宮(みや)
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京都府福知山市宮 京都府天田郡中六人部村宮 |
宮の概要《宮の概要》 国道9号線から市島町へ出る府道706号(竹田街道)の岩崎橋を渡った最初の集落。島田と野間仁田の2自治会を構成している。 古代には六部郷、中世は天竜寺領六人部庄の地。至徳4年(1387)閏五月二一日付天竜寺領土貢注文(天竜寺文書)に「六人部庄宮村方三ケ村分」が地名の初見。 宮村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。山裏組14か村の1つ。「丹波志」では支村に「岩崎・仁田・嶋田・野間」がある。 岩崎は当村の出戸で土師川右岸の京街道(山陰道)の山麓側に発達した集落で、幕末~明治初年に当村より分離したという。 嶋田は天正頃福知山あたりより移住して湿地を開墾したという塩見・島田(島太)氏がいる。当村の用水は近隣池田村内の堰から引かれている。当村は池田村より土師川の下流にありながら、潅漑上の優先権が長く認められている。
同家の先祖は信州芦田庄(長野県北佐久都立科町)より来住したと伝えるが、「丹波志」は「古丹後出ナリト云」としている。芦田均の先祖になるのだろうが手元に資料なく詳しくは不明である。 明治4年綾部県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年中六人部村の大字となる。 宮は、明治22年~現在の大字。はじめ中六人部村、昭和30年からは福知山市の大字。 《宮の人口・世帯数》 150・65 《主な社寺など》 丸山古墳など 仁田付近の水田から石斧2個が出土し、由良川を上った弥生文化の六人部谷での最先端を示すものと考えられているという。 明治41年に一宮神社裏の丸山古墳が発掘され、瑪瑙勾玉、青銅製の鈴、琥珀の切子玉、須恵器の平瓶、轡、刀身などが出土したという。 またその丘陵南端に「男塚・姫塚前方後円墳」の2基の前方後円墳形の古墳があるというが未調査とのこと。(丸山古墳と同じものか不明) 一宮神社 大和一宮。三輪王朝の守護神。大神神社を勧請したものという。地名の「宮」は当社より出たものという。
鎮座地は野間仁田という所で「野間の一宮さん」と呼ばれる。 境内に「イチイガシ」の巨木がある。
仁田城・城ノ尾城館 一宮神社の今の鎮座地は小字「城ノ尾」だが、この裏山に城ノ尾城館・仁田城があったという。
芦田均記念館 六人部は「憲法九条発祥の地」「平和憲法誕生の地」と言えぱオーバーかも知れないが、氏は憲法改正委員会の委員長を務め、九条は氏の修正(氏の名で代表する改正委員会の修正)を経て現行の文面になった。 当地出身の第47代内閣総理大臣・芦田均を記念する市のホールである。記念館の後の建物が彼の生家という。 デカイ家で、当時は中六人部村村長を務めていた家に生まれ、一高、東京帝大を出て外務省に入り外交官であった。初赴任地はペテルブルグ、第一次大戦やロシア革命の直前で、そうした世界史的大事件を目の当たりにした。 満州事変に日本の危機を感じ、外交官を辞して政治家となる。リベラルな平和主義を貫いた。議会に介入する軍部と対立し侵略やファシズムと闘っている。出石出身の斎藤隆夫の反軍演説に伴う除名にも反対した。 『最近世界外交史』『第二次世界大戦外交史』の著作がある。 敗戦直後の占領下で、戦前のこうした活躍が評価され、鳩山一郎らと日本自由党結成に参加。45年幣原喜重郎内閣の厚相。46年衆議院憲法改正委員会委員長に任命される。47年自由党を脱党して民主党結成に参加、総裁となり社会党との連立政権を組閣。片山哲内閣の副総理、外相を務め、48年3月には芦田内閣を組閣した。しかし昭電疑獄で7ヵ月で倒壊した。 注目点としては、 国全体がファシズム化するなかで、その流れに抗するリベラル政治家のむつかしい政治活動。大政翼賛会から非推薦でも何とか最下位でも当選する、小選挙区制ならダメだったかも知れないが、中選挙区制(3人区)だったから出来たのかも知れない。小選挙区は平和と民主主義を殺す危険性が高いと言えるかも、最低でも3人区がよいかも知れない。ダーと流される人間が70%ほどだが、そうでないその思慮深い3人目の声が実は大切なのかも知れない。