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丹波の

直見(のうみ)
京都府福知山市夜久野町直見


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京都府福知山市夜久野町直見

京都府天田郡夜久野町直見

京都府天田郡上夜久野村直見

直見の概要




《直見の概要》

ナオミとも読まれるが、野見宿禰の伝説があるのでノウミが本当であろうか。町の北部の東の居母山山系と西の富岡山山系にはさまれた長さ約7㎞の狭長な谷合の地。谷口から、門垣(かずか)・副谷(そえだに)・山中・金谷(かなだに)・大岶(おおさこ)・西垣・桑谷・宮垣(みやがい)・栗尾・才谷(さいたに)と集落が続き直見峠(小坂峠)に至る。
直見村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。「正保郷帳」の村高1、696石、うち田1、448石余・畑247石余。以後「丹波志」「天保郷帳」「旧高旧領」も同高で、俗に「直見千石」と称される福知山藩の穀倉地。
当村では砂鉄を原料とする製鉄が行われていた。村内の門垣・副谷には別に村役人(村長)を立てて高分けもされていたが、村とは称さず諸役などは直見村に一括されていた。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上夜久野村の大字となる。
直見は、明治22年~現在の大字。はじめ上夜久野村、昭和34年からは夜久野町の大字。平成18年から福知山市の大字。
江戸末期から門垣付近より良質の粘土を得て製瓦業が起こり、「夜久野瓦」として隆盛、最盛期の昭和初期には60人以上の従事者があったが、その後漸次衰退した。


《直見の人口・世帯数》 729・264


《主な社寺など》

天満神社(直見天満)
当社は野見宿禰の社である。現在も相撲が奉納される。天神さん(菅原道真)はその末裔。府内2番目とかの大銀杏と土俵。
天満神社(宮垣)

村社 天満神社  上夜久野村字直見小字  鎮座
祭神 菅原道真公
社殿 同前  境内 壹反六畝十六歩。 末社 稲荷神社 三柱神社
祭日 十月十日 祈年祭 四月廿五日、新春祭 十二月十日 氏子 二百十五戸
由緒、第六十二代村上天皇天徳三年野見宿禰の後裔直見縣主の霊夢に依り唐??作、梅の木像及其他を賜ひたるを天神ヶ鼻(即ち社地)に祭りたるに始まると云。明治四十年四月廿九日当字中に在る山中武神杜、金谷八柱神社、
大岶八幡神社の三社を合祀す。爾来神饌、幣吊料供進社に指定せらる。此時拝殿、渡殿造営。
(附記)谿羽野見縣主尾崎旧記(天満神社記録)

(『天田郡志資料』)

天満神社(直見宮垣・氏子直見八ケ在)
(合祀前は栗尾・宮垣・才谷)
山口氏天田郡志資料
祭神 菅原道真公
社殿 流造 唐破風 三方橡勾欄柿葺
境内 一反六畝十六歩
末社 稲荷神社 三柱神社
祭日 十月十日
由緒
第六十二代村上天皇天徳三年(九五九)野見宿弥の後裔直見縣主の霊夢に依り唐??作、梅の木像及び其他を賜ひたるを天神ケ鼻に祭りたるに始まると云。明治四十年(一九〇七)四月廿九日當宇中に在る山中武神社、金谷八柱神社、大岶八幡神社の三社を合祀す。爾来神饌、幣吊料供進社に指定せらる。此時拝殿渡殿造営。

谿羽野見縣主尾崎旧記(天満神社記録)
(一)人皇十一代垂仁天皇二年郡国の選ばれけるに、大和に当麻蹶速という者あり。自ら謂へらく、天下に敵なしと、乃ち其相手を選ばれければ出雲より野見宿禰を進む。因て蹶速相撲其肋骨を折って終に斃す。野見はもとより英才にして治国家の器量あれば擢用せられて谿羽小見道主将軍の領地に宅地を賜ひ年経て一子某に道主王の娘を賜うて野見縣とし給へば其身は朝廷より出勤せし也と。後世九年皇后日葉酸媛崩じ給ひ野見宿禰の請によって出雲の土師百人を召し出し以て馬並に人物の形を作り、之を墓に立てて殉死にかへし也。其功によって姓を土師と賜へりといふ。
(一)人皇四十二代文武天皇慶雲三年(七〇六)四月より大旱魃にて天下人民多く苦しみける。丹波、但馬、若狭、大和近国まで山焼けて村里近き處悉く焼失、人民多く死にたり。則ち糧尽き農夫住み難し。ここに大虫、小虫の神守、道主王孫阿知恵小見と野見縣主と都に上りて、由緒あれば土師の宅に止宿し、丹波、但馬山焼の一件奏聞しければ天皇神守小見と野見縣主を殿上に召し給ひて委しく山野、人家焼失の事を尋ねたまへば、両人委曲奏上す。ここに於て天皇戯れて曰く、小見の言上誠に委しく見るが如し、野見は弁舌なりとて直見に従五位下職田八丁を賜ひ慶雲四年(七〇七)十一月朝廷より皈らしめ給ひけるに途中にて細見は死にたり、其所を細見村という。

(一)人皇六十代醍醐天皇延喜元年(九〇一)菅原公左遷につき直見縣主次第に哀となりぬ。
(一)人皇六十二代村上天皇天徳三年(九五九)直見に吉あり。菅原道真公夢中に語りて曰く、先きに太宰府配所迄連行き暇遣せし小見集喜瀬は深く我を慕ひ配所に留り果むことを願ひしと雖、空く留て本意なしと思ひ、故郷にへす時にカタミの為と我像を写せしに一首の詠歌を書きしるし、庭前の砂一握を遣せしに、故郷にり大切になししが延喜三年(九〇三)配所にて昇天せしを聞いて、一宇を建立いたし其の社の地に砂を埋めしに今梅桜の花形の砂となりぬ。則ち二花の里とはいふ。先に昇天の砌小見が齋き祭る所へ訪ひしが程なく年老いて果てたり。故に天神鼻に留りぬ。ここに歎かはしきは唐土?廷なり、朝貢使となりて来りし時治部大輔なれば外国使の応接にあつかりし故に深契をなせしが?廷云ふ君常に梅花を愛し給ふ。我幣邑は寒気強く梅至って生し難し、一枝を恵みたまはば持ち阪りこれを君がカタミとせんと言ふに任せ送りしに、持皈り庭前に差し木せしが根を生栄たり、後四年目に又来朝して彼梅の実持ち来り誠に感に余りあり。延喜三年(九〇三)昇天せしとき、?廷が植え置きし梅の枯木となPければ?廷歎き、道真公元龍の悔、今なりといひ終って死にたりけり。其子?廷に孝道をつくし自分梅の朽木を以て我像を三体作る。一像は日本に渡し、我廟中に捧ぐるを願ふ。依て今斯あり直見家は菅原家の由緒あれば斯に留るべき也。謹んで齋き祭らば子孫長久たるぺし。一には唐土?廷の子??の志も成るべしと云ひ終れば夢覚めたり。旱天庭前見れば岩上に菅公の御木像並錫枝一振有り。是れ誠の霊夢なりと再拝して尾崎に一宇建立して尾崎天神と齋き祭る。後菅原権之頭に達しければ則ち奉幣せられしと也。
因茲久安五己已年直見縣主尾崎元誠旧記写也
  従五位下 直見縣主像
右画像者 当家長持伝什物也 慶雲四年(七〇七)より慶長四年(一五九九)迄凡八百九十余年也
天満宮梅ノ木像 唐??作
錫杖

(一)慶長四己亥年(一五九九)木下小市郎美濃守となり尾崎天神の御霊夢により宮殿再建あり十一月成就也。
右旧記悉虫喰綴となり文字解難し
于時慶長四年(一五九九)十一月写改者也
谿羽直見縣主尾崎元誠花押
証書写し覚
短冊 壱菊 紅葉御歌 菅相丞十六才
画像 二
尾崎丸 壱剱 筥八
日月錫杖 壱 金光
右者拾五ケ年之内二朱之利足ヲ以テ年々相立年限皆済可申候若不参候ハパ右ノ盾物貴家へ譲リ申候為後日之如件
永録元年(一五五八)戌午七月
井上与市兵衛
天神御神主様

o本記の末尾に尾崎旧記につき山口氏は一文を付記されている。
その大略は次のとおり
尾崎旧記は野見家裔孫の記録巻物其の他什物十二種あり、当家滅亡の後井上家預り、明治維新の頃井上与兵治なる者出石町に転住し、写本をつくりそれを当地の井上株に返せり。其頃御神体の??作の木像は紛失せり。これより井上株の老は与兵治始め尾崎と改姓す。当写本も尾崎家の専有となる。
(『上夜久野村史』)

天満神社(宮垣)
祭神…スガハラミチザネ公ほか
明治40年国是により八幡神社(西垣)、三柱神仕(大岶)、八柱神社(金谷〉、近江神社(西垣)、武神杜(山中)を天満神社に合併合祀する。現在、武神社は元に復す
昭和40年代には一時奉納相撲も途絶えていたが、昭和57年に相撲保存会が結成され現在にいたる。
節分…篝り火で無病息災を祈る。
秋祭り…宮司による祭礼、奉納相撲、相撲甚句、土俵入り、子ども太鼓巡行、「相撲伝承館」がある。).523奉納相撲甚句(直見天満神社の祭と奉納相撲甚句
直見宮垣に鎮座する天満神社は、樹齢300年を超える大銀杏(京都府で2番目といわれる)が境内の中央にどかっと根をおろしている様から、神社の歴史の重みが窺がえる。明治40年(1907)に直見8力村の諸神を合祀し、上夜久野村村社の格となった。
天満神社は菅原道真公が祭神で学問の神様と知られているが、もう一つ「天神さんの相撲として」当地方ではもとより但馬地方にも広く知られてきた。
祭祀組織 現在は大岶・桑谷・西垣・宮垣・栗尾・才谷の6集落、108戸の氏神で、各集落から選出される宮総代6名によって管理・運営されている。宮総代の任期は3年で、6名の総代の中から代表総代・副総代・会計の役員を置き2つの集落ごとに宮当番となり毎年交代しながら神杜護持に当たる。交代は3月に行う。これを「トウワタシ(当渡し)」という。
祭礼(祝いの大祭)
祭日は10月10日であったが、平成10年代に入り10月の第2土曜日に改められて現在にいたる、本祭では神主の司祭のもと総代、区長、町会議員、相撲保存会代表などが昇殿して神事が行われる。一方、子どもを中心にした太鼓台がムラ内を巡行する。これらは午前中に終わり、午後は伝統の奉納相撲が行われる。
現在は、実際に相撲をとるのは中学生までの子どもたちであるが、昔は大人の奉納相撲が祭礼の呼び物であった。

相撲の伝統と復活
直見の「天神さんの相撲」といえば知らぬ者がないほど有名で、明治期はもちろんのこと大正の初め頃でも盛んであった。その歴史は詳らかでないが地元力士のほか、祭が近づくと近在から力士が門弟を引き連れて乗り込んできたり、但馬方面から力士を招く「引き相撲」の習俗もあり、ムラの主だった家に泊まり込みを始めたという。ムラの相撲熱に支えられ地元にもシコ名をもった力士が育っていったのであった。しかし、時代の流れの中で消滅し、その賑わいも昔語りになっていたのであるが、昭和57年(1982)ムラの青年たちの努力で「天満神社相撲保存会」が結成され「奉納相撲甚句」として復活した。

昔を伝える相撲取りの碑
当地輩出の地方相撲力士の碑が町内に7基が残されている。

これらの碑には発起人、世話人などのほか門弟力士のシコ名が多数刻まれているのもあり、往時の相撲熱を窺がわせる。地元保存会には糸桜、水車、若柳、広瀬川などシコ名入りの化粧まわしも残っているという。
保存会設立後の秋祭次第
平成14年(2002)の場合、相撲保存会担当の取り組み内容はの秋祭次第次のようである。

…この中でメインは相撲甚句・横綱の土俵入り・弓取りである。復活当初は古老から昔の所作を教わり、数日かけて練習をしたという。古い化粧まわしも使ったが大半はシコ名入りの自作である。
相撲甚句のメンバーとシコ名
以前から伝わるシコ名のほか、新たに各自が当地の山や川などの地名を取り入れたシコ名をもっており、赤、青、緑など色鮮やかな布地の化粧まわしには大きくシコ名が縫いつけられている。ちなみに若柳の場合、赤の布地は幅77cm、長さ440cmの長大なものである。シコ名を列挙すると次のとおりである。

