京都府福知山市野花
京都府天田郡上川口村野花
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野花の概要
《野花の概要》
野端とも書く、野のハナという意味。ハナは人の鼻と同じで、出っ張った先のこと、野は今では平らな場所を指すが、柳田国男は「地名の研究」で、
元は野(ノ)といふのは山の裾野、緩傾斜の地帯を意味する日本語であった。火山行動の最も敏活な、降水量の最も豊富なる島国で無いと、見ることの出来ない奇抜な地形であり、之を征御して村を興し家を立てたのも亦一つの我社会の特長であった。野口、入野といふ類の大小の地名が、山深い高地に在るのも其爲で
是を現在の野の意味で解かうとすると不可解になるのである。
上川口小学校のある岡の上の集落。国道9号の北側、府道528号(金山街道)が分岐するところに出っ張っている。地名通りの地形の集落で日本はこうした村から発展してきたのではなかろうかと思わされるような場所である。弥生の村の化石のような所かも知れない。
野花村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、延宝5年からは上総飯野藩領。慶安元年、福知山城内の土蔵に賊が入り、当村を含む20か村分の郷帳を盗み去ったという。明治4年飯野県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上川口村の大字となる。
小学校の近くには中世より続いた小田家があった。同家は用明天皇の皇子麻呂子親王(金丸親王とも)の鬼賊退治の際の従臣の子孫と伝え、古く下小田村坪ノ内に住したが、のちに牧村の六人衆から屋敷地を購入、当村に移ったという。江戸期は帯刀御免で酒造業も営んでいた。また丹後竹野郡の斎神社に幟竿2本を村次で献上するのを例としたという。当地方には中西・高橋・公手・公庄・塩于・松蔭など麻呂子親王の従臣の子孫と伝える家は多い。
「先だっても1200年昔の麻呂子親王の家臣だった者の子孫ですが、と尋ねてこられまして…」とか三岳や大江山の麓では聞く、今もしっかり生きている伝説である。このあたりまでは竹野神社の領域だったのかも知れない。
野花は、明治22年~現在の大字名。はじめ上川口村、昭和30年からは福知山市の大字。
《野花の人口・世帯数》 456・162
《主な社寺など》
大川森神社
村社 大川森神社 同村字野花小字上ノ段坂鎮座
祭神 瀬織津媛命 社殿 境内 七百八十二歩
末社 聖神社 息長足媛命 稲荷神社 祭日 十月十七日 土用入ノ日 氏子 七十戸。
(『天田郡志資料』) |
聖大明神 野端村
祭神 祭日九月十六日産神也
本社三尺四面
稲荷社 同村
本社 二尺ニ二尺五寸
(『丹波志』) |
聖神社は金属系の社と思われる、秩父の和同開珎の和銅を献上した聖神社の神体は銅鉱石だそうで、銅系の神社なのかも知れない。
浄土真宗本願寺派教念寺
さむらい和尚 福知山市野花
山なみ連なる丹波路は、江戸時代、武芸者の修行の道であった。剣をこころざして諸国を流れる武者が丹波路にあふれ、行き会えば刀を打ち合わせて腕を競いあい、名も知られず野の露と消える者も多かった。この武芸風土にはぐくまれた“さむらい和尚“の話が福知山市野花の教念寺に残っている。
「たのもうーー」。江戸末期、教念寺の山門をたたく一人の武芸者。「宇出野剛蔵と申す。一夜の宿を借りたい」。筋骨隆々とした大男。腰に大小、背には佐々木小次郎もどきの長太刀をおびたいでたち。全身から鋭い殺気さえ感じとれる武芸者である。やがて草深い寺から顔を見せた住職。「丁度、酒の相手がほしかったところ.荒れ寺じゃが.泊まるだけなら入りなさい」--剛蔵の殺気をサラリと受け流す。
「わしは、これまで何十人と手合わせをした。無敵でござる。百戦練磨、丹波には、わしの敵となる者もおらぬと見たゆえ、京にのぼろうと思っておる」と自信満々。しかし和尚は「ほほう」「へえー」と気の抜けた返事ばかり。さすがの剛蔵もムカっときた。
「和尚、一手教授いたそう。和尚も少しは心得があろう」。酒の勢いが半分、ムカムカした気分が半分。剛蔵はついに和尚を本堂の前の庭に連れ出し、月あかりの下で手合わせとなってしまった。