多数決は多数派だというだけのハナシで何もそれが正しい選択とはまったく限らない、民主主義のどうにもならない根本的な欠陥かも知れない、ラクに方へ大部分は大きな流れとなってダーダーである、それに必死に抗している少数派の声こそ実は大切なのかも知れない。1人区は最初からそうした大事の少数を切り捨てる制度で、もともとから民主的でないのではなかろうかと思われる。これではいくら選挙をしても流れに乗る時局便乗調子者ダーダー派ばかりがあふれるといったことになる。小選挙区はその流れを加速する。 オヤジさんがナンボ村長さんだったとしても、その地盤は知れたもの20聯隊のお膝元での反軍派だから、選挙民の心の底にこれはヤバイぞ、の危機意識が強かったことと、この人の人柄だろうか。私利私欲のみで軍部にすり寄る政治屋とは違う平和信念を持った勇気のリベラル人との評価高かったのではなかろうか。 憲法九条と「芦田修正」 憲法九条の2は、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」となっている。この「前項の目的を達するため」が〈芦田修正〉と呼ばれる部分で、言い換えれば前項の目的以外の戦力、さらに言い換えれば自衛のための戦力保持は暗黙に認めたともされる部分である。 この文言を加えた意図やどういう意味かは国会答弁などで明文化されているわけではない。氏の日記によれば、「(九条1項の)『国際平和を希求し』という言葉を(1項、2項の)両方の文節に書くべきなのですが、そのような繰り返しを避けるために『前項の目的を達するため』という言葉を書くことになります。つまり両方の文節でも日本国民の世界平和に貢献したいという願望を表すものとして意図されているのです」。とあるという。自衛はOKの意味なのか大事な所だが何かよくわからん話になっている。はっきり言えば、そうした意味はないように言っているようである。 1項は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」 日記のことだとすれば、2項は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」となる。 自衛の戦力については何も言ってはいないことになる。OKかNOかはわからない。 日記など目を通しても、このオッサンどこかわからん所があり、くえないヤツだな、の印象が出てくるが、戦前は軍部、戦後は占領軍という絶対的権力を持った者の前での政治芝居だから、本意を明確にしないのかもわからない。しぶとく生き延びるためのやむを得ずの方策だから、あながち非難はできない。 日本軍部や米軍、その他日本人が神様視している大権威大権力を相手にすれば、彼などは上等の方で、たいていの日本人は彼には及ばない、何も言えないし、言えば諸手をあげて賛成しますだけである。こんな時代に、現在でもそうだが、彼ら相手に調子の良い事を明確に言うヤツこそアヤシイと見ている日本社会の中である。明確に言えば言うほど、アイツは過激なことばかり言うと日本社会からは浮いてしまう、そうしたお眠り中の日本社会を見なければなるまい。味方はこんな頼りない者ばかりで、世界水準からはるかに遅れるネゴトばかり、相手は超強力だから、言い方はこうしたことになるのが避けられない。 原案(マッカーサーノート。幣原の発言を受けてマッカーサーが骨子を決定したとする、現在の憲法学上では通説とされる)には「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する」とあった。 政府が始めて国民に示した憲法草案には「国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としてはこれを永久に放棄する。陸海空軍その他の戦力の保持は許されない、国の交戦権は、認められない」とあった。 この文面では何か占領軍に命じられてイヤイヤ戦争を放棄させられたような印象で、戦争の惨禍を経験した日本人の覚悟としての主体性に乏しいの批判があり、9条1項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、」が加えられた。 