大身(おおみ)
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京都府福知山市三和町大身 京都府天田郡三和町大身 |
大身の概要《大身の概要》 最も船井郡寄りで、西流する土師川左岸を国道9号が走り、川沿い段丘上に集落が立地する。同川右岸を日向、左岸を日後という。 大身村は、江戸期~明治22年の村。寛永10年より綾部藩領、川合組のうち。 万延元年11月13日から4日間の福知山藩市川騒動に端を発して大身騒動・天田一揆と称する一揆が発生。一揆鎮静後、船井郡内の頭株6人は当村南部の細野峠でさらし首にされたという。 明治4年綾部県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年菟原村の大字となる。 大身は、明治22年~現在の大字。はじめ菟原村、昭和30年からは三和村、同31年からは三和町の大字。平成18年より福知山市の大字。 《大身の人口・世帯数》 280・116 《主な社寺など》 広谷神社 国道9号線沿い、府道26号との分岐点あたりに鎮座する。社殿の裏側は土師川(大身川)である。写真のように鳥居を入ると本殿は少し低い位置に鎮座する神社が周辺にも見られる。 中央に「正一位廣谷明神」。向かって左には小祠が2社あるがどちらも神額なく不明だが、一番左は姿から稲荷社か、本殿右の小祠は「恵比須神社」のようである。梅田七社と同様にエビスと自らの祖とする紀氏を祀った社であろうか。エビスが本来の神か。 10月9日の秋祭に先立って、8日の宵宮に行われるヤンゴ踊は古い「シヤラ踊」を継承するもので、笛一人、太鼓一人、ビンザサラ三人で構成される。丹波に中世流布したと思われる田楽躍の流れにたったものと言われる。
ヤンゴ踊り
曹洞宗北蔵山長福寺
「丹波志」によると、「横川大権限」が祀られていたという。
大身騒動 万延元年(1860)11月13日から4日間、船井郡の旧梅田村付近(大久保や鎌谷付近)で百姓一揆、天田郡では天田一揆、船井郡側からは大身騒動と呼ばれている。一揆は同年8月福知山藩で起こった市川騒動に触発され、大久保を中心に蜂起し園部藩に迫ったもので、参加出動しない民家は打毀され、道側の薮竹はタケヤリにするため切られて裸になったという。園部に向かう一揆の集団は観音峠で役人に阻止され、船井郡の頭株六人は細野峠に曝首にされたという。
《交通》 《産業》 《姓氏》 大身の主な歴史記録『丹波志』 大身村 部領 高貳百三拾八石壹斗九舛 民家百三十七戸 民家ノ南ヨリ東ノ方ニ牛馬道谷筋五町斗行谷川ヲ渡リ十間斗右ノ方ニ少ノ石塚在 船井郡猪鼻村境 又在中ヨリ十五町斗行ク向ノ続左ノ谷ハ河合谷加用村ヨリ道筋同シ牛馬道 又大身村瀧ノソラト云所ヨリ穴口坂嶺加用村ニ行間道也 近シ牛馬不通 又大身ノ南エ三谷アリ中ノ谷ヲ豆カ千谷ト云 此所ニ出戸貳戸 中ニ小坂アリヲ壹里斗内船井境アリ 向ハ船井上大久保村アリ牛馬道 又大身ノ内南西ノ谷川ヲ左ニ見テ十五町斗ノ間ニ両郡境アリ 向ノ船井ノ下大久保村也牛馬道 『綾部市史・資料編』 巡察記 大身村 土性黄埴ニ塩壌ヲ錯テ田方十三町五段二十四歩畑方二十町一段二十四歩 高二百七十二石二斗三升九合 家数百四十八軒人別七百四十八人牛百六疋 当村ハ田畑共ニ冬ハ大麦小麦豌豆蚕豆等ヲ作リ夏ハ田ニ稲ヲ植ヘ畑ニハ蒟蒻木綿其ノ他大豆小豆麻烟草茶及ヒ種々ノ蔬菜ヲ作ル 楮椶漆等モ少々売ル 繭ハ年々一二百貫匁ヲ出ス 蒟蒻玉ハ毎年千二三百駄ヲ売出ス 昨亥ノ年ハ蒟蒻ノ直段高ク一駄ニテ銀百匁程ツゝニ為レリト云フ且ッ又タ此ノ村ニハ石灰ヲ焼キ出スモノ三株アリテ毎年三百金余ノ灰ヲ売り出スヲ定額トス 然レハ此ノ村ハ卸領内ニ於テ金銀ノ溜ルコト第一ナルへシ 『福知山・綾部の歴史』 大身のヤンゴ踊り (三和町・府登録・三和町郷土資料館提供) 広谷神社の秋祭りで、宵宮の祭事に踊る。