウジから飯炊きまで九段階に分かれていた」〔芦渕〕とされ、酒造りには、それぞれの持場・役付が振り分けられていたことがわかる。
 冬季の出稼ぎとして、かつての青年の多くは年輩者にしたがって、灘や伏見へ働きに行ったようで、懐古談は現在でも聞くことができる。

寒天作り
冬季の出稼ぎで、酒造りと同様に、その多くをしめたのが寒天作りであった。「大阪の能勢や南桑田郡(亀岡市)へ寒天作りに行った」〔台頭・下川合〕。『民俗採訪』によると、「大正六、七年ごろ大阪・亀岡方面へ行った。能勢の妙見さんの寒天屋に十一月の中ごろ出稼ぎに行った。昭和十六、七年ごろまで続いた」とある。ほかに、南桑田郡西別院の寒天屋へ行ったという人もあった。
 「大正三年(一九一四)ごろは、日当六〇銭だったが、昭和七年(一九三二)には一円八〇銭になった」〔台頭・下川合〕。
 寒天作りの出稼ぎに行った人は、川合地区に多く、これは出稼ぎの世話をする縁故関係によるものであろう。

養蚕手伝い
「養蚕期の出稼ぎに加佐郡の岡田(舞鶴市)へ行った。男は外仕事、女は内仕事で、とくに五令期になると男は桑とり、女は桑おき(給桑)が忙しかった。日当は一円だった」〔中出〕。細見小学校の「郷土の研究」によると、細見村からの養蚕出稼ぎは三五人であり、加佐郡河守・河東村となっている。

製糸工場の女工さん
 「明治から昭和初期までは、農家は経済的に恵まれていなかったので、上級学校(男は中学校・実業学校、女は高等女学校)に進む者は極めて少なく、五〇人中四、五人もあれば多い方で、小学校六年で学校を終わる人か多く、卒業後は、「男は自家農業や冬期の酒屋などへの季節出稼ぎが多かった。女の子はほとんどが製糸工場で働いて家計を助けた」〔声渕〕。
「郷土の研究」では「製糸工場、男子九人、女子九〇人、郡是製糸萩原工場や綾部」と記している。

明治から大正期の労賃
大正の末年から昭和初期にかけて「円タク」とか 「円本」といわれた時代がある。円タタというのは、料金一円均一で走ったタクシーであり、円本というのは、一冊一円の書籍のことで、『現代日本文学全集』を改造社か刊行したのが始まりといわれている。
 当時の労賃をみると、「明治から大正期にかけては、日雇いや職人は米を基準にして、百姓日雇い米二升、職人四升、僧侶の礼布施は職人並」〔芦渕〕、「大正十二、三年ごろ、米一升三五銭ぐらい、酒屋で日当九五銭から一円三銭ぐらいだった」〔芦渕〕、「米一升五〇銭になったとき米騒動(大正七年-一九一八)がおこった。その後、三〇銭まで下がった。そのころ、日当五〇銭で、だんだん上がり一円になったとき、一日一円になったと喜んだ」〔下川合〕。「大正期は一日五〇銭、昭和十年ごろ一円から一円二〇銭だった。酒一升四五銭・地下足袋一足七五銭・タバコ七銭~一五銭・刻み煙草のハギが三〇銭だった」〔高杉〕。


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『三和町史』各巻
その他たくさん



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