相撲甚句
相撲甚句は、江戸時代の頃から力士が土俵で余興として唄った相撲甚句ことが流行し、口から耳へ、耳から口へと唄い継がれてぎたもので、独特な節回しと歌詞で多くの相撲ファンから親しまれてきた。現在も地方巡業や花相撲には欠かせない余興となっており、人々を魅了している。
相撲甚句は、「まくら唄」と「本唄」があり、力士5~6名が土俵上で輪になってうち一入が真ん中で立って唄う。周囲の力士は手拍子やドスコイ、ホイなどの合いの手を入れる。
天満神社で受け継がれている相撲甚句は、行司を先頭に化粧まわしをつけた力士15~16人が土俵に上がり、土俵の中央を向いて輪になり、唄い手に合おせ合唱しながら時計回りにまわる。手足の動作をしながらのゆっくりしたテンポである。
甚句は節回しも所作も異なる3つの歌詞からなる。
一、そろおた そろいました 加賀越前の
アードスコイ ドスコイ

二播州赤穂の城主なる 浅野匠が殿中で…
三、谷川で一人米つく あの水車 誰を待つやらエーエー くるくると エーエーエー…
力士が唄う相撲甚句は、聞く人々をしみじみとした哀愁とユーモアで包み、不思議な感銘を与えてくれる。近年、甚句に魅せられた人々によって全国各地で愛好会が結成されているが、地域の伝承として受け継がれてきた天満神社の相撲甚句は、これからも後世に伝えていきたい貴重な文化遺産である。
平成14年11月には、綾部の中丹文化会館で開かれた中丹郷土芸能祭に出演し、時代を彷彿する踊りに館内を魅了させ、中丹地方に天満神社相撲甚句の名を馳せた。
境内には、平成13年に相撲伝承館が建てられ、伝承保存にかける氏子の熱意、意気込みがひしひしと伝わってくる。
(『夜久野町史』)
相撲伝承館(境内)
谿羽野見縣主とか大虫・小虫の神主・道主王孫阿知恵臣とか、これは机上でデッチ上げられるような話ではなく、やはり古くから伝わった記録に基づくものかも知れない、粟鹿神社の近くだから古い記憶が残されているのかも知れないが、しかし傍証する文献はほかにない。
日葉酢媛とも関係があり、このあたりは須恵器ばかりでなく土師器もあっただろうし、ずっと下れば土師橋もあることだし、野見宿禰は意外にも当地あたりが本貫なのかも知れない。今も奉納相撲の伝統が残されている。

八幡神社(副谷)
八幡神社(副谷)
この右手の山(小丸山)の上に社殿が見える、急ぐのでここから参拝。
村社 八幡神社 同村字直見小字副谷鎮座
祭神 応神天皇 明治四十年当所三柱神社、滝神社合祀
社殿 仝前 境内 百八十歩 末社 稲荷神社 愛宕神社
改修 宝暦四年八月 祭日 十月十五日
氏子 六十戸
(『天田郡志資料』)

八幡神社(副谷・氏子副谷)
祭神 神応仁天皇(井上常蔵史料によれば誉田別命)明治四十年(一九〇七)当所三柱神社瀧神社合祀
末社 稲荷神社、愛宕神社
社瀉 仝前 境内 百八十歩
改修 宝暦四年(一七五四)八月
祭日 十月十五日
(『上夜久野村史』)

八幡神社(副谷)
祭神…ホムダワケノミコト(応神天皇)
春季祭典と慰霊祭…戦没者の慰霊
秋祭り…昭和49年頃まで御輿、太鼓台(青年会)、子ども太鼓台を巡行した。宵宮は青年団が太鼓台を出し、祭りを盛り上げた。昭和50年代しばらくは御輿巡行なしで、境内で運動会を開き、宵宮には公民館で、映画、のど自慢大会を行う。
昭和55年御輿を修理し、巡行復活。
昭和60年代に入り担ぎ手の不足から台車に乗せて巡幸。宮入後、公民館で直会行事。
(『夜久野町史』)


日吉神社(門垣)

村社 日吉神社 同村門垣小字 鎮座
近江国坂本官幣大社日吉神社の御分霊にてもと当門垣小字相谷(今の御旅所)に奉祀せるを享保年中現在の地に奉移せりといふ。社号の同じより付会せしにあらざるか。而して坂本の日吉神社祭神は大山咋神、大己貴神の二柱である伝説のまま付記す。
社殿 仝前  末社 秋葉神社 稲荷神社 境内 百九十二歩
改修 享保八年九月 祭日 十月十五日 中祭 四月廿三日
氏子 五十五戸 財産 …
(『天田郡志資料』)

日吉神社(門垣上町・氏子門垣上町)
祭神 大己貴命(井上常蔵史料によれば大山咋神)
近江国坂本官幣大社日吉神社の御分霊にて、もと当門垣小字相谷(今の御旅所)に奉祀せるを享保年中(一七一六ー一七三六)現在の地に奉移せりといふ。
坂本の日吉神社祭神は大山咋神、大己貴神二神である。
社殿 仝前
末社 秋葉神社 稲荷神社
境内 百九十二歩 改修 享保八年九月
祭日 十月十五日 中祭 四月廿三日
財産 田二反二畝廿九歩 山林三反二歩
原野 三畝十五歩
△相谷の古宮の地より現地に奉移せりとあるが、古宮は八王寺神社で別宮であることが古文書にみられる。「八王寺御社へ附申山覚」「口上覚」の二葉で、享保三戌(一七一八)卯月十一日と元文六年(一七三六)酉二月十八日の日付がある。元文は享保の次であるから、享保年中奉移はそのままには肯けない。又移転というよりも八王寺神社を廃し、日吉神社を勧請したか、八王寺神社を日吉神社に合祀したかの何れかであろうが何故門垣古宮(ふるみや)の地より平野、板生に近い現地に移ったのか。門垣専福寺は寛永年間に(一六二四…一六四四)山中から門垣に移った。その理由は門垣を中心とする地帯に新真宗門徒が増えたとの見方をしているのであるが、同様に日吉神社もまた、開拓がすすむにつれ門垣の土地に人口が集中し、それにつれて板生上町にも部落が形成されて来ると、奥地の相谷古宮の地よりも門垣上町の人たちの中心地に氏神社の移転がなされたものではあるまいか。
神社移転の時期は不詳ながら、享保につづく元文年間(一七三六ー一七四一)から、宝暦(一七五一ー一七六四)の頃までの間ではあるまいか。当時の門垣庄屋は月見喜左ヱ門で、八王子社関係文書ほか宝暦の検地帳にその名が誌されている。昭和二十一年日吉神社上屋改修の際、月見家寄進の扁額板が発見された。
◎八王寺御社へ附申山覚

◎口上之覚

(『上夜久野村史』)

日吉神社(門垣)
祭神…オオヤマクイノカミ、オホナムチノカミ(大国主神)
モモテ…百手と書き無病息災を祈る神事が古くからある。神事の後境内のお堂で旅芸人の芸を楽しんだ。
節分…若者会により鬼の服装をして、豆をまく行事やゲームなど、楽しいイペントを開催している。
春祭り…現在では神事はなくなり役員の引継会に変わっていった。
秋祭り…昔の斎行は御輿2台、太鼓台2台で地区内をまわり、相谷吉宮跡まで渡御していた。現在は御輿1台、太鼓台2台、いずれも台車に乗せて巡幸。
(『夜久野町史』)

天王神社(山中)の鳥居前にこんな石が
休石(山中)
《休石(直見山中)》
天王さんに安置されていた観音さんの金の眼の玉を盗人が背負ってでかけたが、あまりにも重いので、天王さんの下で石にかけて休んだ。立とうとしたところが腰がたたなくなり、観音さんをそこにおいて逃げたと伝えられている。
(『夜久野村史』)


浄土真宗西本願寺派龍華山専福寺(門垣)
専福寺(門垣)

龍華山 専福寺 (真宗本願寺末) 上夜久野村字直見小字門垣
本尊 阿弥陀如来(立像)  開基 釈教心法師
創建 元、山中部落にありし天台宗なりしを十七代教心師が寛永七年四月此地に移し真宗に改めたり。
境内 延命地蔵尊は金仏にして日本六体の一と伝ふ。
鐘銘 …
檀家 百三十戸(内上豊富村下戸、朝来郡桑原に各十数戸あり
(『天田郡志資料』)

龍華山専福寺(門垣)
浄土真宗 西本願寺派
本尊 阿弥陀如来
由緒
開基 教心法師
創建 寛永七庚午年(一六三〇)四月
○ 伝え聞く当寺は元来直見、山中にありて天台宗晋光寺と称せしが、法師は感ずる所ありて真宗改宗に努め、寺号を専福寺と唱へ、現今の門垣の地に移す。然るに寛延二年(一七四九)上町の炎焼あるや類難に遭ひ全焼の止むなきに至りしも後拾六年を経過して明和二年(一七六五)に至り漸く現今の本堂を再建せり。
境内に在る延明地蔵尊像は日本国中六体の随一にして寛永年間(一六二四ー一六四四)火災の厄に遭えるも御首と宝珠の存在せるより時人不思議と称へ享和二年(一八〇二)三月遂に再興せりといふ。(井上常蔵史料、同寺よりの報告)
(註、享和二年廿二世住職得往師が再興の議を興し、文化十三年再興している)○ 当寺元天台宗で開基より世代十六代に及び十七代目の住職釈教心法師或夜霊夢を感じ俄に此地へ移転せり。それまでは直見山中在にあり、移転と共に改宗して浄土真宗と改む。爾来十一代に及び年数三百三年に及ぶ。其間第三代目の住職順哲代、寛延二年(一七四九)類焼の災難に罹り全焼す。其の後十七年目に第四代の住職釈浄心丹心を抽んで、本堂再建の企ありや幸に明和二年(一七六五)酉年に落成式を挙げたり、現今の本堂これなり。
(昭和四十五年八一九七〇年現在より二百五年前)
大正十四年に庫裡改築し、猶昭和六年に至りては本堂屋根替大修繕を行なう。
当寺は末寺三ケ所あり
下豊富村字半田 明光寺
        勝賢寺
和久寺村    願成寺
これなり、明治二十七年に於て離末せり、それまでは檀数三百戸余りあり。(昭和八年天田教育第四十三号)

(『上夜久野村史』)

浄土真宗東本願寺派仏陀山本光寺(西垣)
本光寺(直見西垣)

仏陀山本光寺(直見・西垣)
浄土真宗大谷派(東本願寺)
本尊 阿弥陀如来
開基 正信法師
由緒 前住職中島正道師(第十一代)報告
昭和八年(一九三三)天田教育第四十三号掲載本光寺の記より
○ 当直見谷の古城主に絹川駿河守と申すあり、其家老に元近江国住人中島氏関前丞兼重と申すあり、其後五代の人、人皇第百七代慶長十二年(一六〇七)三月十七日教如上人一族共に帰依す、其時の許状現存せり即
向後各直参に被召上候難有被存弥真俗其諸事可被抽馳走の事専用に候 為其被顕御印候也
慶長十二年(一六〇七)未三月十七日
粟津勝兵衛 印
丹波天田郡夜久郷
直見村
中島惣中
開基仏阿弥陀如来絵像及び教如上人染筆十字名号等を受け当村内字直見正信川附近に道場を建て真宗の教法を敬信す。其後二十三年人皇第百九代明正天皇寛永七稔午十月十日第十三世宣如上人に願ひ寺号及木仏御免を受く其時の許状現存す即
連々従望其方へ寺号則以御自筆被成御免候難有被存可有頂戴候向後弥馳走尤に候
久々謹言
寛永七稔午(一六三〇)十月十日
西川左馬助 印
丹波国天田郡夜久郷
直見村
本光寺正信
夫れより正信川附近より当地に移住し、本堂六間四尺四間四尺及庫裡等を建立し本尊を奉安して信奉し直見村内大部分の随喜帰属を得たるを知るべし。
当寺第三代正円住職、寛文二年(一六六二)寅五月本願寺第十四世琢如上人に願ひ宗祖親鷲聖人の絵像を受け同十年(一六七〇)戌七月真宗中興蓮如上人の絵像を本願寺第十五世常如上人より延宝二年(一六七四)寅八月同上人より聖徳太子絵像及印度、支那、日本三国七高僧連座絵像の下附を得之を安置す。
当寺住職第六代諦了の時、人皇第百十七代後桜町天皇明和四亥年(一七六七)本堂を改築して六間四面現今の堂宇成る。当時檀那井上与兵次、取締役井上三良左ヱ門其他一般の特志による、大工棟梁は但馬出石石材木町住人藤原大工角岡儀八郎、次は角岡喜太夫外十一名の大工等工事に従事す。天明三年(一七八三)七月三日諦了住職寄進人、釈道景外檀家中より願出で本願寺第廿世乗如上人より宗祖絵像四幅下附を受く。
○ 本光寺由緒略記

