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丹波の

大内(おおうち)
京都府福知山市大内


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京都府福知山市大内

京都府天田郡中六人部村大内

大内の概要




《大内の概要》

中六人部小学校があるあたり。大内川の流域一帯。谷の長さは約3㎞という広い所 、谷口付近を大内、谷奥を大内山田という。大内は下地・中地・後正寺の3自治会に分かれ、大内山田は単独の自治会を構成している。
「和名抄」の六部郷の中心地であったと考えられ、中世は六人部庄の地。
大内村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。山裏組14か村の1つ。明治4年綾部県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年中六人部村の大字となる。
大内は、明治22年~現在の大字名。はじめ中六人部村、昭和30年からは福知山市の大字。


《大内の人口・世帯数》 492・194


《主な社寺など》

天神神社
天神神社(大内)
大内産土神の天神神社、麻呂子親王の創建と伝えられる六人部七天神のうちの三の社といわれる。
天神  三ノ社ト云  六部郷 大内村
祭神 豊斟淳尊  祭礼三月廿五日六月十九日
本社 西向 拝殿 籠家 華表
境内凡百間ニ五十間 山林 俗持社役人今禁金五郎
多保市天神ノ条下ニ委
(『丹波志』)

村社 天神神社 仝字大内鎮座
祭神 豊斟野尊
(『天田郡志資料』)

中世は大内と東方の坂室の両谷にまたがって真言宗の寺院があり、8つの塔頭があったという。小字後正寺は、その1塔頭の名にちなむものと言われる。

曹洞宗遊源山洞楽寺
洞楽寺(大内)

遊源山洞楽寺  大内村
曹洞宗氷上郡石像寺末寺
古此所ニ在及大破七町斗北新堂ト云所ニ暫洞楽寺在其後宝暦年中ニ古跡エ引
正観音堂二間四面郡巡礼五番札所弥陀堂有
(『丹波志』)

遊源山 洞楽寺 (曹洞宗) 中六人部村字大内
本尊 聖観世音菩薩  開山 月江舟梅大和尚
 延宝二年氷上郡竹田村石像寺二世月江舟梅大和尚を請じて開山としたり。
開基 天雄正道大和尚(中興)
創建 慶長年中小字遊源寺に地を卜して創建す。依て遊源寺と号す。此地幽谷にして暗中に明あり古徳膳林の勝地なれば洞楽寺と称す。承応二年住持円明和尚、幽僻の不便を厭ひて小字新戸に移す。宝暦十三年八月十八日失火堂宇蓋く焼失 時の住持正道和尚父里中の雑踏を嫌ひ旧地を慕ひて復た今の地に移れりと云ふ。
◎境内に阿禰陀堂あり、阿禰陀如来を本尊とし脇立は三十三体の観世音なり。
 郡西国第五番及軍四国七十八番の霊場たり
  御詠歌 あゆみをばはこべはやがて洞楽寺無畏の都も近くなるらん。
◎梵鐘銘に曰く、…
 檀家 百○五戸
以上現住職福山覚峯師の報告による。師は明治十五年四月二日天田郡西中筋村字戸田福山善石エ門氏の長男に生る。幼少にして洞楽寺十世戒定和尚に師事し、後尾張の名刹円通寺其他に於て仏学研究明治四十五年春川合村新福寺に入山後大正六年秋当寺に転したりと云。
(『天田郡志資料』)


大内城・堀殿屋敷跡
中地には中世六人部庄の六大将の1人といわれた堀氏の大内城址(平井城址・平城址)がある。城跡とされるが作りがゆったりしていて館跡かも知れないという。
大内城(館)跡


