京都府福知山市夜久野町大油子
京都府天田郡夜久野町大油子
京都府天田郡中夜久野村大油子
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大油子の概要
《大油子の概要》
高内の北側の谷間にある集落。牧川に合流する大油子川流域に位置する。
大油子村は、江戸期~明治22年の村名。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年中夜久野村の大字となる。
大油子は、明治22年~現在の大字名。はじめ中夜久野村、昭和31年夜久野町、同33年上夜久野村、同34年からは夜久野町の大字。平成18年から福知山市の大字。
《大油子の人口・世帯数》 175・67
《主な社寺など》
荒堀遺跡・広瀬古墳・太田森古墳
熊野神社
村社 熊野神社 中夜久野村字大油子 鎮座
祭神 伊邪奈美尊
社殿 仝前 延応年中造営の事ありといふ。草創か
境内 六畝廿七歩 末社 三柱 山神 日尾の三社
祭日 十月十七日。氏子 九十戸
(『天田郡志資料』) |
熊野神社(大油子)
祭神…イザナミノミコト
秋祭り…昭和10年代までは宵宮に、子どもたちが神社裏山から集めた枯枝で火を焚き、お堂や公民館で籠る習慣があった。以後は、上記喜世見神社に同じ。
(『夜久野町史』) |
喜代見神社
大油子の谷への入り口、北へ入る小さな谷の奥に鎮座。御神木巡幸の神事があったという。
喜代見神社(大油子)
祭神…オホナムチノカミ(大国主神)ほか
大正4年、太田神社(竹ヶ下)、稲荷神社(水谷)と合併合祀する。
秋祭り…喜世見神社、熊野神社が交替で御神木と太鼓台が区内だけでなく高内入口まで巡行した。
喜世見神社、熊野神社の順に例祭後全員で会食。
正午すぎに子ども御輿(太鼓台)が区内を巡行する。
(『夜久野町史』) |
臨済宗妙心寺派天寧寺末陽徳山東源寺
福知山藩主朽木稙治の帰依厚かったという立派な伽藍のお寺。
陽徳山 東源寺 (臨済宗妙心寺派) 中夜久野村字大油子
本尊 如意輪観世音 開山 了心契和尚
中興 天拙屋和尚 石室愚和尚(特に頌徳碑あり)
創建 慶長元年 再建は慶安三年又享保十九年諸堂改築す。
寺宝 了心号大機筆、菅原道真公肖像(後小松天皇の宸賛と云)
(郷土史料)元愚和尚の木像、及び立像の達磨は、福知山城主朽木植治侯の寄附。城主朽木土佐守霊位奉安、昔は独礼格なりしと云。
事業 婦人観音講、石室会 日曜学校。
洪鐘 大正十三年改鋳 ○郡新四国第廿三番の札所なり。
石室和尚頌徳碑 …
(『天田郡志資料』) |
陽徳山東源寺 大油子
『寺院明細帳』・『丹波志』によると臨済宗妙心寺派。天寧寺(福知山市大呂)の末寺、創建は慶長元年(一五九六)、開山は了心契和尚と伝える。福知山藩主朽木植治が帰依した境山元愚和尚を中興開山とすることから、殖治は享保十三年(一七二八)二月に境山元愚和尚木像ならびに達磨大師立像、金子五両とその他什器を寄進し、手篤く保護したという(『天田郡志』)
東源寺末寺(乾岡庵・薬師庵・地蔵庵・岫雲庵・西林庵・自肯庵)福知山藩主朽木氏が帰依し、近世夜久郷では最大級の寺勢を誇った東源寺には、近世後期から明治にかけて、日置の乾岡庵と薬師庵、小倉の地蔵庵、大油子の岫雲庵、平野の西林庵と自肯庵、以上六つの末寺が存在していた。