(『上夜久野村史』)

佛陀山本光寺 直見西垣
『寺院明細帳』・『丹波志』によると、浄土真宗大谷派で東本願寺の末寺。本光寺の由緒を記した『相承家伝記』(近世十-一)によれば、直見谷城主の絹(衣)川駿河守の家老であった中嶋氏の五世仁兵衛の兄で正信という者が、一向宗(浄土真宗)の僧となり道場を開いたという。慶長十二年(一六〇七)三月十七日付「粟津勝兵衛折紙」(近世十-三)には中嶋惣中宛に本願寺直参として召された旨が伝えられており、この時に道場として本山に認められたものと思われる。正信には子が無かったため甥の源太夫が正林と号して相続、寛永七年十月十日付「西川左馬助折紙」(近世十-四)によれば、このとき本願寺より、本光寺の寺号を得た。
(『夜久野町史』)

浄土真宗西本願寺派薬王山浄念寺(宮垣)
浄念寺(西垣)

薬王山 浄念寺 (真宗) 上夜久野村字直見小字宮垣
本尊 阿弥陀如来(木像) 宗祖 親鸞上人(画像)
開基 念秀法師
創建 不詳、火災に遭ふこと度々なり。最近にては明治三十九年、牧童弄火より焼失、仝四十年十一月再建せり。念秀師は、本願寺実如上人に帰依し帰郷して草庵を結び修道に努めければ郷人帰依すらもの多く、遂に真言宗を真宗に改めたりと云。
(口碑)為母山に真言宗高源寺あり、此辺はすべて、其檀家なりしが、かの念秀の徳を幕ひて、終に真宗となれり。当時荘厳なる為母山上の伽藍は其修理と往来に不便なるため、協議の上、西垣へ移転し、寺中の立正寺は、宮垣に其他は下夜久野村小畑に行はるゝ祠堂米として各部落より集めて高源寺を維持せり、(此所不明)宮垣上下に分れ、上地には浄念寺、下地には薬師如来を安置す。当山の移転肝煎ならんか、各部落に当番あり。曾て福知山城普請に夜久野より木材数多運び出せり、ある時、其量重く容易に動かすここを得ず、里人等いろいろ工夫すと雖も、なかなか動かず、当寺の住持に謀れば曰く「直見ノタテウス、ヤットコセィ」と声をそろへて挽けば容易ならんといふ。人々教へられしまゝにして遂に運び終へたり、此事ウハサ高くなりて領主より切支丹宗の疑を受け追放さるゝ者多かりければ、信徒恐れて他に付きたり云々(此口碑意の明かならざる所あれど原文のま。)
○当寺第九世現城法師、領主の財政窮乏を憂ひ改革に従ひしが終に市川騒動起り住持の計画全く水泡に帰せり、剰へ追放されし云々。
鐘銘  …
檀家 六十戸
(郷土史料)妹尾山高源寺(真言宗)上夜久野村直見本尊不動明王(丹波志千手観音)開基行基菩薩(丹波志観実上人)創建不詳、天保四年五月再建、当寺はもと妹尾山(丹波志為母山に作ら)にありて直見、畑両村の檀那寺なりしが、真宗起るに及び檀徒中改宗する者多く、終に当山の維持法を約して、彼等の意に任せたり、此時杉林の繁殖を計り且つ桑谷ら移転せり爾後こゝに移れりと
(『天田郡志資料』)

薬王山浄念寺(直見宮垣)
浄土真宗 西本願寺派
本尊   阿弥陀如来
創建 天正年間記録(宮垣薬師仏当番記)によれば天正年間の創建と考えられる。
○由緒 山口氏著 天田郡志資料による。
一説によれば浄念寺は宮垣薬師堂と改め寛永四年(一六二七)仲春念秀法師の創立したもので該寺梵鏡に年月等記載ありしと。
為母山に真言宗高源寺あり
註① この辺すべてその檀家なりしが念秀の徳を慕いて真宗に転宗すと。為母山々上は不便につき協議の上、西垣に移す。そのとき寺中の立正寺は直見村宮垣に、他に畑村小畑に移せりと。高源寺の維持は各村よりの祠堂内によってなす。宮垣上地には浄念寺、下地には薬師如来を安置すると。
○井上常蔵村史材料集より
薬王山浄念寺は冨垣にあり、真宗西派の末寺なり、檀家戸数六拾七戸を有す
抑、当寺は高源寺移転の時に宮垣に安置せし薬師如来を薬王山立正寺と号せしを、浄念寺を建てて薬王山浄念寺となしたるなり。
註② 今又翻りて念秀法師の徳化を思ふに斯かる改宗に因るものなれば悉く浄念寺檀家なりやの疑あり、然るに当時切支丹耶蘇を信ぜりとの疑を蒙り、時の領主より追放を命ぜられ、其際離檀なされしもの多々ありたりと伝う。
○ 因に切支丹法なりとの疑は福知山城修築にかかる際に直見方面より大木を伐り出し、福知山へ向け運送の折柄、重要軽からざる為動かし兼たれば、或一人の某が当寺に来り、其軽便なるべき方法を謀りたるに住職、滑稽にも「直見の大臼ヤットコセイの掛声にて挽くべし」と教えたり、よりてその教えの通りなしたるに容易に運ぶことを得たるが、この風評の誇大なりし為に、これこそ切支丹の耶蘇法なりと疑わるるに至り、終に追放に処せられたるものなりと。
△ 上記二資料によって考察するに、高源寺は不便のために為母山より山麓の西垣に移転したことに違いはないにしても、真因は真宗信仰のたかまりの為に、同寺の維持が困難になり、整理を行なったとの見方が当を得よう。
真宗の興隆期は本光寺の創建が慶長十一年(一六〇七)、寺号本尊の御免が寛永七年十月十日(一六三〇)で、安土桃山時代から江戸初期にかけてのことであり、教蓮寺が一説には延応(一二四〇)の開基の伝わるものの、寛永元年(一六二四)三月六日開基と伝え、専福寺もまた寛永七年(一六三〇)四月の開基で、共に江戸初期の同期であることからすれば、浄念寺の創建もこの期の前後の間にあるものと推定がされる。
△ 因みに以下の記についてみるに、浄念寺が禁制の宗旨切支丹耶蘇宗の疑いを受けたことについては、別記「直見秘事法聞」の取調べて処分を指したものであろう。歴史的には極めて注意をひく事件であるが、「大臼ヤットコセイ」の一物語として伝えられている。

△ 上記二資料中註①②については幾分の異論のあることが資料中にみえるので取上げておく。
○ 山中には天台晋光寺があったが、真宗に転じて門垣に移り専福寺となり、当時の檀家は今日も専福寺檀家であり
○ 粟尾には古く室町期享録四年(一五三一)記、阿弥陀如来裏書があり、浄土信仰のあった事が知られる。
これ等のことにより真言からの転宗により宮垣には立正寺(別説治聖寺)を経て浄念寺が建てられ、西垣には本光寺が建てられるにいたったとの観方が当を得るものではあるまいか。