曲の一区切りごとに唱えられる「ヤンゴー」から出た名前で、写其のようにビンササ急を用い、中世の丹波田楽を伝えている。 『京都の田楽調査報告』(府教委・昭53) 大身のヤンゴ踊 名 称 ヤンゴ踊 所在地 天川部三和町大身 時 期 一○月八日広谷神社祭(宵宮) 一 三和町大身は、園部と福知山のほぼ中間、国道九号線にそった山あいの集落である。戸数はいま一一○戸余りある。水田もそこそこあり、農林業を主とする山村であったが、福知山などに働きに出る人がしだいに多くなっている。 この地の氏神広谷神社の秋祭はなかなかにぎやかで、一○月九日の本祭には境内て相撲が奉納され、神輿のほかに、鉦二・太鼓二の子供のはやし方が乗り「伊勢音頭」て青年たちが曳く曳山も出された。近頃では女の子のため樽御輿も登場する。また、ここには田楽躍もあり、これは八月の宵宮にひっそり行われる。知る人は少ないが、大身ではそれをヤンゴ踊とよび、大切に伝えてきた。 ヤンゴ踊は、笛一人、太鼓一人、ビンザサラ三人で構成される。これはしかし、前後二回に分けて演じるためチームか二組つくられ、都合一○人ということになる。この役につくのは、世帯をゆずった五十五才以上の男の老人で、一○月初めの吉日を選び区長・宮の当・組長が集って決められる。役についてのきまった家筋などは全くないが、服喪の人はさけ、また、笛はその役がほぼ定まっている。笛は吹くのがむずかしいためである。 笛は六孔の横笛、太鼓は革面径三七センチ筒長七センチ強の特徴ある締太鼓である。これには伝説があり、もと太鼓はヒキガエルの皮を張ったもので、菟原下の梅田神社から河原づたいに盗んできたといわれている。ビンザサラは長さ一六センチ弱の薄い木片(ハゼの木という)を一連にし両端にr形の握りがつげられている。板数は八○、八五、八八枚と一定しない。 田楽衆は紋付・羽織・袴に白足袋を履き、白扇を持つ。冠り物は昔 からなかったが、装束は本来は麻の裃であるという。 大身では地区により一○組にわかれ、組が一年交替で輪番に宮ノ当となる。宮ノ当は「例祭行事表」にみるとおりなかなかいそがしいが、通常は、当番組の各戸が月交替で当番をつとめ、一○月のみ行事が多いので、 一一月の月当番がスケル(協力する)ことになっている。田楽衆に楽器を手渡すのは一○月の当番の仕事である。当渡しは一二月一一日に行なわれる。 二 ヤンゴ踊は八日の午後一時すぎから始まる。この日午前中、当番組の人々がのぼりを立て、社前に神輿を飾るなど準備を行う。いっぼう家々では餅一二個(閏年は一三個)を重箱につめて宮に来る。宮ノ当がこれをうけとり、神前に供えて供えた家の名を申しあげ、別の餅二個を下げ渡す。供えられた餅は餅マキに使われ、また、ヤンゴ踊の直会に用いる。 昼すぎになると、田楽衆がチョウノヤに集まり、装束をととのえる。チョウノヤは本殿の左脇にある建物で二間あり、その上手の部屋が踊場になる。 こうして準備がととのうと、第一組の田楽衆五人が笛役を中心に坐り、やがて起って本殿に向う。区長が先頭に立ち、笛・太鼓・ビンザサラの順に一列となり、第二組の者も同様に後につづく。本殿に至ると、第一組の六人は階に上り、上段から左右交互に坐って社殿に納められた楽器を宮ノ当から受けとり、区長の捧げる幣(榊の大枝)を先だて、先の順に列をつくり踊場に戻る。このときビンザサラ役はビンザサラを左肩にかける例である。 笛役を中心に十文字の形に田楽衆が坐ると、区長が幣で祓いをする。終ると全員立ち上り、踊がはじまる。太鼓役は締太鼓を紐で腰からつり両股の間にはさむようにする。両桴である。 笛がまず「ひひよひひよとろ」と二くさり吹くと、太鼓が先頭にな左まわりに巡ってゆく。