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宮垣(みやがき)
京都府福知山市宮垣


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京都府福知山市宮垣

京都府天田郡金谷村宮垣

宮垣の概要




《宮垣の概要》

宮垣はミヤガキあるいはミヤガイと発音される。宮垣川沿いに位置する。写真↓では左へ行けば宮垣、右へ行けば田和に出る、それに挟まれた山に富国鉱山があったという。ここよりはずっと奥である。熊飛び出し注意の看板がある。
宮垣集落
宮垣村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。「丹波志」によるば民家90戸で「本村 岩戸 池ノ内」から成る。享保年中の「寺社方覚帳」は、当村を田和村の支村とする。
明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年金谷村の大字となる。
宮垣は、明治22年~現在の大字名。はじめ金谷村、昭和30年からは福知山市の大字。


《宮垣の人口・世帯数》 41・20


《主な社寺など》

一宮神社
一宮神社(宮垣)
宮垣の谷の一番の奥の奥の岩戸という集落↓に鎮座する。当社のすぐ後には威徳寺観音堂が建つ。こんな奥に集落があるのだろうかと思いながら急な坂道を登る。もう山のテッペンである、車を三転させるスペースもない、しかしたぶんここが今では麓に降りてしまった金谷の村々の発祥の地なのかも知れない。当社は大己貴神を祀り、古来宮垣・田和・猪野々・梅谷にわたる総社であり、祭典には八種の膳部を献ずる習わしがあった(戦前くらいまで)。
岩戸集落(宮垣)
一宮大明神  古川口郷 金谷郷 宮垣村ニ建
祭神   祭礼九月九日 正月四日
本社五尺上家有 拝殿二間一間半 鳥居 下田二畝歩村除
(『丹波志』)

村社 一宮神社 同村宮垣鎮座
祭神 大己貴命
当社は清和天皇貞観三年九月出雲大社の御分霊を奉祀す。或は云梅谷八幡神社、猪野々二宮神社、田和有徳神社はもと一宮神社境内末社にして当時宮垣村と称せりと。後正暦五年の分村に際し各村名を選び該三社をも当社と分離して奉祀するに至れりと。云。
社殿 流造、唐破風、三方橡勾欄柿葺。末社 愛宕神社、稲荷神社、秋葉神社、疫神神社
祭日 十月二十日、夏祭土用入の日 氏子 五十五戸。
当社の献供式とて古来特種の方法あり。八種の膳部を献ると云ふ。其方先づ白米五升許を蒸す。小餅五升許を作る。(飯餅は参詣者にいたゞかす)白木の膳に、飯椀、菜椀共八個の白生地の椀を列べたる八膳、六寸位折敷八個に餅八個つゝ盛る。銚子と生地の杯一個にて神酒を捧ぐ。飯椀には飯、又別に一膳の内におひねりとて飯を半紙に包んで口をひねり飯の上に乗せる。菜椀にはニンジン、大根、牛蒡、ヌカゴ(山の芋の実)栗、生豆(ムイタ)柿の七種を一椀つゝに以上を細かに切りたるもの三、四つゝ入る、かくて此神饌を前殿より本殿に運び献供す。勿論各人とも口には榊葉を加経て、此れ等を煮る型をするにシキミ(樒)の葉を燃してパチパチといふ音を聞いて直に鍋を下ろす、右唐櫃にて担ひ行列を作つて参向すと畏怖。何かいはれあるやうなれども、ここには此奇習を記すのみ。
(『天田郡志資料』)


威徳寺観音堂
威徳寺観音堂(宮垣)
堂の裏側に案内板がある。観音堂案内板
この威徳寺観音堂には藤原時代(約一〇世紀前)の仏像一二二体が安置されております。
なかでも本尊千手観音立像は横幅の広い重厚な顔で堂々たる仏像であり丹波、丹後を通じて最も古い仏像のひとつにあげられています。
多数の仏像が威徳寺にあることについて威光寺(字下佐々木)の古記録によると天正七年(一五七九年)明智光秀が福知山城築城の際に諸寺から石塔などの供出を命じたが威徳寺など三六ヶ寺が服さなかったため取りこわされたと記録されています。これら諸寺の仏像が心ある人によってこの観音堂に集められたものと考えられています。
このように多数の仏像がいずれも藤原仏であるということは学術的にも貴重な文化財であります。福知山市教育委員会