△直見秘事門徒
伴天連追放令は秀吉が出し、禁教を完全に実施したのは家康であるがその理由としては次のものが挙げられる。
1 キリスト教の教義が彼等の政権を維持する封建的道徳と秩序を破壊するおそれがあるとされたこと。
2 オランダ人の密告によってポルトガル。イスパニヤ人が領土的野心があると疑われたこと。
3 豊臣の遣臣がキリスト教徒と結び、反幕勢力を結集しはしないかと警戒されたこと
4 神道・仏教・儒教の側からキリスト教に対する反感のあったこと
右の四点は何れも主な理由であるが、その4は藩領内保守勢力と結び領主の政権が脅かされるまでの勢力になることもあり、国家統一の支配者としては政権と共に教権を握る必要性を覚えていった。このことはキリスト教に止まるものでなく、教義と教団の結束が国家支配の妨げになると考えられた真宗・日蓮宗にも及んだものであるが、両宗が支配権力との妥協をなすに及んでは、同宗門等本流に対する別流即真宗異安心とか、日蓮宗不受不施派に対する弾圧となってあらわれた。
ここに挙げた直見秘事門徒とは、別流異端の徒のことで、幕藩体制の下、禁制の宗旨を信奉していたこと発覚し、処分を受けたいきさつを述べるものである。
故坂上和彦氏(元福知山市金谷診療所医師)談の概要
(昭和三十六年(一九六一)八月筆者が直接氏の宅にて聞いたものである)
坂上氏の縁者、歴史学者三田村鳶魚氏が、雑誌「日本及び日本人」に「神教の仮面をかぶった但馬の秘事法聞」という一文をのせている。その文中に明治初年出版「一休歌雀」という本に秘事法聞の記事があり次の様であると。
「但馬のみはらの里に加悦久利という人物があり、その人が指導者で、出石に御蔵門徒が四十七名あった」と。
三田村氏はこの御蔵門徒について調べたいと思い、幸にして出石に近い福知山市に居住する坂上氏に前記の記事を寄せ、歴史的な関係事項の調査を依頼してきたとのことである。後程坂上氏は堀村庄屋日記の中に「直見秘事法聞」の記事を発見し、直見は出石と境を接しているので、三田村氏のいう出石の秘事御聞宗徒との関連があるように思う。とのことである。
△ 坂上氏のいわれる堀村庄屋日記については、福知山市誌に「直見村に秘事門徒あり弾圧を受く」の見出しで次の記があり、解説が試みられ、事情を極めて明らかにされている。
一、天和三年(一六八三)亥ノ十一月ニ
福知山郡也(福知山領の郡部の意か)直見村ニ朽木伊豫守御代ニ
一、当家ニひじもんと有之 則徒士目付衆ニ露顕シ 御詮議被成京所司代 稲葉丹後守へ 福知山寺社奉行後藤庄左衛門様 郡奉行中村伝左衛門殿御上リ 得御意ヲ 百姓四、五人ハとい志やうニ 被懸 其後ニ又大阪よりきせいんと申寺へ百姓五人 カニにのせ 社寺奉行郡奉行大間勢 八郎兵衛殿 大阪へ御越被成 又極月廿八日ニ大阪与不残 御帰被成 百姓五人ハろうしや仕候 則やう玉いんハ そのくに阿おひ大ぜん守へ 御江戸様与御預ケ被成候と承候 本人ハ庄屋徳左衛門 組頭甚兵衛 同心ぜんもん外ハ小百姓也
天和三年(一六八三)の十一月に夜久郷直見村に秘事門徒がいて徒士目付に発見せられ糺問せられた。これにつき福知山藩の寺社奉行が京都所司代へ出頭し、その指示により百姓四・五人を「といしょう」にかけた。(厳しい取調べ方の一つであろうか)其後大阪の与力が「せいん」という寺へ五人の百姓を籠に乗せて運れていき、それにまた社寺奉行郡奉行が付添い護送したが、十二月廿八日に全員帰藩し、百姓五人は入牢させられた。「やう玉いん」は幕命により摂津の青井大膳正に預けられたという。五人の百姓というのは庄屋の徳左衛門と組頭の甚兵衛という同派の仏徒で、その外は小百姓であったというのであろうが、遺憾ながら今一つ具体的に把握出来ない。
この件に関し今一つの記録がある。即ち福知山藩旧家老の榊原甚五衛門の孫直吉氏(綾部市上野在住)所蔵「朽木民部少輔様御上使人名福知山藩士記録」の中の岡田久右衛門の頃に次の様な記事が見えるのがそれである。
貞享二乙丑年(一六八五)頭御代官相勤 夜久郷支配候処 直見村名主徳右衛門始大勢紛舗宗門出来 其後兼而承乍罷在郡奉行等江不申達候故 事募不届被思召候 可被仰付候得共本寺天鷲寺公儀御穿鑿之上末寺江御預候程之儀故此方様ニモ以御用捨丑二月役儀被召放閉門仰付候 翌年寅正月 年久敷被召仕其後御由緒ヲ思召御赦免開門
右言上相延候儀 久右衛門私ニ貸置候物有之 夫ヲ取立候以後可申上ト延引トヤラン 惣而在町江、懸リ候 御家人密ニ借用等成頼母子等之入組ニ而如比ノ私出来不申様ニ 上御役人ヨリ常々心ヲ附可治事也
同心後銀札座役也 長井五兵衛御留守井之代リニ当分在府 留守江見廻長屋ニ而乱心自殺
即ち貞享二年(一六八五)岡田久右衛門が夜久郷代官を勤めていた時、直見村の庄屋徳右衛門はじめ大勢紛らわしい宗門を信ずる者が出来た。こういうことは前々から堅く取締るように命ぜられておりながら、郡奉行等へ報告しなかったので、事が大きくなったのは不届で(重罪を?)仰せられつけられる筈であるが、その宗門の本寺である天鷲寺は、幕府でも取調べの上本寺へ委されていることでもあるので、福知山藩としてもその点を勘酌してこの年二月久右衛門は免職、閉門を命ぜられた。而して翌三年正月にはこの家が古くから朽木氏に仕えてきたという由緒を考えて、その罪を許し閉門を解除された。
久右衛門が上司へ報告するのが延引したのは彼がひそかに徳右衛門等に貸しているものがあり、それを取立ててからにしようと延引したのであるという。
久右衛門は後に銀札座役となり、留守居役長井五兵衛の代りに当分江戸に居り、留守へ見廻り(この意不明)長屋で狂気して自殺したというのである。
以上藩士記録は寛保三年(一七四三)に書かれたものであるが、有力な資料に基づいたものであろう。この事件は前記堀村代々記録に見える直見村の秘事門徒摘発事件に関するものに違いない。両者で相違するところは前者が天和三年(一六八三)とあるのに対し、後者が貞享二年(一六八五)であり、又前者が庄屋徳左衛門とあるに対し後者は名主徳右衛門とある点である。これは何れかが誤字であって、同一人であることに間違いなかろう。
天和三年(一六八三)十一月に露見し、それが翌年貞享元年(一六八四)まで事件が続いたもので、久右衛門がその翌二年(一六八五)に閉門を命ぜられたと考えれば不自然ではないであろう。
(A) ここにいう秘事門徒は、もと天台宗から分れて一派をなしたもので、経文にある「煩悩即菩提」等について一流の解釈を下し、近江坂本の三明院を中心として秘密裡に流布したもので、幕府はこれに禁圧を加えたものである。
別に秘事法聞という徒もあり、これは真宗の信仰上の異安心で、親鷲の教えについて又一流の解釈をし、その所説はその派の信者のみが秘密裡に相伝え、これが真宗の最勝の信仰と考えているものである。
(B) 数年前(福知山市史は昭和四十年(一九六五)七月三十日発行である)当時福知山史談会の有力メンバーであった医師故坂上一彦氏が上夜久野へ診察に行かれ、ふとしたことから或家で、自分の家は先祖代々他家とは信仰が違うのであると聞いたといわれたことがある。その時は坂上氏も筆者も堀村代々記録のこの記事に気づいていなかったのであったが、筆者はそれが直見であったか明確に覚えていないが、それは或は秘事門徒ではなかろうか。現在は信仰の自由は憲法によっ保証せられており、堂々と信仰してよいことはいうまでもない。それはそれとして、もし筆者の推測の通りであるとすれば、少なくともその信仰は二百八十余年続いていることになり、きわめて注目すべき事実であろう。(福知山市誌より)
右の秘事門徒の記事は福知山市誌編著者芦田寛氏の書かれたものであるが、前記坂上氏談によって浄念寺が藩政当時切支丹の懸疑にあい、寺僧追放の災厄にあったと伝えるところから、秘事法聞信徒の件が切支丹の懸疑と同一視されていると判断し、筆者は昭称三十六年(一九六一)直見浄念寺檀家に赴き調べたところ、その地域粟尾在に「小川さん」と称する念仏講の一派があり、葬儀の形式も寺院の僧侶は招かず宗門の人たちだけで済ますとのことを聞き、この一派が秘事法聞宗徒に結びつくものではないかと推定し、当時刊行した夜久野郷土史の中で「小川念仏講中は秘事法聞宗徒の末流か無関係の別派か」を問題として採り上げてみたのであった。その後の調査で、小川宗門とは九州豊前から出た小川独笑氏が、京都鹿ケ谷安楽寺境内念仏庵で説く一向宗の別派で、直見秘事門徒とは結びつきのないものであることがはっきりした。福知山市誌の中で坂上氏がのべておられる「上夜久野の或家で聞いたことだが、”自分の家は先祖代々他家とは信仰が違う”」というのは、その家の伝えが不確実なために、先代か先々代の事が先祖代々と過剰な表現になったものか、その間何かの間違いによるものであろう。
今日小川宗の人たちは直見の栗尾、門垣、板生の羽白に合せて十戸程存在している。憲法に保障された信教の自由の下、
自己の信仰に生きておられるわけであるが、真宗寺院側よりすれば、真宗の異安心視するものであり、栗尾では同門徒の方からこの意識の存在していることを聞いた。
今回本稿をまとめるに当り、福知山市誌の記から直見秘事門徒とは天台宗の教義を異解する別派で、真宗の異安心の秘事法聞徒とは異なることを知り、前発刊郷土史に収録した記事は、ここに修正の要があり、或程度の解決が与えられたものと考えられる。
○ 浄念寺にかかる切支丹の疑いについて
(浄念寺住職高橋聞名氏が明治四十一年(一九〇八)六月、当時精華小学校長井上常蔵氏に村史史料として寄せられたものである。
抑 当時は高源寺移転の時に宮垣に安置せし薬師如来を薬王山立正寺と号せしと、浄念寺を建てて薬王山立正寺と号せしを、浄念寺を建てて薬王山浄念寺となしたるなり。今又飜りて念秀法師(註同寺開基)の徳化を思うに斯かる改宗(註真言より真宗へのこと)に因るものなれば悉く浄念寺檀家なりしや、の疑あり。
然るに当時、切支丹耶蘇を信ぜりとの疑を蒙り、時の領主より追放を命ぜられ、其際離檀なされしもの多々ありたりと伝う。
因みに切支丹法なりとの疑は福知山城修築の際に直見方面より大木を伐り出し、福知山へ向け運送の折柄重量軽からざる為動かし兼たれば、一人の某が当寺に来り、其軽便なるべき方法を謀りたるに住職、滑稽にも「直見の大臼ヤットコセイの掛声にて挽くべし」と教えたり。よりて其教の通りになしたるに容易に運ぶことを得たが、此の風評の誇大なりしために是より切支丹耶蘇の法なりと疑はるに至り、終に追放に処せられたるものなりと」。
△ 本記には浄念寺寺難の年代の記がないので推定に止まるが、秘事門徒事件と共に直見における信仰上の二事件であるから、一応その結びつきを考えないわけにはいかない。
本記をみて思うことは、同寺住職の追放という重大事件が、あまりにも単純な動機から発していることである。
○ ギリシャ神話の最高神「ゼウス」は吾国に入ってはキリスト教に関する文献の中ではデゥスと訛り大臼(デウス)と宛字されている。(日本歴史叢書至交堂)という。(竜城中学校校長 大槻昌行氏)というから、直見の大臼ヤットコセイの大臼はその辺の事情が物語化されたものではあるまいか。
(『上夜久野村史』)

薬師堂(宮垣)
薬師堂(西垣)
その案内板↓
案内板

木造釈迦如来坐像  国指定重要文化財 彫刻
福知山市夜久野町直見宮垣 薬師堂 木造 漆箔 像高 83.0cm
 このお堂の中に、福知山市の仏像を代表する木造釈迦如来坐像が静かに鎮座しています。
 現在の姿は薬師如来坐像ですが、元々は釈迦如来坐像として造られた像で、体部は木造割矧造、目は彫眼、肉身には漆箔が施されます。面部の造りは典型的な定朝様で丸みを帯びた静かな面持ちをしていますが、頭部や膝に地域的な特徴がみられ、この像が当地で造られたものとわかります。また衣文にも特徴があり、数多く刻まれる衣文線や、脚部上部にみられる襞をたたみ円弧状にする装飾的な表現は、この像が造られた時期から用いられる意匠の一つです。
 像の胎内にある墨書から、天仁二年(1109)に「安心」という人物により造像されたことがわかります。また膝部内側には、応永二八年(1421)と天文一二年(1543)の修理時の墨書があり、脇侍の造像や薬師如来への改変はこの際に行われたものと考えられます。
 この釈迦如来坐像は、中央と地方の特徴を兼ね備えた造りや造像の経過のわかる墨書の存在など、当地域の仏像彫刻を考えるうえで指標となる貴重な福知山の文化財です。
平成二六年三月  福知山市教育委員会


真言宗為母山高源寺の遺仏だそうで、重文、浄念寺の近くの高い所にある。あるいはこの周辺の鉱山の歴史は古代までさかのぼるのかも知れない、と思わさせられる。もっと古くは薬師仏があったかも知れない。

真言宗為母山高源寺(廃寺)
古跡寺 妹尾山高源寺(直見西垣)
為母山より桑谷、西垣に移り廃寺となる。
○丹波志 高野山 南院末寺
開山 観実上人
○井上常蔵史料
為母山高源寺は真言宗高野派にして、昔為栂山山上に魏々として七堂伽藍荘麗を極め、直見の大部分は悉く檀中なりしも、真宗に改宗したり。ここに於て盛なりし高源寺は維持を約し、薬師如来は宮垣に、他の一部は小畑へ、本尊不動明王及び観世音菩薩は堂牢と共に現在の場所に移して之を祀れり。観音堂は郡西国三拾番の順拝札所なり。本院堂宇は其維持法として毎年直見大部分の信徒は部落毎に規定の祀堂米を納めつつあり。
△高源寺は天正年代(一五七三~一五九二)以前において為母山より一時桑谷に、以後西垣に移された。昭和二十四年(一九四九)維持に窮し、倣藍を夜久野ケ原の茶堂に売却し、ここに廃寺となった。
○奉願口上之覚


宮垣薬師堂(直見・宮垣)(浄念寺下手)
△本堂については浄念寺との関連において由緒を尋ねると明らかにされていく。浄念寺の記に「高源寺移転の際(為母山より)宮垣に安置せし薬師如来を薬王山立正寺と号せしを浄念寺を建てて薬王山浄念寺としたるなり」とある。
浄念寺は山号が薬王山であることから、この薬師本尊との縁りが考えられる。前記の内容を考えるに真言寺院為母山高源寺の薬師如来は麓に下され立正寺の本尊として暫時あったが、真宗寺院の本尊は阿弥陀如来であるために直見宮垣を中心とする一帯の信仰が真宗に固まってくると同寺本尊としてはふさわしくなくなり、立正寺は山号のみを残して浄念寺と寺号を変え本尊仏は阿弥陀如来にかえられたものではあるまいか。かくして薬師如来像はその地位を去り浄念寺境内外下手の堂宇に安住の地を占め今日に続いてきていると考えられる。
この維持を約したものが天正年中(一五七三、一五九二)の宮垣薬師仏頭(当)番記と考えられる。
△薬師堂如来豫について
昭和四十年(一九六五)五月五日、古跡寺高源寺を調べる目的で浄念寺を訪れた際、仏像底部銘のある事を聞き、調査をこころみたところ天仁二年(一一〇九)平安院政期の墨書銘が胎内にある事を発見した。仏像の作風が一見してすぐれており、この期の銘のある貴重な仏像であるので府文化財保護課に報告、府、文部省、国立奈良博物館等関係当局の専門的な調査の結果、重要文化財相当の評価
がなされたため夜久野町教育委員会を通じ宮垣区長より重文指定の申請を行なうことになり、四十年十月手続きを完了し四十二年(一九六七)四月重要文化財に指定された。夜久野町における重要交化財指定第一号であるが、福知山、天田地方においても二、三を数えるに止まり極めて貴重な存在であり保存が行届くことが望まれる。
尚この胎内銘発見の動機となったものは浄念寺住職高橋聞信氏の膝裏銘の記憶であり、其の後の調査に当っては同氏はじめ宮垣の人達の御世話になることが多かったことを感謝すると共に、八百数十年を経る今日まで大事に守りつづけて来た宮垣はじめ直見の人たちの一途な信仰と心掛を讃えたい。平安この期の在銘仏像としては全国的にも数の少ない貴重な古文化財は郷土の誇りであると共に我民族の誇りでもある。信仰の対象として、古文化財として、何時までも大切に守りつづけていかなければならないものである。
本仏像の学術調査を専門担当されたのは当時、京都府教育庁交化財保護課記念物係長、現国立奈良博物館資料室長中野玄三氏で終始御世話になり、尚また当夜久野地方一帯の仏像について専門的な調査をしていただき貴重な資料や文献を残していただいている。そして引きつづき当町内地方史研究を志す者に多々御指導を賜わっていることにつき、ここに厚く感謝申し上げたい。
文化財調査復命書 …
(『上夜久野村史』)