左足をふみ出し、右足をはこんで揃える足どりは同じだが、太鼓はやや腰をかがめ足を揃えたときに両拝ではさむように一つ打つ。ビンザサラもややかがんだ姿勢でビンザサラを右脇下にかまえ、足をふみ出すのと同時に目八分にふりあげ足を揃えて打つ。笛は立ったまま動かない。この動作をくり返して一周終ると中央に向き、太鼓・びンザサラを打ちつつ笛の方へ三足寄って戻り、先と同じく一周する。これで一番だが、二周めの半ばで、列座の人々から「ヤンゴー」の声がかかり、このときかたわらに控えた「数ヨミ」が手もとの榊の葉を一枚ちぎり前に並べる。すなわち数取りで、六枚並ぶと第一組のヤンゴ踊が終る。一番二周、六番で一二周するわけで、それで半年分だという。 第一組の六番が終了すると、一同楽器を持ち神殿に向いそれを納める。ほどなく次の組が階に上り楽器をうけとり、踊場に戻る。行列その他、すべて最初と同様であり、ヤンゴ踊も六番一二周と変らない。ただ、閏年の場合は一番加えて七番とする。これは月の数だけ踊るとするためて、一、二組合わせて一二番(閏年は一三番)奉納されるのである。 このようにして二組の踊がすむと、一、二組が一緒になり、二組の太鼓役を先頭に一○人一列となって、左手で前の者の羽織のすそをひき、右手にもった開き一扇を尻のところでひらひらさせながら「ヒヒ・ドン ヒヒ・ドン」の笛・太鼓にあわせつつ三日月形に回る(左まわり)。これを「三日月じめ」とも「半月踊」ともしい、満月は欠けるからと説明している。他に例をみない型である。この「三日月じめ」でヤンゴ踊りはすべて終る。一同は再び行列をくみ、楽器を本殿に納め直会となる。 直会もチョウサンで行うが、列座の衆もともに加わる。にぎやかな酒宴で、今ではスルメやゴマメなども出るが、肴はもと村人のあげる御供の餅ひといろというのがならわしであった。 三 この田楽を「ヤンゴ」と呼ぶのは、「ヤンゴー」のかけ声に出るものであろう。ヤンゴの意味はわからない。この踊はまた「チンバ踊」ともいわれる。これは左足をふみ出し右足をはこんで揃える舞容の印象によるものにちがいない。しかし、これらの名はそう古い呼称ではなかった。後述するように『丹波志』には「是ヲシャラ踊リト云」とみえ、一八世紀末ごろには「シャラ踊リ」の名でとおっていたことが知られる。それを「梅田ノ古意ナリ」とする意は定かではないが、シャラとはビンザサラの音にちなむものと解されよう。 ここでも田楽の由来は明らかではないけれども、『丹波志』(巻之一神社部広谷大明神条)に次の記述がみえる。すなわち、式フ記。古ヨリ社ノ世話人十人ツツ定リ、上木一尺ニ横一寸斗ノ板三尺斗ニ糸ニテアミ、是ヲヒンササラト云、持之ニ踊レリ。笛太鼓ヲ以テ囃子スナリ。是ヲシャラ踊リト云。梅田ノ古意ナリ。 とあり、この書が成った寛政六年(一七九四)にはすでに現在と同様に田楽が行われていた。しかもこの「式」は「梅田七社ノ古神事此所ニ残侍(伝カ)フ」ものともいわれており、田楽がさらに古い由緒を誇るものであったことを示している。ここにいう梅田七社とは、菟原下の梅田神社をはじめ、友測の春日、細見辻の梅田、高杉の春日、多紀郡草山郷(桑原・遠方・村川・坂村)の産土神、同郡藤坂の梅田、同郡小原の梅田の七社である。そしてそれらの神輿が菟原下に参集して行う祭祀がすなわち「古神事」てあるといい、そのゆわれについて「往古下村初テ社ヲ造営ス、依之外六社神輿九月九日下村梅田神社へ参り集リ玉フ」のであり、「往古梅田ノ祭礼旧式」は失われたが、「大身村広谷大明神ノ祭式是ナリ」と云い伝えられていたことを記している(同、梅田社条)。このことは田楽の太鼓を河原づたいに盗んだ云々の伝承とあい応じるものて、これらに関する確証は得がたいけれども、菟原下の梅田神社を惣鎮守とする祭祀がかつてここに行われ、それがこうした伝承の背景になったことは信じられてよいだろう。 