手ごろな木の枝を木刀がわりに試合を開始。和尚の頭の一つもたたいやれ-という軽い気持ちではじめた剛蔵。だが、和尚のかまえを見て驚いた。スキがない。「オゥオゥ」と気合激しく打ち込む。和尚も枝を青眼にかまえて剛蔵と向かいあった。すると和尚の姿は枝の影へ消え、枝だけが剛蔵の木太刀を右へ左へかわすのである。剛蔵の背を冷や汗が流れる。とうとう剛蔵は力つきてヒザをついた。そして、和尚に懇々とさとされたうえ、教念寺で十日余り修行。再び丹波路をめぐって修行をやり直したという。
この和尚、実は、北辰一刀流免許皆伝の腕前。近在では《さむらい和尚》として有名。あるときは、寺のスズメバチの巣を木刀でこわし、向かってくるハチを木刀で次々に打ち落としたという話も伝えられ、和尚は数代前の住職で矢野達性だといわれる。教念寺には現在も北辰一刀流免許皆伝の巻物が残っている。
(『京都丹波・丹後の伝説』) |
浄土真宗本願寺派瑞華山長命寺
瑞華山 長命寺 (真宗本波本願寺派) 同村字野花
本尊 阿弥陀如来 開基 西念坊
創建 承応二年 再建は享保十四年八月廿日.再建移転享和四年(実は文化元年なり)四月三日
当寺はもと天台宗、無緑無檀の草庵にして阿弥陀如来及脇立として観世昔、毘沙門天を安置せり、住昔源義家の裔とて井上次郎、道祐発心して、高租親鸞上人に帰依し、西念坊と名づく、信州、南堀廿四輩の第七番たる長命寺の開基と云。当時平家の落武者、矢野五郎なる者、亦高祖に帰依して教念坊といへり、而して丹後木子村の山中に隠れたりしか此者高祖上人の御直筆十字の名号を拝戴し屡々当地を通過し、当地小田加賀守貞治方に宿る。これより加賀守、漸く教念坊の徳化により、又信仰する者多かりければこゝに教念坊を開基として一寺を創建す。即ち教急寺なり。後、西念坊同門の好を以て慕ひ来り、教念寺の東隣なる彼の草庵に住す。爾後西念坊は東国に行脚し、下総葛飾郡野田村に一寺を創建して、西念寺と号せり、西念坊、長壽なりしを以て、本願寺第三世覚如上人より、長命寺の号を賜へり。尋いで承応二年三月十五日、大往生を遂ぐ。其遺言に由り、西念坊の居りし草庵を長命庵と称し、教念坊の子孫、相続せり。爾後故ありて、小田家は他の門徒一同と共に彼の御直筆を奉じて教念寺と分離し、当順を開基とし、百方苦辛遂に長命庵を改めて長命寺を建て本願寺末として独立せり。
寺宝 阿弥陀如来木像(慈覚大師作) 親鸞上人御筆十字名号
昭和大禮記念事業として、昭和会の創設、
現住花崎尭暉師は久しく教育に従事せる人格者たり
(郷土史料) 福寿院、臣昌寺共に大呂村に址あり、臣昌寺は往昔金山の祈願所といひ勝定院御朱印目録ありと ○蓮華寺一
ノ宮に址あり、字立石といふ所なり、俗にルンギャノ殿又はルンヤノ段といふ、 ○安養山、慈目寺夷村にあり、十一面観世音を安置す、郡西国第廿一番の札所なり、 ○岩本山長福寺址、下小田にあり、本尊十一面観世昔、郡西国第廿二番の札所なり。
○真宗教念寺野花にあり、(前記長命寺縁起参看)
(『天田郡志資料』) |
小田家
一、小田家 子孫 野端村
先祖ハ麻呂子親王ノ臣(又金丸親王トモ奉称用明帝第三ノ皇子ナリ)ト号ス内也ト云。河口郷小田村ニ子孫住ス。今下小田村ニ字坪ノ内ト云所旧栖ノ所也後此牧村六人衆ヨリ野端村屋敷地ヲ買求メ代々居之、今小田八郎左衛門迄代売券状有所持之六人ノ称号名書判有之、領主保科家ヨリ帯刀被免麻呂子親王ノ御鎧所持之御胴丸ナリ御大袖有御兜ハ丹後竹野郡齋宮ニ現存ス(斎宮ハ麻呂子親王ヲ奉斎社ナリ宮津府志委)且野端村ヨリ齋ノ神社江祭礼前御簱竿弐本神納之古例于今不絶ナリ古ハ竹野郡齋宮ニ現存ス伐大河江流ハ歴海上而竹野浦ニ流寄ト云リ中古ハ人足ニテ為持遣人ト云。分家、同下小田村中西氏、長田村高橋氏、丹後国加佐郡河守町住ス公午(デ)氏、又公庄氏塩于氏松陰氏、皆麻呂子親王臣ノ筋也、公庄氏以下不知在所。
(『丹波志』) |
この地域には大江山伝説以外にも、興味深い家伝承がいくつか見られる。その一つが、用明天皇の皇子麻呂子皇子の鬼賊退治伝説である。『丹波志』には次のようにある。
一、小田家 子孫 野端村
先祖ハ麻呂子親王ノ臣ト号ス内也ト云。河口郷小田村ニ子孫住ス。(中略) 分家、同下小田村中西氏、長田村高橋氏、丹後国加佐郡河守町住ス公午デ氏、又公庄氏・塩于氏・松陰氏、皆麻呂子親王臣ノ筋也。
これによれば、野端(福知山市上川ロ野花)の小田家をはじめ、多数の家が麻呂子皇子の家臣の家筋を主張していたことが窺える。この小田家は麻呂子皇子から拝領した鎧を家宝としているが、この鎧は紫宸殿田楽で前立の武者役が身につけるものである。