為母山高源寺 直見西垣
『寺院明細帳』によると真言宗高野派で高野山南院の末寺。創建は不詳。『丹波志』によると開山は観實上人とするが、西垣観音堂に安置された位牌によれば観月上人。昭和二十四年に廃寺となり、伽藍を夜久野ヶ原茶堂に売却し、本尊不動尊像も茶堂に移された。『本末帳』によれば「天田郡直見村為母山高源寺菩提院」とある。『上夜久野村史』によれば為母山から桑谷、西垣と寺地を移ったとする。中世以来直見谷一帯を檀家としたと伝えるが、江戸時代初頭、直見谷諸村は次々に浄土真宗に改宗、高源寺は各村からの祀堂米によって運営されたと伝える。
(『夜久野町史』)
夜久野ヶ原の茶堂↓


臨済宗妙心寺派亀峯山清太院(副谷)
清太院(副谷)

亀峯山清太院(副谷)
禅宗 臨済宗妙心寺派(明治初年までは大呂の天寧寺末という)
開山 天寧寺(大呂)第二世留心久和尚大禅師
万治年間(一六五八ー一六六一)活鞴鉄龍首座この地に草庵を結ぶ
万治四年(一六六一)二月十八日に寂す
達磨尊豫時の住職色界是空首座檀住徒の信施を受けて当別谷(副谷)守護仏として安置す。
貞享元年(一六八四)十月五日 槃像の大軸あり
色界是空首座代
貞享四年(一六八七)二月施主 市左ヱ門 仁左ヱ門
安永六年(一七七七)改築
前当院再中興天寧第一座純公羽一座元禅師この時代なり
天明二年(一七八二)春、この信施に回向して恩師三州円山宗徳寺国山良哉明和尚を拝請し大法会を勤行す。雲納四方より集り二百に達せりと云ふ。
明治十一年(一八七八)春梵鐘会、昭和九年(一八七六)春授戒会あり
万治年間より数えて十二代現住職に至る。
明治の初め(一八六八)天寧寺派より妙心寺派に転ず。現本尊は聖観音をまつる。古跡観音像
清太院東南百米の辺に古屋敷あり。本尊は千手観音(立像)であったが、五十年程前清太院に移し境内堂に薬師如来と共に安置する。古跡堂棟木には正徳二年(一七一二)の棟札があったと。
(『上夜久野村史』)

亀峰山清太院 直見副谷
『寺院明細帳』によると臨済宗妙心寺派、天寧寺(福知山市大呂)の末寺、万治年中(一六五八~六一)に鐵龍長老の開基、安永五年(一七七六)に至り宗一長老により再興と伝えるが、『丹波志』では大呂天寧寺第二世留心和尚を開山と伝える。
(『夜久野町史』)

浄土真宗西本願寺派平林山教蓮寺(副谷)

平林山 教蓮寺 (真宗) 同村字直見小字副谷
本尊 阿弥陀如来、見真大師、恵燈大師
創建 弘長二年 開基 教円坊 
(伝説)夜久野城主佐々木半左ヱ門信高は痛く親鸞聖人に帰依し聖人より九字の名号を承け教円坊といふ。妻こうといへる者嫉妬心深く召使の下女美貌なれば常に半左ヱ門のこれに近つかんことを怖れたり。下女はまた信仰の心厚く、決して妻の疑ふ如きいたづら者にあらず、弘長元年十二月廿八日、正月餅を搗き夜更けて、彼の下女は竃の口にて臥し居たり。妻こうは今こそ好機なれと、鉄漿を沸かして下女の胸にぶつかけて本望を遂げたりと喜び居たり、さて翌朝教円坊は本堂に到り見るに予て聖人より賜はりし南無不可思議光如来の名号の中南無不の三字焼けたりけり。何者の仕業かと驚き居たり。依て妻を呼べるに、妻亦之を見て愕然たり、やがて下女は常の如く本堂に参りしかば、妻は之を見て復た驚きたり。下女胸をあけて見れば只灰か出でたらのみ、一同その霊験のあらたかなるに感じたりと。
行事 正月(御正統)四月(永代経)三、九月(彼岸会)七月(精進会) 十月(永代経)十一月(報恩講)

(『天田郡志資料』)

平林山教蓮寺
浄土真宗西本願寺派
本尊阿弥陀如来
由緒 
開基 行心
創建 寛永元年(一六二四)(山口氏天田郡志資料)
縁起によれば弘長二年(一二六二)開基教円である。
山ロ氏、天田郡志資料は縁起の方によっている。同寺縁起は“御歯黒名号”と呼ばれ当地方で有名である。昭和三十三年(一九五八)夜久野史友会で読解をこころみたが暗黒にすすけた読みづらい古文書で読破するのに苦心を要した。
△縁起概要  …
(『上夜久野村史』)



直見大膳の直見城跡
一、直見城趾とその居領趾
直見桑谷、為母山々麓の丘陵地にある。七百三十米の為母山の峻険を背にし、西下方に西垣部落を見おろす。門垣をへて夜久野ケ原に見通す南西の側面には数段の土?が構築されており、中世山城の特色を備えている。応仁記三 但州合戦にみえる「夜久野ノ加茂山ニ打立テ遙ニ見レバ……」の小倉、加茂宮ノ森を中心とする一帯を望見し、その間に直見、乎野の平地を一望におさめることが出来る。丹波志の当城に関する記には、城主は直見大膳武綱で、子孫はこの地になく、朝来郡玉木村にある西垣、北垣を名のる兄弟とある。居館地を西垣というので、その姓とは符合するものがある。
直見大膳とは“地名によって称号とするか、称号によって地名とするか”丹波志編者の按ずるところであるが、古く開けた直見の土地柄故、直見の地名を称号としたものであろう。
城主は「直見村大岶ノ上在古城」城主夜久監物その人であるかも知れない。このことは、そのところでのべたい。
当城に関する丹波志の記
一、古城 直見村桑谷ノ上ニ有
城主直見大膳武綱 子孫之所ニ無之 但馬国朝来郡玉木村ニ西垣、北垣ト名乗ル兄弟ノ家筋有 是ナリ 大膳家老井上寿良中島玄亮ト云 子孫系図ノ部出 夜久監物屋敷跡大サコノ上ニ在 寿良屋敷跡ハ 直見殿ノ城地ヨリ西ノ方ノ谷ニ 横畑ト云所ニ 今荒地六畝斗 石垣在リ
中島氏屋敷ハ城ノ方 谷ニ今 田地ノ中ト云 伝其所不定刀 直見殿居屋敷西垣ノ内 字ヲ御屋敷云田地ナリ 是モ城地ヨリ西ノ谷也 凡弐反斗ノ所ナリ 用水ノ池アリ 御屋敷ニ続ク山根ニ七尺四方程ノ泉ナリ 字ヲ髪長池ト云 俗名所ニ出之 往古直見殿用水ニテ 千今此水 里民用フナリ 池ノ端ニ石アリ此石ニ渡リ一寸斗ノ穴有リ 古蛇ノ剣ニテ明ル穴ト云伝フ 此池水ヲ髪ニ付ケレバ 赤髪黒クナルト云 遠方ヨリ取ニ来ルト云 旱天ニモ水不沽ト云也 
一、直見大膳
落城年号不知古 老ノ曰 但馬国ヨリ責来リ落城大膳並家中討死ノ外骸ヲ一所ニ集メ葬ル 西垣ノ内ミサコト云山ノ裾ニ今モ三抱斗ノ松有 其根ニ一間斗四方高サニ尺斗塚有リ 中二五輪一ツ有 地所三間ニ四間斗ノ所ナリ
茂正(丹波志編者)按ニ但馬ヨリ責来ト云フ以テ考レハ後太平記ニ夜久郷合戦ト云フ条有テ戦争ヲ記ス此時ナルヘシ然ハ山名氏ノ省ラレシト見タリ

城圭直見大膳
丹波志姓氏の部
一、直見大膳重忠 直見村
此谷ヲ領ス地名ニ依テ称号トスルカ称号ヲ以テ地名トスルカ当谷裕ケヲ領ス 山中金谷大サコ桑谷西垣栗尾宮垣才谷添谷門垣
重忠代ニ落城スト云 古城地有 古城部ニ出ス 旧栖有

丹波志、古城の部
一、古城 直見村大サコノ上ニ在
城主 夜久監物
家臣ノ家筋 衣川子孫有之
「大岶の古城」の記については、かく誌されているにもかかわらず、付近にそれに関した地名も城址らしい地形も見当らない。
近くに桑谷の直見城が存在したのであるから、同時代に別の城があったとは考えられず、直見城に付随した居館があったか、或は家臣の家筋衣川氏がここに住みついているというので、その伝承に基づいて、丹波志の編者が直見城を大岶城と誤り、再掲したものかも知れない。そうとすれば桑谷直見城即大岶城で、城主直見大膳は夜久監物その人ということになろう。尚この論拠には次のことがある。…
(『上夜久野村史』)

居母山
730メートルで町内の最高峰、うまく写せる場所が見つからない。花崗岩の山で、砂鉄が採れる。居母は鋳母で鉧(けら)のことといわれる、たたら炉に砂鉄と炭を何層にも積み重ねて火と風を送る、何日もかけた慎重な操作の後に、炉から取り出されたボロボロの感じの金属色のスポンジ状の物だが、内部にわずかに玉鋼ができていて、これが今で言うスチールになる。これを叩いて鍛え刃物にする。
『上夜久野村史』
居母山(いもやま)
上夜久野村では為母山とかかれてきたことが多く、居母山にあった高源寺の山号には為母山とかかれていることが多い。しかし妹尾山高源寺としたものもあり歴史的に何れが正しいと判定する根拠がない。現在では建設省国土地理院が居母山を当てている。居母山、妹尾山、為母山の語源については不明である。

麓に「いぼ地蔵」があるが何か関係があるのかも、
西ノ谷には、「いぼ地蔵」と呼ばれる小祠がある。この地蔵は、なぜながらイボを取る願いをかけると適えられるとされ、願掛けには土でつくった団子を供え、適うと米でつくった団子を供えた。また.この地蔵は「去られ地蔵」ともいわれ、離縁が適うとする信仰をあわせもつ。そのため、昔は嫁入り行列の際、花嫁は地蔵の前を通過することを避けるように足元の悪い小道を通って嫁入りしたという。西ノ谷には、もう一つ「ずりずり地蔵」と呼ばれる板碑がある。この石仏は、抱えるようにしてずらすことによって子どもの成長と健康を願うという信仰をもつ。「ずらかすほど、子どもが丈夫になる」といわれており、親のほうが子どもに石仏を動かすように促すという。
(『夜久野村史』)

《交通》
直見の谷を貫く府道63号(大江山東線)は西国三十三か所の姫路書写山から宮津成相山に至る巡礼道にあたり、「成相道」と呼ばれていた。
西国巡礼みち
観世音菩薩は三十三の化身をして救世を行なうとの思想から平安時代院政期になると観音の霊場の中から三十三ケ所を選定して巡礼することが行なわれるようになり、今日まで約八百八十年の長きにわたって続いて来ている。これが西国三十三ケ所の観音霊場で、第一番の札所が紀井の国天台宗那智山青岸渡寺からはじまり畿内畿外を巡って第三十三番の札所美濃国天台宗谷汲山華厳寺に終るものである。
当地上夜久野の平野、直見は第二十七番の札所播磨の国餝麿郡(姫路市)天台宗書写山円教寺から第二十八番の札所丹後の国与謝郡真言宗世野山成相寺(宮津市)に至る間の街道筋に位置している。即ち、夜久野ケ原茶堂から直見小坂峠の間がそれであって、古来から昭和初期までは成相道として巡礼が「同行二人」の杖をひいて通ったものであり、古老といわず中壮年にとってもその記憶は等しく持っている。遍路、行商人が歩いたこの沿道には宿屋の屋号を残す家々があり、分れ道には「右(左)なりあい道」の道標を多く残している。
△道標箇所、夜久野ケ原数ケ所、水坂大油子分れ道、直見板生分れ道(今日門垣中央に移動)、副谷門垣分れ道
遍路は沿道の戸毎の門前、軒端に立ち報謝を受ける。旅舎を提供する信心深い家もあったりしたが、遍路にも宿賃に窮する者や、もの乞い等は辻堂に泊ったり野宿したりした様子がみられる。
(『上夜久野村史』)