トビラの隙間から中をのぞいてみるが真っ暗で何も見えない。
宮垣 旧威徳寺 観音堂仏像群」など参照。

岩戸の古刹岩戸山為徳寺の旧跡に残る観音堂には、本尊千手観音菩薩立像(丹波・丹後で最古)をはじめ122体の藤原期の仏像が遺存し、市の文化財に指定されている。

威徳寺観音堂仏像群(福知山市字宮垣)
 寺といっても名ばかりで、地元では観音堂と称しており、無住で現在は地元自治会が管理している。
 この堂に、十世紀から十二世紀にかけての藤原仏百二十二体が蔵されているのは、圧巻である。
 奥の間中央にある千手観音立像は、像高一七四センチ、いかり肩で横幅があり、量感のある堂々とした古像で、下半身にある浅い翻波式衣文などから九世紀彫刻の伝統を留める作品と推定されている。そして仏像中最古のものであるばかりでなく、丹波・丹後を通じても最古のものであろう。
 手前右の間には、客仏と思われる百体に及ぶ風化のはなはだしい破損仏があるが、何ゆえこの小さなお堂に、これ程沢山の仏像があるのか諸説があるが、今のところ明らかでない。
 その一~二を拾うと、明智光秀による真言寺院破却によるとの説と、この地に工房があったのでないかと言うものであるが、いずれも決定的でない、今後の研究課題である。
 ただ言えることは数奇な運命を経て今日に至っていることであるが、それはほとんどの像が顔の造作もわからず、目鼻さえ定かでない程の風化を受けていることで明らかである。
 いずれも内割のない一木造りなればこそ生き延びたものであろう。これらの中には明らかに地方作と思われるものもあるが、中央作と考えてもよいものが相当数混っている。
 奥の間右側には如来形坐像と、手前左側の間には天部形立像等の巨像があるが、これは破損していても風化の度が少ないことから、威徳寺の主要なものとして安置されていたためと思われる。
 また、工房があったとする説を裏づけるものとして、ナタ彫りの未完成像(四体)があること。僧形立像が二十二体も残っていることがあげられる。
 また四体の兜跋毘沙門天像が残っているが、この像は異国との境(ここの場合但馬との国境に近い)に置かれ、外敵の侵入を撃退する守護仏として信仰されていたものであろう。
 ここの仏像群の本格的調査は昭和三十九年に、中野玄三氏(京都国立博物館美術室長)によって実施されており、詳細についてはその報告書によられたい。
 これら文化財のうち、特徴的な仏像については去る昭和四十年に、京都府教育委員会の指導と補助金を得て立派な台座が十七台新調され、現在は奥の左の間に永久保存に努められている。
 また、昭和四十一年にはお堂の増築工事が行われ、奥行き約二間にわたって収蔵施設が拡張された。
 ついで、昭和四十四年には火災に対応する防火施設(消火栓)が設置された。
 昭和四十年二月 福知山市指定文化財に指定。
(『福知山市史』)


威徳寺
 威徳寺は現在、観音堂と行者堂の二つの堂を存している。福知山市字宮垣小字岩戸にある。観音堂の中には、十世紀ごろから十二世紀にかけての作品といわれている一二二躯からなる仏像群が安置されている。本尊千手観音を中心に、長い年月を経過しているための破損仏が多い。
 威徳寺になぜ多数の仏像が安置されているかということについては、室町時代、丹波の守護細川高国が尼ヶ崎で死ぬと、三好長慶の軍勢がこの地に侵入して戦乱がおこり、天文四年に威徳寺・今安寺・威光寺らが焼失し、そのとき被害をうけた諸寺の仏像がこの堂に集められたと言われている。また、明智光秀が丹波を攻略し、福知山城を普請するとき、諸寺に石材の提供を命じた。この威徳寺や今安の今安寺はそれを拒否したので、破却され、同じように反対した三十六ヶ寺も退転させられ、それらの寺庵の仏像をこの堂に集めたという(中野玄三著「威徳寺の仏像群『仏教芸術』『威光寺文書』)。また、現在の威徳寺は、仏師の工房の跡であったともいわれている。中央仏師と地方仏師の交流のなかで、多くの仏像が作られたともいわれている。
 ところで、観音堂には四躯の兜跋昆沙門天像が仏像群の中に混って安置されている。兵庫県氷上郡氷上町清住の達身寺にも同じように約八○躯の仏像群があり、その中に兜跋昆沙門天像が一六躯も遺存している。この両寺を含む丹波のこの地域に、兜跋毘沙門天に対する特殊な信仰があったのではないかといわれている(中野玄三著「威徳寺の仏像群」『仏教芸術』)。
 威徳寺の仏像群は、十世紀~十二世紀ごろの平安時代に、この地方で仏所が存したことや、兜跋毘沙門天信仰・観音信仰などの歴史を知るために貴重な資料となっている。現在、観音堂の仏像群は、福知山市の指定文化財となっている。
(『福知山市史』)