『寺院明細帳』によるとこれら六庵は十八世紀後期から十九世紀初頭にかけて、村中の願いによって尼僧を迎えて創建された。日置の薬師庵は往古発頂寺と称した小堂を文化年間に再興したと伝え、西林庵はかつて平野に西林寺という寺院があったと伝わるが、その詳細も西林庵との関連も不明である。開基年代は寛政年間(一七八九~一八〇一)に乾岡庵と地蔵庵、文化年閲(一八〇四~一八)に薬師庵、岫雲庵、自肯庵、天保年間(一八三〇~四四)に西林庵がそれぞれ創建されたと伝えている。檀家はそれぞれ二~三〇人ほどで、『寺院明細帳』が成立した明治十六年の段階では全てが無住になっており、明治四十三年に至って薬師庵を乾岡庵に合併、小倉地蔵庵も明治四十四年東源寺へ合併した。その他の庵の末路は詳しくはわからないながら、現在の東源寺はこれら六庵のあった地域を檀家圏としていることから考えると、おそらく明治以降にすべての庵室が東源寺に吸収され、檀家も東源寺と直接の寺檀関係を結んだものと考えられる。
(『夜久野町史』) |
藤岡兵部の大油子城址
大油子と高内にまたがる標高200メートルばかりの高内側斜面に堀があり、大油子城主藤岡兵部の居城跡といわれる。山麓の大油子集落小字段は居館跡と伝えられ、丘陵東側一帯を城の腰と呼んでいる。
高油山大日寺・大遊山清海寺の古跡
鎌倉初期の創建と伝える清海寺の跡地からは応永3年(1396)の年紀をもつ石幢・印塔が出土した。真言宗で塔頭六坊を有したが、近世には薬師堂が残るばかりであったという(丹波志)。
大日寺も鎌倉時代の寺院であったが近世にはすでに退転し、「丹波志」に古跡として、かつては村の産神大田明神が大日寺の鎮守であったこと、日置村・大油子村・平野村・門垣村に朱印地を領有していたことなどが記される。跡地からは等身大の遺仏が出土。
《交通》
《産業》
・大油子東方の小丘[夜久野町字大油子]産出鉱物:石炭(亜炭)
・大油子[夜久野町字大油子]
産出鉱物:珪藻土
(『夜久野町史』) |
大油子の主な歴史記録
(地名考察)大油子
日本離れのした一風かわった地名であるが大油子に中世以前に存在した真言宗寺院高油山大日寺(大山観音)、大遊山清海寺の二つの山号から大と油をとれば大油となる。大油子の子については、別に考えねばならないであろう。
大油子太田森古墳群彼岸塚古墳一基
昭和三十一年(一九五六)三月、夜久野史友会によって正式に発掘、京都府文化財保護課の学術報告を完了、記録及び発掘出土品は史友会管理のもとに、夜久野中学下校に保管されている。
太田森古墳群太田森古墳一基
所在及形状 彼岸塚古墳の西隣り、現在中川春雄氏の宅地にあり天井石は取りのぞかれ玄室の側壁は、同家、家屋内に入りこんでいる。同家は昭和二十二年(一九四七)十二月同地傾斜地に建設されたものであるから、その当時まで地中に埋没していたものである。
発掘当時、土器、刀剣等副葬品を若干出したというが、今日散逸してしまっている。
尚附近畑地に数ケ所熔岩巨石の露頭がみられ、同古墳群の天井石と推定できる。
(『上夜久野村史』) |
荒堀遺跡
所在地 大油子(荒堀)
遺蹟 直見川と板生川とが合流し、牧川となって南東に大きく曲がった左岸の段丘上に位置している。遭跡のある段丘面は、東西三五〇メートル、南北一五〇メートルで背後の山麓から南へ緩やかな傾斜となっている。
昭和五十五年に実施された圃場整備事業に伴い発掘調査が行われた。