当地に残る江戸時代の古文書の中には、巡礼の道中当地で死亡したのでムラで葬った(文化3年・1806)こと、直見山中の番小屋で夫婦とも病気になり妻が死亡し、当地で埋葬してもらった。今後どのようなことがあっても文句はない旨をしたためた夫の文(天明7年・1787)、才谷の辻堂で巡礼3人のうち夫が死亡したので、直見村庄屋と組頭で土葬にした(文化15年・1818)という内容のものもある。巡礼は「往来手形」を持っているので身元がはっきりするが、巡礼者の通る道は喜捨をする風も厚いので、街道には往来手形を持たないもの乞いも多く行き倒れになる者もあった。直見宮垣ではそんな一行の中の4歳の娘が死亡し、処置した(天明5年・1788)ものなどもある。
(『夜久野町史』)


《産業》



直見の主な歴史記録


直見村 副谷 門垣 西垣・本村也 山中 金谷 大岶 桑谷 才谷 栗尾 宮垣 拾ヶ所民家アリ 右同
高千六百九十六石 内 本村千九十七石壹斗六合 副谷 三百二十九石四斗七升四合 門垣 二百五十九石四斗貳升
直見村ノ内門垣副谷ハ高ヲ分テ別々ニ村長ヲ立トモ村ト不唱 諸役等直見村ニ准ス
直見村ノ内才谷ヨリ但馬国小坂村迄二十丁四十間牛馬但シ直見峠国境杭迄拾丁四十間山中ヨリ峠迄三十二三丁
国境直見峠峯疆左右山並尾続峯疆道境直見峠ノ峯ニ杭有但シ但馬国ニテハ小坂峠ト唱ル由 直見村ノ地ハ未申ヨリ丑虎ニ入谷也 家数百七十八戸 此所ヨリ畑村ノ谷ニ行ハ金ノ尾峠斗畑村ノ柿本エ越エ 才ノ木峠牛馬不通 但栗尾ノ奥ヨリ登ル 西垣ヨリ戌亥ノ方高山有 大ナル山ト云 西表ハ板生村ナリ山中ノ下ニ日和峠ト云小坂有板生村ヱ越ス間道ナリ 外ニ板生村ヱ越ス山道無之
直見谷ノ奥ニテ板生谷ノ奥ト出合処在
金尾峠ヲ西ヘ六七丁下レハ直見ノ内金谷ト云民家有直クニ出レハ山中ト云 民家ノ東ヱ出ル 又金谷ノ口ヨリ北ノ方ト分レ少ノ峠有リコセウタ峠ト云 坂ヲ下レハ右ニ大岶ト云民家有其北ハ桑谷也其向西垣ト云本村ナリ
金ノ谷ヨリ南ニ越ス小峠有 副谷ニ行間道ナリ 副谷ノ谷口ニ小丸山ト云山有 愛宕社アリ 是ヨリ東ニ入所也 副谷ヨリ東 山を越ス西峠ト云 十二三丁畑村ノ西ノ谷ニ行同卯辰ノ方山ヲ越ス額田村ノ奥青龍山谷ヱ越ス?ル道無シ 同南ノ山ヲ越ス 竹峠十七八丁斗大油子村ヱ越ス門垣町ハ板生ハ板生町ニ曲尺ノ午ノ如続ケリ石橋在堺也 尤平地板生谷ヱ行本道ナリ板生谷ヨリ出ル谷川ニ土橋有此所板生村門垣平野村三ケ堺也
直見谷?ノ尾峠頂迄此橋ヨリ十二三丁門垣ノ大橋ト呼也
宮垣ノ奥イワモリト云谷奥迄ハ凡二十町有
直見殿古城在古城部ニ出之
(『丹波志』)


おかんど古墳
所在地 直見(風呂ヶ谷)
遺跡 門垣共同墓地の背後の丘陵上に位置する。露出している石材から、長さ三・一メートル、幅一・六メートル、高さ四○センチの横穴式石室をもつ円墳である。

間地(まじ)古墳群
所在地 直見(間地)
遺跡 府道山東大江線の天王神社より門垣方面へ約一五〇メートル行ったところの西側丘陵裾部に位置する。二基の横穴式石室をもつ円墳からなり、石室を覆っていた封土は消失し、石室の石材が露出している。うち一基の石室は現状では長さ約七メートル、幅一・三メートル、石室の高さは六〇センチで、南東方向に開口している。
(『夜久野町史』)


鉄穴(かんなぼり)
1、たたらの経営
鉄器は五世紀に既に吾が国で生産されていたことは考古学の立証するところである。岡山県「月の輪古墳」から出土した鉄器は鍛鉄で山陽道に多い赤目の砂鉄を原料としている事が判明している。(和島誠一 月の輪古墳)
五世紀以前については、鉄器は大陸から朝鮮半島を通じて導入されたものか、原料を輸入したものかであって、生産が高まったのは五世紀後半以降とされている。(上田正昭 著帰化人より)
鉄器が普及していたのは、古く弥生式時代といわれ、その後期にはかなり進んでいたとの見方がなされている。京大教授小葉田淳著、鉱山の歴史では鉄鉱業が己にその頃に始まっていたと推測されぬこともない、と述べられている。
同書によって吾が国の採鉄をみると、その大要は次のようである。
“砂鉄製錬の歴史ともいうべく、良質の砂鉄を豊富に産するのは古来中国地方であり、明治中期まで日本の産鉄量の六割までは中国地方の砂鉄より生産されていたと。花嵐岩、内緑岩の風化したものより砂鉄をとる。その場所は鉄穴(かんな)といい、これを洗い流して精進する作業を鉄穴流(かんななが)しという。花崗岩・内緑岩がある段地の下方に水をつくる。この水路の上手に貯水池をつくり(或は谷水から)水を引いて水路を流す。この水路に対し、上段の花崗岩段地を掘り崩す。土は軽いので下流に流れ去り、砂鉄は重いので水路の底に溜る。この砂鉄を水路の所々に設けた堰で採取する。
一つの砂鉄採取場(当地では“うと”という)で働く人員は二、三人より十人位で鉄穴師(かんなし)といい、普通農民が従事する。鉄穴一ケ所一期間(彼岸より翌春の彼岸まで)の採取量は五百駄~八百駄が普通とされた(砂鉄一駄は二十五貫)。一つの鈩を経営するには、このような鉄穴を七ケ所~十ケ所程度必要とした。
採取した砂鉄は、たたら経営の鉄山師に製鉄原料として売り込まれる。砂鉄を粘土で造った長方形の炉の中で木炭と交互に投げ込み燃焼させて製鉄する。この和鉄の工程は三、四日を要し一代(ひとよ)と呼ぶ。
一たたらで一ケ年に普通六八代(わ)を作業した。炉のある建物を高殿(たたら)と呼び、付属する建物に鍛治場がある。ここで錬鉄とし地方の鍛冶屋に送る。
たたら経営の鉄山師に直属する技術労働者集団を「山内」と呼ぶ。山内は、たたら職人と鍛冶職人から成る。たたら職人は村下(むらげ)、炭坂、炭焚、番子があり、かじやものは大工、手子、吹差があった。村下は技師長、職長に当り、一たたらに二名、その中の一名が表といい他の一名は補佐役で炭坂と呼んだ。炭坂と炭焚は炭を取扱い、番子は「ふいご」を踏むのである。
元緑頃から天秤ふいごが使用されるようになると、二人踏で三時間交替、計六人となった。たたら経営には専属の職員が十五人~三十人を要し、これに家族が加わるから、山内と呼ぶたたら部落はかなり多数となる。
鉄山師は木炭製造のため多数の「山子」をかかえていた。山子は山内に属さない村方のものもあり、近村農民の副業であった。
たたら経営は多量の木炭を費消し、その木炭はたたら場付近の樹木(シデ、ブナ、ナラ、カシ)を原料とするため、通常十年~十五年たてば移転しなければならなかった。
たたら経営が他の金銀銅鉱山に比しての特色は、この移転性もあるが、坑道がないので危険性が少なかったことと、山内と呼ぶ集団をつくり一般農民社会と別個に存在していたこと。鉄山師は地方的な財閥的な地位を形成したものが多いことなどで、小雲の田部、桜井、絲原の三家がその例であるといわれる。田部家は明治三十七、八年(一九〇四~一九〇五)頃には鉄山の職人数九二九人、賃金として与える巻末二千五百俵。当時の所有水田三百三十町六反余、畑地百十四町七反余、小作人三百五人といわれる大土地の所有者であった。塩山師としての事業は明治初年に近代技術による製鉄法が行なわれると共に廃業している”と

但馬地方のたたら場
浜坂町志によれば中国山地に属する但馬の浜坂町南東の奥地久斗川の上流久斗山はじめ上下流地域には、たたら場の跡が多く、前記吾が国の採鉄鉱にみられるような方法で採鉄のなされた様子が記されている。
“コガネ(砂鉄)を溶融して得たものをズク(銑鉄)といい、製錬したあとの残りかすをカナクソという。このたたらを踏んで風を送る作業は鉄穴掘よりはさらにはげしい労働で、一般的に百姓かたわらでは、とても出来る仕事ではなく、早くから専業化しており、これに従う者をタタラ者とか山内者とかいっていた。
ズクをつくるには、おびただしい量の木炭が必要であった。久斗山一帯は山岳地帯であるだけに、シデ、ブナ、ナラ、カシなどの木々が茂り、良質の炭を生産するのに適した場所であった。イモジの山頂近くには、四、五十俵出せたといわれる古い炭がまの名残りがみられ、かま築造に使用した粘土層もみられる。「七里粉鉄(こてつ)に三里炭」のうたい文句のとおり、製鉄は七里(二十八キロ)奥地でも採算が合うが、炭は三里(十ニキロ)奥地以上になると採算が合わぬといわれたのは、それだけ多量の炭が必要だった事を物語っている。久斗山付近では、山くじし、鉄穴(かんな)流し・炭焼き・運搬・たたら踏などに大部分の人々が働いており、鉄山の末期には山々の樹木が殆どなくなった”と。

久斗山地区鉄山開発についての状況は関係史料に基づき同書で述べられているが、久斗山鉄山関係文書の一つは、正徳二年(一七一二)将軍綱吉の頃である
。だから久斗鉄山の開発はこれ以前のことになるが明らかでないようである。
但馬の生野銀山の発見は天文十一年(一五四二)であり、同じく但馬養父郡関宮の中瀬金山は天正元年(一五七二)信長の頃である。鉄の採取は、金銀に比して坑道を掘らずに砂鉄から採るという安易さがあり、五世紀の後半には盛んになっていて、農器具はじめ各地にある古墳の出土鉄器にみられるように、刀剣、馬具等にも利用されているので、記録以前の鉄山の歴史は、五世紀以前まで古く遡るものとの見方が成り立ちはしまいか。

3、夜久郷の鉄山
古来中国地方の採鉄は、中国脊梁山脈中の花崗岩層に含まれる砂鉄がその原料とされてきた。
夜久野地方においては、中国山脈の一地帯として、この花崗岩層があり、それは門垣、副谷と畑の西の谷を結ぶ線以北、牧川上流の直見川以東、栗尾、才谷の境界辺から北においては、今西、才谷の南を結ぶ線以北に岩層が存在している。
昭和四十一年(一九六六)以来砂鉄採取の跡を調べはじめてから昭和四十五年(一九七〇)の今日までに、確認したところは次の地点である。
畑、今里部落、小栗尾 昭和四十一年(一九六六)
直見、才谷部落、深山、山田 昭和四十二年(一九六七)
副谷、うと山   昭和四十二年(一九六七)

(1)畑今里における製鉄遺跡
今里衣川慶太郎氏の示唆により、同氏に案内されて確認出来たものである。その当時、筆者自身が鉄の採取法が如何様になされたものかを知らなかったために、麓の赤ハゲの地点に鉄滓が散在していることと、小栗尾の地点に立ち、明らかに人口地に尾根が削り取られているその大規模な採鉄場の跡を目撃して、ただ驚嘆し、未知の不可思議さから受ける異様な感に打たれたものであった。衣川啓太郎氏の談によれば、この辺に為母山山頂に通じる巾二米程の山道があり、廃寺為母山高源寺参道ではないかとのことであったが、この道は鉄穴用の運搬道路として材木や太炭を運搬したものではなかったかの疑問をもち始めている。
昭和四十三年(一九六八)五月、畑出身、京都在住の森弘志氏が夜久野史友会研究発表会で左の研究を提示された。同氏は昭知二十九年(一九五四)既にこの鉄穴地に注目し、実施踏査を行ない、その後の研究で大規模な採鉄地であるとの確信を持ちはじめていたとの事であり、如何なる方法で誰によってなされた事業かを知りたいとのことであった。以来相互の連携により、この問題も解決に近づいてきたといえよう。