《交通》


《産業》


《姓氏》


大内の主な歴史記録


『丹波志』
大内村 山田 綾部領
高五百弐給七石弐斗七升 民家有三拾戸 此所ニ堀上総進貞次居住ス 承和年中掻上城ヲ築 今旧址残レリ 旧栖ノ出之 図有 子孫有 姓氏部出之 大内村古ノ本村也 宮村田野村大内ヨリ分村ナリ 又大内村南ニ大内山田ト云 谷凡三拾町、今半途ニ出戸三十戸 百三十戸ノ内ナリ 本村産神此奥在 ○谷奥ニ登リ尾ト云嶺有 氷上郡加茂郷牧村ノ堺 牛馬不通 左ヘ下ルハ同郷戸平村牛馬間道ナリ凡一里半 ○山田ノ東ニシリカ尾嶺 上野村山田ヘ越ス凡十五町 又民家ノ中ヨリ南エ越ス牛嶺寺尾村迄山道ナリトモ牛馬通ス ○山田ノ奥ヨリ尾嶺ヘ登リ四町斗右ヘ尾筋ヲ行 南エ下ルハ巡礼尾ト云 千束谷草山村迄一里余 馬ハ難通 天神ノ少奥東ノ方ニ越ス安尾嶺寺尾村迄三十町牛馬不通 大内山田天神ノ奥ニ 凡八十年余以前宮村七郎兵衛ト云者 新ニ開地田トス 高弐拾七石 弐ツ五分ノ定免ナリ 于今免状別紙ニテ給フ 民家六戸有 百三十戸ノ内ナリ