多くの村々が集い寄って一社を祭祀するいわば惣鎮守祭の形式は、丹波、丹後にひろくみるところである。同じく田楽を行う綾部市高倉の高倉神社祭、福知山市上野条の御勝八幡大祭、舞鶴市河辺の八幡神社祭などもやはりこの惣鎮守祭であり、いずれも中世における祭祀の伝統をうけつぐものと考えられる。大身の田楽もおそらく、梅田神社をめぐるこうした惣鎮守祭における祭礼芸能としてはじめられたものであり、それが梅田神社との因縁譚を生むことにもなったのだと考えたい。 大身の田楽は、輪舞しては中央によるかたちに特色がある。こうした輪舞の形式は丹波に伝えられる田楽の一つの特徴であり、また、円の中央に寄ってはもどる型も大江町北原の田楽に認められる。楽器、舞容など中央に行われた田楽とのつながりは明らかだが、大きなへだたりをみせるのも事実である。しかしそれも、すべてが大身における独特の変化であったわけてはない。それはやはり、丹波に流布した田楽躍の流れにたったものであり、その流布が中世にあることは確かでろう。ただ、最後に行われる「三日月じめ」は他に類をみない型である。これは河辺中の田楽にみる「膝づり」などに共通するところがあるようで、入舞の変化とも考えられるが、この点は今後にのこされた問題である。 田楽はチョウサンで行われる。チョウサンはこのあたりに多い舞台形式の建物を改めたもので、遠見の脇の柱に「嘉永三□ 仕候」とか、「□代記」「竹本藤太夫」「豊竹八木太夫」などの落書がのこる。戦後二四、五年ごろまで地狂言があり、買芝居も行われていたことが知られる。 四 ヤンゴ踊に関する史料は現地では一点しかみあたらない 二つ折にした杉原紙二枚に笛譜を書きとめたもので、「明治拾参年八月五日後勲、二黒大安ひのへ辰、おさむ大みやう」の後記がある。現在の笛役、西山仙蔵氏の祖父の手に成る。以下、それを(一)とし、(二)に本殿覆屋に掲げる「例祭行事表」を参考までにあげておく。 (一)、笛譜 始まり △ひひよひ ひよとろ 是を二度吹事なり 踊子わ廻る事なり △兵‐兵- ひよとろと ひよとろと 是を二度吹なり △兵いとろと △兵いとろ △ひよをとろ △兵いよひ △ひよとろ 是で半踊 やんご △兵-兵- 兵-兵- 四へん吹事なり △兵いよひ △ひよとろ △兵いとろと △兵いよとろひ △ひよとろと △ひよとろと シト踊 是を十二踊なり 一番 始め十人づつ連て来る 二番 六をどりした時わ つらんてまいるなり 其の時はごてんで をみきをいたごく事なり 三番 十人つらんで来ることなり 終の時なり ひひ どん ひひ どん ひひ どん ひひよ ひひよひ 踊子は三ヶ月様方に 廻る事なり 広谷神社 祭典踊終り (二)例祭行事表 例祭行事表 月 日 例祭名称 御神撰 十二月一日 当番引継 洗米 御神酒 海魚川魚 海物 野菜物果物 塩水 御神酒(一升) 十二月八日 稲荷祭 御神酒 赤飯 御神(五合) 一月一日 正月 鏡餅 御神酒 洗米 海魚 海物 川魚 野 菜物 果物 塩水 御神酒(一升)外一升 二月 初午 御神酒(五合) 一月十日 恵比須祭 二月 節分 鏡餅 御神酒 洗米 海魚 海物 川魚 野 菜物 果物 塩水 御神酒(一升)外一升 七月 大休 洗米 御神酒 海魚 海物 川魚 野菜物 果物 塩水 御神酒(一升) 九月一日 祈祷 洗米 御神酒 海魚 海物 川魚 野菜物 果物 塩水 御神酒(一升) 九月十五日 八幡神社 御神酒 御神酒(五合) 十月九日 広谷神社 洗米 御神酒 稲穂 海魚 海物 川魚 野 大祭 菜物 果物 塩水 御神酒(二升)外三升 十月廿三日 輿川神社 御神酒 大祭 御神酒(五合) 註 ① 実親の場合は一年、義父母の場合は半年をケガレとし、ヤンゴ踊にとどまらず祭の役には一切つげない。なお、太鼓・ビンザサラの役にあたる者は重任の場合もある。