今里部落は、夜久野町下地区にあり、同地区の最北端に位している。遺跡のあるのは略図のとおり、今里部落より川沿いには府道を約一㎞ばかりさかのぼった所にある。地名を「赤ハゲ」という。製鉄のとき生じる「鉄滓」の集積場が残っている。
昔、山道の改修の都度、敷砂利として利用したり、戦時中には「「まだ鉄分を多く含んでいる」といって運び出そうとしたものがあったりして、相当量取りくずれたものであるが、それでも昭和二十九年四月に実施調査したときには目測で三〇~四〇立米位の量があった。
先日再調査したときは、近年新道の改築に伴ない砂利に使用したのと、整地をして植樹がなされていたのとで原形がいちじるしく変っており、残量の推定は困難な状態にあったが、前回の調査のときの状態などから推定して約一〇立米位は残っているものと推定される。さて、この「鉄滓」についてであるが、砂鉄などから鉄を取り出す作業(製錬)と製錬した鉄を「大鍛冶屋」に送り鍛錬、脱炭な辛どを行なう作業の中など、いずれの場合でもその残り滓として「鉄滓」が生じる。
砂鉄などから鉄を製造する作業場を「たたら」と呼んでいるが、大鍛冶屋は普通この「たたら」と伴設される場合が多い。しかし、時代が下るに従って独立したものも多くなっている。従って「鉄滓」はすべて「たたら」から出たものと断定するわけにはいかない。
また、この「鉄滓」も炉熱の上りきらない時期、まだ上昇しきって熔解したり下りの過程のものなど、その成分を分析してみなければわからないものがある。
とにかく、ここに多量の「鉄滓」が現存するという事実から、ここに「たたら」か「大鍛冶屋」があったことは疑問とする余地はないと考える。
なぜなら「鉄滓」は、どろどろに熔けた鉱物と一緒に生じるものであり、遠方に運んで捨てるわけにはいかないものであるからである。
ところで、この「製鉄」の原料となる鉱物はどこから採り出されたものであろうか。私は土地の古老達から云い伝え、地名などについて詳細に亘り調査したが、それを適確に云い当てる言証は得られなかった。僅かに「鉄滓」のある所を「赤ハゲ」、その近くに「水を流して鉱物を選り分けたところ」と伝えられる「アオシ」と、この谷の五〇〇米ばかり奥へはいった所に「ショウブ池」の地名があることを知り得た。
また、この他に、この「鉄滓」のある場所から五〇〇米ばかり下った所より東へ「ヤナ谷」へ入り「ケンガ谷」と称する所にも若干の「鉄滓」があり、この谷の最上流に「タカバ」と呼ばれる所があって「山を削り取ったような跡」があることも知り得た。この「アオシ」から奥の谷を「コグリオ」と呼んでいる。現在営林署の造林が行なわれている谷である。谷の入口にある「アオシ」から約五〇〇米程はいると「ショウブ池」に到着する。「ショウブ池」付近は、近年植林が伐採され、新しく植樹されたばかりであったため、一帯をあます所なく望見でき、その全容と山はだの形状など詳しく知ることができたことは大変好都合であった。
一見してわかったことは、実に「広大な範囲」に亘って山はだを「人口的に削り取った跡」が歴然としていることであった。長い年月の風化によって大きく原状は変ったことであろうけれども、今尚
ショウブ池と、伝えられる付近に点在する湿地、人工的に押し出したとみられる、ぽう大な土砂の量、削り取られて赤はげになったような山の尾根など、その規模の大きさに一時は唯々目を見はるばかりであった。
大小合せて四つばかりの谷と尾根、このぼう大な量の土砂を流しこの中から微量の砂鉄を取り出したとすれば、それは実に永い年月と測り知れない程の大きな労働力を要したことは想豫に難くない。だが、ここに疑問とすることは、永い年月をかけて行なわれたであろう、これだけの大事業が何等里人の云い伝えとなって残っていないことである。
このことは果して何を物語るものであろうか。遠い古代の製鉄の跡なのであろうか。それとも里人から隔絶されたところでひそかに行なわれたものなのであろうか。
それにしても、これに従事した工人達、また労役に従った人達はどこからきて、どこへ移って行ったのであろうか。そして、これ等の人達が生活した跡はどこにあるのだろうか。
ともかく広大な山はだを削り取った土砂を、水を引いて流す露天堀(鉄穴流法)により採掘したとすれば「鉄穴」に付属する「鉄穴溝」は谷の最下流の「水を流して鉱物を選りわけたところ」と伝えられる「アオシ」まで延々五〇〇米にも及んだと考えられる。
さらにこの「アオシ」は.近年まで畑地になっていたが、最近になって“たんぽ”に改造されているもの、「アオシ」一帯の地形から想像すると、ここに砂溜池や階段状に大小の池などが設けられ砂鉄等の鉱物を沈澱させ精進採集の設備があったものと考えられる。こうして採集された砂鉄は、さらに五〇米ばかり離れた所の「赤ゲ」の「たたら」に運ばれ精錬されたとみるべきであろう。(以上要点抜書)

(2)うと山
畑鉄山の知識にもとついて、旧上夜久野村の花崗岩地帯を調べたところ、直見から副谷にかけて「うと山」の地名が多いことを知った。当地では洞を「うとろ」というので、窪地になっている鉄穴跡を「うとろ」「うと」と呼ぶようになったものか。この「うと」と呼ばれる土地を実施に調査したところ、次の四カ所の確認が出来た。何れも過去において採鉱を行なったもののようである。
1、うと山直見 宮垣天神向東のうと
2、 〃     栗尾十七岶のうと
3 、〃     桑谷畑地のうと
4、 〃     副谷丸山(八幡社)東南丘陵のうと山

副谷の「うと山」
一帯が畑地になっていて、その白褐色の花崗岩質土砂の中に、黄鉄鉱粉を含んでいる。山肌が人口的に削りとられ、山容改まるの感を呈していて、やや小規模ながら畑の小栗尾鉄穴地と同様の景観である。東北につづく和田の谷間から水を引き流砂溝に流したとみられ、遺溝が約百三十米程残っている。このほかにも南端に水路らしいものが残っている。この二つは上、下流として続いていたものか。この遺跡に関しての記録文書は未発見であり、その時代や状況等に関しては明らかにされないが、この地に「たたら場」の跡がみつかっていないことは、採掘から鉄穴流までを行なったのではあるまいか。

(3)たたら場
①深山(みやま)(直見才谷)のたたら場
一帯は花崗岩礫の地帯である。たたら場といわれる地点には鉄滓は「かなくそ」といわれるもので、鉄分の残存含有量が多いために表面に黒々とした艶がある。ずっくりと重く如何にも鉄の感じである。
ここに限らず直見、畑共に鉄山に関しての史料文書は残っていないようで、土地のいい伝えに頼る以外にすべがないが、その伝えもまた殆ど想像の域を出ていない。このことは採鉄の事業が余程古い事を物語るものであろう。
幸に直見文書の中に文化十三年(一八一六)才谷、深山争論のことがあり、その文中に「鉄山」の文字がみえる。
乍恐 奉願上 口上覚
當村 才谷深山与申 西方ニ御座候
往古ハ當村 壱ケ村之山二御座候処
其頃 鉄山御座候由二付 不残
代仏 小生二 相成候.様申候ケ(が)
代 文化十三年(一八一六)子二月 日
(以下略)
右の文中、鉄山のことは「往古」とされていて定かでないが、元緑時代は文化十三年より約百十年~百三十年前のことであるから、往古とされるそれ程の古い時代ではない。秀吉の慶長の頃と(一五九六~一六一五)とすれば、約二百年から二百二十年前に当るのでその頃から中世に遡るものかも知れない。江戸初期とか中世ということになれば、今日関係の文書等の残っていないか、或いは入手出来ないでいることも肯けるわけである。

②板生田谷垣(鎌倉神社下手の橋、川向うの土手)のたたら場
鉄滓が出る。太平洋戦中に掘り出したという。ここは花崗岩層でなく夜久野迸入岩層である。
採鉄場「うと」とたたら場とは必ずしも同一箇所ではないので、ここは製錬用木炭の得やすい土地として、たたら場になっていたものであろうか。今後の調査にまたねばならない。
③板生現世のいもじ
畑今里に小栗尾鉄穴に関係ある鍜冶屋屋敷がある。現世の「いもじ」の地名も鉄器に関するものなので、田谷垣の「たたら場」との関連を考えてみたい。

④下夜久野今西中には鍋師のあったことや鍛治神社のことが古記にあると、畑のたたらとの関係が考えられる。

宝暦夜久野鉱山開発に関する記(福知山市誌より)
“夜久郷鉱山開発に関し川下諸村への尋ね書”宝暦八年(一七五八)八月、夜久郷で鉱山採掘願が出されたので、福知山藩として下流川筋の田地や農作物に影響はないかと尋ねた。これに対する十二村の村役人の返答は次のようである。
必ず諸作に害があるとはいい難いが、金水というものは農作物に障りがあると思う。殊に鉱物の種類によっては大分悪いものと聞き伝えに聞いている。なお鉱山が盛になって鉱石以外の石や精錬した場合の残滓物などが多くなると、洪水の節、川筋の田畑(それが流れ込み非常な被害をうけると聞いている。その外にはどういう点が悪いとは申し難い。

乍恐差上申口上之覚

宝暦八年(一七五八)のこの記は、才谷深山の鉄山を指しているものではない。さきの深山争論の文書が文化十三年(一八一六)で宝暦八年はこれより五十八年前のものであるから、文化文書にいう往古の鉄山には当らない。副谷の鉄山か、他のうと山の何れかが、これに当るものであろう。そうだとすると或は二百二十年前に副谷鉄穴山が存在したことになる。
④天田地方の鉱産
福知山市誌に誌されているものを拾い上げると、天田地方には古く鉱産のあったことが知られるし、金谷、夜久野方面には採鉱、冶金に関する地名、信仰、伝承等の問題が攻究せられているとも誌されている。

(『上夜久野村史』)
案内板
三谷に薬師堂がある、その案内板↑。鉄穴に従事した人々の信仰を集めたのが仏教ではこうした薬師様であったと思われる。


伝説



蛇の池(直見西垣)
西垣の地、富岡山の山すそに「大松(おおまつ)」と呼ばれている飯尾家がある。その昔より明治のはじめ頃までは、ここに大きな松があったので西垣大松として知られたものという。この大松家の裏手に一箇、南に少しくだったところにも一箇、何れも一平方米ぐらいの池がある。裏手の池は大蛇が頭で掘り、南の池は尾で掘ったものでこの池の水を髪につければ黒くなるといい、遠方よりもらいに来たという。また付近にある蛇塚という地名は、大蛇を殺して埋めたところと伝えている。百七十数年前即ち寛政六年(一七九四)完成した丹波志に当時の伝説としてとの記と同様の記がみえることからすれば、随分古い言い伝えである。

御座の岩と休場(直見西垣)
西垣の地の神、近江神社は御神体が御座の岩にあったが、道を歩いていた人が御座の岩で光るものを見つけたので、背に負うて現在地におろしたという。途中で休んだところを休場(やすんば)といっている。

休石(やすみいし)(直見山中)
山中の氏神天王さんの下に一里塚の古跡があり、通称やすみ石とよばれる大きな石がある。天王さんに安置されでいた観音さんの眼の玉が金であったのを盗人が見つけ、背負って出かけたが、あまり重いので天王さんの下で石にかけて休んだ。立とうとしたところが腰が立たなくなってしまって盗人は観音さんをそこに置いて逃げたという。それからここを休石とよんでいる。

間地(まじ)のくれ千枚(直見山中)
  七尾七谷間地の谷、三つ葉うつぎのそのもとに
    綱づな千束 くれ千枚
くれとは小判のことと考えられていて、山中間地の一号、二号、二基の古墳につながる黄金埋蔵の伝説を調子のよい唄にしたものである。