「前項の目的を達するため」は自衛のための戦力はOKという意味の修正ともされるが、芦田氏が当時そう述べているわけではなく本当はわからない、後には、これはOKの意味の修正だと述べている。 修正当時の委員会での議論が記憶が残っていた日記の記述から見れば、両方はあくまでも日本人の自主性を強調するための修正であって、自衛権は論じられたわけでなく関係のないことのように見える。 あるいは後にこの修正をむりやりにそう解釈しようとするコジツケものかもしれなくなる。 自衛権は書いてなくても天賦の自然権(神の法)として当然の話である、生きる権利だから、何人も憲法であろうが否定はできない。しかし「自衛」の概念は危険性を孕んでいる。どこまでが自衛か範囲が曖昧だし、自衛だ防衛だと言って実際は侵略してきたのが過去の歴史で「自衛権」は悪用、濫用されるのである。天賦の自然法(最高法)は自衛権OKだろうが、しかしまた「汝、殺すなかれ」(汝、殺されるなかれ)、「殺生はアカン」もまた定めていると見なければなるまい。キミを殺さないために自衛権があるように、キミだけではなく、神や仏が作りたもうた誰をも殺されてはならないものだろう。自衛権を言うなら、そればかり言ってないで、それよりも上位というか前提条件の関係にある「汝、殺すなかれ」「殺生するなかれ」の神仏の最高の最高法がありそうだということもまたよく知っておくべきでなかろうか。まずは「殺すなかれ」を実行しなさい、自衛権はそれからですよ、大量無差別虐殺兵器など持っている国に自衛権など言う資格がありますかいな。といったことになるのかも知れない。権利は自分だけが言っていても何も効力はない、相手に認めてもらえなければ、勝手な主張でしかない、相手にも権利として認めてもらうためには、相手の同様の権利も認めなくてはなるまい、従って相手にも同様の自衛権があることを認めなければそもそも成り立たない。お互いにその自存権を認めてお互いにキミの国は犯さないよと取り決めなければ、相手からも認めて貰える「自衛権」などは成り立たない。 真の勇者だけが剣を捨てる、それは勇者の最高の美徳。ワタシが言うのではない、こんな立派なことは言えない、これはガンジーの言葉である。憲法九条は日本は最高の勇者になると宣言したのである。舞鶴市が証明したように市が市民を守るものでなく関電を守るものであるように、軍も国民を守るものでないし、たとえ守るものであってもそれでは足りず集団安保ですらも国民の安全は守れない、それよりもお互いに武装を棄てることこそが全人類の安全が守られる一番の方法である。 「帝国ハ今ヤ自存自衛ノタメ…」(41.12.8宣戦詔書)と言ってアメリが攻めてきたわけでもないのに、アメリカの国土に攻撃をしかけた。自衛はいつでも侵略に変身してしまう、ドンパチのさなかにこの変身のブレーキをかける制御はしにくい、特に日本は動き出せば途中でやめられないという弱点がある、先の大戦や今の原発を見ればよくわかる、あれほどの惨禍があっても止められない、はっきり言って信じられないほどにメデタイ所、初志貫徹というか集団自殺に向けて突っ走る、人命をヘとも考えないところがある。自分の生きる権利が他国の人の生きる権利を奪うかも知れない、何でもカニでも一方的に自衛だなどは言えない。憲法にできることは、自衛といってもそうした危険があるから、野放しでなく厳しく制限することくらいであろう。天賦の不可侵の権利として神から与えられた自衛の為のみの厳密な範囲内、それよりも下回る程度にしなさい、このあたりが憲法の精神かと思われる。 当時の政府は、〈芦田修正〉の真実の意味もよく知っていようから、それも織り込んで、「自衛戦争を否定するものではないが、戦力の保持と交戦権を否定する結果として、防衛戦争も行うことはできない」の解釈に立っていた。侵略戦争は非合法、もし人を殺せば殺人罪です、自衛戦争もだいたいそうです、仮に自衛であってもできるだけ避けなさい、しなさんな、武力の行使は極めて制限され、他に手段がなく、最小限、これを越えれば正当な自衛行為とは認められず殺人罪です、の解釈と思われる、ずっとその解釈で、世界史の流れ、各国の平和に向けての努力、我国の戦争責任、被害を受けた国々の目、憲法の精神の全体的な解釈、そうしたものからはそうとしか読めないわけで、自衛と言えども、戦争や武力による威嚇又は武力の行使はしないとするようで、相手があることなので、基本としてはそういうこととする、それはだいたい正しい解釈と思われ、たいていの日本人はそのように解釈している、また世界もそのように理解している。 