また、笛役は老人に限らない。 ② 長さ四二センチの七孔の古笛があり、以前はこれを使ったという。また、ビンザサラももと五つあったという。 ③ トウ渡しは広谷神社境内のチョウノヤで行う。トウに当った組は一二月から翌年一一月までの月当番をきめ、この日うち揃って参集し、一二月の月当番が前年度の一一月の月当番とともに神酒一、二杯をいただき、 書類の入った小さな木箱の受け渡しをするならわしである。 ④ 昭和四四年の調査では、笛と太鼓役は後方に坐し、ビンザサラ役のみがビンザサラを左肩にかけて三日月形に回った。伝承にゆらぎがみられるが、後にあげる明治の手控には笛・太鼓が三日月図の外に描かれている。もっともそこには、「十人廻ル」ともある。しかしもとビンザサラが五つあったという伝えを勘案すれば「十人」の説明はつき、笛・太鼓のはやしも入ることからして、この「三日月じめ」は、笛・太鼓役が列外に居り、そのはやしでビンザサラ役のみ回るのが古いかたちと考えられよう。 ⑤ 『丹波志』に梅田神社の草創は文治五年(一一八九)とみえる。 (植木行宣). 伝説誰かすでに書いてはいないかと手元の資料を探すがないよう、ワタシの「ミミ伝説」である。 大身(オオミ)は全国に見られる、上川口の方にも大見という所があった、どちらも漢字を元に戻せば、「大海(オオミ)」とか「大耳(オオミ)」とか書くのではなかろうか。ミミ族と呼ばれる海人族・水人族のことと思われる。舞鶴辺りでも凡海郷とか若狭の式内社青海神社とか、葛城の忍海とか、いろいろと書いて、いろいろと読んで、地名の本来の意味が消えている場合が多いが、簡単に言えば、当地と同じで、伝説のミミ族の地のことと思われる(「大」「凡」「青」等もオオと読んで美称)。日本人のベース民族であろう、日本海側にもミミは多いので、当地の人たちがどこの海辺から来たのかは、地名だけからは決めようがない。細見氏のミとか、梅田神社のメはミかも知れない。 大身の小字一覧大身(おおみ) 宮ノ下(みやのした) 嶋(しま) 宮ノ尾(みやのお) 仲ノ嶋(なかのしま) 松ケ瀬(まつがせ) 上ノ嶋(うえのしま) 岩淵(いわぶち) 岼山(ゆりやま) 彦兵衛(ひこべえ) 保ケ谷(ほがだに) 広廻(ひろまわり) 由船(ゆぶね) 仲蔵(なかぞう) 佐曽良(さそら) 忠治開地(ちゅうじかいち) ケヤキ谷(けやきだに) 滝ノ下(たきのした) 縄手(なわて) 横ノ下(よこのした) 上ノ段(うえのだん) 東ノ滝(ひがしのたき) 中ノ段(なかのだん) 下ノ段(したのだん) 柏木(かしわぎ) 堂ノ下(どうのした) 西ノ滝(にしのたき) 大迫(おおさこ) 堂ノ上(どうのうえ) 文治郎(ぶんじろう) 西ノ下(にしのした) 西ノ野(にしのの) 西ノ丸(にしのまる) 五反田(ごたんだ) 滝ノ嶋(たきのしま) 平林(ひらばやし) 廻リ町(まわりまち) 宮ノ谷(みやのたに) 宮ノ下(みやのした) 崩シ(くずし) 鹿ノ木迫(かのきさこ) 段ノ尾(だんのお) クゝガ野(くくがの) 不動ノ谷(ふどうのたに) 休ミ石(やすみいし) 安久セ(あくせ) 丸岡(まるおか) イスカ 素保谷(そぼだに) 小畑(おばた) ウツキ迫(うつきさこ) クルビ迫(くるびさこ) 上ミ佐曽良(かみさそら) 西佐曽良(にしさそら) 谷之奥(たにのおく) 万土山(まんどやま) 稲迫(いねさこ) サルヤ 流尾(ながれお) 鹿谷(かのたに) 滝ノ上(たきのうえ) 畑(はた) ドウノヲク 火打岩(ひうちいわ) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『天田郡志資料』各巻 『三和町史』各巻 その他たくさん |
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