『福知山市史』
大内城(平城)(字大内)
蛇行しながら北西方に流れる土師川と、東北方に注ぐ竹田川との合流点一帯を中六人部と呼ぶが、この中六人部の竹田川の南側に、二つの谷間が口を開いている。前記田野谷のもう一つ東側の谷間は開口部およそ五○○メートル、奥行およそ三キロメートル程、開口部に大内の集落を持つこの山峡を、大内谷と呼んでおこう。この谷の東にある大内集落の東側の丘陵に、普通平城(ひらいじょう)と呼ばれる大内城の遺構がある。京都府教育委員会発行の『京都府遺跡地図』の「大内城」の記載位置は「後正寺跡」と思われる丘陵に記入されているが、それは明らかに誤記である。『京都府遺跡地図』に記入されている「大内城址」の丘陵(そこには三段程の削平地があり、字名にある「後正寺」の遺構と推定されていたが、最近の発掘調査の結果、大内城に付随した砦跡である可能性が濃厚になった)から谷をへだてた北側の、東から西にのびる丘陵上にあるのが、中世の大内城址である。城域は、この地方の一土豪の拠ったものとしては広大である。
西面が破壊されているのでくわしくは分からないが、東西およそ二三○メートル、南北およそ一二○メートルの長方形が城域で、北面は一○メートル余りの崖となって、奥谷川と畑、南面もまた急崖となって、およそ一○メートル下を谷川が流れている(現在はこの崖下に道が通じている)。そして狭まった尾根筋の東面は二条の空堀と三条の土塁で固めている。空堀はともに深さ約二メートル、上辺部の幅約三メートル程である。破壊されている西面はゆるやかな傾斜をもつ畑地で、およそ五○メートルで民家が点在している。主郭部と思われる最東部の曲輪跡で標高七七メートル、西端の曲輪跡と民家との比高は一○メートル余りである。主郭部と推定できる東の曲輪跡から西に向かって、東西およそ二○メートル、南北およそ一○○メートルの曲輪跡、東西およそ五○メートル、南北およそ一○○メートルの曲輪跡(この曲輪跡は南部がカギ型となっている)、更に東西およそ四○メートル、南北およそ二○メートルの曲輪跡(この曲輪は南の部分と北の部分に分かれていたらしい)と連なっており、それぞれ虎口・外縁部分に土塁の盛土の遺構がある。
南方がカギ型となっている三郭目の虎口・土塁は栗林の開墾で不明であるし、最西部分とこの三郭目との区画も判然としないが、この地方の他の城址と比べると、何ともゆったりとした縄張りである。館城ともいうべき特色の一つであろうか。東西四○メートル、南北二○メートルの最西端の部分は、破壊された古墳を含む北の曲輪跡(東西約四○メートル、南北もまた約四○メートル)と、周囲に土塁と空堀をめぐらした居館跡らしい一郭とにわかれている。この一郭は、南東の一隅が大内地区
の共同墓地となって南面が破壊されているが、東・北・西の三面を、高さ約二メートル、上辺で約一・五メートル、底部で約三メートル程の土塁がまわり、その外側を幅四メートルから狭いところで一・五メートル程の空堀がめぐっている。東西約四○メートル、南北で約四五メートルの広さで、破壊されている南面も、往時は当然土塁で囲っていたものと思われる。虎口(又は城戸口)は、東と西の中央部にあって、東の虎口は横矢の構えをうかがわせて、ほぼ旧状を残しているようである。大内城址のこの土塁と外周する空堀は、この地方では貴重な中世城郭の遺構であろう。
雑木と竹林の繁るこの大内城址の特徴は、前に触れたようにこの地方の他の城址と比較して、城域が広いことと、もう一つは、前述の土塁と空堀で囲む居館風の一郭と古墳跡を取り入れた曲輪跡を含む最西端の部分と、この東方に連なる広い三つの曲輪跡の部分とが統一を欠いている点である。資料がないので大胆に推定すると、長田野を含めた六人部一帯を支配した古代豪族の屋敷跡に堀氏が拠り(応永二十七年〔一四 二○〕に「大内・堀」〔天龍寺文書〕、文安四年〔一四四七〕守護細川勝元の時代の小守護代として、天田郡を支配した「堀孫次郎」〔天龍寺重書案〕、文安六年〔一四四九〕守護細川政元・守護代内藤元頁の時「天田郡奉行堀孫二郎」〔『康富記』 とある堀氏は、この中六人部の大内からおこったのではなかろうか)、さらに中世末に『丹波志』にある土豪級の「堀氏」が、最西端の二つの曲輪部分に拠って、黒井城の荻野(赤井)氏に攻め落とされたのではなかろうか。
この大内城址の最東部の主郭部分が、近畿自動車道舞鶴線の敷地になるため、現在(昭和五十六年九月)財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センターの手で発掘調査中であるが、その結果多くの不明部分の解明に糸口が得られつつある。すなわち、九棟の建物跡が日の目を見、そのうち最古のものは南北五間(約一二メ-トル)、東西四間(約九・六メートル)の主屋と思われるものや、その他倉庫など八棟があり、出土遺物から平安末~鎌倉期と判明した。更に整理箱一○○箱にも及ぶ出士道物のうち、約一割の二○○点程が、当時としては貴重品であった中国製輸入の陶磁器碗・皿・小壷・合子などである。当時この地方で中国製の輸入陶磁器を生活に使用する人物は、すでに速断した「六人部一帯を支配した古代豪族」などであるはずがない。当然都と結びつきの強い人物であろう。そして当時中央の政治を支配していた平氏と、深い結びつきがある人物だったのではなかろうか。平安末期~鎌倉期の荘園六人部荘の領家は、平清盛の異母弟の池大納言と呼ばれた平頼盛(一一三一-一一八六)で、大宰大弐として中国貿易に重要な地位を占めていた。更に地元の『観音寺文書』(『福知 山市史 史料編一」 に「六人部新御庄政所 補任高津村観音寺別当職事 平高盛(中略)建仁二年(一二○二)三月」の記録があり、永仁六年(一二九八)にも「左兵衛尉平盛氏」の田畠寄進状の記録がみられる。頼盛に連なる平氏一族の、在地の六人部荘の関係者であろうか。時代は少し下るが南北朝期に天龍寺領となった当時の六人部荘の寺納米は五百九十三石、銭貨六百二賞であったという。平頼盛との結びつきに、六人部荘の豊穣さを重ねると、両丹地方では随一という大量の輸入陶磁器の出土もうなずける。「古代豪族の屋敷跡」という表土からの速断的仮説から、荘園関係の館跡らしいと推定可能な出土品からの発掘の結果は、記録に乏しいこの地方の中世史の解明に、大いに期待がもてることである。主郭部分のみという限定された発掘調査ではあるが、その成果は大きいものがある。