遺物 刊行された報告書によると、縄文時代と断定できる明確な遣構は不明であるが、遺物では縄文時代早期の山形文、前期の爪形文(北白川式)、中期末から後期初頭にかけでの沈線文(船元式か)、それに晩期の土器があり、晩期の土器には文様のある精製土器と無文の粗製土器があってほとんどが後者である。石器類では、石鏃一二点、磨石三点、凹石、石皿等が見られる。出土した打製石斧では短冊型・撥型・基熱が緬くなる型・槍型等に分類され、石斧の完成品、未製品を合わせると五〇点もある。打製石斧の大きさも、一三センチ前後の大型、一一センチの中型、七~九センチの小型のものとに分類される。なかでも打製石斧の石材が、本町内の額田小字割石の頁岩を採取して利用されていたことが判明している。また本遺跡で目隅されることは、縄文前期に該当する石鏃が、島根県隠岐島で産出する黒曜石であり、当時の交易を考える上で貴重な資料を提供したと言えるであろう。
(『夜久野町史』) |
太田森古墳群
所在地 大油子(太田ノ森)
遺跡・遺物 大油子の牧川西岸、向森橋南側の丘陵中腹に位置する。六基の円墳からなり、彼岸塚古墳(二号墳)の発掘調査が昭和三十一年、夜久野史友会によつて行われた。本古墳は、玄武岩を用いた横穴式石室で片袖式である。石室は全長五・三四メートル、羨道の長さ二・二二メートル、幅九五センチ、玄室の長さ三・一二メートル、玄室中央部の幅一・五五メートルである。出土遺物は、上層から土師器の皿、下層から須恵器や鉄鏃・馬具・直刀等の鉄器類、管玉や耳環等が出土しており、石室の再使用が見られる。
広瀬古墳群
所在地 大油子(広瀬)
遺跡 夜久野ケ原東部の台地の裾に位置する。二基の円墳からなる。石材が露出しているため、横穴式石室の可能性があるが、詳細は不明である。
(『夜久野町史』) |
大油子というのは見慣れぬ地名で、似たものは舞鶴の油江(ゆごう)くらいだろうか、また『播磨風土記』賛容郡の彌加都岐原の条に、「因幡の邑由胡(おほゆこ)」という人名が見えるくらいか。意味不明の古代地名だろうか。
『西丹波秘境の旅』には、
製鉄コンビナート・大油子と由碁理
…
ところで、遠所遺跡と軌を一にするような製鉄遺跡が、由良川を遡った西丹波の夜久野にあるのは? さて、その地名を大油子(夜久野町字大油子)という。以前訪れたときには、「オユゴ」という妙な地名に、奇異感に打たれたのであるが、筆者には丹後古代の「由碁理」のことが頭にひらめいたものである。そのあとすぐ、その近くの上夜久野荘に二泊して、再度調査したものである。たしか夜久野郷土資料館にもその展示はなく、夜久野町教育委員会の『京都夜久野文化財』の栞にも「荒堀遺跡」という地名があるのみ。『京都府の地名』(日本歴史地名大系26、平凡社)にも、製鉄の記事は全くない。夜久野町教育委員会に問い合わせてみても、詳細は不明であるとのこと。いまだ正式に京都府の製鉄遺跡には指定されず、市民権をもっていないようである。
その大油子は、JR上夜久野駅のすぐ東方、板生(いとう)川と直見(のうみ)川が合流して走る下流あたりに大油子集落がある。その源流には鉄鈷山(カナトコとは金床・金敷ともいうが、鉄などの金属を鍛える土台のこと)や居母山(鋳母(いも)は正確には鉧(けら)のことで、タタラによる鉄の粗製品のこと。刃物の原料として母なる鉄の意があり、前述のように芋の字を書くこともある。居母山一帯は山麓に赤土を露出した花崗岩地帯で山砂鉄を含んでいると推測される)や金谷、金尾などの地名もある。なお直見川の源流丹後との境界には、才(さい)谷という集落がある。「サイ」は鉄の古語「サヒ」に通ずる。そこはまたおそらく塞の神(道祖神)を祀った集落でもあろう。サイにはサカイ(境)の意で他国から病魔などの侵入を防ぐため六地蔵や道祖神などを祀ったのである。京都南部の六地蔵がそうであり、『遠野物語』(一一三)にジャウヅカとして境の神を祀り、また京都北山の薬師峠にも六地蔵を祀っている。
さて『京都夜久野文化財』をみて、大油子荒堀遺跡があるというところがどうも気にかかって仕方がない。