(『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』) |
《交通》
国道9号(いまはスゴイ道路になっているが、以前はこんな道。古い道筋は今も残っているところもある。)
国道9号改修着手の野花地内↑(福知山市・昭和35年)明治時代に改良されたままの山陰街道が、直線的に改良され、土の道がアスファルトになった。(『目で見る福知山・綾部の100年』より)
《産業》
野花の主な歴史記録
竹野社 今曰齋宮大明神 在竹野郡宮村
…祭礼に用ゆる旗竿丹波国天田郡野花村孫八郎と云者の方より送り遣す、六七寸周りの竹を根と共に掘たるもの也、古来は福知山川へ流し夫れより数十里海上を経て竹野浦へ漂ひ着くとなり、此野花村孫八郎家に故ありて麿子親王の武器を持伝ふ毎年六月丑の日に是を諸人に観せしむるとなり。
(『宮津府志』) |
野花
野花は上川口村の中心地、戸数九十戸もある大部落で大部分は農家である。昔は煙草の名産地で、野花煙草の名があったが養蚕業の発達と共に漸次その影を失ひ、現在では全く跡を断ってしまった。
六十内部落に上川口駅設置以来、駅の近傍から立原境に至る街道に沿うて、日用品の販売店散在し、村民の便を計つている又この沿道に三丹製絲会社があった。立原の人故真下増蔵氏の苦心の結果、大正六年資本金八萬円を以て敷地六千坪もある大規模のものが創立された。爾来日に月に発展して、製絲業は勿論蚕種製造の方面にも事業を拡張せられ、一時は職工男女八百余名の多数に上って居たのである。所が惜しくも真下氏は幾年もなくて死亡せられ、会社の一大打撃をうけた。其後鈴木氏社長として事業を継続されていたが、種々の事情のため経営困難となり、大正十二年四月遂に閉鎖の止むなきに至った。そして工女事務員等は殆ど郡是製絲会社へ転任してしまった。後こゝに由良椿の製油所となってしまったが、是又中絶し、今は建築物も殆ど取り除かれている。本村の発展上誠に惜しむべき事である。
小字上の段坂に瀬織津姫を祀る村社大川森神社がある。又学校の前には長命寺、裏手には教念寺がある。いづれも真宗の寺院で阿弥陀如来が本尊である。教念寺の先の住職矢野達矢氏は儒学に通じ、多くの子弟を教養された。現在本村の有力者の中にも
其の教を受けた人かたくさんある。文学博士井上専精氏もかつて其の教を受けた事があるといふ。
麻呂子親王の鎧
学校のすぐ上に大きな廃家かある。『野花の森さん』と言えば、この近在にひゞいている旧家です。其の家か今では住む人もなく廃家となっている。風雨が荒すまゝにしてあるため、屋根は破れ、垣根は壊れて、草木が生え茂っている。
『甍破れては霧不断の香を焚き、扉落ちては月常住の燈をかゝぐ』の感がある。此の家に次の様な話が言い伝えられている。
今から一千二百年も前のこと、大江山の鬼退治があるよりもまだ以前、丹後のある孤島に鬼が住んでいて、附近の民を苦しめていた。時の天皇(用明天皇ならん)は皇子麻呂子親王に、その鬼を退治することを命ぜられた。其の時御道すがら野花の森家へお立寄になり、お肌着をおいて出立せられた。親王は鬼の住家にいたり、苦戦苦闘を重ねついに御滅しになった。
この時親王か置いておかれたお肌着を、森家では麻呂子親王の鎧といって、今でも家宝として伝えられている。そうして代か変る毎に、この鎧を出してお祭する習慣かあるという。その時には身を清め、不潔な者はよせつけず、若し無理に近くに行くと、動けなくなるということである。又不思議な事には、森家ではこの鎧があるために、昔から雷か落ちた事かないそうである。
(岡野弘一)
(『天田郡志資料』) |
野花の小字一覧
野花(ノバナ)
有住 赤田里 夷口 奥地 岡野 小田前 大内川 柿揚枝 上ノ段 カモン田 熊ケ谷 下リ 小滝口 坂根 三取 新墓 外屋敷 天神ノ上 天神ノ下 取垣 布丸 堂ノ上 中ケ端 二塚 西谷川 野中 稗田 紅粉屋 松崎 松ケ端 松山 松沢 宮ノ前 宮ノ下 宮ノ本 妙ケ谷 簀戸口 向地 森垣 森貝 ヤベチ 奥ノ宮 赤田里 夷口 奥ノ宮 岡野 上ノ段坂 熊ケ谷 狼谷 取垣 戸端 飛原 ドヘガ谷 中ケ端 平野 松山 的場 妙ケ谷 森垣 ヤベチ
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