教蓮寺お歯黒名号(副谷)
本書第二篇第五章第二節寺院の縁起にとりあげているので、ここでは省略するが縁起に含まれたこの部分は当地方では名の高い伝説として知られ、教蓮寺を有名ならしめてきている。

大山(おおやま)の明神さん(副谷・門垣)
或ときのこと、大山の森で村人が山仕事をしていると、尺足らずの小蛇があらわれ鎌首をもたげてこちらをにらんでいるではないか。首にある白い輪の模様が異様である。気味悪くなった村人は、はっしと斧で打ちかかったところ手きずを負って小蛇は草むらに消えうせた。
その翌朝である。谷向いの山麓の小高いところにある彼の家まで、白波がひたひたと押寄せ、村は一夜にして湖水と化し去っていた。みれば口は米をふるう箕(み)程もある大蛇が向山よりこちらの山麓まで延々と身を横たえている。首に輪のあることからすれば正しく尺たらずの小蛇の化身である。おののいた村人たちは以後村の産土神(うぶすながみ)としてまつることを誓った。やがて水はひき、村はもとの姿にかえった。大山の中腹の滝のそばに小さな祠が建てられ、屋根は蛇のねぐらのために、ふっくらとしたわら屋根にされた。以来、春のこの日を例祭と定め、ねぐらを毎年ふきかえるならわしとしたのである。

☆☆☆
今日もつづいているこの祠の屋根の葺かえ作業は副谷と門垣の人たちにより卯月(四月)八日春の祭りに行なわれる。屋根をめくると二匹、あるいは三匹、年によっては一匹もいないこともあるが、おそれ気もなく差出す村人の掌中にするするとすべり込む。とり出された蛇は、わらであんだ「つと」の中に入れられて森の小枝に吊るされる。今も小柄で首の輪が目じるしである。鎌首をあげて境内で働く人達をみつめたりするが逃げたりはしない。或時一匹が逃げ出したのでよくみると別の蛇がまぎれ込んでいたのだったという。やがて元にもどされ、のりとをあげて祭礼がはじまる。季節の山菜をあしらった料理をさかなに宴会が催される。今年も水が豊富でありますようにとの土に生きる村人の願いがこめられた素朴なまつりである。
(『上夜久野村史』)


ノミとかノマ、ノモといった所はミミ系の地名ではなかろうか。海人系の人たちの住んだ所のことかも知れない。




直見の小字一覧


直見(なおみ)
下地(しもじ) 町浦(まちうら) ノリ安(のりやす) 一本木(いっぽんぎ) 中道(なかみち) 竹ノ森(たけのもり) 向山(むこうやま) 三角田(みすみだ) 島ノ上(しまのうえ) 島(しま) 中地(なかじ)門前(もんぜん) 上地(かみじ) 下坪(しもつぼ) 長通(ながどおり) 石橋(いしばし) 柳ケ下(やなぎがした) 檜ケ本(ひのきがもと) 六伝(ろくでん) クゴ田(くごた) 上角(うえつの) 風呂ケ谷(ふろがたに) 才戸(さいど) 金付田(かねつけだ) 相谷(あいたに) 屋敷田(やしきだ) ヘタテ田(へたてだ) 五反田(ごたんだ) 塚本(つかもと) ゼンサイ 大坪(おおつぼ) エンブリ田(えんぶりだ) 八王寺(はちおうじ) ヘダテ田(へだてだ) ガケ ナグサ 石仏(いしぼとけ) 栗田(くりた) 漆島(うるじま) 掛ガ木下(かけがきのした) 岡安ノ下(おかやすのした) マジノ下(まじのした) 峯通リ(みねどおり) 檜山ノ下(ひのきやまのした) 大道ノ下(おおみちのした) マジノマガリ マジ 二又(ふたまた) 天王ノ下(てんのうのした) コモ田(こもだ) 休石(やすみいし) スキノ先(すきのさき) 足原(あんわら) ドンド場(どんどば) イ子ノ上(いねのうえ) イ子ブチ(いねぶち) 定免(じょうめん) 金谷口(かなだにぐち) 石米(こくごめ) 柴ケ花(しばがばな) 岡安(おかやす) 天王ノ上(てんのうのうえ) 鳥ケ岶(とりがさこ) マタニ口(なたにぐち) スミガマ クロブク ビクニヤシキ 日和ユリ(ひよりゆり) 家ノ下(いえのした) 日和口(ひよりぐち) 大垣畑(おおがきばた) 天王越(てんのうごえ) 大垣(おおがき) 畑ケ中(はたけがなか) 家ノ前(いえのまえ) カイチ サイ谷口(さいくにぐち) 岡ノ下(おかのした) 門ノ下(もんのした) ユリ田(ゆりた) 門前ユダ(もんぜんゆだ) 三角(みすみ) モロク谷(もろくだに) ニウシロ ケロク谷(けろくだに) 家ノ上(うえのうえ) 子ウシロ(ねうしろ) 橋本(はしもと) 八幡(やわな) 谷畑(たにばた) 門前(もんぜん) 橋詰(はしずめ) 五反田(ごたんだ) 若桑(わかくわ) 五文(ごぶん) 清水(しみず) 中地(なかじ) 深田(ふかだ) 上地(かみじ) 札場(ふだば) 大松(おおまつ) 寺ノ下(てらのした) 寺ノ前(てらのまえ) 小付(こつけ) 段ノ柴(だんのしば) 段ノサガ(だんのさが)カマイ子(かまいね) 竹ノ下(たけのした) 段ノ上(だんのうえ) ダン 川原(かわはら) 立道(たてみち) 家ノ下(いえのした) 堂谷口(どうたにぐち) 西ノ上(にしのうえ) 中頃(なかごろ) 堂谷(どうたに) 中地(なかじ) 寺ノ脇(てらのわき) 浄念寺(じようねんじ) 山本(やまもと) 寺ノ上(てらのうえ) 堂ノ脇(どうのわき) 水上(みずかみ)  家ノ脇(いえのわき) 上ノハシ(うえのはし) イツモリ口(いつもりぐち) 宮ノ尾(みやのお) 地蔵ノ下(じぞうのした) 藪ノ下(やぶのした) 頭無イ谷(ずないだに) 大畑ケ上(おおばたがうえ) ウリウ子(うりうね) 大畑ケ(おおばたけ) 大道ノ下(おおみちのした) コノジリ ヲノジリ 川バタ(かわばた) 中坪(なかつぼ)岶田(さこた) 深山口(みやまぐち) 中川原(なかがわら) 才ノ本(さいのもと) 峠(とうげ) ゆげ田(ゆげだ) イゴ谷(いごだに) 堀下(ほりした) 大平(おおひら) 下谷(しもたに) クズレ 小谷(こだに) 新開地(しんかいち) 岡(おか) 彦市(ひこいち) 横垣(よこがい) 細谷(ほそだに) 越シ前(こしまえ) 嵐口(あらしぐち) 長岶(ながざこ) 大石岶(おおいしざこ) 明ケ谷(あけだに) 十七岶(となさこ) 小栗尾(こぐりお) 小栗尾口(こぐりおぐち) 小倉山(おぐらやま) ゴウロ 橋詰(はしずめ) 深田(ふかだ) ナグサ下(なぐさしく) 力蔵(りきぞお) 力蔵口(りきぞおぐち) 神田(かんだ) 宮ノ向(みやのむかい) ナガレ 小谷(こだに) 岩谷(いわくに) 仮又(かりまた) 京田(きようだ) カンナ シデサガ シデ 羽外谷(はがいだに) シデ奥(しでおく) シデ口(しでぐち) ヅラ 正信川(しようしんがわ) 横畑け(よこばたけ) 小池田(こいけだ) 赤田(あかだ) 岶谷(さこだに) 寺屋敷(てらやしき) 上地(うえじ) 西方田(さいほうでん) エンノツメ クノ木(くのぎ) ドンドバ 助田(すけだ) ドエ トドガナル ヒナ田(ひにた) ソウゾウ イモ山(いもやま) 大柴(おおしば) イノ口(いのくち) 畑ケ谷(はたがだに) カナバ 中ノ寺(なかのでら) 岸ノ下(きしのした) 荒神(こうじん) 大方(おおほう) 家ノ下(いえのした) ゲスクハズ 竹ノ下(たけのした) 八斗田(はっとうだ) 坊主田(ぼおずだ) 丈セン(じょうせん) 川原(かわら) 岡田(おかだ) 上岡田(かみおかだ) 中坪(なかつぼ) 花ノ木(はなのき) アタゴ田(あたごだ) ハリノ木(はりのき) 松ケ花(まつがはな) 花ノ木(はなのき) 小塩田(おしおだ) 新田(しんでん) 藤ノ木(ふじのき) 橋本(はしもと) 老ケ端(おいがはな) 金谷口(かなだにぐち) 梅木谷(うめのきだに) 六郎谷(ろくろうだに) ヒシロ 堂ノ本(どうのもと) ヒナタ アラボリ 峠(とうげ) 惣善(そおぜん) 山神(やまのかみ) フチガ上(ふちがうえ) クルビ岶(くるびざこ) 足原(あしはら) 山谷(やまだに) 山越(やまごえ) 石町(いしまち) コブカタ 男取(おんどり) 細通(ほそどおり) 二又(ふたまた) 梅ケ坪(うめがつぼ) 千本川原(せんぼんがわら) 分ゴ田(ぶんごだ) 丸山(まるやま) 男取下(おんどりした) ウサギハナ 亀ケ谷(かめがたに) 和田(わだ) 宮ノ腰(みやのこし) 舞川原(まいがわら) 前田(まえだ)三十田(さんじゅうだ) 猪ノ奥(いのおく) ウト山(うとやま) 喜平屋敷(きへいやしき) 大門(だいもん) 坂根(さかね) 作畑(さくばたけ) 清水(しみず) 細谷口(ほそだにぐち) イヂリ 立道(たてみち) ノウジ 青梨(あおなし) 八幡田(はちまんでん) 岩名口(いわなぐち) 休場(やすんば) ウ柳谷口(うりうだにぐち) 平林(ひらばやし) 月正(がっしょう) 竹口(たけぐち) 馬場(ばば) サコ田(さこだ) 桑市(くわいち) 小橋本(こはしもと) 岩井谷(いわいだに) 竹ケハナ(たけがはな) 島(しま) ヤワタ 天王(てんおお) 家ノ上(いえのうえ) 風呂ケ谷(ふろげたに) 相谷(あいたに) マジ 岡安(おかやす) 又二(またに) 日和口(ひよりぐち) 才谷口(さいだにぐ) モロク谷(もろくだに) 八幡(やはた) 下リ松(さかりまつ) 大クロ(おおくろ) 又谷(まただに) 平垣(ひらがい) 大ダキ(おおだき) 小ダキ(こだき) 休場(やすんば) 宮ノ尾(みやのお) 城山(しろやま) ソラノ奥(そらのおく) ラント 大松(おおまつ) ミザコ 段ノ奥(だんのおく) 堂谷(どおだに) 村木谷(むらきだに) 五森(いつもり) 仏谷(ほとけだに) 頭無谷(ずないだに) をヲノジリ 深山口(みやまぐち) 大平(おおひら) 栗尾ノ奥(くりおのおく) 細谷(ほそだに) 力蔵(りきぞお) 岩谷(いわだに) 仮又(かりまた) ヒシロ林(ひしろばやし) ウト シデ 羽ガイ谷(はがいだに) シデ奥(しでおく) シデ口(しでぐち) トドガナル ヒロミチ下(ひろみちしも) コエダワ 妹口(しもぐち) アナゴザコ 熊ケ谷(くまがたに) 大岶(おおさこ) イモ山(いもやま) 荒神(こおじん) 花木(はなき) 大滝(おおたき) ヒナタ 藪け谷(やぶがだに) 荒堀(あらぼり) 越前(こしまえ) 梅ノ木谷(うめのきだに) 六郎谷(ろくろうだに) ヒシロ カラキ谷(からきだに) 惣善(そおぜん) タキ谷(たきだに) 山谷(やまだに) 丸山(まるやま) 和田(わだ) 竹ノ内(たけのうち) 岡迫(おがさこ) ノウジ 青梨(あおなし) 大栗(おおぐり) 柳谷(やなきだに) 峠(とうげ) 岩名(いわな) 両ツイ(りょおつい) ウ柳谷(うりうだに) 竹谷(たけだに) グミカ岶(ぐみかさこ) 桑市(くわいち) 岩井谷(いわいだに) シマ 向山(むかいやま)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『夜久野町史』各巻
その他たくさん



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