このあたりには縄文時代早期から鎌倉時代にかけて、各地に土器や石器類、土製品、石鏃類、玉類など多数出土している。また古墳時代後期の竪穴式住居跡も確認(昭和五五年)され、長期にわたって人々の生活の場として利用されてきたところといわれている。
大油子を歩いてみた感じでは、同地区の南方入り口あたりは、長年の河川浸蝕による開析と、近年の圃場整僻事業にともない整地され、平板な新しい道路もできて、古代の様子は全くわからない。しかし、ここには製鉄製品の倉庫や木炭貯蔵所などがあったのかもしれないが、洪水などによる異変で洗い流された可能性は十分考えられるのである。
しかしオユゴといえば、筆者には前記荒堀遺跡とかかわってピンとくるものがある。オユゴとは「オユゴリ」(お湯凝り)の転訛したものであろうと。オユゴという地名から考えると、板生川と直見川の上流地帯が、花崗岩の砂鉄地帯であり、再度いうが、前記の鉄鈷山や居母山・金谷・金尾などの山名や集落名は、一体何を物語るのであろうか、と探究心が頭をもたげてくる。
さて「ユゴ」といえば、まず想起されるのは『古事記』にいう丹後の大県主由碁理のことである。由碁理-竹野比売-比古由牟須美王-と系図は続く。『日本書紀』では由碁理-丹波竹野媛-彦湯産陽命-丹波道主王の系譜伝承がある。ここにいう「湯」(由)は、当時における鋳鉄・鋳鋼技術の明確なる実在を立証できないという定説もあるが、「ユ」とは鋳鉄・鋳鋼に使う「湯」と考えられる。技術的にみても、弥生時代の鉄器はすべて鍛鉄であって、鋳鉄品の存在は知られていないという。
一方、鋳銅技術は弥生時代すでに立派に存在している。とすればわが国の鍛冶神として最初に現れた由碁理(湯凝)や由牟須美(湯産霊)は、鋳銅の鍛冶神であったのであろう。…
…
オユゴの製鉄が、鋳鉄であったか鍛鋳であったのかは別として、丹後の遠所のような一大製鉄コンビナートとしてのオオユゴリ地(大湯凝地)、略してオユゴになったことはほとんど間違いないのではなかろうか。
参考になる大油子の小字名
念のために大拍子の小字名を探してみた。採掘製鉄を思わせるそれらしいものが、かなりある。それは荒掘(あらぼり)・カネ田(でん)・深掘(ふかぼり)(2)・ユブネ(湯舟とも書くが、湯は鉄がとけた状態を指す語で、舟は熔鉱炉でタタラ炉のこと)・菅谷(すがたに)(2)・釜ケ谷(カマは古代朝鮮語で熔鉱炉を指す)・湯舟・斎ノ向(サイは鉄の古語サヒに通ずる)やコカジ(小鍛冶?)などである。(カツコ内の数字の例えば2とは二カ所あることを示す)。ちなみにスカ・スゲとは砂鉄のことで、出雲にも簸川源流に古代製鉄地の菅谷があり、丹後半島筒川の源流地にも同名の集落がある。ついでにいうと、大油子にはないようであるが、藤原の「フジ」は産鉄民によくつく名前である。これは砂鉄をとる鉄穴流しに、藤の枝が用いられたことから考えて、産鉄民を象徴するのである。また芋掘藤五郎にちなむ藤井姓は花背別所から峠を越えて上賀茂・柊野、また別所から東に峠を越えた安曇川流域に多い。またプロ野球阪神球団の売り出し投手、湯船なる姓もタタラ炉にゆかりがあり、単に温泉のユブネではあるまい。
以上の小字名などから考えて、板生川と直見川の流した砂鉄が堆積した菅谷のカネ田のアラガネ(砂鉄)を浅くまた深く掘り下げて採掘し、タタラのフイゴを踏んで、三日三晩一代(ひとよ)六六時間から六八時間)の激しい労働のすえ、湯舟のごとく流れ出る熔融鉄を金池(カネ田)で冷やして製鉄して鋳母(いも)鉄を造り、それから鍬や鋤を造り出す(タタラ製鉄は二・五トンの鉄を造るために、一三トンの砂鉄を必要としたという)。