《交通》


《産業》
富国鉱山
東隣の田和との間の富国山には、銀・銅の鉱坑があり、西側を宮垣銀(銅)山、東側を田和銀(銅)山とよんだそう。近代に入っても稼行していたらしいが、現在は休山している。第2次大戦後はここから湧出する水に治病の有効成分が含有されているとして、この地域では沸して入湯しているそう。また鉱毒のため宮垣川には魚はいないという。
富国鉱山および産出鉱物
宮垣川
 鉱毒のため魚がいないという宮垣川↑(川底もコンクリートだから何もいそうにはなかった)
大江町の在田川のような話だが、この川の上流に鉱山口が残されているという。穴を掘って鉱石を取っているので鉄ではないよう、銅、とおまけの銀が出たのであろうか。銅の毒で魚が住まないものか。

宮垣の主な歴史記録


宮垣村  本村 宕戸 池ノ内  同右 同九十戸
高 三百四十石
西ニ今西村ニ越峠有壹里
(『丹波志』)




宮垣の小字一覧


宮垣(ミヤガキ)
今福 市ケ島 猪野々島 イク地 上ノ谷 上島 后岶 枝月 大岶 大畑 大野島 大ケ元 大クラ 大タクラ 奥山 小田畑 ヲイノ 鏡岶 鴨野 カナヤ カクレ岶 カンゾガ端 クロマス クラマ クジゲ 源内 小島 小岶 小平ノ木 コヤ場 コヲ田 桜ケ谷 三反田 笹ケ岶 サコ サジガ田和 下島 下ノ谷 シヨブ田 ジケ岶 杉ノ岶 スガ町 ズリ石 ソウム 谷ノ尾 大丈コン タカアゼ ダン 池ケ岶 塚田 土取 天堤 峠 堂坂 堂ノ下 堂ノ奥 堂畑ケ 堂ケタワ トヤ 中谷 中シ谷 長畑 ナゝ ナツヤ 野畑 野々尻 ノラ中 橋ノ本 ハカサコ 平松 樋ノ口 吹屋 古戸 ホガ岶 桝谷 ヌタ 道ノ上 道ノ下 見取 三谷 モミガ田和 ムセノ元 柳ノ本 矢バラ 山クジリ ヤナ谷 湯舟 岼ノ下 行水 横ダニ アシクリ 東 ムセカヘ カンリケ端 ナツヤイノ坂 シヤクチ カンゾ端 山ノ上 ホケザコ 西ノカ一 カモノ林下 後島 ヲイノ川 イ子ノ口 滝ケ岶 ナツヤ上島 源内下 西ノ谷 ユリノ下 岼ノ向 立石 堂畑ケ口下トヤ ユリノ上 火ガ本 柳岩 スガ岶 矢原口 枝付 辻堂 段ノ下 ヱゴ モミケ田和 大島 足クリ 稲ノ口 大岶 山田畑林ノ下 金ヤ谷 クシケ谷 源内 小岶長畑 小平ノ木下ノ谷 コウダ 白毛 シヤク屋 スガ町 ズヘ元谷 ソウム滝ケ岶 段峠東 天堤 土取 トヤ 堂ノ奥 堂畑サジガ田和 中谷 中シ谷 ニツネ ヌタ 八ツ田 平松 紅葉ケ田和 矢原 柳谷 岶道ノ上 ユプ子黒木 三谷白毛 漆岶 ナツヤ上島 ズヘ元 トヤ源内 立石 畑ケ田 サゴ坂 牛芳岶 天上畑 マロカ 西ノ谷 道坂道ノ上 黒木 ヌカ道上 ヒノ谷 下トヤ サコウ 滝ケ山 細畑 ヨウ谷 ヌタモミガ田和 矢原ロ ユリノ上 アマツノミ 桝岩 三升畑 中シ谷峠 袋岶 大ズエ クロゲ ユリ道ノ下 枝付 九弁岶 下イシガ岶 イグミノ上 細岶 フウフサコ 西ノカ一 ゴンボ岶 梨ノ木岶 山カゲ 小山白長畑

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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