『丹波志』
古城 古主堀  大内村
古城地平ヲ城ト云
古主堀上総道貞次 堀氏系図ニ委 姓氏ノ部ニ出ス 本在西脇田地ニ古絹屋ノ古跡有 今ニ絹屋ト字ス 其続南ニ古城ノ矢ノ藏古跡今ニ矢ノ倉ト云 是ヨリ二丸裾迄四丁斗 段々ニ卅間斗リ上リ二ノ丸裾ヨリ二丸迄拾二間斗上リ二丸ヨリ本丸エ拾三間斗上リ本丸ヨリ東ノ山裾迄平地二町次第ニ高シ東ノ山 高サ北ノ方ニテ壹丁斗南ノ方ニテ貳丁斗
大日村戌方大川有テ向ノ医王堂山迄貳丁半斗 本丸ヨリ四丁斗 牛ノ方的場ト云
本丸ヨリ四丁半戌ノ方坂下金谷田ト云フハ古城沼ノ跡也 本丸ヨリ遙ニ申ノ方 王谷其向平地 夫ヨリ南三十間斗遙ニ平地有 平野ト云

『福知山・綾部の歴史』
福知山市中六人部地区の大内城は、居館遺跡として全国的に著名であるが、同市川北の上ケ市遺跡でも、ほぼ同時期の居館跡が調査されている。上ケ市遺跡は、由良川右岸の段丘上(標高三〇㍍)に立地し、居館は南北二〇〇㍍・東西一五〇㍍の規模を持つ。自然の谷地形と幅四・二㍍、深さ一・二㍍、総延長二〇〇㍍の堀をめぐらしてこの範囲を囲いこみ、さらに内部を溝によっておよそ五〇㍍四方に区画し、区画内に南北に軸をそろえて整然と建物群が配置されている。この小区画は、配置状況から四単位復元され、各区画では、最大五×五間(一四・五㍍×一二㍍)の建物を中心とした三~四棟の総柱の掘立柱建物がセットとなり、三回程度の建て替えが確認されている。
出土遺物は、瓦器・土師器・中国製磁器・陶器があり、およそ一二世紀後半から一三世紀初頭にかけてのものと推定されている。堀の存在、建物の規模、中国製磁器の出土状況は、大内城を除く周辺遺跡と比較しても豊富であり、在地領主層の居館として位置付けられるものであろう。居館は、堀の埋没状況や出土遺物の状況から見て、一三世紀初頭に一気に廃絶したと推測される。なお、居館に先行して奈良時代後期~平安時代後期にかけての大規模な建物群も見つかっている。遺跡の存在する一帯は、寛治五年(一〇九一)天田郡前貫主丹波兼定が京都松尾神社に寄進した雀部荘にあたり、何らかの関わりが予想される遺跡である。(崎山正人)


伝説




大内の小字一覧


大内(オオウチ)
庵戸 猪ノ谷 医王寺 梅ノ木 奥谷 奥ノ前 大坂谷 河原田 鎌ケ谷 後正寺 後青寺 三反田 新開 新戸下地 四十八 通リ 堂戸 中地 中嶋 中森 長谷西風呂 林町 平野 樋巻 町田 宮ノ上 宮ノ下 宮ノ奥 宮ノコシ 向山 山田 遊舟 岼田 菖蒲谷 丁田 坪之岩 庵戸 岩谷 岩栖居 奥梅 奥谷 大坂谷 大杉谷 鎌ケ谷 カセ倉 供屋 小屋ケ谷 小屋ノ尾 後青寺 後正寺 新戸菖蒲谷 順礼尾 暖谷 昇尾 平城 マヘ倉宮ノ奥 向山 山田 遊舟 岼田


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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