*島根と広島の県境近くに比婆山があるが、比婆とはタタラ炉を指すという「火場」の意であろうか。
*むかしから「砂鉄七里に炭三里」という言葉がある。砂鉄は掘った場所から七里運んでも勘定にあうが、炭は三里以内に運べないと採算がとれない。だから砂鉄はタタラ炭の採れる近くに運ばれるのが原則である。まして川に流して溜まった川砂鉄と炭焼き釜のあった大油子がセットになって至近距離にあれば、その製鉄能力は抜群であるといえよう。さしずめ炭焼き釜で作った木炭の貯炭所は、菅谷と湯舟の中間地点が最良である。
*炭焼き長老伝承も、多量に炭を消費するために購入してくれるタタラ師や鍛冶師の存在がなければ成立しない伝承である。
*タタラといえば、高村光太郎の『智恵子抄』で、光太郎が妻の智恵子に「あれが、阿多多羅山(安達太良山)で、あの光るのが阿武隈川」と教えたアダタラを想い出す。
ところで、この熔鉱炉作業は、洋式鉱炉の導入以来だんだんすたれ、いまでは全くみられなくなったが、その技術の廃絶を惜しんだ日本製鋼協会が、昭和四四年秋、島根県飯石郡吉田村菅谷でタタラ製鉄の復原を行い、その一切を岩波映画が記録に撮った。またその作業記録をさらに山内登貴夫氏が、『和銅風土記』という本にまとめた。いま米子に和銅製鋼所がある。筆者も先年、菅谷・横谷を訪ね、タタラなどを実見して鉧(粗鉄)をもらったのを思い出す。
いいたいことがたくさんあって文脈を忘れがちであるが、さきに触れた三日三晩一代というのは、三昼夜がつまり一代を指すことであり、タタラ師たちが三昼夜連続作業で鉄を吹き出すことをいうのであるが、それは『古事記』に、コノハナノサクヤヒメ(おそらくハナは火花とか初花などのハナで産鉄神を指す)が、天孫ニニギノミコトを一宿(ひとよまぐわひ)(一夜)して妊み、疑われて「戸無き八尋殿」にこもり、火をつけて子を産み、「火の盛に燃ゆるときに生める子の名はホデリノミコト(海幸彦)、次に生める子の名はホスセリノミコト、次に生める子の御名はホオリノミコト(山幸彦)」とあるのや、神武天皇がヒメタタライスケヨリヒメ(古名ホトタタライスズヒメというセックスを連想する名前)と一宿(一夜)御寝して子を妊り三子を産むのと同工異曲で、深く製鉄のタタラとかかわりがあるのは興味深いことである。
大油子製鉄の重大性
さて、地名は一〇〇〇年たってもその八割ぐらいは残るというが、タタラ製鉄地大油子の製鉄の始源はわからない。しかし、仮にこれを鉄の世紀といわれる五世紀ごろまで遡るとすれば、古代の国家権力を考察するとき、製鉄のありようを抜きにしては考えられない。五世紀ごろといえば、やはり私は丹後半島の遠所を想い出す。夜久野(夜久野の宝山はタタラ山であろうが?)に近いこのあたりも丹波であって、天火明命を祖と仰ぐ大丹波王朝(丹後・但馬も含む)の勢力範囲に入り、その勢威は、あなどり難く、大和政権と拮抗していたと考えられるのではなかろうか。したがって大油子をめぐる由良川の攻防戦は両政権の雌雄を決するエポックであったことも想像されるのである(大和政権がわには物部軍団が動いた)。また五世紀というのは、朝鮮半島の国々においても、紛争に明け暮れ、またわが国もその中にまき込まれようとした重要な時期であった。雄略を中心にした五世紀中ごろは内外共に多難なときであるが、綾部で最近発見された私市円山古墳の築造も五世紀中ごろで物部軍団が中心をなしているようである。この被葬者を物部の武将とすれば、大油子をめぐる攻防にも一役かっていることは重大であると考えることもあながち無理ではない。