「各国議会は、日本国憲法九条のような、政府が戦争することを禁止する決議を採決すべきである」(ハーグでの「世界平和市民会議」1999)。公正な世界秩序のための10の基本原則の第1項) 日本に見習って、どの国も、戦争は自衛といえども基本的に非合法、違憲というものにしようというものである。ようやく日本憲法は世界水準、それも手本とされるほぼ最高水準の近づいた、あれだけの犠牲はこれで生かせるかも知れない、いえいえちゃいますで、「芦田修正」は自衛権OKのことですわいな、などの低レベルの話をしていていいのだろうか、世界が笑う。 自衛権については憲法には何もない、あるとすれば、〈芦田修正〉だが、それもこじつけ解釈しないとムリである。そのあたりが真実かも知れない。第一次大戦では1600万人、第二次大戦では5000万~8500万人もの死者が出た。どの国もこの責任を負っている、誰もがこの責任を負い、平和への努力の義務を負う。そうしたことをコロっと忘れた者が言い出したコジツケかも知れない。自国の自衛の為の軍備はOKなど、腐った政治家どもがしそうな低レベルの話を書いているのではなかろう。郷土の芦田氏と祖国の名誉のため私はそのように解釈する。 アメリカにも被害はあり死者もあったが、それは少なく、後に大繁栄を築いたのはこれら大戦のオカゲであった面がある。 惨禍を知らず、原爆反省もなく己が武力の強大さに驕る国や人間のケツにつくのはヤバイ。 また自衛隊は何なのか、国外それもインド洋やペルシャ湾、イラクのサマワまで行っていいのか、集団的自衛権はどうなのか、後方支援はどうか、日米安保はどうなのか在日米軍はどうなのか、いろいろ現行憲法との関係が問題として出てくる、幸いにも1発も撃たずに70年きたが、もし1発でも撃てば日本人の弱点からして歯止めがかけられるのか、これらは後の話で芦田氏には直接関係がないので、ここでは触れない。 《交通》 《産業》 《姓氏》 宮の主な歴史記録『丹波志』
『福知山市史』
『福知山・綾部の歴史』
伝説宮の小字一覧宮(ミヤ) 赤井 赤江 荒堀 庵ノ音 庵カウ田市太夫 市助畑 市左ヱ門 市左ヱ門田 伊左ヱ門畑 伊三郎畑 インゲン田 イモジ田井子ヅミ 一町田 一ノ坪 一ノ的 伊勢畑岩間田 石橋 馬田 馬塚 梅ノ木田 越中田 御供田 ヲウタ 柿ノ木 柿ノ木田 鐘ツキ田 嘉平畑 神興田 苅分田 欠込 川内田 カワラ地 カゴノ木 上ノ山 上ノ戸上棒田 上クゴ 桑ノ木田 倉ノ下 クゴ 兼平 ケシケ谷 ゲキドノ 小平田 講中 ゴマ田 三角田 三ノ的 三ケ溝 桜田 サコ田 下川 下高田 下クゴ 城山 新田畑芝分田 泉田 七郎兵衛畑 十代 治平畑 治郎助畑 治右エ門田 砂田 杉ノ木 スジカイ田 善兵衛田 宗右エ門畑 外輪ノ木 高田 谷口 泰助田 大将軍 タクミ田 茶ノ木本 築添 チヤウヤ田 丁畑 瓜寄 寺屋敷 出口 伝七畑 トチ谷 トヲ亀田 土手添 道田 道亀田 永田 長塚 長小町 ナミ桑 西ノ宮 西左ヱ門畑 二丁田 ニン田 子ンサイ 針ノ木 半六畑 馬場 彦右エ門畑 彦左工門畑 彦兵衛畑 広畑 樋ノ向 樋ノ下谷 ビクニ田 古屋ケ谷 古屋ケ市 風呂本 平次郎畑 平四郎畑 細田 堀田 本瓜 法正寺塚 棒田 丸町 又三郎田跨田 鱒小町 三重田 溝添 向畑 紫分添門田 茂平 杢右エ門畑 山ノ下 薮ノ内 薬師畑 弥右エ門畑 与田良田 ヨケ田 岩助田 茂右エ門畑 中島 多兵エ畑 寺屋舗上スジガイ田 ヨケ溝 長木町 上棒田 芝分添 馬場田 樋ノ下 小平畑 下スジガイ田 弥左ヱ門田 上ノ山 桜山 柴草山 城尾 百合山 百合山口 中島 伊勢田 カモジ田犬ノ戸 中ノ瀬 若助 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『天田郡志資料』各巻 『福知山市史』各巻 その他たくさん |
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