『海からみた日本の古代』(新人物往来社)をみても、おおまかにいえば、日本の古墳から出土する短甲などの武具に例をとっても、かなりの数が朝鮮半島製であるという見解も附されているが、技術改良を加えた日本製のものも相当あったにちがいない。弥生時代から古墳初期には、鉄素材の大型板状鉄斧や鉄テイどは、中国や朝鮮半島から輸入していたが、(鉄テイなどは玄界灘の海の正倉院といわれる沖の島にも遺されているが)古墳時代後期ごろには、わが国で砂鉄などによるタタラ製鉄が行われていたのは間違いない。
いまのところ、わが国最古の製鉄製錬遺跡は、北九州市小倉南区の潤崎遺跡が、鉄滓と伴出する土器類によって五世紀後半ごろといわれている(『鉄の古代史』白水社)が、丹後の竹野川畔の遠所遺跡は五世紀まで遡る可能性もあるという。西丹波の大油子もこのこととかかわりがあるとすればことは重大で、大油子の重要性が俄然クローズ・アップしてくるのであるが、さてその異相は模湖として、深い霞の奥に隠されている。しかし、このころになると農業社会における製鉄の重要性も再評価され、漂泊・放浪を繰り返していた積年の海人たちも、また褒貶の対象となっていた人々も、ようやく有徳人として定住するようになったのであろうと推測されるのである。それが有徳人として鎌倉権五郎景政を祀る有徳社が西丹波の各地に散在するゆえんであろう。
大油子再訪
ところで、再度、大油子を訪れたのは一九九三年六月一九日のことである。昼過ぎ上夜久野駅を降り、北風に誘われながら、駅前の街道筋を下った。何だか少年期のやるせない強い臭いが鼻をうつ。
栗の花のあの臭いである。男性なら誰でも経験のあるあの臭いである。そういえば、いま丹波は粟の花まっさかりである。このあたりもどこに行っても粟、粟、栗。
牧川にかかる広瀬橋を渡ると、道の左側に大油子の玄武岩の岩塊が日に入ってくる。地質時代の地磁気の移動や逆転から、明らかにされた夜久野玄武岩地帯の一つである。夜久野の小倉にも、前面に水を湛えた見事な玄武岩があって有名である。
大油子の小字名のうち、菅谷と湯舟を土地の人にきいてみると、大分みちのりがあるとのこと。丁度通り合わせた年配の男性に都合よく案内されて、車で右手にある浅い菅谷と、その源流地にある湯舟谷の入り口まで訪ねることができて大満足。厚くお礼をいって大油子バス停まで送っていただいた。
ところで大池子の小字コカジ(小鍛冶)の入り口の丘の上に、喜代見神社がある。きくと祭神は大国主命とのこと。大国主命は大己貴命(大きな鉄山持ちの貴人)、大地持命ともいうが、その原義は大穴持神(大きな鉄穴持ちの神)で、やはり鉱山神でもある。キヨミとはキヨミズ(清水)の転訛語であろうが、やはり製鉄で鍛冶の作業のとき使用する清水の湧くところと解したい。
帰りみち、歩いて夜久野高原上の大山キャラボクの真っ黒な火山灰地帯を通る。そこには見渡すかぎりまた栗の木が植林されている。速まわりしてその異臭をさけ、夜久野荘に着いたのはもう夕暮れどきであった。
ところで大油子製鉄の始源はわからない、しかし、もし仮に丹後王朝の滅亡した六世紀末ごろ、遠所コソビナート製鉄に従事した人々が、由良川を遡って地形をみきわめ大油子に拠点をかまえ、遠所コンビナートの技術を踏襲して製鉄を始めたとすれば、それはおよそ七世紀の初めになるのであろうが、その真相は丹波霧の彼方に隠れて判然としない。筆者が朝からさ迷い歩いた大油子の上流地を、風呂からあがって宿のテラスで微醸をおび丘の下を眺める。テラスの丘の下に大油子の家路を急ぐ車の明滅する光がさながら太古のむかしの夜久野火山の噴火や小油子製鉄錆鉱炉の火煙のそれと重なってくる。紫烟をくゆらしながら、快い陶酔感に身を任せたものである。
日本列島に居住する人々の生活を、原始から離脱せしめたものは「稲と鉄」の技術であったといわれる。新石器時代から鉄器時代、焼き畑農耕から水稲農耕への移行時代、鉄は絶対不可欠のものであったのは間違いない。鉄製品の鍬や武器(そこにはもろ刃の害も含まれるが)の人々に与えた恩恵ははかり知れないものがある。丹波の秋の山がひときわ美しいのは、山に鉄分が多いためだという。人情実にうるわしい大油子の晩秋、また訪れてみたいものである。 |
伝説
大油子の小字一覧
大油子(おゆご)
由利(ゆり) 堂の前(どうのまえ) 竹ケ下(たけがした) 森ノ下(もりのした) 藤原(ふじわら) 下野(しもの) 上野(かみの) 平ケ坂(ひらがさか) 野田(のだ) 行坂(ゆくざか) 広瀬(ひろせ) 前田(まえだ) 荒堀(あらぼり) 西畑(にしばた) 荒神ノ下(こおじんのした) 清海寺(せかじ) 稲葉(いなば) 大山田(おおやまだ) 一町田(いつちようだ) カネ田(かねでん) 土橋(つちばし) 幸田(こおだ) 水鳥東(みつとりひがし) 家ノ奥(いえのおく) 枝屋敷(えだやしき) 寺口(てらぐち) 寺ノ奥(てらのおく) 中村(なかむら) 岩本(いわもと) 白路場(しろじば) 風呂ノ本(ふろのもと) 水谷(みつたに) 飛岶(とびざこ) 宮ノ下(みやのした) カガンド 家ノ下(いえのした) 上ケ畑(うえのはた) 斎ノ向(さいのむかい) 賀茂路(かもじ) 段(だん) 岩違(いわちがい) 清水(しみず) キゼンナ 鯉口(こいぐち) 大山谷(おおやまだに) 舟井谷(ふないだに) 神ケ谷(かみがだに) 大上子(だいじょうし) 本屋敷(もとやしき) 総代(そうだい) 深堀(ふかぼり) 休場(やすみば) ユブネ 竹口(たけぐち) 森ノ本(もりのもと) 命(いのち) 日後(ひご) 広畑(ひろはた) 小畑口(おばあぐち) 鯛藤田(たいとうだ) 越キ谷(こきだに) 駒谷(こまだに) 山蔭(さんいん) 奥殿(おくんど) 手辺(てへん) クゴ 日尾(ひのお) 菅谷(すがたに) スクモ谷(すくもだに) 由利(ゆり) 水鳥(みつとり) 枝屋敷(えだやしき) 白路場(はこじば) 上ケ畑(うえのはた) ダン スクモ谷(すくもだに) 菅谷(すがたに) クゴ 手辺(てへそ) 奥殿(おくんど) 山蔭(さんいん) 駒谷(こまだに) サブ谷(さぶたに) 釜ケ谷(かまがたに) トチヤケ コシキ谷(こしきだに) ヤツボネ 峠谷(とおげだに) 下野(しもの) 柳ケ岶(やなぎがさこ) 小畑(おばた) 小谷(こだに) 日後(ひご) 水根(みずね) 平岶(ひらがさこ) 瓜尾(うりお) 堂ケ岶(どがさこ) 命(いのち) 岩井谷(いわいだに) 竹口(たけぐち) 中ケ岶(なかがさこ) 竹曲リ(たけまがり) 湯舟(ゆぶね) 休場(やすんば) 深堀(ふかぼり) 家ノ奥(いえのおく) 大上子(だいじょうし) 神ケ谷(かみがたに) 大山谷(おおやまだに) 岸ケ岶(きしがさこ) 舟井谷(ふないだに) キゼンナ 清水(しみず) 岩違(いわい) カガンド 水谷(みつくに) 飛岶(とびざこ) 寺ノ奥(てらのおく) 家ノ上(いえのうえ) 段山(だんのやま) 清海寺(せかじ) 西山(にしやま) 平ケ坂(ひらがさこ) 行坂(ゆくざか) 竹ケ下(たけがした) 太田ノ森(おおたのもり) 藤原(ふじわら)
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